真田の郷を歩ききる!・・・その4:上田藩主館・上田城①
さて翌日・・・お祭りの前に半日かけて、
上田城をば。久しぶりだなぁ、上田城。
とその前に、上田藩主館。本丸二の丸内には
普段上田藩主は住まうことはなく、
三の丸に位置するこの居館に住んでいたそう。
関ヶ原合戦後、上田城は破却され、
真田信之がここに館を築いて
上田滞在の際の住まいとしたようです。
普段は、沼田が本拠であり、1622年には
松代移封されますので、そう長くは居なかったでしょう。
現在は上田高校となっているようですが、
この石垣は・・・後世のものでしょうなぁ。
キレイに石が交差した谷積です。
場所によって石の加工度も違ったように見えます。
先ほどは野面といってもいい感じでしたが、
こちらはキレイに布目地が整っています!
が、途中からコンクリベター・・・orz
この道路は濠跡なんでしょうね?
石垣が結構崩されているのか、それとも
濠を深く埋めているのか、石垣部分がやけに低い
箇所も見られました。
この辺りから濠が出現。濠と土塁は、
真田信之の時代のもののようですね!
土塀は江戸末期、土塀下と土塁下の石垣は
崩落防止のために昭和になってつくられたとか。
百歩譲って土塁下の石塁はともかく、
土塀下の石垣って、意味がわからない・・・
土塀そのものを修理しようよ(泣)
藩主館表門。松平忠済の時代の、1790年の再建。
学校がこういう門っていいなぁ・・・
さて、上田城に向かいましょう。
見えてくる二の丸濠跡。スケールがデカイ!
少し石積みが確認できますが、
ありゃどういう意味でしょうなぁ?
昭和47年・・・というと1972年まで
電車が通っていたそう。濠跡をつかって
電車を通すって江戸城みたい。
濠底を歩いてみます・・がスゴイ高さ。
真田時代からこの濠はあったんでしょうね。
あの石垣はどうかな。なかったとしても
ものすごい高さ。
コンクリート製の橋。なんだか電車が
通っていそうな雰囲気がしますよね。
石垣、けっこう谷積だなぁ・・・
ここの石垣も谷積ってことは、先ほどの藩主館も含めて、
江戸時代中期以降くらいは遡れるかも。
北側にもずっと伸びる濠跡。
端にも少し石垣が残っています。
この先は北東隅で二の丸が入隅になっていますが
また後でくることにしましょう。
二の丸濠跡を二の丸側から。
やはり、壮観ですね・・・
ただ、角度自体はけっこう緩やか。
・・というところが逆に登れなくもないかな?
という感じでいい標的になりそうです(笑)
二の丸鐘楼。東虎口の櫓台跡そばにあります。
この辺の石垣も石が丸くて谷積みっぽい。
このあたりの石の表面を見ていると、
やっぱり築城当時ではなく後世の石垣、
という気がしてきますよね。
このあたりは石の積み方が違ってます。
打込接乱積・・という感じ?
真田昌幸の時代にも(真田石があったくらいだから)
一部石垣は使っているでしょうし、真田時代の
石垣もあってもおかしくはないのですけど・・・
二の丸東虎口。内側の石と外側の石が左右両方とも
積み方が途中で異なっています。
南側。
北側。
いずれも内側から外側に向かって立って
撮影していますが、内側に当たる石は比較的大きい反面、
外向けの石は小さめの石で詰まれていますよね?
二の丸濠跡から見た虎口石垣(再掲)も
谷積のように見えました。
ひょっとすると、手前の石垣は真田時代で、
関ヶ原後に表部分が破却されたあとに
仙石時代に再度積み直した…と考えると、
この積み方の違いがしっくりきますよね。
さて、ここから上田城に・・・行きません(笑)
尼が淵方面を見に行きます(爆)
二の丸濠跡を南下。
往時は二の丸濠と尼が淵は繋がっておらず、
土塁で仕切られていたようです。
今は脇に通路がありますが・・・
尼が淵跡に面した部分は高台のように見え、
ずっと急な斜面が続きます。一部モルタルで
崩落防止処理がされています。
本丸下に近づくにつれ、少しずつ石垣が出現。
南櫓と本丸東虎口櫓門。
ここからが本丸下に当たりますよー。
この石垣を見ても、真ん中の大きめの石には
赤い汚れがあって黒っぽく、周りの石となんか違う…
(どうしても真田時代の石垣としてみたいらしい。笑。)
南櫓下石垣。近年崩れたらしく補修されてます。
石垣のない部分は元々なかったらしく、
ここもモルタルによる崖面露出のままの修繕。
下段石垣。けっこう目地が揃った打込接。
貴重な現存櫓・西櫓。
もちろん、仙石時代の遺構なのだけど、
下見板の姿がかっこいい!
豊臣系城郭には、金箔瓦があった…と言われますが、
上田城もそうらしく、本丸・二の丸濠跡から
金箔捺しの鯱瓦や鬼瓦などが発見されているそうですから…
第二次上田合戦の上田城も、広島城や福岡城と
似たような下見板で、仙石氏もそれに倣った再建をしたのか?
という自分にとって都合のいい妄想をしながら拝見(笑)
西櫓の下、ここも石の色がバラバラで非常に
不思議な雰囲気です・・・どゆこっちゃ?
さて、西櫓下から本丸内に潜入。
本来はない通路でしょうけど・・・・
ここの石垣も石が小さめの野面積み。
小泉曲輪に続くあたりまで断崖が延びてます。
こりゃ、ここに城を築くよなぁ、と納得させられる
地の利のよさを感じます。
さて、西櫓前に到着!
向かいには、内濠が水を湛えて残ってます!
二の丸西側の狭い曲輪の土塁跡。
ここから二の丸壕跡が畑になって残っているのが
一目瞭然です!わぉ。ここは空壕っぽいな。
西虎口のほうから回ってみます。
かなりこちらのほうは中世城郭的な雰囲気ですね。
西虎口で北側に視線をやってみると、
百間濠跡。濠跡をうまく使っているのがわかります。
虎口下が入り口になっていて、百間濠という
ものすごい広大な水濠跡を球場にしているんですね。
壕の形状を破壊せずに球場にしているのは、ありがたい!
(でも、移転して水濠復活してくれたらうれしい)
この図でいうと、野球場・相撲場・陸上競技場に
当たる部分がすべて広大な水濠だったわけですよ・・・
さて、内濠の残り具合のすばらしさに
感動しながら、北へ。
ゲートボール場。ここが二の丸北西隅。
かじりついてみてましたが、
決してゲートボール好きではありません(笑)
奥に土塁がしっかり見えるのがわかると思います!
そして、北面に沿って土塁が連なります。
招魂社。この辺りが百間濠の北面に面した
二の丸のあたりですね。
で、なにやらわーわー聞こえる・・・と思ったら。
あれはなんぞ??
午後の合戦の最後のリハーサル中でした!
徳川軍のリハーサルかな?
さて、今度は北虎口から出て
百間濠を見てみましょうかっ!!
北虎口石垣。このあたりはある程度の大きさに
揃えて整然とした切込接乱積に仕上げていますね~
このあたりは発掘調査の結果、復元された
石垣だそうです。先ほどの東虎口同様、
大きめの石が使われていますが、
東虎口のほうがダイナミックな感じがします。
あの向こうが百間濠。
二の丸土塁。
埋め立てられた濠跡では・・・
やってるやってる。あれは信幸役の方かな。
土橋跡から先ほどとは逆向きに枡形を・・・
さて、二の丸北東部に移動。
鬼門除けの欠けてる部分かな?
でも、本丸の北東部の鬼門除けのほうが
わかりやすいよね。
通常隅には櫓は1基据えるものですが、
ここの欠けた部分は、欠けた部分に合わせて、
2基櫓があったようですね。
しかし、土塁の残り具合がいいですね。
キレイに芝に覆われていると、見甲斐があります。
さて、また西櫓門まで戻って・・・
本丸土塁のスタート地点。
本丸西虎口。ここにも本丸西虎口櫓門が
あったそうです。ここの石垣も大きめでカタチが
揃わない少し古風な石垣でnice☆
西櫓と鯉幟。鯉幟のある奥あたりが、
西虎口櫓門跡ですね。往時は櫓門で隠れて
西櫓は見えなかったでしょうね。
石垣はやはり大きな石を活用した打込接。
やっぱり二の丸の東虎口の石垣も
こんな感じだったんだろうな、と想像。
さて、本丸内の真田神社。幕末時に治めていた
藩主家を祀る神社は城跡に多いですが、
江戸初期の藩主家を祀る神社は珍しいかも。
一応、仙石・松平両氏も合祀されているとのこと。
上田城築いたのも、大軍を二度に亘り撃退したのも、
昌幸さんなんですが、名前書いてもらえない(泣)
まぁ、お祭りの日ですからね、
人出の多いこと。
幸村さんのデカ兜。
六連銭印のお神輿もスタンバイ中。
意外と拝殿はこじんまりしている真田神社。
拝殿脇から西櫓への道が続いています。
本殿。ちょうど西虎口枡形の裏手。
真田井戸。抜け穴伝説がここにも。
そして、西櫓。残念ながら内部公開なし。
中央の丸太材に仙石氏の「仙」の字が焼印してあるそう。
鬼瓦の五三の桐は松平家。鯱は往時はなく、
昭和になってつけられたようです。
・・・さて、長くなってきたので、切りますか。
このあと、本丸東虎口櫓門と北・南櫓、
そして本丸散策のあと、いよいよ上田真田まつり開幕。
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