晩秋の九州攻め・・・(11)鹿児島前編~BAR 魔の巣・鶴丸城・尚古集成館・磯工芸館~
さて、新幹線で鹿児島中央到着。
いつ振りでしょうねぇ…と拙blogを調べると、
2007年ですよ。そんなに前なのか…
とりあえず、ひめ子さん(@malt_himeko)と
BAR 魔の巣さん(@manosu_kagosima)で
待ち合わせなので、お腹を満たしてから…
と手っ取り早く黒豚。
そして、BAR 魔の巣さん。
最近どこに行っても注文している
クライヌリッシュを引っ掛けながら、薩摩話。
薩摩人は鶏飼ってる人多いのかーとか、
薩摩から見ても大隅って、遠いんだーとかとか。
ひめ子さんとはblog時代からちょくちょくお世話に
なっていたんだけど、今回お会いできてよかった。
今、こう書いてて思ったんですけどね。
旅先でBARって、近所でBARに行くのとは違った
格別の空間だと思うんですよね。
というのも、BARって今も昔も情報の集まるところだから
旅人にとっては格好の情報の仕入れ場なのかな、と。
もちろん、ネットで検索はするけれども、
それにプラスアルファできる情報に
ひょっこり出会えたりね・・・
ということで、ひめ子さん、魔の巣さん
楽しいひと時をありがとうございました!
ということで、翌朝鹿児島城(鶴丸城)。
石垣について、いろいろ知ってから見ると、
またいろいろ面白いモンでして…
東隅。この欠けは鬼門避けかな?
麓の居館部が東西南北にちょうど角が来るような
位置関係なので、微妙な気もしなくはないけど。
ここから西に向かって御楼門方面へ。
1601年からの築城ではあるんですが、
石垣がものすごくピッチピチの切込接でビックリ!
このあたりは布積で徳川諸城のような雰囲気も。
この加工度はどこでどうして得られたものなのか??
少し進むと、乱積に変化してはいくものの、
やはり加工度的には切込接で、かなり最先端石垣。
あと、ところどころ大きな石がはまっている、
というのもちょっとした特徴かもしれないですね。
この鶴丸城、島津義弘は大層築城に反対したそうで、
やはり海に近く防備面を懸念した様子。
幕末に仇となって大砲をぶち込まれるようですが、
まぁ、時代の変わり目ということもあって、
数々の戦いを潜り抜けてきた義弘らしい気はします。
てか、この薩摩流の思想という
「城を以って守りと成さず、人を以って守りと成す」・・・
これって、信玄公の発想そのままやんか!
ま、人は堀、人は石垣…はたぶん信玄さん
の話したことではないと思うんだけども、
発想的にはそうですよねぇ。
敢えて共通点を探そうとするなら・・・
島津忠良・貴久親子が島津宗家を牛耳った後、
ひたすら外部に侵攻を続ける強勢振りを見せていて、
武田信虎が甲斐を統一して、晴信が家督を継承した後、
同じように外へ外へと攻め続け、大規模な防備を
必要としなかったという点と似ているのかもしれないね。
強勢を誇ったがゆえの質素な城館、そして
同じく強勢だったけど、自らのプレゼンネタとして
城を活用した信長・・との差を感じなくもないですね。
どっちがいいとかじゃなくてね。
というか、この時代にあっては徳川幕府への恭順、
という意図もあったそうですけどね。
麓に聳えていた御楼門。東京・上野にある
旧因州池田家上屋敷表門のような、
門の脇に番所が連なってあるのがちょっと特徴的。
御楼門跡。一般的な桝形虎口と違い、
奥に櫓門があるのではなく正面に櫓門があるんだ。
こちらの木橋はいつのものだろう…
といいつつ、御楼門跡を通過して西のほうの石垣を。
西のほうは特にピッチリと切込接布積。キレイすぎる…
角もすごくきれいに積み上げています。
隣の石積みは後世のものでしょう。
さて、引き返して御楼門枡形へ。
あちこちに見られる弾痕は西南戦争の弾痕。
ということは、このときに御楼門も…
と思いがちですが、実は御楼門が焼失したのは
1873年であって、ちょうど明治六年の政変で
西郷隆盛が政府官職を辞した頃です。
西南戦争は1877年ですから、弾痕を浴びたときには
すでに御楼門は焼失後ということになりますね。
弾痕はかなり痛々しいですね・・
が、石垣自体は亀甲積のような加工をされていて、
けっこう技巧的な印象を受けます。
この石の割れは、御楼門炎上の際の痕でしょうか。
御楼門跡の枡形内奥には、別角度の御楼門古写真。
海鼠壁のようにも見える二層目の下見板が素敵。
実は、御楼門脇の土塀や御兵具所、御隅櫓、
どれもホントに海鼠壁があしらわれているんですよね。
いいなぁ、オシャレ。
この先もさらにクランクしていて、
形状的には二重枡形が形成できそうではあります。
が、模型を見る限り御楼門と曲輪内に入る前に
小さな唐門があるだけで、クランク内には門はなさげ。
(写真は黎明館入館チケットより)
しかし、どこ見回してみても切込接ばかり…
ある意味、すごいなぁ…
まぁ、これだけピッチリピチピチだと
排水溝は要りますわね。
あ、このあたりは石垣化粧もすごいわなぁ。
かなり細やかで繊細、ちょっと島津のイメージと違う(笑)
ここの石垣の高さや位置関係から見ても、
そもそもクランク内に門を作ろうとする意図はなさげ。
さて、城内に入ったらすぐにまた出て、
東側の石垣を見学。あ、篤姫さま、お邪魔してます。
東側の門跡から出てまた石垣。橋も石橋。
門付近こそ乱積だけども、底から先の布積感!
抹茶の生チョコでも並べたか!というくらいの
(何の喩えや)同じ大きさに加工された石。
整然と並ぶ石の色が違うのは、後で
取り替えられたからなんでしょうかねぇ。
さらに進むと、でっかい石が入り込んでた。
それでも、それ以外のところの整然さをなるべく
保とうとしている積み方がすごく細やかで。
鬼門避けの東隅はちょっと切込接チック。
黎明館は模型だけ見て、あとはサクッと。
「篤姫」で使われた駕籠とか展示されてたよ。
続いて、鶴嶺神社と尚古集成館へ。
マンホールまで丸に十字というところは、
至るところに武田菱がある甲府を思い出させる(笑)
手水場にも丸に十字。
拝殿。
本殿。
実は、鶴嶺神社にも七十七万石の大名に
ふさわしい島津家の家宝が多数あったそうですが、
西南戦争の際、官軍の強奪被害に遭ったそうで、
多数の貴重な文化財を失った原因に(Wikipedia)
官軍ども、許しがたし・・・くそったれめ。
瓦には丸に十字があちらこちらに。
尚古集成館は別館は一時休館していましたが、
本館はしっかり楽しめました。
面白かったのは、文禄慶長あたりの島津家の話。
島津家に中国人家臣がおり、その中の許三官、
郭国安という者が明の福建軍門と手を組み、
明軍を薩摩に上陸させて豊臣政権転覆計画もあったとかで…
朝鮮出兵で義弘があれだけ暴れておきながら、
今度は明軍と組んで豊臣に対抗しようとするとは…
明が崩壊する時も、島津は鄭成功の援軍要請に
着々と準備し清と一戦を交えんとしていたわけで、
北の伊達に南の島津、やはり血の気が荒いですなぁ(笑)
そして、佛狼機砲。撮影禁止なので
撮れないのが残念だけど、大友宗麟と干戈を交えて
得たのでしょうけどね。
ここにあるだけでも結構な代物ばかりで、
鶴嶺神社にも文化財が残っていたら
どれほどのお宝だったでしょうねぇ…
あと、島津家菩提寺福昌寺の瓦を見て、
今からでも薩摩にお寺を復興してほしいなぁ、と。
さらに・・・ここも行きたかった磯工芸館。
ガラスモノが好きなわたしとしては、
薩摩切子の製造現場って見たかったんですよ・・・
こちらのガラス工房は自由に見学できます。
見てるだけなんだけど、いいなぁ…
こういう炎の色って、なんだか惹かれる。
そして、荒ずり工程。ダイヤモンドホイールに当て
ガラスの表面を削りこんでいきます。
こうして油性ペンで書いたところを
削っていくのだそうです。
スゴイ細かい作業なんだろうなぁ…
お仕事終わったら、ぐったりだろうねぇ。
えっと、薩摩切子はサクッとパス。
造ってるところを観るのは面白いけど、
高すぎなんですもん・・・庶民にはムリムリ。
出てすぐのこの洋風の建物はなんだろう。
島津印が付いてて、登録有形文化財みたいですが、
立入禁止で詳細はわからずじまい。
さて、この後はホントにサクッと仙巌園。
少し長くなったので、一旦切りましょうかね。
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