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京町家で信玄さんに触れる・・・

さて、まだまだ2012年のネタも残っとりますので、
ちゃんと書いていきますよ!もちろん。

明石城の櫓と石垣を堪能
した後、京に向かい、
戦国魂京町家講座「武田信玄(2)~戦国屈指の名将~」へ。

P1190747

Webサイト「戦国浪漫」主宰のMasaさんが
解説してくださりました。

日程的な都合もあったのですけれども、
ここ最近は、武田信玄の足跡の中でも、
川中島合戦以後のところにより関心があって。

同盟結んでは自分の都合で破棄しまくって、
とのっけから信玄批判で始まりますが(笑)

まぁ、この時代の同盟関係を現在の価値観で
見てはいけないよなぁ、と思いますけどね。
企業の事業提携と解消と同じような感覚で
考えるようなもんだと思っています。

能力で言うと、最初からすごかったわけではないですが、
政治力・軍事力・外交力の高さだけじゃなく
バランスにおいても優れていると思いますしね。
(贔屓目はたぶん幾分入っているとは思います。笑。)

てことで、お話いただいた中で気になるトピックを
ピックアップ、つらつらと追っていきましょ。

■西上野制圧作戦

1561年(永禄四年)、川中島でドンパチやってる間
上野の長野業正が没し、信濃が一段落した後、
信玄は西上野に総攻撃を掛けて落とします。

戦後、城代を内藤昌秀として西上野の領国支配を
させるわけですが、ここで箕輪城の紹介があって、
かなり大きな城だったんだな、という印象。

万単位の軍勢を駐留させられるくらいとのことで、
あまり武田に関わる城跡を行っていないので、
機会があれば、ぜひとも行っておきたい!

■義信事件

これね・・・どうなんでしょうね。
かいつまんで言うと、長男義信が
傅役・飯富虎昌と結託、信玄暗殺を企むが
山縣昌景によって露見。

飯富は切腹、義信は東光寺幽閉・・ののち、
自害もしくは殺害された・・というもの。

信玄が血判状を家臣団に出させているものの、
動揺があったことは事実でしょうが、
その動揺ってなんだったんでしょうね。

長男が継ぐべきはずなのに、この結末に
なってしまって・・・・という見解は、
個人的には江戸時代であるまいし、
家康が家光を指名した事例と引き合わせるのは
ちょっと無理があると感じました。

が、「あいつでホンマにやっていけんの?」
という視線が合ったのは想像に難くないですね。
「あいつ」とは・・・そう、四郎勝頼。

とはいえ、Masaさんがおっしゃるような、
「信玄の事態収拾がまずかった」
「もっとみんなが納得できる方法で収拾すべき」
というのは、いささか無責任と思われます。

具体的にどうすべきだったのか?を考えた場合、
わたしには信玄がとった以上の方策がみつかりません。
(ただ、勝頼を後継ではなく後見人にしたことは
 勝頼にとって面白くなかったであろうと推察します)

確かに武田家が滅亡した源流がここにあることは
間違いはないと思うのですがね・・・

■駿河侵攻

喉から手が出るほど、信玄が海を求めた・・のは
周知の事実です。交易力と機動力には
海を押さえるのは、どうしても必要ですからね。

さっきの義信事件との関係でもそうですが、
その辺のあたり、そういう会話を
していたんでしょうかね?

嫁を今川からもらっている手前、
その辺を事前に知らせる・・のは、
いつ何時親子でも敵になるかも・・な時代。
そういうわけには行かなかったのでしょうかねぇ。

そして、駿河に侵攻します・・が武田と今川が
交戦したのが薩埵峠(さったとうげ)の合戦。

この場での話では出ませんが、この後馬場美濃が
駿府館に入って焼討をかけ、今川累代の宝物もろとも
焼いてしまった挙句、宝物目当てで駿河を
攻めたと思われては後代の名折れと開き直るんですが・・・
信玄は火を掛けるなと命を下していたにもかかわらず。

川中島で善光寺に戦火が及んで、貴重な寺宝が
失われないよう甲斐に引き上げ、甲斐善光寺をつくりますが、
その一方でなぜ馬場美濃は信玄の命に背いたのか。
そして、なぜ信玄もそれを許したのか。謎です・・・

どうにも「宝物目当てで駿河を攻めたと
思われては後代の名折れ」という理由があまりに
唐突過ぎるんですよね・・・

■三増峠の合戦

そして、今川を敵に回したことで後北條が
黙っていません・・そして、家康と今川領を
仲良くわけわけしようね・・も破ってしまい、
家康も離れて行ってしまいますね。

これ、普通に考えて周りが敵だらけ。
信長や将軍義昭をつかったり、常陸の佐竹を
つかったり・・この辺老獪な信玄らしいところ。

北条も小田原城を囲み、その帰りに
上手く三増峠で氏照を破ってますが、
まぁ・・・氏政が追いつくのが遅かったわけで。

しかし、後の寿命のことを考えると、
この辺の駿府攻略に時間がかかってるなぁ・・・
という気はしますよね。

しかも、このあたりでようやく石高換算で、
120万石程度。金山があるとはいえ、
そんなもんか・・と思っちゃいますよね。

■三方原の合戦

ということで、いよいよ西上作戦。
ちょうど先日1月25日(バーンズナイト!)が
三方原の戦いの日。今から440年前のことですね。

まぁ、家康さん負けて飛んで逃げ帰るのですが、
あの信玄に、それも当時の武田軍最大兵力。

大軍に挑んで命を保ったというのは、
家康に対するイメージにプラスの影響があった?
というのはわからなくもないですが、
どうなんでしょうねぇ・・・そうなの??

後年、武田をある程度認めて、軍学としては
小幡景憲の甲州軍学を幕府公式の軍学にしてる、
ということも影響してるんじゃないですかねぇ・・・

本多平八が認められたきっかけは、
そうかもしれませんけどね。

■信玄が亡くなった場所は?

この後、野田城を落としますが・・
これが信玄最期の戦いになりました。

亡くなった場所ですが有名なのは、
駒場(こまんば)ですよね。


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長野県下伊那郡阿智村。ここで荼毘に付された
というのが定説ですよね。

そのほかにもこの周辺には、信玄の亡くなった伝承が
いくつもあるのだそうですよ。
そのひとつが長篠の北に位置する三河国福田寺。


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JR飯田線本長篠駅→豊鉄バス田口→
町営バス栄町下車徒歩5分。

ここ、笛の根に聴き入ってところを
鉄砲で撃たれて…というの話のなかで
亡くなったとされる場所。

ただ、ソースが徳川実紀なので、
個人的にはホンマかいな・・とは思いますがね。

そのほか、根羽信玄塚
ここもしっかりと祀られているようで、
車持たない人間には、ちょっとツライですが、
一度訪れてみたいもんですね。


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横旗という地名は、信玄が病重く、この地で
旗を横にした・・・のだそうです。

Masaさんがおっしゃっていたこととして、
仮に髪の毛一本でも、よしんば何も信玄遺体の一部が
なかったとしても、大切にする気持ちを人々が
何百年も伝えてきたとしたら、それは立派な墓だと。

これ、わたしもすごくそう思いますね。
亡くなった人を残された人々がどう思い続けるか、
そのひとつの発露が墓というものなのでしょうね。

その他墓所や供養塔は、

・妙心寺(京都府京都市)
・信玄火葬塚(山梨県甲府市)
・恵林寺(山梨県甲州市塩山)
龍雲寺(長野県佐久市)

にあるそうですね。妙心寺は信玄というよりも、
勝頼・信勝の首塚なのだそうですね。
これはこれで、機会があればお参りしておきたいです。

まぁ・・・知ってることも多いですが、
こういう話を聴いている時間は楽しいもんすなぁ。

ということで、続いて安土でやっていた
信玄×信長の展覧会、続いて信玄信長を
テーマにした講演!

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