武田家の足跡を伊達家中に求めて。
いろいろ調べていて、実は真田家だけではなく、
武田家の末裔も伊達家中にいたんだ、と知ったのは
ごくごく最近のことです。
Webだけでは情報が少なすぎるのですが、
少なくとも武田家の血を引く武田信次なる人物が、
伊達家中に仕官し、今知られているのとは違う、
諏訪法性之兜を伝えているのだそうで・・・
(新聞画像はこちらから拝領しました)
危うくアメリカ・ボストン美術館の手に渡る
ところだった「諏訪法性之兜」の由来が、
仙台市博物館の武田家文書のなかにあるそうです。
これによれば、会津で蒲生氏郷の食客となり、三人の息子に
自らの死後は、伊達政宗に仕えるよう遺言。
そして、長子・重次は和渕に知行を拝領・・・とのこと。
ただ、この文書、このWebによれば、
武田家ノ祖先ハ信次トテ即チ晴信入道ノ嫡孫ナリ
と記しているんですよね。信玄公の嫡孫・・・
それは、信勝公に他ならないはず。
しかも、東北大学図書館蔵の「源貞氏耳袋」という文書には、
信勝公が奥州に逃れたことが書かれているのだとか。
しかも「信勝奥州下向につき改名とそ書たりける」
だとすると?
なんだか、ワクワクしてきますよね。
信勝公の血筋が残っていたのかもしれない…と。
ただ没年が1593年とすると、享年26歳。
若くして亡くなったことになりますが・・・
子の重次が賜った領地和渕とはどこだったのか、
和渕とは石巻にあることを突き止めました。
ただ、現地では信玄末弟と伝わっているようで、
それのほうが信憑性があるようにも思えますが、
この文脈でしか信玄末弟・武田信次は出てこないわけで…
ただ、いずれにしても、場所は分かった。
こりゃもう行くしかない・・・そう思って、
仙台に行く折には、絶対に行きたかったところ。
さて、仙台から1時間ちょっと。前谷地に到着です。
ここから石巻線と気仙沼線に分かれ、その最初が和渕駅。
が、前谷地止まりで和渕に行く電車がしばらく来ないので、
てくてく歩いて、武田家屋敷跡に向かうことに。
あのへんね。耕徳院には武田家累代の墓があるそうで、
そちらへのお参りもさせて頂ければ・・・・
田んぼの広がる道をてくてく・・・
山崎浄水場。一瞬、山崎蒸留所と間違うバカ(笑)
さて、30分ほど歩くと耕徳院に到着です。
門構えも立派です。
現地解説板。「伊達世臣家譜」によれば、
信虎十男信次が大坂の陣の頃から政宗と接触があり、
子の重次が政宗に召抱えられた、とあります。
この内容は武田家文書との内容と矛盾します。
そもそも信次は大坂の陣のころには、
亡くなっているはずですしね。
ただ、耕徳院をこの地に遷した信次の曾孫
武田充信が、左馬助を名乗っているのが気になりました。
いずれも左馬助(典厩)名乗っている信繁・信豊
との関係があるんでしょうかね?
武田家累代の墓。お邪魔します。
和渕武田家の始祖・武田信次の供養碑。
本人は米沢で六十八歳で没。
ということは、1593年を没年と仮定すると、
信玄十男ということと矛盾してきます。
というのは、仮に数え年68歳だとすると、
満年齢は67歳、というと1526年生まれになります。
が、信虎四男の典厩信繁は1525年生まれ、
六男の武田信廉は1532年生まれ。矛盾しますね・・
この碑には、次のようにあります。
武田彦次郎信次
新羅三郎義光十八世孫武田左京
大夫信虎十男也有故奥州来会津
后往米澤貞山公聞之而雖有以
近臣禄仕之命敢不應信次臨終
而遺言乎三子曰奥公数召我不
應之今我不謀朝夕汝等行而
仕焉羽劦於米沢六十八歳而卒
武田信虎の十男で、訳あって会津に
後に米沢に向かう。伊達政宗がそれを聞きつけ、
近臣として仕えよとの命を敢えて受けず、
三人の子に何度も政宗公に召しだされ
自分は受けなかったが、お前たちは
行って仕えよとの遺言を残し、68歳で没す。
・・・という感じでしょうか?
昭和61年の建立なので新しいのに、
古めかしく書いてあるんですよね。
というのと、武田家文書では会津に信次はいて、
仙台の政宗と通じ・・とあって、本人は
米沢に行ってないことになってるし・・・??
政宗さん仕えよと自分から気にかけたのか?
いつの頃の話なのか?
という関心もありますが、やはり事実関係が
よく整理できませんね・・・
もうひとつ、注目ポイントが碑の上部の紋。
かなり珍しい十六菱の武田菱です。
丸をつけたり、花菱にしたりというアレンジは
あるのですが、これは初めて見た・・・
続いて、子・重次夫妻の供養碑。
武田五郎左衛門重次始佐々エ門
慶長之始依父信次之遺言而
始而事貞山公於此賜采地
百五十石城州住伏見後来江戸
比時又貞山公加増百石其後
住仙台累年以有勤功而賜
澹沢郡上之原壱百丁開発
之五十八歳而武州於江戸卒
墓在江戸西窪瑫瑞光寺
かなり、政宗に見出されていたようですね。
慶長元年が1597年ですから、信次死後に
政宗に仕えはじめ、伏見の伊達屋敷にも居て、
後には、江戸詰めの藩士ってことですかね。
東京にあるという墓、瑞光寺というのが
どこかが分からない・・・
武田信行碑。獅山公(伊達吉村)が在郷屋敷にて
小袖と御歌を拝領した記念。
かなり文字が見えなくなっていますが・・・
こちらは、どなたかの墓前でしょう。なむなむ・・
江戸初期あたりにお亡くなりになった方の墓石は
戒名以外はかなり判読が難しい・・・
武田五郎左衛門充信墓。先ほどは案内には
左馬助とありましたが、代々五郎左衛門を
継承しているのかもしれませんね。
しかし、墓石があさっての方向を向いているのは…
こちらでは、観音様がえらいことに・・・
地震で倒れてそのままなんだろうか、おいたわしい。
右の墓石も「武田・・・信」は判別がつきますが、
あとはなかなか分かりません。
さきほど、中興の名君・伊達吉村の和歌を
いただけた武田信行墓。享保年間の人ですから、
将軍吉宗の時代ですね。
これが最もひどい・・・武田五郎左衛門信義墓。
奇しくも武田家の始祖と同じ諱。が、墓石が
ひどい有様・・でも、さすがに一人じゃ戻せない。
その他、根元から折れている墓石が多数。
何とかして差し上げたい・・・
うつぶせになってる方は、お名前の確認も
しようがなく・・・・
横向きの方は、せめてお名前が分かるよう、
墓石表面の土を落として差し上げました。武田信氏墓。
武田恒之助信献墓。この円い墓石の方々は、
比較的助かっているようです。
一番右端のこちら。おそらく武田安之助信昌墓
だと思われます。
信昌は、幕末に仙台藩の一隊を率いて
福島方面に出陣し、討死しているそうです。
後に仙台藩はこの功績を讃え、石の花立と灯篭を
贈ったといわれ、活躍したのでしょう。
(が、墓石前の花立と灯籠が見当たらない…)
会津もそうですが、またこれも幕末の武田の足跡。
どのような思いで出陣したのでしょうか。
幕末だと、仙台真田家当主真田幸歓が、仙台藩内での
西洋学問および砲兵術の研究などをしていて、
まさに会津藩の山本家や川崎尚之助とかぶります。
一方、武田信昌はどのような立場で、
何を考えていたのか…興味が尽きませんね。
さて、ちょっと迷うもこちらの地図を頼りに
武田家屋敷跡に向かいます。
現地看板。現在は武田家の家臣筋に当たる
真籠氏の所有となっているそう。
伏見にそして江戸にあった重次は、
江戸の仙台藩上屋敷の造営を任されたりしてたんだ。
そして、功あって和渕1,300石を拝領。
屋敷の石垣。当時のものが残っています。
坂を上がって枡形(?)になってるトコを
右折れすると屋敷跡。さすがに個人のお宅だからなぁ・・・
と思っていると、ここにお住まいのおばあさんが
案内してくださることに。願ったり適ったりだ!
おばあさんもはるか昔に先人方に教えて頂いた
そうで、直接ご覧になってるわけではないそうですが。
あちらが主殿跡。
今のお家を挟んで奥側には、庭園を構成していた
であろう大池。ダムができて水の往来がなくなり、今だと
水が涸れているが、その昔はキレイな池だったらしい。
小池はまだ、水が張っている。
濁ってはいるが鯉がいる・・・昔からいるのかな。
この碑は、おばあさんでもわからないそう。
学芸員さんが調べに来たことはあるそうですが・・・
あのお社は、どういういわれかな。
あちらがお屋敷、女中さんのいたところ、
殿様の奥方が裁縫を教えていたところに、
馬場、弓の稽古場…
この屋敷跡でお生まれになったおばあさまが
昔々に教わったこと。
こちらが裁縫場跡だったかな。
こちらが馬場・弓の稽古場だったような・・・
(一気にいろいろ憶えられない。笑。)
石垣のある手前、看板の前あたりが表御門だったそうで
こういう風に建ってたよと教えてくださいました。
さらに、おうちに上がらせて頂き、しばし歓談。
なかなかこんなところまで来て史跡めぐりしているの、
少ないのかもしれませんね。
ホント、歴史に関係ないことも含めていろいろお話を
頂きました。先ほどの碑を建てた武田家の御当主
武田武さんには、お子さんいらっしゃらず、すでに故人。
ただ甥っ子が居たはずだけど、連絡は付かないそう。
しかし、やはりここで武田家は殿様であり、
当時のご当主だった武さんによくしていただけたことなど
お話くださいました。耕徳院の和尚様が
如何に人徳者であるかも。
そして、墓石が倒れているのは
地震のせいだけではないそうなんですよね。
詳しくは書きませんが、ややこしい事情。
ま、いずれにしても思いもかけないよい出会い。
またお土産もってご訪問したいところです。
さて、和渕神社にも少し寄っていきましょうか。
茅葺屋根の小さな社殿だけど、御由緒は806年、
坂上田村麻呂の創建と非常に古いんだそう。
5月もだいぶんと過ぎていたのですが、
まだ桜が咲いていました。北海道並み?
さて、阿倍野のかりんとうでもおやつにしながら、
仙台に戻ります。さすがに宮城峡は行けそうにないので、
瑞鳳殿で政宗さんにご挨拶にでも行きましょうかね。
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仙台・武田家一族の調査中であります
投稿: 永山 典嗣 | 2016.05.06 15:06
nikko81です。
●永山さま
何かわかりましたら、情報発信いただけると
ありがたく存じます。
投稿: nikko81 | 2016.05.06 19:27
よくお調べになられていますね。
歴史お好きなのですね。
無残なお墓をお見せしてお恥ずかしいです。
前の地震でお墓を直したばかりのところへあの大地震。 クレーン車が入れないので櫓を組み人力での作業なんです。
ちなみに武田武氏は親族ですが、当主ではありません。当主は神奈川におります。
投稿: mao | 2016.08.18 02:39
nikko81です。
●maoさん
お越しくださってありがとうございます。
先日再訪いたしましてキレイに整っているのを
拝見させていただき、安心いたしました。
碑を建ててられたので、御当主かと思いましたが
別に御当主がいらっしゃるのですね。
投稿: nikko81 | 2016.09.04 17:45
僕の曽祖母のおじいさんが仙台藩の15歳の時から小姓として藩主の刀を横で持っていたと曽祖母が言っていました
おじいさんの苗字が武田で名前が
「さ」がはいってたけどよく覚えていないと言っていました。それと親戚の家にその人のちょんまげを結った写真があるとも言っていました
おじいさんは15歳の時に2〜3歳年上のお嫁さんをもらって家を作ったそうです
その後明治維新で名字を大槻に変えて東京に来たらしいです
投稿: ある | 2020.12.13 20:24
明治維新じゃなくて明治4年に藩がなくなったらからだそうです
投稿: ある | 2020.12.14 19:58
nikko81です。
●あるさん
お越し頂き、ありがとうございます。
まさにこちらの武田家の方でいらっしゃいますか!?
こちらに残った武田家のご当主は昭和の終わりに
お亡くなりになって断絶していると伺っていますが、
その大槻と姓を変えて東京にいらした方に
血は受け継がれているのですね…
投稿: nikko81 | 2020.12.15 09:54
亡き母が武田の一族で仙台の大沼で曾祖母が跡継ぎで米屋でした。母の家族はその後東京の高円寺で母の兄が歯医を開業していました。亡き叔母によると仙台藩の武田一族とのことでした。母方のご先祖が知りたくて幕末以後の一族の繫がりを調べています。私が子どもの時母と叔母が武田のたけしさんはどうしているかなど話していた記憶があります。
投稿: 池田文治 | 2021.04.12 17:29
nikko81です。
●池田文治さん
コメントありがとうございます。
リプライ、3年越しですが、、、すっかり確認せず、
申し訳ございません。
こちらの武田家の係累の方が、他にもまだいらっしゃりそうですね。
投稿: nikko81 | 2024.02.01 10:20
先祖の足跡がないかとネットで調べていてここに辿り着きました。
武田の者です。
武田信次という人物が先祖だったとのことは親から聞いておりました。
その全容は明確には記憶しておらずうろ覚えのところもあるのですが、
一度石川県に向かった後に伊達藩の家臣として仕え、その後田村藩に仕えた言うことを聞いております。
投稿: Takeda | 2024.03.16 23:12
nikko81です。
●Takedaさん
ここで調べた武田信次には三人の子がおり、いずれも伊達家に
仕官したと伊達家の史料に出てきます。
その内の一家がここの武田家ですが、他の二家もありますので、
そちらと関わりがあるかも知れません。
「伊達世臣家譜」を確認しましたが、一関(田村)藩でも
どうように家臣の出自を調査した史料があれば、
それが手がかりになるかも知れませんね。
投稿: nikko81 | 2024.03.18 09:24