上田の武田史跡を追う・・・その2:信濃岡城
さて、信濃岡城は国道143号線をひたすら西に
向かった先、仁古田交差点を北に上がったあたりに。
さすがに歩いて・・・は難しいと思いますが、
一本道ですので、比較的向かいやすいとは思います。
信濃岡城は、天文年間(1532年~1555年)の末、
馬場美濃守信春の縄張りで築城。
村上義清を越後に追い落とした直後(1553年)から
海津城を築城する1560年までの間、
武田軍の北信濃への出陣の拠点だったようです。
このあたりの土塁からもう岡城の曲輪下。
わずかに石垣があるようにも見えるが、
近づけない・・・・
北東側は土塁と濠跡がくっきり残っていて、
なかなか見ごたえありますね。
縄張り図。ちょうど裏手に丸馬出が
あったはずなんですが、跡形もない・・・
濠跡の一部が防火水槽・・ってことで、
往時の濠をイメージするにはもってこいかも。
二の丸に入っていきましょう。土塁上。
土塁から見た濠跡。ふと私部城と似た残り方かな、
なんて思いながら見て回ります。
土塁の先には、更に土塁が盛り上がった部分と
その下が武者走りのようになっている部分が。
なんだろうこれは・・・読めない。
四角く見えるのが縄張図にあった井戸跡。
そしてその外側が更に盛り上がって
物見曲輪のような感じになっております。
通ってきた武者走り(推定)。
北の丸馬出跡。手前に弧を描いたような
土塁跡にも見える箇所があるが、
弧を描く方向が逆なので、無関係でしょうな。
物見曲輪から濠の方向。かなり高い位置で、
周囲のチェックには目を光らせられそう。
向かい側から。こうして見ると、
一部ではあってもこのあたりの残り具合は
非常にいいなぁという感じです。
物見曲輪。5mくらいはあるでしょうかね。
岡城物見曲輪にある由来記。
岡村城ともいい、平清氏なる桓武平氏が
弘仁2年(811年)に築城したとあります。
武田晴信の時代には、城といえばこの人、
馬場信房が在城したようです。
北の丸馬出跡に接近。このまっすぐした通路は
当時あったものかもしれません。
この先に馬出しがあったように思えます。
丸馬出跡から物見曲輪。
本丸方向。本丸跡には団地になってます。
団地にお住まいの方々は、城に住んでられる
というわけですね・・・ある意味、うらやましい。
本丸は浦野川が自然の濠として機能。
そんな眺めには、当時の面影がありそうです。
若干とはいえ、盛り上がったフェンスの部分は
本丸土塁跡かなぁなどと思って見たり。
遊具がある辺りは、本丸東濠に相当しそう。
さて、本丸の西側。このあたりが本丸跡として
よく残っているあたりではないでしょうか。
石積は後世のものかもしれませんが、
この石積みの上、本丸北西角は土塁がしっかり残り、
その上に(撮ってませんが)民家があって、
さながら隅櫓のようになっていて、面白いです(笑)
ただ、石積もそう新しくはなさそうなので、
ひょっとしたら往時から石積があったのかもしれません。
要害山城にあるくらいですしね。
左右に土塁、そして濠跡上から。
西側から北西角遠景。モロお城の情景です!
が、南西隅はかなり濠が埋まってる。
濠があっただろうなという感じはあるだけマシか。
ということで、本丸南西虎口前までやってきました。
この通路がその虎口跡っぽい。
右手の畑も、形状はそのままで、
濠跡の転用だろうなぁ。
さて、西の丸馬出跡・・・うーんこのへん?
相変わらず弧を描く方向は逆です(笑)
ただ、手前の二の丸濠跡は辛うじて残ってました。
さて、土塁をバックに桜を撮ったら、
岡城を後にしましょうか。
帰りの橋上から。木々が覆っている辺りが
本丸跡でしょうねぇ。
さて、このあとは上田電鉄にて、
下之郷駅から生島足島神社。
信玄願文ほか武田家中の諸将の起請文が
収められており、信玄マニア的には垂涎の地。
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