晩秋の九州攻め・・・(5)八代城
今、目にする石垣・・を見に行く前に
八代駅あたりの萩原堤防跡から出土した石垣を。
これ、刻印があるんですが…それ以上に、
せっかく埋没していたのが発見されたんだったら、
屋内展示にすればいいのに、って思いました。
八代城の石垣がどれほど白く眩く輝いていたか、
ひと目でわかったであろうに…
というのは置いといて…天守台。
かなり大きな天守台ですが、1620年代の築城
と考えると、古風な積み方ではあります。
あんな感じで大天守から小天守が
伸びてたんだな…と脳内VR炸裂中(笑)
読者の皆さまは、こちらをご参照を♪
石垣の真ん中だけ、やけに苔がないけど…
たまたま?よね??
小天守石垣にはイチョウが植わっていて…
石垣に落ち葉がかかり、一瞬雪と黄葉が
コラボしているように…
南西隅から。ここには出窓のあった月見櫓が
あったのよねぃ…
石垣をぶっ壊して造った八代宮の入り口。
なになに…懐良親王を祀ってるのか…
あれね、明治維新後の南朝ワショーイってアレね…
しかし、この石灰岩はそう汚れてないなぁ…
ずっとキレイに磨いてきたのかしらん?
石垣をぶっ壊してるってのは、右側に見える
石垣のラインを見ても明らかですね。
こんな歪んだ隅石ないわー!
が、ここに通路ができたがゆえに、
通路下の石垣の石の白いこと!
こんな白い石でいっぱいの城だなんて…
ホントの隅石だけちょっと色が違うのは何故?
算木積のとこだけ材質が違って、汚れにくいとか…
南東隅もそうだ…
明らかに違うこのビジュアル。
隅石の材質も知りたくなってきました…
反対側に回ってみると…あ、あれ?
隅石だけ汚れが落ちてて、キレイになってるだけとか?
とか思ってる間に東枡形まで戻ってきました。
あの石垣がkuroさんがおっしゃってた、
清正流平櫓のあった櫓台ですね。
北東隅。やはりこの入隅も鬼門避なんでしょうかね。
しかし、こうして見ると天然の状態でも
白い部分が残ってたりするんだな…
何も知らないと、何であそこだけ白いの?
材質違うの?って思っちゃいそうだわな。
さて、北側の枡形門跡から本丸にいよいよ潜入。
向かって右手には、天守台も控えてまっせ!
気泡のある石を見ると、海から持ってきたのかな?
なんて思っちゃいます。実際、海近いしね。
埋門を経て、天守台への入り口。
模型でみたあそこなんですよ!と思いながら
進んでいくのが吉(笑)
小天守台。残念ながら小天守台に連なる
土塀のあったところから小天守台に
登るような格好になっております…無念。
土塀跡。本来の登城口から進みたいのに…
こうして見ると、小天守台もかなりの高さ。
嘘っぱちの小天守台への道(泣)
小天守は一階が東西九間、南北四間半の
二層三階(地階含む)。ここの説明によると、
東西四間、南北八間の渡櫓で連結されていた…そう。
あれ、模型は渡櫓なかったよね?
ここが当時の小天守の入り口。先ほど車の止まっていた
奥に進んで左折すると、この石段に連なり、
石段を上がると、この小天守一階に接続してるみたい。
小振りながら穴蔵の様相になっていて、
木造の階段があったと思われます。
さて・・いよいよ大天守台。
やっぱ、隅石は若干白め…なんなんろ。
天守台ももちろん穴蔵を備えてます。
五層六階の大天守…とありますが、
模型と喰い違ってますよぉ。
ま、それはさておき家老クラスが城代を務める城で
穴蔵を持った天守があること自体、驚愕。
比較的建ってすぐの1672年に落雷による焼失で
以後は再建されなかったようですね。そりゃそうだ。
この階段はおそらく後世のものでしょう。
天守があったらこんな階段、行き先ないものね。
一階部分の広さは十一間×十間・・ですから、
約18m×20mと相当なもの。
現存天守で最大の姫路城大天守の一階が
十三間×十間、本城に当たる熊本城大天守の一階が
十三間×十一間…と考えると、相当な規模。
津山城天守がちょうど東西十間、南北十一間ですから
ほぼ等しい大きさといえるでしょう。
ちなみに、森忠政が津山城を築城した際には、
18万6千石で入府してますから…天守だけの大きさで
どうこうと決められませんが、八代城大天守の
大きさはなんとなく比較すると、実感できますね。
往時はもっと高さがあった気はしますが、
この広さから相当な天守を想像できます…すげぇ。
さて、天守台から見える細長い曲輪は、
唐人櫓跡、その奥が北九間櫓跡。
南に下って月見櫓跡。
八代宮入り口の石垣がぶっ壊されたあたり。
入り口から見ると、ショボイですが、
意外と側面はキチンと積み直しされてる様子。
kuroさんが説明してくださった(しつこい)
本丸東枡形を守る磨櫓跡。
その時も模型をイメージしながら、
また後々こうしてblogを書くときにも
模型と対照させていくと、理解が深まります。
磨櫓跡に立って本丸東枡形を上から。
奥右手の石垣が先ほど登った石垣で、
櫓門である頬当門が横たわっていたはずですから
まぁ、この袋のネズミったら…
さて…八代城内の井戸跡を見て撤収。
1997年の八代宮改築に伴い出土した遺構。
八代宮前のこちらの看板を見ると、
やはり小天守台から月見櫓跡の本丸西側の石垣は
昭和に修復をされているようでした。
こちらの看板は、縄張りはよくわかりますが、
櫓の意匠はかなり適当・・・orz
さ、このあと二の丸跡の八代総合病院前に。
一部ではありますが、石垣が残っています☆
狭苦しそうでも、残ってるだけうれしいよね。
さらに南に下って、本成寺。
加藤清正の嫡男で夭折した忠正の菩提寺。
ここに八代城本丸高麗門が細川忠興の命によって
移築されているんですね。
高麗門があるとすると、北枡形か東枡形。
オリジナルは焼失し、享保年間に再建されている
ということですが、様式はそのままに再建されたそう。
八代城の建築としては、唯一の遺構。
再建ではありますが、加藤家の桔梗紋と蛇の目紋が
忠実に再現されているのは見ものです。
(…現地ではわかりませんでしたけどね)
鬼瓦は日蓮宗の井桁に橘紋。
内側の部分は、顔文字に見えないこともない^^
本堂も享保年間の再建。やはり屋根には、
井桁に橘紋の左右に、桔梗紋と蛇の目紋があり…
加藤家とのツナガリが大事にされてんだねぇ。
さ、バスに乗って八代駅まで向かいますよ!
マンホールは八代特産「晩白柚(ばんぺいゆ)」。
ミカン科ミカン属の柑橘らしいですが、
聞いたことない・・・蜜柑の国のお姫さまなら
知ってるかもしれないが…
お昼はおべんと。ホントは鮎と地鶏の
こちらを頂きたかったんですが…
熊本城のデザインだし…
ないものはしょうがねぇ。売れ筋おべんとの
「鮎屋三代」を頂きます!
鮎の甘露煮が丸々一匹。川魚の臭みはなく、
甘辛い味付けがいい感じでした。
さ、肥薩おれんじ鉄道でゆらゆら…
軽く眠気に誘われつつ、佐敷城に向かいます♪
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