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2013年1月

信玄×信長 戦国のうねりの中で(講演)

さて、記念講演。

「織田信長と武田信玄 - その戦略を中心に - 」
として題して、日本大学講師・柴辻俊六氏。
武田氏研究の第一人者でいらっしゃいますよ。

ですが、個人的にちょっとなぁ・・というのが
正直なところ。なんというか・・・画一的というかねぇ。

武田研究をずっとしてこられた方だから、
信長はこうすごいけど、信玄はこうすごい・・的な
お話を期待してたんだけどなぁ。

信玄が保守的で、信長が革新的という二元論で
捉えてちゃ、認識の奥行きは広がらないですねぇ。

素人があれこれいうのもナンですが、
中世・近世という歴史軸は西洋史の枠組み。

本質的に、信玄が「中世」の最後か
信長が「近世」の幕開けか、というのは
そう重要なことではないように思えてくるのです。

■家臣団編成

家臣団編成にしても、信長が実力主義であって
信玄が制圧した伝統ある旧勢力を幕下に加え、
新参者が少ない・・とのことですけど、
しかし、それだけではないと思いますね。

簡単に言えば、信長はハッキリとしたビジョンがあって、
かつそのビジョンを進める上での人材を
即戦力としてを求めてる(ことが多かった)のに対し、
信玄はそもそも人に恵まれていたのと、
人を育てることで、有能な家臣を保とうとした、
という手法の違いだけ、という気がするんですよね。

むしろ、対照的なこととして・・
信玄の反乱の少なさと処分の厳しさに対し、
信長の反乱の多さと処分の甘さ、を挙げたいですね。

信玄は義信事件が唯一の反乱であって、
松永弾正や荒木村重なんかも何度も許してるしなぁ。
それでも、信長も基本発想がブレてないですよね。

そして、信長はある時期以降軍団制を採って、
各方面軍に一定の裁量に任せ、同時進行で
勢力拡大を晩年期にはやっています。

一方、信玄は西上野に内藤修理、北信濃に春日弾正など
前線に宿将を配しはしますが、あくまで守将。
攻め手のハンドリングは、信玄が一手に担っています。

これには、ある程度の兵農分離ができている結果
それに経済力の差でもあるのでしょうが・・・

戦略決定プロセスとして、信長が専制的なのに対し
信玄が宿老衆も含めた合議体制という
見事に対照的な構造になっている一方で、
逆に戦術フェーズでは、信長のほうが委任体制を
採っているのに対し、信玄はある種専制的にも見え、
構造的に逆転しているのが、興味深いです。

詳しくないですが、毛利あたりも武田と似てる印象があり、
毛利と武田の権力構造比較、なんていうのも
面白そうなテーマ。

■合戦スタイル

これはまぁ、そうだなぁというのが
ガチンコでぶつかった野戦って
意外と少ないんですね、信玄って。

やはり調略で中から崩したうえで
攻城戦に持ち込む・・という感じかな?

それでも、上田原、塩尻峠、川中島(第四次)、
三増峠、三方が原。やっぱり信玄は攻城戦が多い、
という印象は確かにあります。

逆に信玄の城は甲斐には少なく、
信濃や駿河あたりが、むしろ信玄の城のメッカ。
・・・というのは、知ってはいましたが、
興味が出てきたのは最近だなぁ。

あまりイメージはないでしょうが、
信玄も鉄砲は所持をしているんですよね。

『勝山記』には、1555年、旭山城の栗田氏に
兵三千、弓八百、鉄炮三百挺を与えて・・
という記述が見られます。分け与えて三百ですから、
総数ではそれなりの鉄砲を所持していたんでしょうね。

信玄が、鉄砲をどう使いこなしていたのか、
なかなか現代にまで伝わっていないのが残念・・・

逆に信長は、調略が少なめ。どうだろ。
イメージはそうだけど、信長はそこまで知らないから・・
でも、負けがないってのはどうなんだ?
金ヶ崎の撤退戦とかは、どうなんだ??

『信長公記』の初見では、1548年に
信長自身が鉄砲の稽古をする記述があるそうな。

船はまぁ比べてもねぇ・・・申し訳程度の
武田水軍に比べるまでもないわけで。
ただ、十分に編成する期間があったとしたら、
信玄がどう水軍を育てていっただろうか?
というのには、非常に興味はありますよ。

■外交

えー・・・信玄はそう尊皇家ではありませんっと(笑)
大正時代に尊皇家としてアピールして、
従三位をもらっているんですが(汗)

1554年、信濃での戦役で文永寺・安養寺が焼亡。
正親町天皇の両寺再興するよう綸旨が下ったが、
これに従っていないようです(汗)

というか、まだ当時の晴信に朝廷の利用価値は
少なかったとも言えるのかも知れません。

信長もまぁ、上手く利用したという感じで
置かれた環境と利用価値の違いなんでしょうね。

これは、朝廷だけでなく、室町幕府や他大名も同じ。
特に信玄と信長で差異は感じませんね。

仮に信玄が義昭に近づけたとしても、
どう上手く利用するかを考えたでしょうしね。

ただ、寺社勢力に対してはかなり対照的。
信長は大名と同様、反抗する勢力はキッチリ
武力集団とみなして戦国大名と同じく制圧。
信玄は、あくまで寺社として特別扱いしている点。

これは、宗教観と戦略の違いもあるのでしょうけど、
寺社の勢力を味方に付けるか、叩き潰すか・・・
信長の場合は、ビジョンを実現するためには、
邪魔であったんだろうし、宗教観だけではない気も。

信玄としては、既存の宗教世界を取り込みたい
という気持ちがあったんでしょうな。
僧正位をもらってるのも、うれしそうだもんな。

ということで、取り留めない感じになっちゃったけど、
この中では家臣団編成と権力構造あたりに
興味が湧き、もっと知りたくなりましたね。

もともと、信玄のひととなりと上官として
こういう人の下で働きたいなぁ・・というのが、
そもそもの信玄への入り口だからね。

さて、その後は安土城天主を愉しみます。
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信玄×信長 戦国のうねりの中で(展示)

翌日向かったのは安土。珍しく信長との比較で
信玄を取り上げるということを知って、
久しぶりに安土を訪れました。

20121028

とはいえ、安土城址に行ける余裕はなく、
資料館の展示と講演、そして信長の館
(安土城天主実在模型)くらいだけでしたけど。

ごめんね、今回はあなた主人公じゃないの(笑)

P1190749

安土の駅前に信玄像がはためくのは、
なかなかないでしょう(笑)
なにより、持明院蔵の画像が一般的に
なってきているのがうれしいなぁ。

P1190750

まずは展示のほうを図録で振り返りながら、
思い返していきたいと思います。

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プロローグにあるように、皆が競って
上洛して天下を目指す・・わけではなくって
考え方の違いを探れるとおもしろいですよね。

■武田信玄と織田信長の勢力最大版図

ま、これは文化財ではないのだけどね。
それにしても、北条・今川・山之内上杉と
大大名に囲まれ、さらには本国甲斐の生産力は低く、
金山はあるとはいえ、かなりハンデが大きい。

信虎の時代は、甲斐を纏め上げるのに
周辺の大国を上手く使って立ち回れたと思うが、
逆に甲斐一国を纏めた後では、それが足かせに。

信長は一方で、また目標(天下布武)実現のために
攻め取りルート通りにつぶしていくことを是として、
大物とは徹底的に相手にせず、比較的小粒を
相手にできたことは、運が良かったのもあるし、
それがブレないのも信長の手腕の高さだよね。

結局、信玄の生涯は生産力の低い甲斐から
攻め取れそうな信濃を奪い取って体力をつけながら、
西上野、飛騨・・などを本当に少しずつ刈り取り、
長い間掛けて体力をつけてます。

もし、信玄が信虎を追い出して家督を継いだ時点で
今川と浅からぬ関係にはなく、攻め込んだとしても、
今川や北条を同時に相手にできるほどの力は
武田にはないだろうしねぇ・・・

ということで、天下を治めることを意図した信長に比べ
とかく中世的、旧勢力といわれる信玄だけど・・

その面はあるにしても、まずは勝ち残るために、
どう動くべきか?を考えれば、中央進出を第一に
考えるということは、実際無理だったろうな、と。

信長=新勢力、信玄=旧勢力と二元論で
捉えるのは非常に危険な気がします。

■肖像画

個人的には先ほど書いたような高野山持明院蔵の
武田晴信像のほんまもんを見れてほくほく!
・・・はいいとして(笑)

安土城下でも自らを神格化し崇めさせた…といいますが、
信長は神格化されたような画像はあまりない、
ってところが興味深い。

これって、既存の宗教画に仮託して自らを
神格化していくのではなく、新たな権威を纏う、
ということを信長が意識していたからかなぁ。

いずれも死後だけど、秀吉が豊国大明神、
家康が東照大権現と既存の神のイメージで神格化
されていることから考えても、信玄の不動明王像のほうが、
「日本人的な」感覚になじむ神格化かな、
という印象はありますね。

それに、安土城も天皇を迎え入れられる御殿があり、
信長自らが住む天主の下に位置づけられて…
というところとも関係がありそうですね。

■躑躅が崎館の城郭ネットワーク

躑躅が崎館、北の要害山城が詰めの城というのは
よく知られているけれど、湯村に湯村山城、
南東に一条小山があり、この三つの山城の中心に
躑躅が崎館があるんですね。

単に要害山城だけでなく、三つの山城を含めて
ひとつの大きな城郭として機能していたのかなぁ、
と考えると、いろいろ調べてみたくなりました。
(まだぜんぜんやってないけど。笑。)

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湯村山城ってどんなとこだろ。行ってみたいな。
ちなみに、一条小山は後の甲府城。
この小山が切り崩されて、近世城郭になりますね。

ちょっと話が外れますけど、躑躅が崎館から
出土した馬の骨格標本も来てました。

ちょうど、わたしの鎖骨あたりくらいの高さが
馬の背中の高さ…でかなり低い印象。
もともと日本にいた馬って背が低いんだよね。
洋馬のイメージが染み付いちゃってるけど、馬って。

だけど、実は武田軍の騎馬って物流を担うのが
主任務で山々も越えていったのだそうで、
そう考えると、砂漠の駱駝のような感じなんでしょうか。

にしても、蓆をかぶせて丁寧に葬られているあたり、
武田家における馬の位置づけがわかりますね。

■書状からみる信玄・勝頼と信長

信玄最晩期から勝頼期にわたる信長とのやり取りが
非常に興味深く、書状の解説をじっくり読む。

・上洛協力要請に・・信玄/信長の違い

足利義輝の側近だった細川藤孝宛の信長書状。
義輝が暗殺され、藤孝が幕府再興に奔走していた時期。
当時出家していた覚慶(後の足利義昭)を
上洛させるのに協力してほしいという書状への返答。

この書状は永禄八年ですから1565年。
当時、信長は斎藤龍興と交戦中。
それでも、信長はOKの返事を出しているんですね。

一方、永禄九年(1566年)の信玄書状でも、
同じような藤孝の呼びかけに、遠いので無理です、
と応えているんですよね。

地理的な面は置いといて、義昭を迎え入れる、
という選択肢はなかったんでしょうかねぇ・・
信玄と信長の対応の違いが興味深いですよね。

信長はこの頃からすでに義昭を利用して
中央に覇を唱える計画があったのでしょうか。

一方、信玄もまた室町幕府にそう忠実でもなく、
信玄としては「利用価値なし」とみなしていたのかも。
できないにしても、もう少し返答のしようが
ある気がするんですよねぇ。

・微妙な関係

決定的に関係が悪化する前?の信玄と信長の
微妙な関係を物語るエピソードとかおもしろい。

義昭に鷹の雛と子を信玄がプレゼント。
で、なぜか信長の手を経由し鷹匠をつけたうえで、
義昭の手に渡ってるんですよね・・・

義昭と信玄が変な結びつきを起こさないように
「検閲」したのかもしれませんね。

・勝頼が当主となることへの違和感?

武田勝頼から内藤昌秀への誓約書。忠勤に励むなら
過去のことは誓って不問にする、というもの。

信玄の死後11日後に出させたもので、
勝頼を後見人としてではなく、当主という自負。

この時点でこのような文書がある自体、
信玄からの権力移行がスムーズでなくて、
勝頼が当主となることの違和感が払拭されてない
何よりの証拠といえる文書ですね。

内藤修理自体、過去の態度を清算・・ということは
少なからず違和感をもっていたのかも。

既に大将とのがっちりした信頼関係で
成り立っていた武田家中のほころびが
また現れているな・・という一通。

・慎重な信長、スキだらけの勝頼

個人的に「信玄×信長」のテーマで、
長篠合戦を扱うのには、違和感あるんだけど…

大物には安易に手を出さない慎重な信長がよく感じられ、
一方で、勝頼のスキだらけなところもまた。

信長は三方原の進軍にたいそう怒り、謙信に挟撃を提案。
一応オトナの事情はあっても、表面上は友好関係に
あった武田ー織田間にあって、イキナリ侵攻してきた
ことを謙信に訴えています。

だけど、これは謙信というキャラクターを
意識しての信長の作戦であり、内心はいよいよ
信玄と対決するときがきたか・・と
腹を括っていた、という気がしますけどね。

信玄の死直後、再度謙信に書状を送ってますけど、
信長はまだ勝頼を警戒してるんですよね。

信玄の掟を守り、交渉や戦術も
表裏使い分けてくるはずから、油断できないと。
こういう慎重さ、一般的な信長のイメージとは
ちょっと違うかもしれませんね。

最後に小谷城もまもなく落ちる予定ですって、
付け足したように書いてあるのは、どういうわけ?

一方、長篠直前の1575年の勝頼書状を見ると、
長坂光堅に宛てた手紙では、万事うまくいっていて
信長と家康が長篠城救援に来るが大したことはないと豪語。

凡将では決してないが、このような気持ちでは、
勝つものも勝てなくなるな、という印象。驕りは大敗の元。

・京を目指していたのか?

土屋昌続の大山崎の離宮八幡宮への書状。
要は、離宮八幡宮のもつ権利を保証する
制札を出してほしいというのに対し、まだそちらに
兵は進めないのでまた今度、と断るもの。

これ、1573年3月の話ですから、信玄は虫の息。
そもそも京に進む気がなかったのか、
それとも信玄の病状を暗示したものか…

判断は分かれるところですが、上洛はついでで
まず信長と雌雄を決することを意図していたように
思われてきますよね。

・信長が負っていたプレッシャーの重さ

長篠合戦のあと、岩村城が落ち秋山虎繁が落命。

「秋山を岐阜に移送し今日磔にし、籠城衆も悉く首を刎ねた」
「近頃鬱積した思いを発散させられた」

武田側からすれば腹立たしい限りだが、
信長にこうした台詞を言わせるほど、
勝頼が大きな存在として見えていて、
心理的にもプレッシャーになっていたんでしょう。

ということで、やはり解説があると
書状はおもしろいですね・・・

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京町家で信玄さんに触れる・・・

さて、まだまだ2012年のネタも残っとりますので、
ちゃんと書いていきますよ!もちろん。

明石城の櫓と石垣を堪能
した後、京に向かい、
戦国魂京町家講座「武田信玄(2)~戦国屈指の名将~」へ。

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Webサイト「戦国浪漫」主宰のMasaさんが
解説してくださりました。

日程的な都合もあったのですけれども、
ここ最近は、武田信玄の足跡の中でも、
川中島合戦以後のところにより関心があって。

同盟結んでは自分の都合で破棄しまくって、
とのっけから信玄批判で始まりますが(笑)

まぁ、この時代の同盟関係を現在の価値観で
見てはいけないよなぁ、と思いますけどね。
企業の事業提携と解消と同じような感覚で
考えるようなもんだと思っています。

能力で言うと、最初からすごかったわけではないですが、
政治力・軍事力・外交力の高さだけじゃなく
バランスにおいても優れていると思いますしね。
(贔屓目はたぶん幾分入っているとは思います。笑。)

てことで、お話いただいた中で気になるトピックを
ピックアップ、つらつらと追っていきましょ。

■西上野制圧作戦

1561年(永禄四年)、川中島でドンパチやってる間
上野の長野業正が没し、信濃が一段落した後、
信玄は西上野に総攻撃を掛けて落とします。

戦後、城代を内藤昌秀として西上野の領国支配を
させるわけですが、ここで箕輪城の紹介があって、
かなり大きな城だったんだな、という印象。

万単位の軍勢を駐留させられるくらいとのことで、
あまり武田に関わる城跡を行っていないので、
機会があれば、ぜひとも行っておきたい!

■義信事件

これね・・・どうなんでしょうね。
かいつまんで言うと、長男義信が
傅役・飯富虎昌と結託、信玄暗殺を企むが
山縣昌景によって露見。

飯富は切腹、義信は東光寺幽閉・・ののち、
自害もしくは殺害された・・というもの。

信玄が血判状を家臣団に出させているものの、
動揺があったことは事実でしょうが、
その動揺ってなんだったんでしょうね。

長男が継ぐべきはずなのに、この結末に
なってしまって・・・・という見解は、
個人的には江戸時代であるまいし、
家康が家光を指名した事例と引き合わせるのは
ちょっと無理があると感じました。

が、「あいつでホンマにやっていけんの?」
という視線が合ったのは想像に難くないですね。
「あいつ」とは・・・そう、四郎勝頼。

とはいえ、Masaさんがおっしゃるような、
「信玄の事態収拾がまずかった」
「もっとみんなが納得できる方法で収拾すべき」
というのは、いささか無責任と思われます。

具体的にどうすべきだったのか?を考えた場合、
わたしには信玄がとった以上の方策がみつかりません。
(ただ、勝頼を後継ではなく後見人にしたことは
 勝頼にとって面白くなかったであろうと推察します)

確かに武田家が滅亡した源流がここにあることは
間違いはないと思うのですがね・・・

■駿河侵攻

喉から手が出るほど、信玄が海を求めた・・のは
周知の事実です。交易力と機動力には
海を押さえるのは、どうしても必要ですからね。

さっきの義信事件との関係でもそうですが、
その辺のあたり、そういう会話を
していたんでしょうかね?

嫁を今川からもらっている手前、
その辺を事前に知らせる・・のは、
いつ何時親子でも敵になるかも・・な時代。
そういうわけには行かなかったのでしょうかねぇ。

そして、駿河に侵攻します・・が武田と今川が
交戦したのが薩埵峠(さったとうげ)の合戦。

この場での話では出ませんが、この後馬場美濃が
駿府館に入って焼討をかけ、今川累代の宝物もろとも
焼いてしまった挙句、宝物目当てで駿河を
攻めたと思われては後代の名折れと開き直るんですが・・・
信玄は火を掛けるなと命を下していたにもかかわらず。

川中島で善光寺に戦火が及んで、貴重な寺宝が
失われないよう甲斐に引き上げ、甲斐善光寺をつくりますが、
その一方でなぜ馬場美濃は信玄の命に背いたのか。
そして、なぜ信玄もそれを許したのか。謎です・・・

どうにも「宝物目当てで駿河を攻めたと
思われては後代の名折れ」という理由があまりに
唐突過ぎるんですよね・・・

■三増峠の合戦

そして、今川を敵に回したことで後北條が
黙っていません・・そして、家康と今川領を
仲良くわけわけしようね・・も破ってしまい、
家康も離れて行ってしまいますね。

これ、普通に考えて周りが敵だらけ。
信長や将軍義昭をつかったり、常陸の佐竹を
つかったり・・この辺老獪な信玄らしいところ。

北条も小田原城を囲み、その帰りに
上手く三増峠で氏照を破ってますが、
まぁ・・・氏政が追いつくのが遅かったわけで。

しかし、後の寿命のことを考えると、
この辺の駿府攻略に時間がかかってるなぁ・・・
という気はしますよね。

しかも、このあたりでようやく石高換算で、
120万石程度。金山があるとはいえ、
そんなもんか・・と思っちゃいますよね。

■三方原の合戦

ということで、いよいよ西上作戦。
ちょうど先日1月25日(バーンズナイト!)が
三方原の戦いの日。今から440年前のことですね。

まぁ、家康さん負けて飛んで逃げ帰るのですが、
あの信玄に、それも当時の武田軍最大兵力。

大軍に挑んで命を保ったというのは、
家康に対するイメージにプラスの影響があった?
というのはわからなくもないですが、
どうなんでしょうねぇ・・・そうなの??

後年、武田をある程度認めて、軍学としては
小幡景憲の甲州軍学を幕府公式の軍学にしてる、
ということも影響してるんじゃないですかねぇ・・・

本多平八が認められたきっかけは、
そうかもしれませんけどね。

■信玄が亡くなった場所は?

この後、野田城を落としますが・・
これが信玄最期の戦いになりました。

亡くなった場所ですが有名なのは、
駒場(こまんば)ですよね。


大きな地図で見る

長野県下伊那郡阿智村。ここで荼毘に付された
というのが定説ですよね。

そのほかにもこの周辺には、信玄の亡くなった伝承が
いくつもあるのだそうですよ。
そのひとつが長篠の北に位置する三河国福田寺。


大きな地図で見る

JR飯田線本長篠駅→豊鉄バス田口→
町営バス栄町下車徒歩5分。

ここ、笛の根に聴き入ってところを
鉄砲で撃たれて…というの話のなかで
亡くなったとされる場所。

ただ、ソースが徳川実紀なので、
個人的にはホンマかいな・・とは思いますがね。

そのほか、根羽信玄塚
ここもしっかりと祀られているようで、
車持たない人間には、ちょっとツライですが、
一度訪れてみたいもんですね。


大きな地図で見る

横旗という地名は、信玄が病重く、この地で
旗を横にした・・・のだそうです。

Masaさんがおっしゃっていたこととして、
仮に髪の毛一本でも、よしんば何も信玄遺体の一部が
なかったとしても、大切にする気持ちを人々が
何百年も伝えてきたとしたら、それは立派な墓だと。

これ、わたしもすごくそう思いますね。
亡くなった人を残された人々がどう思い続けるか、
そのひとつの発露が墓というものなのでしょうね。

その他墓所や供養塔は、

・妙心寺(京都府京都市)
・信玄火葬塚(山梨県甲府市)
・恵林寺(山梨県甲州市塩山)
龍雲寺(長野県佐久市)

にあるそうですね。妙心寺は信玄というよりも、
勝頼・信勝の首塚なのだそうですね。
これはこれで、機会があればお参りしておきたいです。

まぁ・・・知ってることも多いですが、
こういう話を聴いている時間は楽しいもんすなぁ。

ということで、続いて安土でやっていた
信玄×信長の展覧会、続いて信玄信長を
テーマにした講演!

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ブレンダーズ・ウイスキーNo.16を愉しむ会。

ここずっと、Blender's Barのイベントには
皆勤賞だと思いますが・・今回ももちろん参加です。

いよいよ佐久間チーフブレンダーの
ブレンダーズウイスキーのお披露目ですからね!

同席した方にすごいものを見せてもらいながら、
始まりを待ちます・・・レプリカじゃないよね?
ホンモノだよね?

P1230566

箱・・というかくるんでるボール紙も
また状態がよくって。すごい。

P1230563

ほんにキレイな・・はるか昔のポケット瓶の
ファーストNIKKA。

さて、そろそろ始まりますかね・・・

P1230570

佐久間さん。前チーフの久光さんとは
また違った和みのある話をされますよね。

P1230581

今回のテーマは、南国の夕暮れのビーチを
イメージしたトロピカルサンセット。
宮城峡のトロピカルさと余市のシェリー&ピートを
調和させる・・・だって?

P1230585

今回のお話は、何度か参加している
ブレンド教室
の過程のお手本になるお話でした。

というのも、なかなかブレンド教室、
上手くはゆかないモンなんですよね・・・

まずは最初にベースにするNo.6をチョイスして
woodyさを落としてみようと。
わたし、woodyさが好きなんですけどね(汗)

P1230589

余市:宮城峡の製造キャパシティが1:4らしく、
フルーティさをイメージしながら、
余市と宮城峡を同じくらいの割合に定め、
あとは原酒タイプを等分にしてみます。まずは。

P1230594

やはり、ピートの出方が気になって
全体的に荒く痩せた感じ・・とのこと。

個人的に思ったのが、ダメだったらダメなりに
言葉にしておくというのが大事なのかな、
というように思いました。

そして、ベースを作った後に方向性を定め、
そこからブラさないというのがポイントのようです。

この数字の順番に進めてティスティングを
していったそうですが、1%単位で変えていかれたそう。

P1230603

woody感が強いということでウッディ&ヴァニリックを
徐々に減らすものの、ゼロにするとコクがなくなって、
フルーティ感がほしいからといって、シェリーばかりでは
レーズン的な重さになってしまうみたい。

シェリーの効きすぎを押さえつつ、フルーティ感を
出したい・・というところで宮城峡のフルーティ&リッチ。

P1230605

ちょっとグレーンを増やしてみたら、
どうなる?というのもやってみたそうですけど、
軽めに仕上がって、イメージとは違うみたい。

ここで思ったのが、まず大きく酒質を変える
余市モルトの比率から変えていって、
そこで調整できなくなったら、宮城峡モルト
もしくはグレーンで調整する、という順番なんだな、と。

P1230610

で、ティスティング。鼻の先で感じられるのは
やっぱりトロピカル感のある華やかさが感じるのだけど
思った以上にトロピカル感、フルーティ感は単独では続かず、
加水してみたときに、ハーブやメロンのような少し
青っぽいイメージと調和した感じになってきますね。

口に含んでからピート由来であろう、
塩っぽさが感じられてきて、フルーティで
トロピカルなスタートなのに塩っぽさが入ってきても、
合うんですよね、これが。塩スイーツ的な。

フルーティで塩気を・・という発想が
なかったのもあるけど、美味く表現できないが
こういう合い方があるんだ、と驚き。
わたしにとってはある意味「奇跡」とすら
思えてくるんですよね。

一方わずかではあっても、このしっかり感は、
下支えするウッディ&ヴァニリックや
ピーティ&ソルティが芯をつくってるでしょうね。

この手順に倣って、もう一度ちゃんと
時間をかけて造ってみたい気がしますね・・・

実は、この日普段からお世話になっている
よぞらさん(@yozora2)もお誘いして楽しんで
頂きました。楽しんでいただけて何より。

Blender's Barは早めに撤退して、赤坂のVirgoで
バーンズナイト恒例のハギスを頂きまして。
これが美味しかったんだわ~ Good Job!

P1230612

もう一度マイブレンドに挑戦したくなる、
そんなバーンズナイトでございました。

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1月のあれこれ・・・

1月から3月はあまり遠出したりしない・・・
昨年のネタが残ってるんだから、といいつつも、
目の前にあれやこれやイベントがぶら下がってるのを
みたら・・・行かないわけにはいかなくて(汗)

さすがに遠出はしていませんが、ちょくちょく。

■信州上田おもてなし武将隊・@戸塚トツカーナ

信州上田観光おもてなし武将・三代目穴山小助役の
たまきさん(@tamakipan)に戸塚で信州フェアやってる、
とお伺いして、戸塚までいそいそと。

なかなか歌舞伎顔の渋い幸村さんが
信州のアピールをされておりましたよ。

P1230531

美味(おい)だれに非常に興味があったので
美味だれ焼き鳥とドレッシングを購入。
4月には上田に行く予定にはしてるんですが、
もうすぐにでも行きたくなるくらい、美味い!

思った以上にニンニクが効きまくりのタレですね!
こ、これでからあげを・・・・

じゃんけん大会では、めでたくクリアファイルを!
クリアファイルはあればあるだけ助かる!

■バーンズナイト@日本橋Y's Land Bar IAN

ウイスキー詩人(笑)のロバート・バーンズを祝う
バーンズナイト。昨日がそのバーンズナイトだったんですが、
少し早めの23日にBar IANにて、Kaoriさん
(‏@whiskyconcierge)主催のバーンズナイトへ。

まぁ、例によって最後のほうは香りなんて、
憶えているわけもないので、めぼしいのははじめに。

なんとなくピンとくるものがあったグラント。
ナッティ感のある好みのヤツで幸先よいスタート。

P1230535

1967年蒸留のマッカラン。G&M。
くどく思えるオフィシャルのクリーミーさではない、
心地よい華やかさに少し硝煙香系の
シェリー感がある個人的には好みなマッカラン。

P1230537

東洋醸造という静岡県のメーカーの古いブレンテッド。
古いウイスキー独特のよい甘みがあるよね。
表現できないんだけど、今はつくれないのか、
それともある程度、瓶で寝かせておくからこうなるのか?

P1230546

あとは・・・もうたくさん飲んだんだけど、
憶えてないなぁ。写真には撮ってるけど。

このサーモン美味しかった!お代わりしたいくらい!

P1230540

そして、抽選会!あ、このグラスいいなぁ!
とか思ってると、番号呼ばれないし・・・・
こういう運ないよなぁ、と思っていたら、
アードベッグのスキットル・グラス・ボトル(Ten)の
セットが当りましたぁ!うわうわうわ!わーい!

P1230552

デザートのカップケーキがまた美味しい!

P1230554

特にチョコ。これは二ついっちゃいました(笑)

P1230555

主催者のKaoriさん、ロバート・バーンズと
お誕生日が同じなのですよね、ということで、
お誕生日祝いも兼ねて!

P1230557

いやいや、飲みましたねぇ。酔い時間なり。

■尾張徳川家の至宝@江戸東京博物館

たぶん江戸東京博物館に行っている回数、
かなり上ると思われますが、それだけ魅力的な
展覧会多い証拠ですよね。

ということで、今日、徳川御三家筆頭、
尾張徳川家に伝わる秘宝の数々を堪能しました。

2013012191043

・徳川義直所蔵 銀溜白糸威具足

初代尾張家当主の徳川義直が特に愛した具足。
義直、正月の具足祝いの儀式のために
毎年具足を新調ってんだから、よほどの甲冑マニア(笑)

大坂冬の陣で初陣ということですから、
実戦経験はあるとはいえないのでしょうけれど、
なにかコダワリがあったのでしょうかね・・・

この具足は、実に銀のパッと清々しい美しさが映え、
それと対称的に兜の日の丸がどんと構えていて、
旭日が夜を照らすかの如き、存在感のある甲冑。
若干、前立てが平凡かなぁという気もしますがね。

・徳川家康所蔵 村正

刀剣ではイチオシだと思った村正。
俗説で徳川家に災いをもたらすという話もあるが
後世の創作だと徳川美術館は言い切ってます・・・

それはさておき、朝霧があたりに立ち込めるかのような、
わたしにとっては珍しい刃紋の美しさに見惚れる。

こういうのを「皆焼(ひたつら)」というそうで、
刀身の刃部のみでなく、刀身全体に焼入れを施すところから
「皆焼」と呼ぶのだとか。(しかし、読めない)

・徳川慶勝所蔵 石首魚石入蠟色塗刀拵

石首魚(いしもち)という魚の頭部にある耳石という
大きな骨が嵌めこまれ、水玉模様のようになっているんです。

やけにモダンなデザインだなぁ、と思ってたんですが、
十四代慶勝、最後尾張藩主。

幕末の気風なのか、当人の趣味なのか・・
いずれにしてもハッと目に留まる逸品でありました。

ちなみに、徳川慶勝は弟に松平容保がおり、
明治維新後、容保の助命嘆願に奔走したそうです。

・後藤徳乗作 葵紋赤銅鐔

まず、そのものよりも後藤家におっ!と。
これ秀吉の時代から大判・小判の鋳造に携わった
後藤四郎兵衛家を想起するのですが、まさにそう。
鐔(つば)師もやっていたんですねぇ・・・

で、葵紋赤銅鐔は五代徳乗の作。
ある方面から怒られそうですが、ものすごーく
コースターにあいそうなデザインって、
思っちゃいましたね(笑)

・藤蒔絵矢筒

気になったのが、徳川葵の周りに藤の花が
あしらわれていて、どんな意味があるのか・・と
ちょっと調べてみました。

すると・・倹約吉宗とやりあい万事華美を好んだ
七代徳川宗春が用いた紋だそうで、
藤輪之御紋」と呼ぶのだそうですね。

確かに華やかな紋、宗春さんらしいといえば
らしいかもしれませんね。

・蘭奢待(らんじゃたい)

これこれ!めっちゃビックリした・・
蘭奢待よ、蘭奢待。あの正倉院の名香木。

足利将軍(義満・義政)のほか織田信長も
切り取ってたはずですが、これは源頼政や太田道灌、
などの手を経て、尾張徳川家に伝わったもの。

香りをテーマにした上野の展覧会
でも、
実物はなかったもんなぁ。

・伝徳川家康筆 夷像

ま、伝ではあるので、ほんまかいな?
というのはなきにしもあらずなのですが、
家康が描いたとされる夷(恵比須)像。

飛びぬけて上手い訳ではないが、
これだけ描ければすごいもんですよ。
家康さん、絵描きの才能もあるなんて、
いいじゃないですかねぇ。

ということで、けっこう気になる品々が多く、
めでたく図録をお買い上げ。溜まるなぁ(笑)

■神田明神(神田神社)

江戸東京博物館の帰りすがら、神田明神にも
ちょっと立ち寄り。何気に初・神田明神なんですよ。

P1230619

特に初詣・・という時期でもないのですが、
それでも結構並んでいたのには驚きましたね。

なかなか艶やかな社殿ですが、1934年の造営で
残念なことに鉄筋コンクリート造。江戸時代の社殿
関東大震災によって倒壊してしまったそうです・・・

P1230624

ま、コンクリ造りだからこそ、東京大空襲を
耐え抜いたといえなくもないのだけど。
2003年に登録有形文化財に登録。

P1230633

奥には資料館も。以前八重洲で見た江戸城
寛永度天守の段ボール模型もありました。
ちゃんと奉納祭してるのね。

P1230627

神田明神、全然知識ゼロだったんですが、
創建は天平時代の730年だとかで、
神田祭も家康江戸入府以前からあったそうです。

北條五代記にも触れている箇所があって、
能が神事の中心だったんだとか、なかなか興味深い。

江戸時代には、幕府公式の祭礼と認められて大規模化、
将軍が上覧する天下祭のひとつに数えられます。

ただ、寛永度天守が焼失する明暦大火は1657年。
江戸城内に山車が入るようになったのは、
元禄に入ってからだそうですので、天守から
神田祭を観たかどうかは・・・定かではないですね。

コースはこちらにあるように、筋違橋門から
田安門を経て北の丸に入り、濠沿いを進んで竹橋門から
大手門前、そして常盤橋門から退出したそう。

その他、平将門手彫の妙見さまが将門後裔を称する
相馬家に伝来し、相馬家御当主が神田明神に
奉納とか・・・すごいもん持ってますな。

■おまけ:神楽坂飯店

久しぶりに寄った神楽坂飯店。
ここでは決まって肉うま煮かけチャーハン。

P1230637

どでかい餃子を規定時間内に食べたら無料とか
そういうので有名かも知んないけどね。
あと、豚とニンニク若芽の炒め物もセットで。

P1230635

さて、まだまだありますよ・・・別枠にしたい
佐久間チーフのブレンダーズウイスキーお披露目の
Blender's Barのイベントと城メグリストさんの
わくわく城めぐり」のお話については、別途。

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竹田城オフ・・・本番!その4:竹田城 南千畳・南二の丸・花屋敷

さて、天守台を過ぎて南千畳方面へ。
ちょうどお昼過ぎたくらいだったんですが…

ハイキング(?)に来てたシルバー世代の方々が
ちょうどランチタイムみたいで、一斉に天守台周辺で
ご飯を食べてて、ちょっとクスッとしました。

P1220501

しかし、どう櫓が建っていたのだろうなぁ・・・
なんだか礎石の跡とかがまるっきりなさそうで、
想像するのも難しそうな感じです。

P1220505

南二の丸から天守台。こちらからの角度のほうが
天守台が美しく見える気がします!

P1220506

特にこう・・・鶴翼の如き縄張りで、
羽を広げたような美しいカタチ。

P1220509

なかなかここまで優美な石垣は見ないですね。
が、城としてのつくりで観ると、
少し疑問もないわけではない・・・・

P1220520

正門・・とあるのだけど、どーみても
門がありそうに思えないんだよなぁ・・と
現地では、思っていたんだけども。

P1220526

だけど、記事書いてて櫓門じゃないかも、
と思い始めると、まぁそう違和感はない・・・
中仕切門のような高麗門と考えればね。

にしても、ストーンと一直線で守りに入った
感じがどうにも感じられないけどね。

あと、許せないのがね、ここの櫓台。

P1220528

往時に道があったかは不明だけど、
登って石垣までたどり着いても、残念でしたー!
ということで櫓から矢を射って差し上げる・・はずが、
道つくっちゃってますやん・・しかも、石垣破壊。

P1220532

枡形にしてもよさそうな形状はしてるけどさ・・・

P1220533

つか、それにしても石垣が低いよね。
残念でしたーべーっと言ってる間に登られちゃうぜ?

P1220534

こんな高石垣を組めるんだから、もうちょっと
何とかなりそうなもんなんですがねぇ。

P1220536

中世の竹田城はともかく、近世の石垣は
かなり見た目重視な気がします。
この隅石の角度の重なりなんて、絶妙な美しさ。

P1220538

まぁ、一本くらいあってもいいですが、
竹田城のいいところは、山上の城にも関わらず、
余計な木々がなく、視界が開けている点もありますね。

P1220529

その一方で、石垣の外周より先は一切
手が加わってない(つまり薮だらけ)という対照さ。
搦手なんて立ち入り禁止ですからね・・・

P1220531

さて、残すは花屋敷のみ。

P1220545

本丸西面・・石、ぱっかーん割れとるやん!

P1220550

実は、東面の石垣はかなり修復されてるそうで、
だから表面がキレイに見えるんですね。

西面は苔も多くて、ある意味当時のままが
見えるということでもあるんですけど。

P1220551

花崗岩の色が影を潜めているのは・・・
これは歴史が積み重なった結果じゃない気が。
まだ書いてませんが、肥後八代城で石垣って、
あんなに大気汚染で汚れるんだ、と気づきましたからね(汗)

P1220552

微妙な曲がり具合の虎口ですな・・・

P1220554

こちらも進入禁止・・むむ。

P1220558

なんで禁止なんだろ・・全然通れるやん。

P1220565

ただ、石垣がなんだか乱雑というか、
崩れかかってる感じがします・・ひょっとすると
これが原因なのかも・・・進入禁止。

P1220560

花屋敷からの天守台もいいなぁ・・
隅石の位置のズラし方がなんともいえん!

P1220563

もうそろそろお帰りの集合時間・・なのに
誰も大手門に来ない!とうろうろしてると、
竹田城最初で最後の矢穴発見☆

P1220573

しっかし、少ないんだねぇ・・・
というのもまた知りたくなってきますね。

さて、下山。しんさんの車で竹田駅まで
送って頂きました・・感謝。

しろうさぎさん他後発隊は、
こちらの竹田駅前から登ってきたそうです。

P1220578

でも、列車の発車時刻は着いてすぐ!
皆さんに充分に挨拶する間もなく・・・ホームへ。

ホームからもちゃんと石垣が見える☆

P1220580

ということで竹田城オフ、無事に終了です。
いろいろ得るもの、多かったなぁ。

幹事のみかんさんはじめ、皆様もお疲れさまでした。
ありがとうございました!

次回は、立雲峡から雲海を見たり、
模型で櫓群の建つ想像図でもう少しイメージを
膨らませたりしたいかなぁ。

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竹田城オフ・・・本番!その3:竹田城 登り石垣

天守台から見えた姿・・あれは、後発隊!

赤組:しろうさぎさん、みつよしさん、夕里さん、
白組:シモーヌさん、寺旅人さん

ここで全員集合です☆

揃って向かう竹田城の秘境・・・
それは、登り石垣。

そもそも、登り石垣とは朝鮮出兵の際に
朝鮮半島に築城された日本式城郭(いわゆる倭城)で
山城の山麓部分と山頂部分を結ぶ石垣。

山の斜面の侵入を防ぐ意味があったようで、
通常の石垣とは違い、この上に土塀や櫓は
設けられなかったようで、万里長城に近い感じ。

朝鮮出兵後帰国した大名の築いた城のいくつかで
この「登り石垣」が残っているようです。

有名どころだと・・・伊予松山城(加藤嘉明)、
彦根城(井伊直継・直孝)、洲本城(脇坂安治)あたり。
1/24追加:あっ・・長岩城忘れてた・・行ったのに!

加藤義明も脇坂安治も朝鮮出兵経験者で、
そのときの経験が生きているのでしょうね。
(彦根城は・・・どうなんでしょ)

ですが、この竹田城にもあるんですって。
赤松広秀の時代に石垣ができているようですが、
赤松広秀も朝鮮出兵に従軍しているようですから、
その経験もあったのかもしれません。

登り石垣に向かうのは、北千畳のこの部分。

Noboriishigaki_iriguchi

P1220438

登り石垣までの道は全く整備されていないので、
これ知ってないと迷います。危険。

P1220441

お、石垣が見えはじめてきました♪

P1220443

ほぼ整備はされていないので、崩れている箇所も
ありますが、尾根に沿って石垣が
しっかり伸びてるのは、わかると思います!

P1220449

特に、人物がいるとわかりやすいですかね!
(これくらいだったら、大丈夫よね・・・)

P1220450

実際のところ、必死こいて滑らないように…
と気をつけながら降ってるので、よく写真撮れたな、
という感じではあります。写真以上に迫力満点。

P1220452

竹田城の内郭の石垣は低くて、ありゃ?
という感じでしたが、外郭石垣と変わらぬくらい、
けっこう石垣の高さもあるんですよ。

P1220456

石垣の色はグレーっぽく見えますが、
これも経年変化によるもの・・と思われます。
ところどころ赤みの帯びた部分があって、
やはり花崗岩だな、と思わせられます。

もちろん、積み直しもないでしょうから、
苔が生えたらそのまま!こんな苔に覆われた石垣、
珍しいですよ・・・(笑)

P1220458

う、産まれるーぅ!危ないな、この石垣…

P1220468

こうして見ると、サイガさん軍人です(笑)

P1220471

このあたりを登ってくときに、ズルッと
いちゃいました・・小柄なしろうささんを
押しつぶさなくて済んだ・・・(汗)

そして、また登っていきますが、
下から見上げられる(ということはきつい角度で
登らねばならない)ルートから戻ります。

P1220476

ホントにもう山の中に現れた高石垣、です。
石垣好きさんは泣いて喜びますな(笑)

P1220480

確かにこう眺めると、行く手を阻まれている
という感じがすごくします。圧迫感。

P1220483

この後、最後の難関を登りきるところ、
サイガさんが駆け上がって、皆の手を引いて
上げてくださってました。

でも、みかん赤組隊長がずざざざっ・・と
ハデに滑って、サイガさんまであわわわっと。
一時はどうなるかと思いましたが、皆無事で帰陣。

P1220489

しみずさんがなくしたカメラのキャップの蓋を
夕里さんが薮の中から発見するファインプレーもあり。

さて、ここからは自由行動で井戸跡を見に行く人あり、
また薮の中に消える人あり・・・で、わたしは
まだ観ていない南千畳・南二の丸・花屋敷方面へ。

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竹田城オフ・・・本番!その2:竹田城 北千畳~天守台

さて、北千畳の大手門跡から城内へ。
竹田城の石垣は、すべて現地の花崗岩。

P1220339

いろんな石材が混じるのもおもしろいですが、
こうした統一感があるのもいいですよね。
ま、山城に石を持ってくるのはハンパなく大変で
こうなるのは、自然なことではあります。

積み方は野面積み・・というか、
近江穴太(あのう)衆による穴太積み。

P1220342

赤松広秀によって慶長初期に石垣が組まれて、
関ヶ原後東軍に寝返ったにもかかわらず、
鳥取城下の焼討ちを家康に咎められて広秀が切腹、
その直後に赤松家が改易されただけでなく、
竹田城自体も廃城になっている。

天使のはしご。これ現象的には珍樽現象・・
こらーっ!ウイスキーじゃねぇ、チンダル現象、
というそうで、その他薄明光線、レンブラント光線とも。

P1220345

いいなぁ、レンブラント光線か。
言われると納得納得。レンブラント光線にしよう。

さて、アチラが大手門。しっかり枡形ではありますが
石垣が低いようですな。一気に石垣がつくられてる
ように思えるので、この低さは気になります。

P1220348

ただ、石垣の石は大きめで石そのものの加工度は
かなり近世的ではありますね。時代的にも、
ちょうど石垣技術の進歩している過渡期ですしね。

P1220354

皆さんの身長から考えても、この上に櫓門が
あったであろうと想像しても実に低い。

P1220351

復元模型はあるとはいえ、近世城郭として
この世にあった時代があまりにも短くすぎて・・

具体的な櫓の配置などを復元するには、
発掘調査しかないでしょうねぇ・・
どこまでわかってんだろ。

内側から。キレイな枡形をしています。
礎石でもあるといいのですが・・・

P1220359

左右の石垣の高さが合っていなくて、
櫓門があったようにはちょっと考えにくいです。

P1220362

外側の石垣は、縄張り図に「見附」とあるので
隅櫓が建っていたのでしょうね。

北千畳。さすが・・・というべきか、
きれいに整備されていますね。

P1220363

これ・・・なんだっけ。サイガさんと
なんだか話した記憶があるんだけど・・うむむ。

P1220366

アチラに進めば、三の丸。

P1220367

三の丸石垣と奥に本丸石垣。
算木積の萌芽も見られ、カチッとしすぎる
切込接石垣よりも、城好きウケです石垣(笑)

P1220369

しかし、大きな塊の石垣は天下普請で
築かれるような徳川系の城で見ることはあるけど、
そこまでは行かないにしても、石の大きさに
目を瞠るねぇ。しかも、この山上に。

P1220370

このあたりとか、すごいでしょ。

P1220378

ただ、立石なような気もするけどね。

P1220375

これは、ライトアップの準備。
昨年末の一時期はライトアップしてたんですよね。

P1220376

三の丸に上がってくるところ・・も
枡形っちゃ枡形ですが、やはり奥の角に隅櫓…

P1220379

そして上の写真の隅櫓があったであろう、
場所から逆向きに見て階段右手に、もうひとつ櫓。

P1220380

という風に考えるのが、自然に思えます。
いわゆる典型的な桝形虎口の櫓・門の配置とは
違うように感じました。

そして、三の丸を抜けて・・あの先が武の門。

P1220382

ここの隅石は特に長細い・・というか、
おでんのこんにゃくみたいな三角形してる(笑)

P1220383

武の門。ここも櫓門とは考えにくいかな・・・
櫓門の登場はそもそももう少し後なのかもね。

P1220386

上から見るとわかりますが、内から外に向けて、
石垣が漢字の「八」の字をして狭まっていて
ここに高麗門や冠木門があったっぽい?

P1220390

この辺りには、瓦がたくさん。Wikipediaによると
「竹田城は但馬国では群を抜いた瓦の出土量」だそうで、
これも出土した瓦をちゃんと見たくなりますね。

P1220387

あ、危ない!石垣の石が外れとるがな!
思わぬトラップ。キケン。

P1220389

あの石垣下の石・・落ちた石じゃないか!?

P1220396

手前から二の丸、三の丸、北千畳。
眺めはバツグンによい!

P1220391

二の丸高石垣。同じ「竹田」の名を冠する
豊後竹田城、つまりは岡城を彷彿とさせるような?

P1220397

しかし、二の丸から武の門あたりを振り返ると
内から見る石垣の低さにまた、驚くのでありました。

P1220399

あちらは、鶴翼の陣のもう片方、南二の丸と
南千畳方面。また後ほど向かいます。

P1220401

天守台。さすがに天守台は高いですな。
10mくらいはあるでしょうか。

P1220403

天守台にこのクラスのデカい石があるのも
ある意味、ビックリしますね・・・

P1220407

P1220414

算木・・・とまではいえない未熟さがありますが
それでも天守台ならではの曲線美。

P1220412

ここまでそう石垣に苔むしてるところは
少なかったんですが、天守台には苔が多め。

P1220413

石垣好きさんって、こういうアングル好きじゃない?
このシュッとした感じがいいよね♪

P1220415

しかし、天守台下の低い石垣は不可解・・・

P1220417

石垣変態(笑)のあいすさん(@icecream0704)と
意図的に崩されてんじゃない?と
話していたのはここ。

P1220417_1

見たところ、崩れてはいるけど
意図的に・・という感じではなかったですね。

本丸に向かう階段。

P1220418

階段から南千畳方面。この角度の写真も
けっこう目にする気がいたします。

P1220421

天守台に登るしがない階段。
往時は連結式天守で続櫓の内部から
天守に入る構造だったんでしょうなぁ。

P1220422

そして、天守台から眺めて・・あっ!
あれは・・・!?

P1220427

というところで、一旦切ります(笑)

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竹田城オフ・・・本番!その1:観音寺山城

和田山に戻ってから、寄せ鍋で宴。
ここからしみずさん登場。

ま、例によって酒宴の席で話したことなんか、
すっかり忘れているのであります・・・

P1220224

みかんさんに鍋に入れる食材の順序とか
なんだか教育的指導を食らったような(笑)

P1220227

ひたすら芋焼酎を飲んでたんですが、
アイスペールにNIKKA印があるのは見逃さない(笑)
# その割にはウイスキーはなかったようなぁ・・・ぶつぶつ

P1220228

ちょっと外に出て飲みなおしもしたっけ。
和田山駅前に天守っぽい模型がありましたねぇ。

P1220230

さ、翌日。赤組は早掛けするらしい・・ということで
我らも!ということで早めの出陣。

和田山からしんさんの車で竹田駅の反対側、
山城の郷まで向かって、ここから進軍。


大きな地図で見る

ホントはこちらには、模型があるみたいなんですが、
またこれは次の機会といたしましょう。

P1220234

もうはっきりと石垣が見えてます。
わかりやすいですね。

P1220232

時間によっては、進めるようですが
この時間は車はここまで。歩いて進まねば。

P1220235

なんじゃこりは???

P1220236

少し歩くと、駐車場はもうひとつ。
ここまで上がってくることもできるんですね。

P1220238

ここ降りて、いよいよ竹田城。
特にこの門はなんっちゅーこともありません(爆)

P1220239

こちらの地図をタブレットに入れて進軍。
やはり縄張り図があると見落としがなくって
いいもんですね。

P1220242

手っ取り早く城域に入るには、
花屋敷のほうからのほうがよさそうですが、
じっくり観て回るには、くるっと回って
大手門から入るべきでしょう♪

P1220245

あかんで、絶対!特にキャンプする馬鹿に
石を持って帰る大馬鹿。許すまじ!

P1220246

山城ですから、それなりの準備をもって。
難しいことはなく、山で歩く格好だったら、
いいと思うんですよ。

P1220247

大手門に行くまでの道すがらに中世城郭遺構である
竪堀をいくつか見ることができるんですが、
石垣だけでなく、こういうところも整備すると、
石垣との比較でいろいろ発見があるのになぁ、と。

P1220249

こちらも。縄張り図ではあるのですが、
さすがに写真ではわからん・・・

P1220262

このあたりの石、石垣に使われたんでしょうか。
ちょっと人工的に割ったように見えますが・・・

P1220250

しんさんによるとこれ、土砂崩れの跡だとか。
ものすごい爪痕・・麓のお寺にまで
土砂が到達し、被害があったとか・・・

P1220255

P1220256

目の前に北千畳が見えてきました☆

P1220264

左。

P1220268

中。

P1220269

右。

P1220270

あたかも鶴翼の陣で取り巻かれるような縄張り。
意図したのか、地形上そうなのかわかりませんが・・・

P1220278

竹田城址の碑。やっぱり碑は大事よね。
だいたい美しい字ですしね。

P1220279

さらに竹田城攻城隊白組、大手に向かいます!

P1220280

大手門が近づいてきました!
がっ!サイガさんのご希望もあり、観音寺山城へ。
竹田城と一体となっている山城。

P1220287

土橋感がわかりやすいですよね。

P1220292

観音寺山城に入るちょっと手前から、
竹田城北千畳を眺めるしみずさん。

P1220293

この辺りからも竪堀が見えるのですが、
後で来るであろう赤組の為に道をサイガさんが
切り開いてられました。優しいっ。

P1220322


こんな感じで遺構を探していくのが山城。
竹田城に来る方の多くはなかなかここまで来ないでしょう。

P1220296

縄張り図を確認して、ふむふむ・・・

P1220297

観音寺山城主郭から・・竹田城攻城隊赤組発見!
鉄砲構えっ!放てぇー(笑)

P1220301

下って、主郭を。

P1220306

いくつか石垣が残存しているところも。

P1220307

もう少し下がって。

P1220318

この辺は虎口が見て取れますね。

P1220308

整備されている・・・とは言いがたいですが、
残り具合はなかなかのようです。

P1220313

竪堀に沿って木が植わっていて、
ある意味、竪堀がわかりやすいというか。

P1220317

さて・・赤組とも合流し竹田城に引き返します。
そんなに高く登った感はないのですが、
土橋部分がかなり低くなっていることもあり、
竹田城側からみても、結構な高さがあるように
見える観音寺山城でした。

P1220330

さて・・・大手門に戻り、いよいよ竹田城を
攻めつくします!

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竹田城オフ・・・前日:福知山城

さて・・続いては福知山城。
車内であむさんからお借りした臼杵城パンフを
せっせと自炊してたら、軽く車酔い・・(笑)

20121215142545

これ、夏に臼杵城に行ったあとにできたんですって。
ホントは夕里さんにあげるものだったらしいけど…
変な折り目付いてたら、ごめんなさい< 夕里さん

そして、岡城のDVDも譲っていただきまして。
めっちゃうれしい!あむさん、ありがと☆

最後に訪れたのは、10年近く前・・で、
駐車場から降りて、観てビックリ!!
なんじゃ、あの櫓門は!

P1220121

知らぬ・・・知らぬぞ!来ない間に
いろいろと変わってるのね・・

今観て思うと、あの入母屋破風が重なる意匠。
独特ですよね。アシンメトリーなのも
いいよなぁ、と思うんです。

しかし、この橋といい、奥の櫓といい、
全く以って記憶がない・・・この櫓、
1990年にできた福知山市佐藤太清記念美術館。

P1220122

建物自体はコンクリですが、外観はなかなか。
ただカーブしているのには、違和感ありますがねぇ。

P1220123

橋の下だけ見事に色が違う・・・
雨風に晒されているかどうかの違い?
それとも・・・

P1220124

このあたりの通路は、変わってないかな。

P1220127

しかし、あの美術館、多聞櫓の途中に
千鳥破風を配するなど、なかなか装飾的です。

P1220128

福知山城といえば、転用石。
早速発見です!

P1220133

櫓門から見える小天守。門から見える
櫓ってシチュエーションも実は大好き(笑)

P1220135

ただ、天守との距離が近すぎ、
二重の入母屋破風を間近ではなかなか撮れない!
のがちょっと悩みの種かも。

P1220140

櫓門もこうして見ると、ひょろっとした感じ。

P1220141

この天守の欠け、鬼門除けか!とkaiさんと
話していたんですが、実は南東。
ぜんぜん鬼門じゃない(笑)

P1220144

個人的には、こうした突上戸まで
復元されているのは、ポイント高いですね。
(省略されがちですからね・・・)

P1220145

おっとこんなところにも転用石。
宝篋印塔の相輪まで使うとは・・石垣には
不向きでしょうにねぇ(苦笑)

P1220146

忍たま乱太郎にしか見えない、光秀殿!

P1220147

作者の尼子騒兵衛さんが福知山観光協会の
イメージキャラクターを務めたゆかりが
あるからってことのようですね。

さて、天守に。2ヶ月ほど前に、
小和田先生もお越しになっていたようですね!
どんだけ歴史に学ぶんでしょう(笑)

P1220148

往時の福知山城。現存するのが本丸部分のみで、
二の丸の台地はすっかり削られてしまっている・・
ということがよくわかりますよね・・・無念。

P1220149

本丸が東の隅にあり、西側の台地に
二の丸が開けていた様子。まぁ、さっきの美術館は
全然復元でないのがわかります(汗)

P1220150

しかし、この日すっごい結露していて、
コンクリ天守だけにつるっつる。危ないわ・・・
で、そんな足元の中、ツイートしながら
階段をゆくあむさんかっけー・・

兜をかぶれるところには、真田と伊達の兜。
まぁ・・しょうがないか(苦笑)

P1220154

でも、この光秀さんかっこいいな。
さすが、ゆかりの地ですね。

P1220161

実は、この日城ガール隊の取材が入ってたんです。
両丹日日新聞さんだったかな?

P1220155

ま・・・白組はぽかーん( ゚д゚)でして、
若干手持ち無沙汰(笑)

で、やっぱり城郭「建築」Loverとして、
天守模型は捨てがたい。鬼門除けか?と思った
あのくぼみって、入母屋破風が重なった意匠とも
関係してるんですよね。

P1220163

あのくぼみのズレが入母屋破風のズレ。
どうしてこのようなつくりなのか・・・
1699年創建と比較的新しいにもかかわらず、
ザ・望楼型!という古式ゆかしい天守ですしね。

P1220166

この天守、福知山を領し筑後久留米
転封になった有馬家に天守の史料があったそうで
そのおかげで外観は忠実な復元ができたのだとか。

天守から銅門番所。数少ない城郭遺構建築。

P1220172

小天守の向こうにみえるのが明智薮。
人工的に植林された竹から構成される堤防跡で
光秀はこの恩恵からも、領民には深く慕われていたそうな。

P1220173

まぁ、小天守の鬼瓦は朽木さんですがね(笑)

P1220179

遠くに見えるは明覚寺。福知山城の現存門を
山門とするお寺ですね!

P1220175

西の方角に見える高台が伯耆丸。
手前が二の丸だったわけですが、ざっくり削られ、
高台の面影はありません・・・

P1220181

東側の入母屋破風が重なるところを内側から。

P1220182

さて、天守から離脱して転用石祭。
天守台西側に集中しているみたいなんですよね。

確かに目にどんどんと入ってくる・・・

P1220183

梵字もチラホラ・・・

P1220184

P1220189

城域が完成したのは、明智光秀の時代ではなく、
関ヶ原の論功行賞で入府した有馬豊氏の時代。

とはいえ、天守台自体は光秀の時代に周辺寺院を
破壊して石を集めているわけで・・・
天守自体も典型的な初期望楼型ですしね。

この凹みが謎・・・

P1220185

ココまで多いと、おもしろいけど、
石垣としての景観という意味では・・・(汗)

P1220186

やっぱり、こういう野面積みのほうが
好きではある。

P1220191

そして、現存遺構ではあるがあまり注目されない
銅門番所。支えるニセモノ石垣が残念。

P1220194

ほらね・・・orz

P1220195

使おうとして使われなかった宝塔の残骸。
やっぱり通常の石を優先で、どうしても足らない分だけ
転用石を当てたのかもしれませんね。

P1220196

天守西面。東面と同様、角の欠けに合わせて
入母屋破風が据えられていて、欠けが大きい分、
手前の破風が小さく、付け櫓風にも見える。

P1220201

以前訪れた際にはあまり思わなかったんだけど、
この非対称性がすごく美しく思えて。
今になって、すごく好きな天守になっちゃいました。

天守北面。こちらは破風飾りはなく、
千鳥破風などなく入母屋屋根がダイレクトに
見えるあたり、初期望楼的な古式な雰囲気。

P1220206

北面の石垣には、転用石はほとんど見当たらない。
光秀築城の初期の頃に組んだのでしょうかね。

P1220207

と言っても、ゼロではないんですけど。

P1220208

ずらっと並ぶ石垣になれなかった
(ならずに済んだ?)宝塔。
この前で、記念写真をぱちり(笑)

P1220210

かなり暗かったのですけど、このあと
明覚寺の福知山城の現存門。

P1220211

タブレットではダメダメでしたが、
こういうときにデジカメのありがたさが心に沁みる…

かなり小振りな高麗門なので、曲輪内の仕切門、
くらいなんでしょうかねぇ。

P1220218

マンホールは、天守南東面の図。

P1220221

あれ、この西面左右反転してね?

P1220222

…さて、このあと和田山に移って宴・・なのですが、
実は翌日竹田城に行った後にも、二日目から参加の
しみずさんとまた福知山城に来ちゃいましてね。

遠いですが、駅からも天守が見えるんですね。
手前には武田菱(大違)

P1220581

アップで何とか・・・これが限界。

P1220582

城内にもありますが、もう片方の鯱は駅に。

P1220584

駅を降りて、あまりに見違える景観に驚愕・・・
こ、こんな開けてなかったはず・・

P1220585

あ、天守。けっこうお城が大事にされてますね。

P1220586

福知山駅。うーん、まるで記憶がない(汗)

P1220587

市役所あたりから天守を眺めると、
けっこういい画になります。ホントはこの辺、
台地になっていたんでしょうけどね。

P1220590

あちらのほうに見えるのが伯耆丸。
関ヶ原後に入府した有馬豊氏の弟である
有馬伯耆守重頼の住まう曲輪だったそうで。

P1220592

で・・・再び天守さんコンニチハ。

P1220597

これこれ。見落としたの・・・
この石垣の境い目。ここより右手(南面)に
転用石が多いんですよね。

P1220602

これ、誰の時代のどういう経緯で
天守台が増床されたんでしょうか・・気になる。

P1220602_2

しつこいけど、やっぱりいいなぁ。
今回、わたしの好きな天守ランキングで、
福知山城天守、急激にランクが上がった感じ(笑)

P1220603

二度目・・の突上戸。これがあるのと
ないのとでは雰囲気が随分違いますよね・・・

P1220612

天守に入るしみずさんと別れ、福知山撤退。
この角度だと、入母屋破風が一重でつまんないし…

P1220616

こちらからだともう少し距離がほしい感じ。

P1220618

てことで、やはり南側は駐車場からの眺めが
一番よいという結論。

P1220623

この後、帰る道すがらなぜかしみずさんと
合流!え?天守、そんなに一瞬!(笑)

途中で、丹波のお菓子を買ってもぐもぐしながら
駅まで帰り着きました。

P1220625

えーっと。帰りの車内ですでに晩酌・・・
白州heavily peated に山椒風味のお豆さん。
唐辛子よりもこちらのほうが合うかな。

P1220626

京都では、和醸良麺 すがりでもつつけ麺。
肉女王よしえさん(@yoshie_san)に教えてもらって
すっかり京都で食べたい麺屋第一位に(笑)

P1220634

多少、塩分が強めなんですが、
この日は竹田城でいっぱい歩いてきたので、
ちょうどいい感じでした。美味い!

P1220632

麺はいつもゆずを練りこんでるゆず麺をチョイス。
小鉢でモツ丼も!よく食べたねぇ。

P1220629

さらに、高速バスまでの時間つぶしに、
たまたま京都にいらしたマサチカさん(@masachika_i)と
グランヴィア京都のホテルバーで飲み飲みしたり。
いやいや楽しき時間でしたね。

さ、ちょっと遡って、お次は竹田城を・・・

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竹田城オフ・・・前日:篠山城

遡ること1ヶ月前・・twitterで竹田城行きたいよね、
そうよね・・という何気ない会話から始まった
竹田城オフ。かなり前から話が上がってたのですが、
ようやく・・ようやくこの日が来たぜ!という感じでした。

竹田城以外の城のルート企画などなど、
みかんさん(@hutakigusa)にかなりご負担を
かけてしまったようで・・諸々、ありがとうございました。

この日の布陣は、

紅組:みかんさん、たなかちゃん、あむさん、kaiさん、
白組:サイガさん、しんさん、nikko81

という七名。赤白で平均年齢がごっつ違うのは
ツッコんじゃいやん(笑)

ということで、前日バスで京都まで移動、
JRを乗り継いで、篠山口駅。途中下車して、
実家の墓参りとかしてたんですけどね。
# で、また2週間後の正月に墓参り・・・(笑)

駅前は低い雲というか霧が。竹田城の雲海とは
ちょっと違いますが、やはり霧が出やすいんでしょうな。

P1210936

一応、マンホール。しっかり篠山城。

P1210937

しゅたり、篠山城。前回は駅から歩いたので、
うわっ、近ッ!という感じ。

P1210938

輪郭式の縄張りで、北・東・南に馬出しを備え
関ヶ原後に大坂城を包囲する城のひとつとして、
極めて強固な縄張りで建てられてます。

P1210939

2009年当時、遺構発掘中だった箇所も
キレイに石垣が組まれています。

P1210941

石の質がちょっと遺構と違うものが
混じっている気がするのは・・・うーむ。

P1210943

そして、のっけからの刻印天国(笑)
さすが、天下普請の城ですわ。

P1210946

左上の刻印は、伊達家の三引両紋に見えますね…
実は有名な竹雀紋より歴史があるんですよ。
伊達家始祖・伊達朝宗が源頼朝から拝領したとか。

グイッと枡形。城ガールは刻印に夢中。

P1210949

刻印もりもり。

P1210951

ちょうど櫓門があったあたり。後で見る模型と
照合してみると、いかに守りが堅いかがわかります。

P1210953

もちろん、枡形は戦のためのもの、なんですが
クランクする石垣が織り成す美しさも
また目を瞠るものがあるのですよね・・・

P1210954

徳川葵。いくつか種類があるんですが、
「丸に三つ裏葵」という葉脈を省略した紋だとか・・・

P1210956

整備前、大書院が再建される以前の篠山城石垣。
もともと残ってるんじゃなく、かなり復元されたんですね。

P1210958

そして、模型。やはり城の知識を付けてから見る
模型はまた違った印象がありますね。

P1210960

先ほど通ってきた道。石橋上の廊下橋を
渡ってからの二重枡形、しかも高麗門ではなく
すべて櫓門、最も手前は望楼まで付いて。

P1210962

方形の縄張りの弱点を埋めるべく、
つくられている角馬出し。大手馬出しは
失われています・・・

P1210963

南馬出しは現存。

P1210964

あの西側の三階櫓が気になる・・・

P1210966

特徴的な横矢を掛けるために三角形に
飛び出た土塀。これもかなり戦を意識したつくり。

P1210967

南側。こちらも廊下橋を渡って櫓に囲まれた
枡形を通って、埋門から入る仕掛け。
こりゃ、通りきるまでボコボコになりそうだわな。

P1210970

本丸がぐるっと多聞櫓で囲まれているのも
かなり威圧感大。隅が独立した隅櫓ではなくって
多聞櫓に望楼が付いたのは、ちょっと特徴的かな?

P1210973

大書院をぐるっと見学。突っ込まれたんですが、
やっぱり、釘隠しって気になるんですよぉ。

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紙でできた甲冑。徳川葵はあるけど、
何かに模したわけではなさそう・・がよくできてる!

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胴の葵紋、いがんだるで!(意地悪)

P1210980

引手もまた釘隠しと並んで見ものなトコ。
細かな金物細工も一品一品、細やかに仕上がってます。

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大書院雛形。木造再建にはこうした模型作成が
欠かせないんですよね。

P1210983

上段之間。違棚や帳台構、付書院は
江戸城・二条城の大広間はそっくりですよね。

P1210984

この上段之間にも座りたかったな(笑)
本来は格天井にも彩色と絵柄があったのでしょうな。

帳台の間。ここから将軍は出入りするはず。

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さ、大書院を出て本丸のほうに。
大書院脇の井戸。このほか三箇所の井戸があるが
どれも水を湛えているそうな。

P1210992

この刻印は・・そのときには思わなかったけど
今見たら、旧JISマークみたい(笑)

P1210993

大書院は、2000年4月の再建・・・てことは
もう13年になろうとしているわけだけど、
この大入母屋破風の汚れは、どうにかならんもんか。

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あの石垣の向こうが本丸。かつてみかんさんは
あの石垣を越えて行かれたそうです(汗)

P1210996

ですが、この石垣はかなり積み直されてるようで。

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まぁまぁ、ご丁寧に・・良心的ではあるよね。

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この穴はナンじゃ?

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在りし日の現存大書院。
突上戸が今の大書院にはないけど・・・

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本丸へ・・・本丸跡は青山神社。
篠山を治めた青山忠裕を祀っている。

P1220009

が、往時は天守台に平櫓があったのみで、
他に建物はなかったそうな。

でこれはなんぞ・・切り株のような、
それにしては妙な木の幹に、無数の一円玉が
挟まっておる・・・謎すぎる。

P1220005

ここにも・・(笑)

P1220006

熊本の城ガールkuroさん(@s_walker38k)に
教えていただいたんですが、清正築城の城の石垣には
算木積みの石の角が丸くなってるのがあるそう。

で、熊本城天守台や佐敷城にみられる・・
とのことでしたが、篠山城天守台にも。

P1220010

たまたまなのか、こう見せるための意匠なのか。
あるいは、清正の城々との関係は・・・
ちょっと気になりますね。

下のほうだけなんですけどね。

P1220026

天守台石垣。打込接かな。縄張りが強固すぎて
天守建造は認められなかったそうな。
ただ、規模的にはそう大きくはないので、
建てられても三層天守くらいだったんじゃないかな。

P1220012

しかし・・・ここも刻印だらけ。
もう、キリがないよ!っと言いたくなるほど(笑)
とんかち印が多い!

P1220017

P1220018

日立製作所の旧マークっぽい(笑)

P1220021

一部、失われている内濠の復元でしょうかね?

P1220013

小学校の辺りから天守台を囲むあたりが
埋まってしまっています。これが復元されるのかも。

P1220025

天守台から見えるのは八上城。
波多野氏の居城跡で、篠山城築城によって廃城。

P1220022

篠山城、別称を桐ヶ城というそうですが、
この「桐」とは実は「霧」を指しているそうな。
(みかんさん情報)

P1220024

二の丸南の埋門(うずみもん)。
このキュッとした感じがたまらなく好き。
狭いトコ好きなんで・・・・

P1220027

しかし、これを実際に埋めてしまうには
どんくらい時間が・・・かなり大変よねぇ・・

P1220029

内濠南西側。Webで工事中だった写真も
見ることができるので、ここも復元工事したんだろうな。
天守台付近もこのようになるのねー。楽しみ。

P1220032

さて、この帯曲輪のほうに参りましょうか☆

P1220033

一旦、大手から外へ。脇から帯曲輪。

P1220035

おっと!石垣の継ぎ足しポイントはっけーん!

P1220041

この二の丸北西角は、今でも入隅になってますが
創建当時は、複雑に屏風折れしていたようです。

P1220044

今確認できる入隅。

P1220048

刻印って、ホント謎よね・・
漢数字がいっぱい。どゆことだ?

P1220049

P1220050

こ、これ危なくねぇか・・・裏で棒で
突っついてんじゃないかってくらいの孕みだし。
石垣、メンテしてーっ!!

P1220051

ここでも刻印祭。五輪・・ならぬ三輪とか。

P1220053

あ、これWindowsのウィンドウを最大化するのを
元に戻すボタンだよね(違)

P1220054

ここだけいやに苔むしてる・・ってことは
皆積み直しでここだけ残ってたってことなのか??

P1220056

南西角。この印・・・アマ(尼崎市)の市章を
思い出すのはわたしだけ??

P1220060

両頭の杵?かな?

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うむむ・・・なんぞこれ?

P1220062

埋門外側にある「三左衛門」の刻印。
三左衛門とは、総普請奉行を務めた池田輝政の通称。
今の姫路城は、この人の作品ですな。

P1220064

刻印一覧。結局、的に刺さった矢の刻印は
見つけられなかったねぇ。

P1220065

埋門下を降りて、南側に出ますよ。
下から埋門を眺めます。

P1220068

これくらいの加工度でも、排水口作るのね。

P1220069

このあたりも失われた濠の整備中。
石垣って、こんなに残ってないものなのね・・

P1220070

P1220073

整備されると、このあたりがすとーんと
きれいに濠が伸びるんだろうねぇ。

P1220075

南馬出に行く前に・・土橋!
kaiさん、タイミングずれた~(笑)

P1220082

外濠から観る南馬出。

P1220081

馬出の土塁に登って前景をば。
残り具合がすばらしいですね。好き哉。

P1220084

馬出周りには濠もしっかり。

P1220085

模型によると、内側は石垣だったようなので
持ってかれちゃったのか・・・
遠くに天守台を眺めながら、東馬出までとことこ。

P1220088

東馬出。石垣は明治以降のもの。

P1220092

谷積、booboo!

P1220094

丹波杜氏酒造記念館に惹かれそうになるが…
ココは忍の一文字・・・(笑)

P1220096

東馬出内から。濠の深さを調べるのに、
小石をどぼーんと投げてみたり。

P1220103

さて、ここから大手に戻ります。
外濠北東あたりは、水が干上がっちゃってる。

P1220100

大手の復元されたあたり、東側から見ると、
この石垣のカーブにものっそい違和感・・・・

P1220108

反対側はそうでもないんだけどなぁ・・・

P1220107

本丸大手北東にて谷積センサー反応。
ぴこんぴこん!

P1220111

ということで、篠山城だけでも
長くなっちゃった・・が、この後SAで
お肉を頂いたら、福知山城に攻め上りまっせ☆

P1220116

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2013年の初お出かけ ~ 信玄・昌幸・清盛を追う + ニッカショットバー

書きたいモンから書いていくので・・・
自分でも時系列というかツナガリめちゃくちゃやな、
と思いますが、その点は大目に見ていただき・・・

城は行っていないのですが、関西に滞在していて、
なかなか普段行けないところ・・を。

■信玄の血脈を追う・・善念寺

今回行きたかった最大のスポットがココ。
ホント小さなお寺で、すでにお寺っぽくなくて、
一民家のようにしか見えないのですが・・・

なにせこちらには、武田勝頼の子で、
武田信勝の弟、武田勝親の墓があると・・・。
そう、関西に武田の血脈が?
しかも、信勝に弟がいたなんて???

しかも、当家の墓もこのご近所にあって、
ウチの墓の近くに信玄公の血脈が!と思うと、
もう行きたくて行きたくて・・・

さすがに、わが祖父母をスルーするわけには
行きませんので、12月に竹田城に行く前にも
参ったばかりでしたが、祖父母に新年の挨拶をした後、
参ってきましたよ・・・・

場所はこちら。阪急園田駅から徒歩15分。


大きな地図で見る

事前情報の通り、こちらの住職さんは武田さん。
勝親公より代々その血脈を今に伝えてられるそうな。

ホントは、ぜひお話をお伺いしたいところですが、
さすがに正月にアポなしで向かうなんて、無謀。

まずは、尼崎市教育委員会あたりから問い合わせして
次の機会といたしましょう・・ということで
墓前前の看板。甲斐国志にも記載はあるそうで。

P1220998

池田信輝・・という書き方が若干気になるが、
これ池田恒興のことですよね。
Wikipediaにもその記述があるようですね。

しかし、池田恒興といえば長篠の戦いにも
参加していたはずですし、一時期は
甲州攻めの一翼を担っていたはず。

なぜその恒興を頼ろうとしたのか、
なぜ恒興も匿おうとしたのか・・・・

勝親どの、どのような思いをして
摂津にたどり着かれたのか、
どのようにお過ごしだったのか・・・

P1230008

とにもかくにも、信玄公の血筋を
残してくださったことに感謝しつつ、合掌。

墓石に漢文でなにやら書かれているが・・・

P1220999

 周代列国特公宋杞其徳雖既衰乎蓋以古之不可○也
 武田勝親者甲斐之後主之季子也按状天目敗績曰公
 生三歳其臣栗原左衛門幕負公而奔城州託諸醍醐之
 密経院院主者後主之○既而稍長會齊藤○無○○○
 公為○冒姓齊藤仕戸田候於尼崎城馬遂耻臣之万政
 仕入攝州掠橋荘富田村以隠浮屠變名曰善悦状之○
 截止是天和壬戌六月十九日廒死富田年百三葬宅址

ということで、勝親は勝頼の末子であり、
1580年生まれ(天目山の戦い時点で数え三歳)、
1682年没の享年数え年百三歳。

栗原某という家臣が山城まで連れて、
京都密経院に預けられて、長じて姓を齊藤と変えて
尼崎城の戸田氏鉄に一時仕えるものの、
摂津富田村に隠棲、善悦と称す。

天和壬戌(1682年)6月19日に薨去、
その屋敷跡に葬られた、という感じでしょうか。

摂津名所図会
という1796年~98年
(寛政8年~10年)に刊行された書物にも記載があり

 富田村善念寺にあり。武田勝親は甲州武田信玄の
 嫡孫にして、勝頼の子なり。天正十年武田家没落の時、
 山州醍醐密経院は勝頼の縁者たるにより、
 家臣粟原左衛門尉、この幼児を抱き、ここに蟄して養育し、
 武田左衝門と号し、大坂石山本願寺に荷担して、
 家臣栗山とともに籠城し、主君の仇を報はんと欲す。

 静謐の後、勝親、僧と成り、法号を善悦と名乗り、
 この寺を創す。その後、天和二年六月十九日寂す。
 年百三歳。今、浄土真宗として、京師輿正寺門従に属す。

とあるようです。いずれにしても池田恒興との関係は
一切書かれておらず、さっきの看板はなんや?
という感じですね。勝頼と関係がある京の寺院で
囲われていたすれば、ありえることだろうなぁと思います。

ということで、逃げた記憶はおそらくないでしょう。
京で育ったのか・・・せっかく戸田氏鉄に仕官したのに、
下野した事情がちょっとよく読めないですね。
何かを恥じた・・ということっぽいですが。

摂津名所図会の石山合戦に加担して・・というのは、
年代的にもありえないと思いますね。

そして、脇には武田勝達墓。

P1230009

こちらも碑文を読んでみると・・・・

 先考諱勝達武田氏小字晴千代祖父諱勝元君之
 長子也享和壬戌年生文政乙酉年亦嗣為善念寺
 主天保丙申年譲寺其弟得聞分居業醫文久二年
 壬戌夏四月七日卒年六十有一法諡曰法照院正
 榮娶下司氏生五男四女列其名○左而欲識余家
 歴世来由之概畧可観高祖勝親君之墓誌也

とあり、1783年~1862年の人物。
どうやら勝親の墓誌等をまとめた人物のようです。
いろいろ史料がありそうですね・・・

武田花菱の入った鬼瓦。これが使われていた
寺院が昔はあったのでしょうね・・・
尼崎も空襲があったので、やられたのかも?

P1230011

うーん、いろいろともっと知りたくなりますね。
今度はちゃんと準備して伺いたいですね。

■昌幸の最期の地・・九度山

続いては、紀州九度山。言わずと知れた
真田昌幸・信繁父子が関ヶ原の西軍敗戦で蟄居した地。

どうも幸村幸村と言われがちではありますが、
信玄の傍で育ち、稀代の謀将と言われた
父・昌幸の印象がどうしても強いんです、九度山。

降り立った駅傍のトイレ。すでに六連銭。

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マンホールには、九度山の特産品である富有柿。

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このプランターもよく見ました。
上田や松代ばりに六連銭祭りになってます(笑)

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兵雌伏の里・・・ま、そうだよなぁ。
大坂の陣があったからいいものの、なかったら
活躍の場はなく、雌伏しっぱなしだったわけで(汗)

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閉まってたんで、どんなお店か不明ですが、
思いっきり六連銭を掲げています。
むしろ、真田商店と銘打ってほしいレベル(笑)

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この櫓っぽい城郭風建築も見たかったんだ♪
あれが真田庵ですよー!!
正しくは「善名称院」と申します。

P1230070

門にも・・・

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真田の六連銭がいっぱいーじゃ!

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真田の六連銭と皇室の菊花紋。
これ、善名称院を開いた大安上人が皇室からも
尊崇を集め菊花紋の使用を許されたからだとか。

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絵馬に、同じ真田姓の方がお願い事をされてたり、
逆に「これからもいつまでも真田家に幸がありますように」
というお願い事があったり。愛されてるなぁ、真田。

再び、真田庵。入母屋の重なりっぷりが
独特ですよね。おもしろい。

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瓦はすべて菊花紋。こんなにモリモリ使えるの、
すごいですね・・・贅沢。

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どうもこちらが正門だったようです。

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こちらも左手に真田家、右手に天皇家。

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もちろん、昌幸・信繁がいた頃の建物などは
何もないわけだけど、蟄居とはいえ、もっと広大で
殿様待遇だったそうなんですよ。

が、大坂の陣後は徳川の睨みが厳しく
屋敷もみな取り壊し・・・その割りに門などに
真田六連銭があるあたり、やはり真田のゆかりの地
という意識が地元の方にもあったんでしょうか。

真田地主大権現。徳川に負けずに真田も
大権現になっちゃいましたか(笑)

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そして脇には、真田昌幸墓。南無南無・・・
どのようなことを考えて九度山で過ごしたのかな。
どのような話を息子の信繁としてたのかな。

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これは、「真田昌幸公墓」という碑が
見えなくなっているのかなぁ・・・

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奥には、真田昌幸公三百年忌・四百年忌の碑。
亡くなったのは1611年ですから、
1911年、2011年にできたんですね。
さすがに百回忌・二百回忌碑は、建てられんかな・・

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商店のノボリなどでは、幸村幸村でしたが
肝心の真田庵は思った以上に昌幸ゆかりのものが
多くって、個人的には来た甲斐があるなぁ・・と。

あ、「幸村」の碑もありましたよ(笑)
やっぱ、信繁の名前はないのね。

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幸村のエピソードがらみで・・・雷封じの井。
真田屋敷に落ちた雷を幸村がとりおさえ、
井戸に封じたとか・・もはや伝説の域(笑)

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さて、ちょっと反対から真田庵。
二つ並んだ入母屋の上にもひとつ入母屋を
どーんと乗っけたような感じに見えるね。

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真田庵では、ここのご住職と少しお話。
話好きな方で、暦にも通じれおられる様子。

で、わたしは五黄土星、今年は上振れも
下振れもする波乱の年。いろいろパワフルに
揺れ動く年だけに、勝って兜の緒を締めるような、
慎重さと謙虚さが大事なようです。

これだけ真田ブームだからさぞかし・・と思ったら
おひとりで30年、どこの援助もなく托鉢や
真田グッズ販売ででこの地を守っておられるそう。

冬の陣夏の陣400年を控え、真田庵本堂で
写経をできるようにしたり、真田屋敷跡の記念碑、
そして幸村400回忌の記念コンサートなどを
考えておられるようで、相当アグレッシブなお方。

今年の春には、上田にも行かれるそう。
お祭りのときでしょうかねぇ?

ただ、真田ブームも困ったものらしくて、
講談やゲームの真田幸村ばかりを知ってて、
ホントの歴史を知らないお客さんの相手もしんどいとか。

そりゃ・・中には九度山で幸村が生まれたと思ってる
人にいちいち最初から説明したたんじゃねぇ・・・

そして、近くの幸村庵でおそばを。
やっぱりこういうとこは、「幸村」庵なのね(笑)

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甲冑がドーン。カッコええなぁ・・赤備え。

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おお、珍しく「信繁」って書いてあるじゃないの。
と思ったら・・・日ノ本一の兵って家康が言ったんだっけ?
島津忠恒だよなぁ・・ウソ言っちゃいけませんぜ。

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座布団も六連銭。畏れ多くて、
座れない・・という真田ファンもいそうだな。

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おそばは、またもや鴨南蛮。
わざわざ信州でそば打ちを修行されてきたようで
本場の信州そばをいただけます。美味しい。

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■清盛の足跡を追う・・大輪田泊&六波羅邸跡

・大輪田泊

大河ドラマで俄然興味が出てきたことと
もうすぐ閉まっちゃうので、せっかく関西にいる間に
行っておかないとね・・と清盛の足跡にも。

まずはドラマ館。初期の頃から入道清盛まで。
すでにもう懐かしくなってきてるよね・・・

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名前のおかげで、チケットご進呈。
ほほほほーっ。

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写真は一切撮影できなかったけど、
大輪田泊や福原京の推定CGとか楽しかったし、
ドラマの小道具や衣装があったのもいい。

だけど、清盛の衣冠束帯や保元平治で闘った
清盛×義朝の鎧とかほしかったなぁ。

そして、場所を移して歴史館。

P1220973

発掘調査の様子とかあったんですが、
ちょっと物足りなすぎ・・・うーん、残念。
が、六甲の八幡神社が岩清水八幡を
清盛が勧進したということで、ちょっと興味。

こうして、現代の松山ケンイチさんを拝見すると
やっぱり若いんだなぁと思うよね。
あの清盛を見たあとだったら特にね・・・

P1220976

歴史館から程ないところにある清盛塚。
墓標ではないそうだけど、供養塔みたいなものか。

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ただ、長く清盛の墓と伝えられてたようで
ここにも平相国公御廟前、とありますね。

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南無南無・・・清盛さん1年間お疲れさまでした。
少しでも清盛さんに関心を持つ方が増えればいいですね。

清盛像。平家物語で描かれる清盛像とは違い、
かなり穏やかな印象を受けますよね。

P1220983

気になったので、六甲八幡神社にも。
大学最寄だったのに、ほとんど行かなかったんです。
いや、知らない興味ないってコワいもんですね。

P1220996

・六波羅

そして、京・六波羅へも。五条大橋を渡って。
いつ見ても、この弁慶微妙・・・(笑)

P1230216

六波羅・・には六波羅蜜寺。
そりゃ、これを拝見するためでしょうよ。
教科書にも出てくる平清盛坐像。

P1230218

父上、帰りましょう・・・平安京に、六波羅に・・
ついこの像を見たときにそんな宗盛の台詞を想起。

大河もあくまでドラマなんだけど、しげしげと見ると
ものすごい王者の余裕のような、平家絶頂期の清盛らしい
姿を感じましたね。何度も見ちゃったなぁ。

その他では、運慶坐像 · 湛慶坐像も秀逸。
なんと言ってもこの表情の豊かさ。
ものすごいリアリティがあって、惹きつけられます。

本殿は1363年創建。極彩色は開創1,000年を記念して
1969年解体修された時に再び彩られたもの。

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しかしもう40年は経ってるわけで、
そろそろメンテしないといけませんかね・・・

このあたり、いろいろと地名も清盛の時代を
髣髴とさせるものがあり、やはり大河を見た後だと
いろいろと感慨深いものがありますね。

途中の武田菱にビビビッと反応しながら(笑)
大阪・高槻まで戻って、少し飲んでました・・・

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ニッカショットバー。3回目かな。
お、このノベルティほしい・・・(笑)

P1230234

わぁ、小樽のリタさんのマスターも
来られてたんだぁ。すごいや・・
ここでお名前を拝見するとは!

P1230232

原酒20年を頂きましたが、樽番からして
ド新樽ではないみたい。以前原酒10年がこの辺の
樽番だった気がします。穏やかな新樽。

P1230235

新年から行きたいところをバッチリ巡れて、
満足満足♪

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明石城巽櫓と石垣を堪能しつくす!

えーっと、もうウイスキー→城→ウイスキー→城…
とジャンルがワンパターン化していて、
申し訳ないのですが、まだまだネタが豊富に
在庫されてますので、在庫消化いっきまーす☆

向かったのは、明石城。なんでも現存櫓に
月によっては入ることができると聞いて、
行きたーい!と思っていたのですよ。

関西にはよく帰ってるほうですし、
お城も行っているほうでしたが、ちっとも知らず。
夕里さん(@umdry)には感謝です。

そして、いろいろ石垣の勉強もしたので、
二の丸・東曲輪・北の丸へも。

明石駅を降り立ってすぐの明石城中濠。
なんとなく虹が見えると、いい気分になりますね。

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三の丸石垣。大坂夏の陣後の1619年から
石垣の普請が行われていますが、打込接による石垣。

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このあたりは、少し丸みのある大きな石が
多いような気がしますね。

P1190564

大手枡形。たまたまなんだろうけど、
いつも菊花展をやっているイメージが(笑)

P1190565

この辺は、やたらとキレイでうまい具合に
打込接になってますが、修繕されてそうですよね。

P1190568

出ました、坤櫓。あの紅いワンポイントが
わたしの好きなところ。

P1190570

稲荷曲輪下から本丸を目指してゆきます。
往時は居屋敷曲輪があり、手前まで内濠でぐるっと
囲まれていたようです。すっかり埋まってますが。

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坤櫓の櫓台。こうして眺めると、
明石城の高石垣も侮れんな・・と思わせられます。

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天守台。加工度は低く野面積みに近い印象。
明石城は一度に普請されているのに、
ここでも奥に行くほど、加工度が低い法則。

P1190574

そして、明石城はねこが多いのよね・・・
早速本丸に上がった途端、ねこと遭遇。

ねこAがあらわれた!
ねこBがあらわれた!
ねこCがあらわれた!

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マンホールも明石城。
が、やはり坤櫓のほうが目立つのか、
巽櫓はなし・・・・orz

P1190578

ホントはねー、坤櫓のほうに入りたいんだけど、
残念ながら、今月(2012年10月)は無理なのよ。
そーなのよ(泣)

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この坤櫓の唐破風の真上に、千鳥破風が
載っている形式は、珍しいと思います。

今回櫓に潜入できるのは、巽櫓のほう。
こちらの櫓台もかなりの高石垣・・・

P1190582

坤櫓は、入母屋破風の格子が朱塗りだけど、
巽櫓のほうは、六葉が朱塗り。

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これ、どういう意図なんでしょうね。

屋根目地漆喰、風雨の晒されにくい屋根下は
キレイになっていますが、途中から黒ずんできてます。
これは・・しょうがないのだろうなぁ。

P1190588

巽櫓に入るには、少し時間が早いので、
先に二の丸・東曲輪を見てきます。

二の丸につながる通路の石垣。
やはり、キレイに積み直されている感じ。

P1190590

二の丸石垣。なかなかの高さを誇ってます。

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二の丸と東曲輪をジグザグに仕切る石垣…
なんですが、派手に崩れてます。

P1190593

残っている箇所もありますが・・・

P1190594

崩れっぱなしのように見受けられる箇所も。

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かなり見た目にもわかるくらい、
ハッキリとコンクリートで固めてしまってます。

P1190596

これ、1995年の阪神淡路大震災で
相当なダメージを受けたことによるもの。

坤・巽両櫓台もダメージがあり、限られた予算で
復興しなければという点を考えると
理解できる点もある反面、もう少しやり方は
なかったのかなぁ・・とも。残念。

さて、二の丸の北側、桜濠に面する石垣。
桜濠がヘンなカタチをしているので、
真下が、帯曲輪的な感じになってます・・・

P1190604

東曲輪から北の丸に出る枡形の櫓台。

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枡形になってますが、いわゆる高麗門+櫓門の
形式かどうかはわかりませんが、
それよりもやっぱり石が円いことに注目。
福岡城二の丸石垣の円さとの共通性を感じました。

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東帯曲輪と東曲輪の結節点付近。
ここも石が円いなー・・なんですが、
コンクリ詰め詰め・・orz

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左手の石なんて、表面に割った平面を持ってこず、
球面をそのまま出してるしね・・・

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全部が全部コンクリ注入というわけでもないようで、
崩れた分は崩れっぱなしというトコも。
ひょっとすると、この崩れは阪神大震災のときでは
ないのかもしれないですけどね。

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しかし、円い・・(しつこい)

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おそらく、海に近い花崗岩を取ってきたのでしょうね。

東側からは比較的本丸までの距離が短いため、
枡形が二重に配されて、防御されてます。

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箱壕は空堀ですが、鬱蒼としすぎて
よくわかりません・・・

P1190636

一旦、中濠から外に出て千石濠、薬研濠から
北の丸に続く石垣。このあたりはそう高くはなく、
また反りもなくて、直線的。

P1190627

色の違いから、かなり積み直されている、
という気がしますね。

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お濠にはなぜか亀さんの大群・・・(笑)

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石に登りたい・・

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何とか登れました☆

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さて、巽櫓がそろそろ開く時間・・・
二の丸と本丸をつなぐ石垣の上に城ねこ。
のっしのっし・・・

P1190646

がおー!

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きりりっ!なんだかタテガミ忘れてきたんじゃない?
というくらいライオンっぽいねこでした(笑)

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巽櫓そばのわかりやすい方角の解説。
手書きなのがいいね!

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播州明石図。往時の縄張りがくっきり。

P1190652

ただ、建物の配置や枡形形状などは
こちらがわかりやすい。

P1190692

何気によくまとまっていて、明石城の基礎が
パッとわかりやすいです。

P1190691


いよいよ、櫓に入りますよ!
でも、2階3階は入れぬのかーっorz

P1190654

1881年、神戸市の相生小学校の建築資材として
艮櫓の解体されると、旧藩士らが城内の現状維持を求め、
請願を出したそうな。

一時御料書に編入された際に、乾櫓が解体されたのは
口惜しい限りだが、旧藩士の努力があって、
2基の櫓が今に伝わったんですね・・ありがたや。

この図を見る限り、艮櫓・乾櫓ともに現存する
坤櫓・巽櫓と相似形になっているようですね。
そして、最上層の入母屋屋根の向きが互い違いに
なっているのも、なんだか美意識を感じます。

P1190655

今では、坤櫓と巽櫓は土塀でつながってますが、
ほんの最近まで、失われていたのを復元したんですね。

P1190656

そして、何がすごいって巽櫓台石垣の修理。
建物をなるべく解体せず、一層部分の土塀漆喰を
剥がしてH鋼をぶっ刺し・・・

P1190659

見るだけで痛々しいが・・・

P1190660

で、まさかの平行移動!えええっ!
そして、櫓を退かせて阪神大震災で傷んだ
石垣の修理を行ったというのです。なんと!

P1190661

これ、曳家(ひきや)工法という建物移動法。
城郭建築の補修に使われるのは極めて異例とか。

P1190663

経路図を見るとけっこう大きく移動してるんですね。

P1190664

さ、櫓内を堪能します。やはり古い材の
香りですね。これがなんとも言えん・・・

P1190668

これは、往時にはなかった補強材かな。
ないといけないのだろうか・・・

P1190669

やはり、現存櫓は節がありますよね。
櫓の建築に節のあるなしは、気にされなかったそう。

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巽櫓から坤櫓を見る。

P1190672

床板は、ベニヤ板で保護されている様子。

P1190673

が、太い梁はしっかり楽しめますから。

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ところどころ新しい材が見受けられますが…

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旧材はちゃんと取ってあるようです。
どうするつもりなんでしょ。

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2階・・入りたいぃぃ・・なんであかんねん。

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どうでもいいけど、小笠原忠真さん人相悪すぎ(笑)

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櫓を出てみると、間近に屋根目地漆喰。
白漆喰ってやっぱりメンテが大変・・・

P1190689

さて・・本丸から天守台に向かいます。
本丸上から見る石垣は、切込接の比較的大き目の石材。

P1190696

角の算木積みもハッキリ。

P1190698

天守台からは、坤櫓がよく見えます☆

P1190701

さて、稲荷曲輪から石垣をチェック。

P1190707

どうも上段と突き出した下段では、
石積が違って見えるよね・・・加工度的には
打込接という感じだけど。下段のほうが、
円く見えるからかなぁ。

P1190709

天守台再び。この面も極めて近世的に
見える石垣。南面の野面っぽいのは何なんだ。

P1190711

キレイに櫓台が残ってるんだから、
稲荷曲輪の櫓も復元できればいいんだけど・・・
資料次第かな。

P1190715

このあたりは、谷積っぽい気も。

P1190717

再び坤櫓台。こうして見ると、
積み直した部分がハッキリ見て取れますね。

P1190718

南帯曲輪を伝って、巽櫓下。
ここも先ほどあった曳家工法で櫓を退かせ
石垣の修復をしてますが、その部分が
石垣の色でわかりますよね。

P1190719

積み直しにしても、このスッとした
たたずまいはすばらしいですね。カッコイイ。
もいっちょ、ずーん!

P1190721

本丸二の丸通路石垣下。ここいらになると
一気に野面感がアップします。なんで?

P1190726

南帯曲輪から二の丸に上がる通路。

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枡形っぽいが、櫓で囲んで・・という、
セオリー通りの形式ではない。
あくまで石垣で作った通路が曲がってるだけ。

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南帯曲輪から東帯曲輪にかけて。
対角線上に櫓を配置していたようですね。
左手前と右奥。

P1190730

何でもかんでも桝形虎口にすりゃいい、
ってものでもないようです。本丸に向かう方向と
違うから通路が厳重でないのかも。

P1190731

ということで、一周完了。
じゃぁね、明石城。みっちり回れて大満足。

P1190737

おまけ・・・大阪城天守閣で「秀吉の城」という
展覧会があったので、そちらにも立ち寄り。

P1190741

豊臣姫路城の模型なんかは、非常に興味深いんですが、
個人的にはちょっと欲求不満だったですかねぇ。
あともちろん、豊臣大阪城天守は舐めるように
みていましたけどね(笑)

鋭意製作中の豊臣大坂城天守があるということで、
いそいそと・・・

P1190740

最上層だけがお目見えー!
職人さんがお持ちになってるのは、
三浦研究室の復元図でしょうか?

P1190744

残念ながら、完成した様子は見ていないのですが、
ゆうり姫が写真をアップしてくださってます☆
いいなぁ・・・うらやましす。

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(ゆうりさん、お写真ありがとうございます)

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Whisky Festival Tokyo 2012(セミナー編)

竹鶴ノートを読み解く・・という魅力的なタイトル。

竹鶴ノートが書かれたのは1920年ということは、
今から90年以上にも前、現代語とは少し違うわけで。
貴重な現代語訳をした竹鶴ノートを頂きました。

Taketsuru_note

この史料の貴重さは、単にニッカファン、
ジャパニーズウイスキーファンにとってだけでなく、
この時代のスコッチウイスキー製造の実情を
知ることができる、唯一といっていいほどの史料。

英文文献でもあまりないそうで、それを
日本語で読めるというありがたさ。感無量です。
ただ、写真がないんで写真を見ながら・・という項目は
なんのこっちゃいな?という感じですが(汗)

土屋さんがおっしゃるに、現代から見て、
こんなことがすでにわかっているのかという驚き、
そして逆に、こんなこともわかっていないのか?
という驚きがある・・とのこと。

わたしも少し斜め読みして気になったところを・・・

(1)蒸留所の位置

モルトウイスキー蒸留所は、海岸に面している一方、
グレーンウイスキーは、海岸近いといいものができず
だから蒸留所は、内陸にとあります。

竹鶴翁は、その理由はわからないとおっしゃってますが、
なんとなく・・・海上輸送の便から見て海岸近くを
選んでいて、ピーティさや塩気のあるモルトが
当時はより多かったんじゃないかな、という気がします。

グレーンウイスキーは、ある種割り材ですから、
これに塩気が付いちゃったら、飲みやすくはならないですから
運送の都合は悪くても内陸に・・・なんでしょうね。

(2)日本における製麦施設建築の記述

日本で製麦施設をつくる際に、一気にデカイ施設を
どーんとつくるんじゃなく、成功できるか不透明なため、
小規模につくっていきましょう、という提案。

これはこれでいいんですが、竹鶴翁は木造三階建てで
1階は発芽床、2階に大麦を水に浸す貯水池、
2階と3階を大麦貯蔵室に・・とのこと。

結局、日本産の麦で蒸留することはほとんどない
現在ですが、木造建築とコンクリ建築で
何か違いは出てくるのだろうか・・と思っちゃいました。

(3)原料

当初、竹鶴翁はスコットランドで麦の栽培も
されてると思っていたそうですが、実はほとんど
カナダ産ということに驚かれています。
(アイルランドからも輸入)

そして、カナダ産の大麦は日本産に似ている?
ということで日本産も使えるんじゃないか、
ということも書かれておりますが・・・

そもそも、竹鶴ノートに麦芽の種類についての
記述がないんですよね。酒造向けには二条大麦、
麦茶や食用には六条大麦なんですけども。

これ、竹鶴翁が学んだネトルトン博士の
「ウイスキー並びに酒精製造法」にも記載がなく、
当時は、一般的に区別してなかったようなんです。

竹鶴ノートに書かれてある、スコットランド産大麦と
カナダ産大麦の乾燥時の重さの変化の違いと、
竹鶴翁自身が、麦の種類をご存じなかったとすると…

土屋さんは、このカナダ産大麦はグレーンの糖化に
つかう六条大麦なんじゃないか?と推測。
なるほど・・そりゃ圧倒的に量は多いわな。

それに、麦芽の挽き分けについての記述がない
というのも、ちょっと驚くべきことですね。

今では、ハスク:グリッツ:フラワーを2:7:1にする
というのは基本原則ですが、当時はあったのか?
というと、挽き分けの機械は導入されているのは、
わかっているのですが、こちらもまた、
「ウイスキー並びに酒精製造法」に記載がない、と。

竹鶴翁自身、粉砕に関しては書くことはなく、
粉砕方法の如何によって、ウイスキーの品質に
影響はないと言い切っちゃってるあたり、
ネトルトン博士の影響だったのでしょうかね?

挽き分けについて、このときはともかく、
後年、どう考えてられたのか気になります。

(4)日本酒製造との比較

竹鶴酒造の出であって、大阪高等工業学校で
醸造学を学んだ竹鶴翁らしい日本酒造りとの比較が
あちらこちらに見受けられるというのも、
興味深いところですね。

ウイスキーの品質の根幹を成すものとして、
製麦を挙げてられますが、地方の酒造家が
灘五郷の製麹法をそのまま真似てもうまくいかないように、
スコッチの方法をそのまま真似ても、日本では
うまくいかないはずだ・・というくだり。

ここ「灘五郷」を書いちゃうんだ・・とどうでも
いいところでクスッしたりしちゃって(笑)

(5)乾燥

実習されたヘーゼルバーン蒸留所では、
コークスの代わりにウェールズ産の「無煙石炭」と
ピートを合わせて使っているとのこと。

この無煙石炭、麦芽に一層特別な芳香を加味する…
ということですが、実際何なんでしょう・・・

いずれにしても、日本にはコークスしかないこともあり
(実際は石狩平野でピート的なものが採れますが)
発芽後天日干しにしたあとで、少し乾燥炉で乾燥させる
というアイデアをすでにこの段階で出されています。

天日干しじゃなく、乾燥炉で乾燥することが
たとえピートを使わないにしても、ウイスキー的な
芳香には欠かせないということだそう。

(6)糖化

糖化槽が鉄製ということに、ちょっとびっくり。
鉄って錆びちゃうんじゃね?と素人は思うのですが・・・

あと糖化残渣ですが、(当時)牧畜がそれほど盛んでない
日本でどうするか?を竹鶴翁はすでに考えていました。
製麹の原料にどうか・・とのこと。

実験しなくちゃわからないってもありますから、
やってみてダメだったのかな・・・??

もうひとつは、糖化工程と労働問題をリンクして
考えている点。糖化の頻度と回数が、職工の労働時間を
どう定めるかと関連し、同じように日本では
できないだろうという指摘がありますが、
こういうところで出てくるんですね・・・・

(7)蒸留

蒸留方法やその初留・再留の度数については、
現代知られているのとほぼ同じですが、
ポットスチルの形状について、英国税法の
定めるところでほぼ同じ型になっているという指摘。

ウイスキーの製造上や品質上の理由だけでなく
ある種の制約条件が、ポットスチルのかたちを
つくっているというのは、おもしろい指摘です。

いわゆるネックが上向き下向きという話や
スッとしたストレートタイプやランタン型、
それにバルジ型という形状については
特に指摘はないものの、再留時に出てくる
ヘッド・ハート・テールに相当する記述はあり。

ハートは水を加えると、白濁するけれど
この白濁するものこそ、ウイスキーの芳香そのもの、
と喝破しておられたようですね。

・・・ということで、中途半端ですが
ノート1はここまで。かなり専門的な記述も多いのですが
素人ながらに見ていても、おもしろい内容。

ある意味、レプリカよりも読み甲斐があるかも
しれませんね。第二回も期待したいですねー!

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Whisky Festival Tokyo 2012(試飲編)

さて、まだまだ2012年の残り記事が、
たんまり残っておりますので、しっかり書いて
行きますよ・・・書かないと次進めないしね・・・

ということで、12/2のウイスキーフェス。
この日ちょっと体調が悪いかな・・と思ってたんですが
なんとか鼻はちゃんと利いてくれててよかったです。

Whiskyfestko

が・・・翌日から声が出ないし、出始めても
かすれ声だし、咳は泊まらないし・・と
久方ぶりに数週間も風邪を患うハメになったんですが・・・

土屋さんの開会宣言でスタート☆

P1210896

あれこれ飲んできた中でも、美味しかったのが・・・
まずは、土屋さんセレクトハイランドパークの
シェリー抜きヴァッティング。

P1210902

以前、アサヒショップに売っていたカスクを
アサヒビールがハイランドパークから手を引いて、
スコ文研が買い取ったんですかね。

シェリーカスクがあまりにも個性が強すぎて、
シェリーに引っ張られすぎなので除外。
カスクをそのまま頂きたかった気もしますが・・・

そして、WHISKY SHOP W限定の
グレーン!これがまた美味い!

P1210905

蒸留所で売ってる知多グレーンよりも、
味わいが複雑で穀物の甘みがとても優しく、
蜂蜜やメイプルたっぷりのラスクのような甘み。

絶対ね、ハイボールも美味しいと思うんだよね。
今はものっそい寒いので、やる気にならないけど、
暖かくなったら、試してみたいものです。

信濃屋の軽井沢1981・31年。バーボンバレルですが、
実に味わいにボディ感があり、とてもバーボンバレルとは
思えない重厚感がありました・・(試飲少なかったけど)

P1210895

ただ、27,000円はとてもじゃないが手が出ない。
よほど試飲してみて惚れ込んだものじゃないと
今後は軽井沢は手を出しにくいですね・・・

マルス信州蒸留所からは、2012年のニューポットのほか、
ポケット瓶が新たにお目見え!

P1210904

39度とちょっと低いけど、長野県内のKIOSK
だとかで手軽に買えるウイスキーになりそう。
これはこれで、楽しみですね。

そして、余市は始めて賞を取った時の
シングルカスク余市10年は、安定の美味さです。

P1210908

Cask of Kagoshimaは持ってるのでパス。

P1210909

Whisky Historyでも出ていたシェリー樽の
トマーチン30年。こゆとことでないと
飲むことないからね。美味しいけど買えない。

Toimatin

P1210911

あとは、イチローさんとこのカードシリーズ。
ちゃんとノート残してないのでアレですが、
ハズレはなかったですね。

P1210921

何がビックリしたかって、マクミラが来てたこと!

P1210903

さらに後にできたボックス蒸留所も含めて、
日本での販売を検討しているようで、うれしい!
スウェーデンウイスキーって、すっきりしたなかにも
スパイシーさがあって、けっこう好きなんです。

ボックス蒸留所は、樽オーナーになりませんか?
というのもやってて、なかなか意欲的。
39.25ℓの小さな樽で熟成しているそうですね。

改めて、ボックス蒸留所のハンガリアンオーク熟成樽を
じっくり頂きたいですね。新樽でかなり好みな予感。

盛況でしたが、あまり混みこみにならずに
ちょうどいい具合だった気がしました。

P1210932

このあとは、土屋守さんのセミナー、
「竹鶴ノートを読み解く」!

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江戸城を古写真で追う・・

さて・・翻って、昨年11月中の話。
(もう時系列むちゃくちゃw)

古写真で巡る江戸城・・を城郭研究家・サイガさん
がガイドしてられたんですけど、
9月末でちょうど台湾にいた頃で参加できず。
そのリベンジがあるということで、参加しました。

古写真はよく見てはいるのですが、やはり
現地で見ながらというと、また違ってくるということと、
実は濠の一部が埋められていたという事実を
初めて知ることができたのも大きかったですね。

とはいえ、本に記載されている古写真を
丸々blogに上げるのは如何なものか・・ということで
個人的に気になった点を中心に、
軽く足取りを追う程度に止めたいと思います。

集合は、有楽町の東京国際フォーラム。
太田道灌さんがいらっしゃるんですな・・・
知らんかったよ。

P1200356

桜田門から。やっぱり修理中ですね。

P1200357

皇居だからってのも、もちろん働いてるのでしょうが、
土塁もこうしてキレイにしてあれば、
実に、美しい城郭パーツですよね。

P1200362

なんだか本格的に解体して修理する感じだな・・・

P1200364

足場モリモリ。

P1200363

P1200367

伏見櫓。たぶん、ここで写真を撮る他の方より、
カメラのレンズを高く向けてるはず・・
だって、橋撮ろうとしてないんだもん(笑)

P1200369

みんな撮ろうとする二重橋って、手前と奥の橋で
「二重」って、思ってる方、やっぱり多いんですよねぃ…

手前の橋は西の丸大手橋(現:正門石橋)、
奥の橋は西の丸下乗橋(現:正門鉄橋)であって、
この西の丸下乗橋が、上下の二重構造に
なっていたため、二重橋と呼ばれたのが発端。

あの鉄橋が「二重橋」なんですよね。

P1200370

往時は・・というとこういう感じ。
これ本丸の売店でイラストを見つけたんですが、
これを見れば、あぁなるほどねってわかりますよね。

P1200394

西の丸大手橋の先にある西の丸大手門。
現存櫓であるようです。

P1200372

若干角度は違いますが、本丸売店内の写真から。
往時は高麗門と櫓門が平行に並んでいて、
典型的な枡形虎口とは違った形式。

P1200393

往時の西の丸大手橋、西の丸下乗橋の様子。
西の丸大手の枡形もわかりますし、
往時の橋の様子、そして今はない西の丸書院前門。

P1200391

坂下門。往来の便をよくするため、
枡形を壊して櫓門の向きを変えたそうだが、
櫓自体は現存。こちらも桜田門同様、修理中。

P1200373

本来は、この写真が撮られた視線に対して
平行にやや左手側に建てられていました。

サイガさんに教えてもらって、おおっ!と
思ったのは、この部分。

P1200375

これ往時の内濠の埋め立て部分で、本来は
さらに奥まで濠が伸びていたんですね。

桔梗門(内桜田門)。実はここから入る郭は、
左右に濠で囲まれた細長い形状をしていた、
ということになりますね。ほぅほぅ。

P1200377

往時の写真。わかるかなー微妙。

P1200392


しかし、この日は雨の強いこと…土砂降りでっせ。
巽櫓(桜田二重櫓)の鬼瓦。再建されているので、
天皇家の菊花紋の瓦に置き換わっています。

P1200379

さて、大手門から二の丸へ。大手櫓門は
一層部分だけ現存なので…ここの部分とかは、
現存なのかもしれませんね。

P1200380

大手三の門跡。この前がちょうど埋め立てられた
内濠が通っていたようですね。

P1200381

同心番所の妻瓦。現存建築のこちらは、
徳川葵が刻まれてますね。

P1200385

でも同心番所、門の内、すなわち
枡形内に番所があっていいモンなんだろうか?

百人番所。中ノ門外にあり、100人の同心が
詰めていたという番所。入母屋破風は銅板張だが、
青海波文様は見えませんな。

P1200386

城メグリストさんに教えてもらって・・・
一番、江戸城の石垣で驚くのがココ。
この花崗岩と安山岩の市松模様。
ちょっとアーティスティックでお気に入り。

P1200388

あと、汐見坂北側のはつり仕事の細かさね・・・

P1200401

石垣としては、南側の家康期の石垣が
好きですけどね。

P1200399

この後、また上梅林門・下梅林門経由で
本丸に戻って、天守台。穴蔵ちゃんと出せやこら!

P1200407

北の丸に渡って、ご飯。食事できるところ、
あるんだね・・知らんかった。
とりあえず、無難にカレー。

P1200412

ハイボールはじめ、しかもニッカ!
江戸城エライ!ということで城攻め中ですが、
一杯やっちゃいました(笑)

P1200411

この後は、北の丸の清水門・田安門を見て、
皇宮警察宿舎1号館の脇からもいちど清水門を。


大きな地図で見る

このあたりも土塁を見ることができるんですね。
これは穴場ですねぇ・・・外側は
もちろん、石垣になっております。

P1200419

ほぼ石垣の上に首都高が乗っかってるのは、
大丈夫なのか・・と思いますが。
さすがに直接荷重は掛かってないようでしたけど。

ということで、見れば見るほどまだまだ
発見がある江戸城ということを
再確認した次第でありました・・・

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2013年初日の出は、和歌山城天守から!

明けましておめでとうございます!
今年もひとつ、よろしくお願いします。
三が日も終わっちまいましたな・・

ということで、2012年の話も満足に終わってない(滝汗)、
というのに、2013年の幕開けの話から。

ここ数年、あまり大晦日~元日に出かけなかったんですが、
和歌山城天守で初日の出が拝める!とのことで、
ひっさしぶりに大晦日の夜から外出。

と考えると、その途上にあるところということで、
聖徳太子建立七大寺として有名な四天王寺へ。
いつ振りか・・・高校生以来かも。

■四天王寺

除夜の鐘を撞く前に、実家でそばを食べずに
出てきたので食べないと・・と天王寺をうろうろ。

意外とどこも閉まっていて、なんでやねーん!
と内心叫んでましたが(爆)、そばよし阿倍野店が
開いていて事なきを得ました。ふぅ。

P1220722

おそばの前に竹鶴12年。2012年の締めウイスキーと
相成りました(笑)ふふふ。

P1220716

グラスがニッカというだけでついつい
テンションが上がる(笑)

鴨ねぎそば。おそばを頂く際には、
かなり鴨率が高いわたし。お出汁も絶品で
思いもかけず、いいおそばに出会えました。

P1220719

で、ほくほくしたところで、四天王寺。
いくらなんでもまだ除夜の鐘撞くのには早いだろう、
と思っていたのですが・・・

P1220726

四天王寺五重塔。長い歴史の中で何度も焼失。
こちらは1959年の再建。RC造りなだけに
50年以上経過していろいろ心配。

P1220732

そして、3箇所除夜の鐘を撞ける場所のうち、
北撞堂をチョイスしたのですが、すでに行列・・なぬっ!

P1220737

しかし、23:30から撞きはじめるのに、
21:00前にはすでに行列とか・・で、
整理券を配り始めるのが23:00。
極寒の中、2時間待ちが死ぬほどきつかった・・

とはいえ、並んでる方々はすでにこんなん。
人のこと言えたモンじゃないが、よー並ぶなぁ。

ジャンプしまくったり、ぶるぶるぶる・・と
小刻みに足踏みしたりしてようやくゲット。41番。

P1220749

で、整理券をゲットして撞くまでのわずかな時間に
コンビニに走ってカップ麺を・・さぶさぶさぶ。
かなりにぎわいも出てきましたね。

P1220746

鐘は下に縄を引くと、どういう仕組みか
ごーんと鳴るタイプでした。
撞くとお札もらえます。よしゃっ。

P1220761

この後、時間つぶしに、安居神社まで。
開いてはないので、柵越しに幸村さんに新年のご挨拶。

P1220767

一瞬で済んでしまうので、今宮戎にも・・
道中でこんなん発見。ネーミングがザ・大阪やなぁ。

P1220771

といっても、今宮戎も一瞬で終了・・・

P1220778

■和歌山城

なんばに場所を移して、マクドでなんとか
時間をつぶし、いよいよ4:10の電車に乗車っ!
ここで、しろうさぎさん(@sirousagi77)と合流。
同じ巳年生まれの年男・年女コンビ☆

なんばから和歌山市まで各停で2時間以上。
あんまり寝てない割には、しろうささんと城談義で
思ったほど時間は感じませんでしたね。

西汀丁交差点の陸橋から。まだ暗くて
ライトアップされた和歌山城天守が映えています☆

P1220780


大きな地図で見る

まだ暗い足元を注意しながら天守へ。
しろうささんもおっしゃってましたが、足場悪い!
なんでこんな舗装しちゃったんだろうね…

P1220793

角度にも依るけど、ホント名古屋城天守を
少し小振りにしたような、いかにも徳川!という天守。

P1220796

元日なので、日の丸掲揚。

P1220797

すでに天守には人だかりが・・こっちは
日が昇る方角ではないんですが、この状態。
随分、明るくなってきました。

P1220799

天守内、東方面はこの有様。押すな押すなの大盛況。
なんでも地元の方は、開門6時の時点からすでに
待ってられたそうで、大阪から行く者には無理な所業。

P1220800

あ、わずかな隙間から見えたーっ!
でも、雲が多くてうーんな感じ。

P1220820

前にいた人が掃けた後、雲から少し
ご来光が強く差して、むしろこの眺めのほうが
よかった気がするほど。らっきー♪

P1220856

城から、城好きさんと見る初日の出。
最高ですねぇ!城熱が上がっている2013年に
ふさわしいシチュエーション!

このあと天守内もザッと見学。和歌山城って、
防御ってあんまり考えられてない縄張りじゃない?
などと、正月早々ド城トーク(笑)

改めて天守。青海波文様に江戸城っぽさ、
徳川天守らしさを感じます。

P1220862

小天守にも。

P1220863

この天守郭があること自体は、かなり頑丈に
つくられているとは思うのですが、
門の配置なんかがどうもね・・・なんででしょ。
関が原以降につくられたからでしょうかねぇ。

個人的に、和歌山という位置的にあまり防衛上の
重要な場所じゃなかったからでは?と思いました。

なんといっても西国の最重要拠点は、大坂。
尼崎城、明石城、姫路城は大坂に到達するまでに
食い止める役目を担いますが、
和歌山から大坂に攻め上がるでしょうかねぇ。

・・・ということで、御三家の居城ではあっても、
軍事的にさほど強固にする必要がなかったのかも??

基本的にコンクリ再建なのですが、この楠門だけ
木造で再建されてるんですね。全部やれよーッ!!

P1220868

出てきてみると、天守の背後の雲が・・・
風呂上がりで天守の背中から湯気が出てるみたい(笑)

P1220876

さて、このあとは和歌山城の石垣を堪能します。
天守郭~本丸御殿のある本丸の石垣は、
非常に珍しい緑泥石片岩という岩石の石垣。

P1220880

時代的には、秀吉の紀州攻めで奇襲を平定して後の
1585年以降、豊臣秀長と城代・桑山重晴時代に
石垣が組まれているようで、もちろん野面積み。

が、この緑泥石片岩という岩石、かなり
割れやすい岩石に見え、表面にも複雑に割れた
面を見て取ることができます。

P1220881

本丸御殿跡。天守郭とこの御殿跡が、
ラクダのこぶのように見えるのですけれど、
天守郭ではなく、こちらのほうが先だそう。

P1220882

この石垣の違いも、天正年間の石垣と
関ヶ原後の慶長年間の石垣の違い・・なのでしょうか。

P1220883

本丸御殿跡だけ特に、苔むし具合がみっちり、
なんですよね・・・

P1220884

こ、この細かい石はほんまもんなんか・・・??

P1220885

天守再び。最上層の入母屋屋根の全体ではなく
一部だけが銅葺というのが、和歌山城天守の特徴。

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天守郭から松の丸に伝う通路。
枡形を形成する石垣にはなっているものの、
角に一基櫓があるだけで櫓門等はなく、
え・・守りこんでええの?という感じ(汗)

P1220888

どう考えても隙がアリアリ・・・

P1220890

石垣自体は、よい野面積み。
緑泥石片岩という性質なのか、
より豪壮に見える感じがしましたよ。

P1220892

松の丸から南の丸、動物園方面。
動物園のある石垣、パンフに載っている
御城内惣御絵図には描かれていない・・・

P1220893

岡口門。現存櫓門。往時は櫓が連なっていたので
ちょっと貧相に見えるが・・切妻屋根なのも
そういった事情もあるんだろうかね。

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あ・・・ウワサのスロープはこれか!
松の丸から岡口門方面に下る所にありました。

P1220895

このあたりの石垣は、徳川頼宣入府後の石垣。
これは打込接くらいの加工度でしょうか。

P1220896

積み方も布積みになっている箇所が結構あり。
しかし、このスロープ、ここだけあっても
しゃーないような・・・

P1220898

こちらの櫓台は、ザ・切込接!

P1220899

いかにも徳川時代という感じの高石垣。
右手は打込接っぽいですから、この切込接布積の
櫓台とは積まれた時代が違うのかも。

P1220901

このカーブの美しさは、石垣の見所☆
やっぱり、この普請には藤堂高虎が絡んで
いるようですね。わかりやすい(笑)

P1220903

和歌山城もいろんな時代の石垣が
見られるんですね・・前回行ったときちゃんと
見てませんでしたね・・・

P1220900

再び岡口門。遺構としては頼宣入府後の櫓門。
豊臣秀長(城代:桑山重晴)の時代は、
こちらが大手門だったようです。

P1220905

岡口門に連なる土塀も現存。

P1220910

しろうささんに狭間が石が囲われている
珍しい様式と教えていただきました。ほほぅ。

P1220908

今では剥がれてますが、本来は石材の上にも
漆喰が塗られていたような気がします。
が・・石積なのは防御力アップ?なのかな。

P1220911

岡口門を表側から。櫓があった櫓台跡の石垣、
このあたりは石が大きいですよね。

P1220912

少し下がると、いい具合に岡口門の奥に
天守が顔を出してくれます☆

P1220914

天守入母屋屋根がコの字型に銅造りに
なっているのがよくわかりますね。

P1220916

岡口門外から見える二の丸石垣。
やはり、二条城石垣のような整った印象を受けます。

P1220918

南の丸、動物園から松の丸石垣を。
松の丸石垣全般が切込接ではなく、このあたりは
本丸同様の野面積み。野面なのに排水口が
あるのはどーしてかなぁ??

P1220919

再び天守。二層目の千鳥破風の位置が
微妙に中心からズレてるのが気になります。

P1220922

南の丸西端の石垣。ここも徳川時代でしょう。
枡形っぽいですが、石垣は低く、
個人的には、平和な感じがいたしますねぇ。

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増設した感じが非常にわかりやすいですね。

P1220926

駐車場入り口の脇にある不明門。
・・よりも高虎流の高石垣のほうが目を見張ります(笑)

P1220928

さらに西のほうに向かい、新裏坂のほうに
向かうと浅野幸長時代の打込接石垣。
この辺は、刻印の宝庫なんだとか。

P1220932

確かにゴロゴロしてる(笑)

P1220931

P1220933

岩質は和泉砂岩。海の近くにもあったのか、
気泡の見られる石もチラホラ。

P1220934

しかし、浅野幸長という外様大名の石垣に
天下普請で見られる刻印があるのが、
どーしても解せないんですが・・・むー。

ココをすぎると、追廻門。石垣に対して、
え?ここに高麗門?という感じはしますが、
藩政時代の現存遺構。そして、ここからが砂の丸。

P1220940

裏鬼門にあたる方角(南西)であることから
朱塗りで鬼門避けをしているそうな。
東大赤門(旧加賀藩上屋敷門)とは意味が違うのね。

P1220943

砂の丸から浅野時代に鶴を飼っていたという
鶴の渓を経て(これ空壕なんじゃ?)、御橋廊下へ。
藩主が二の丸と西の丸を行き来するための橋。

P1220952

江戸時代の図面を基に、2006年再建。
廊下橋は、豊後府内城や福井城、金沢城、
彦根城・・そして、豊臣大坂城の極楽橋もそう。
ですが、斜めに掛かった廊下橋は珍しいです。

が、お正月は閉鎖・・・入られへんorz

P1220950

天守と御橋廊下。よい眺めだー。

P1220958

ということで、朝もはよから和歌山城を
しっかり堪能してきました!よい2013年の幕開け!
今年もまたいろいろお城行くんだろうなぁ。

お付き合いいただいたしろうささんもThanks☆
巳年同士よい年にしましょうね。

おまけ:
ナニコレ珍百景に出てきた「和歌山城の階段を
登るように見える木」。こちらもお正月モードでした(笑)

P1220949

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