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駿河遠江の武田ゆかりの城を巡る・・・その1 高天神城。

さて、岩櫃城攻めの後、ファミレスでご飯を
食べていたときに、静岡の武田の城に行こうね!
という話になってですね、約2ヵ月後。
あいすさん、ロームさんと早速行って参りました☆

武田の城・・・と言っても、信玄在世中は
甲斐で戦にはなっていないんですよね。

信玄軍団が活躍した時期の城というと、
甲斐よりも信濃、西上野、そして駿河、遠江という
前線で築城されていて、駿遠の城は信玄最晩期で
最も精強な時代の城が残っています。

んが、どうしても甲斐信濃にばかり行きがちで、
なかなか駿遠の武田の城に行く機会がなく、
わたしもどれも初訪城で、非常に楽しかったです!

実は、もともとの予定になかったんですが、
横須賀城に行く道すがら、あれ?こんなところに
高天神城あるやん!とたまたま(汗)発見。

ということで、わたしもロームさんも、
掛川城は訪問済なので、朝から急遽日程変更。

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横須賀城への攻城前だったので、図らずも
勝頼が攻め寄せた北側から向かうことに。

高天神城というと、信玄が落とせなかった城、
そして勝頼が攻め取った城ということで有名ですが、
縄張りを見ると、大手門が南にある一方で、
北東を意識した縄張りのように思えるんですよね。

勝頼は信玄薨去の翌年、2万5千の兵を率いて、
高天神城を包囲、西の丸・堂尾曲輪に猛攻をかけて、
力づくで落としており、内応者が出て落城しています。

さて、搦手門跡から攻めていきます。

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門の形状とかはさっぱり・・・ですが、
むしろ、この角を枡形的につかって門を配置したほうが、
いいんじゃないの?と思ったり。

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もともと岩山だったところに築かれているようですね。

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この刻印はなんだろう・・・石垣ではないから、
石垣の刻印とは意味が違うでしょうね。謎。

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搦手門から上がっていく道はほぼ一本道。
その途中に三日月井戸なる、三日月形の小さな池が。

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三日月濠といい、三日月井戸といい、
武田家は三日月好きだったのでしょうかね(笑)
飲料水に恵まれるよう祈願を込めて、
この井戸を掘ったそうで、今でも水が湧いています。

この上すぐ行くと、西の丸と本丸をつなぐ
井戸曲輪に出てきます。もう一回道が折れてます。

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続いてはいるものの、ここは鐘曲輪というみたいですね。

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さて、的場曲輪から石窟のほうに向かいます。
本丸虎口の土塁脇を上がっていきます。

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大手側の鹿ヶ谷方面は断崖絶壁です・・・

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あの上が的場曲輪。矢場とありますから、
平時は弓術の訓練でもしていたのでしょうか。

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的場曲輪。それなりの広さがありますね。

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あ、搦手側をここからも攻撃できそうですね!
搦手から上がってきたときには気づかなかったです。

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左手は本丸の土塁です。けっこうこうしてみても
本丸を除けば、大きな曲輪なんだなと。

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本丸下をぐるっと回って、大河内石窟へ。

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この下にも遺構がありそうだけど…
突撃する城好きさん方多いんだろうな(笑)

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・・・藪藪しすぎて、なんじゃこれ?
という感じですが、大河内政局(まさもと)が
捕らえられた石窟の跡です。

勝頼が高天神城を攻め取った後、城主・小笠原信興
(信濃守護小笠原氏庶流)は城から撤収させます。

しかし、軍監・大河内政局はこれに服さず、
城に居座ったため、勝頼の命で捕らえられたそう。

が、武田側の高天神城代・横田尹松(ただとし)は、
その気概に感じ入り、厚くもてなしたそうです。

そう!あの二十四将の横田備中守高松(たかとし)の孫!
男系子孫としては原美濃守虎胤の孫。
(現地で息子とツイートしましたが、孫でした。訂正)

足掛け8年幽閉されて後、再び徳川の手に落ちる際に
救出されたそうですが、すでに歩くことも
ままならなかったとか。なーんか、勝頼が悪く
描かれてますねぇ(苦笑)

どこまでがフィクションかは難しいですが、
やっぱり偏狭なところがあったんでしょうかね。

実はこのあと、武田滅亡後に横田尹松は徳川に下り、
大名となった真田や土屋を除けば、旧武田遺臣としては
最大の9,500石もちの大旗本になります。

えっと・・・大河内そっちのけで、
横田尹松が出てきたことがうれしかったです(爆)

さて引き返して、本丸へ進みます。

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ちょうど大河内石窟の上辺りが虎口になってます。
が「土塁跡」とはいえ、かなり削られてしまってますね。

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土塁上から。実際はもっと高く折れ曲がった
ところを土塁で塞いで狭くしていたんでしょうね。

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本丸跡の説明版。途中で横田尹松から岡部元信に
城代を交代してるんですね。岡部元信は、
信長の野望をやってると知ってる武将になりますね(笑)

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駿河侵攻で武田に下っていたのは知ってますが、
この高天神城の守備をしていたんですね。
横須賀城から出撃した徳川軍を率いるは、本多忠勝。
本多忠勝か・・・それは強い。

1,000の兵が飢えで800にまで減り、
城外に突撃して全滅という悲しい結末。

その他、軍監として江馬直盛がいたのもへぇ・・・
飛騨の江馬時盛の三男で、山県昌景の飛騨制圧後
人質として差出し信玄が旗本においたという
江馬信盛のことではないでしょうかね?

本丸全景。居館があったんでしょうね。
本丸としては、そう広いということもないかな。

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高天神城跡の碑。地元・土方村青年団が、
皇太子殿下成婚奉祝記念で建立したとあります。
大正13年(1924年)ですから、皇太子殿下とは、
昭和天皇のことですね。

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しかし、なんで成婚記念で高天神城なんでしょう??

本丸の南側に本丸と連結する御前曲輪があり、
戦前に模擬天守が建造された跡が残っています・・・

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大阪城天守閣も昭和天皇の即位記念という
意味もあったことから、高天神城の模擬天守も
それに準じたものだったのかも。落雷で焼失。

さて、三の丸のほうに下っていきましょう。

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御前曲輪下。かなり曲輪の土塁が高いです。

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三の丸。土塁の残り具合はこちらのほうが良好。

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しかし、西側には土塁がない不思議。
大手から攻められれば、西側こそ土塁を盛って
防備しておかねばいけないと思うんだけどなぁ・・・

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変な落書きをされた樹・・・なんで、
高天神城で今川やねん!

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さて、西に移動して鐘曲輪の先、
井戸曲輪のほうへ。ここには名前の由来になった
大きな井戸があります。

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が、その前にお牛さん。井戸曲輪の奥、
西の丸の上に城の名前の由来でもあろう
高天神社がおわしているから。天神社の使いは、
北野天満宮はじめ皆、牛なんですよね。

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そして、井戸曲輪の大井戸。今は枯れてるっぽい?

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その正面には、高天神城の戦いで亡くなった
将兵の鎮魂碑。これも先ほどの碑と同様、
大正期くらいのモノっぽい気がします。

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二の丸。というほどの広さはありませんね…
将兵の収容キャパとしては、数百人が限度かな?

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その先には、堂尾曲輪。尾根先にザクっザクっとで
堀切で分断されています。

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この辺りが激戦になったところでしょうか。
高低差もかなりあり、また搦手は西の丸と本丸が井戸曲輪で
三方を囲まれた構造になっており、かなり攻めにくいはず。

二の丸から壕底に降りてみましょう。

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このあたりで、徳川方の守将で堂尾曲輪を守備していた
本間氏清・丸尾義清兄弟が討死。両名の墓があります。

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両名とも鉄砲に撃たれて絶命したとあり、
このことからも武田軍が決して鉄砲を軽視せず、
実戦で活用していたことが窺い知れます。

さきほどの堀切を壕底から。けっこうな高さがあり、
守将に有利に働くと思うのですが…

P1310056

その脇には、尾根下沿いに空壕が続きます。
ちなみに「隍」一字で「ほり」と読み、
「壕」と同様、空壕を意味するのだそうです。

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けっこう埋まっちゃってるけどね…

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でも、尾根先に進むにつれ、キッチリとした
深さのある空壕が姿を現してきました!

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かーらぼりはつづーくよー、どーこまでーもー♪

P1310062

さて、尾根先に堂尾曲輪の先の曲輪につながる
道を発見して、曲輪上に上がります。

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ここにもザクっと堀切。やはり、見所は
西の曲輪群ですねぇ。

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壕底にまた降りて振り返ってみます。
これはなかなか深いですよ…

P1310069

さらに進むと1度目に見えた堀切の向こう側に
たどり着けます。

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二の丸や高天神社の裏に回ることもできますが…
ちょっと分かりにくいかな。

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横堀の土塁に思えた先に曲輪が広がっていたように
見えたのはちょっと意外でした。

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天正二年戦死者の碑。徳川軍ももちろんのこと、
かなり力攻めに頼った感のある武田軍にも
かなりの被害があったのでは、と推察します。

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さて、スキップした西の丸・高天神社にも。
まぁ、石垣は後世のものでしょう。

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けっこうな高さがあり、往時には本丸とともに
物見にもできそうな位置にありますね。

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けっこう古そうな社殿。いつのものでしょうねぇ…

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実はこの奥にも遺構があるのですが、
この時期は薮が多すぎて、ちょっと進めない…
ので、またリベンジすることといたしましょう。

高天神城、確かに堅固な印象の山城ですね。
信玄がその堅固さを見て、攻城を諦めたと伝わりますが…

結局城攻めは、何のために城を攻めるか?という
目的と費用対効果についてハッキリしてない限り、
城攻めはしないというのが、信玄流。

逆にここまでの城を、力づくで落とした勝頼。
一時は信玄も落とせなかった城を落としたと
武名が上がりますが、後に支援しきれずに
高天神城を孤立させ、徳川軍に奪い返されます。

勝頼が下策であるはずの力攻めで、高天神城を奪った
目的はなんだったのか。要衝には違いないですが、
武名を上げるためでもあったとするならば、
やっぱりうーん・・・と唸ってしまうのでした。

また、追手門~本丸方向は、少し防御性が低いようにも
感じられ、徳川方として武田に備えるにはよいですが、
武田方として、徳川方を城の南で迎え撃つには
ちょっとキビシイのではないかな・・という印象も。

ちょっと勝頼の戦略を辿ってみたくなった、
そんな高天神城でした。続いてはその高天神城を
奪い返すべく家康が築城した横須賀城。

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