« 「日本城検定」開催記念シンポジウム 秀吉の城 第2部 基調講演『豊臣大坂城を凌駕すべく築いた徳川大坂城』 | トップページ | ぶらり、大坂城。 »

「日本城検定」開催記念シンポジウム 秀吉の城 第3部 パネルディスカッション『大坂から見た戦国の城・近世の城 ~土の城から石の城へ~』

パネルディスカッションの最初には、
今年になって国指定史跡に選ばれたという、
烏帽子形城(河内長野市)のご紹介を
中村浩氏・前大阪大谷大学教授から頂きました。

■烏帽子形城とは?

烏帽子形八幡神社境内にある烏帽子形城跡。
大阪府下では、実に70年ぶりに国指定史跡として
指定された城跡なんだそうです。

大阪府の端とはいえ、やもすると開発で
破壊されやすい中世城郭がしっかり残るのは、
珍しい例だと思います。

平安末期から文献に烏帽子形城ではなかろうか?
という城の記述が出始めますが、確実に
「烏帽子形城」として現れるのは、
1524年、畠山氏の抗争の中に出てくるようです。
ちょうど、武田晴信満3歳の頃ですな・・・
(それ基準?笑。)

時代は下って、信長の高野山攻めに当たって、
烏帽子形城に詰めていた信長家臣団が
手柄を上げるなど織田旗下の部将の記述が。

あとで調べてわかったのですが・・・
烏帽子形城を治めた甲斐庄正治は、
楠木正成の弟・正季を家祖にもつ家柄!

キリシタンでもあったみたいだけど、
それ故に、秀吉の禁教令に引っかかって没落。
後に家康に仕えて、旗本として存続。
子孫が、長崎奉行・勘定奉行・江戸南町奉行に
なるなど、なかなか出世をしている。

■城の位置と構造

[ロケーション]
東を天見川、西を石川に挟まれた丘陵部が
烏帽子形城址。天然の要害ですね。


大きな地図で見る

丘陵のすぐ下には、高野街道(国道371号線)が
南北に走り、その北には和泉街道が東西に。
交通の要衝でもありました。城はこういうところに
つくられるものなんですねぇ。

[構造上のポイント]
・瓦葺建築物
城内で興味深い点は、建物の礎石跡が確認でき、
さらに土瓦が発見されています。

中世山城で瓦葺の屋根が使われたと思われる
建物の存在は、非常に珍しいんだそうで、
播磨や備前の例はあるが、河内ではここだけ。

土塁の補強材として、先に石垣が導入される例は
意外とあるのだけど、瓦葺の建物がある、
というが珍しいそう。

・堀障子
さらに、興味深い点は、大坂城についで、
堀内障壁いわゆる堀障子が使われているところ。

秀吉が後北条氏を下す前の1584年、紀州攻めに際し
修築されていることがわかっていて、
このときにつくられたのでは?とのこと。
今回の裏テーマは、堀障子?(笑)

…ということで、中世山城らしいわかりやすい
構造が確認できる、山城初心者にはうってつけの城。

歴史的には無関係だけど、位置的には
九度山に行く際にちょっと寄ってみてもいいかな?

■烏帽子形城から見える秀吉の城

さて、この烏帽子形城から秀吉の城を
俯瞰していく・・というパネルディスカッションに。

基本的に安土城以前は、城郭建築としては、
瓦葺の建物はないものなのだけど・・・

土造りの城で瓦葺きの痕跡があるという特殊性を
城の機能と結びついて理解できると、
さらに、理解が深まると加藤氏。

これに対し、渡辺氏から城郭建築では、
瓦葺は少なかったものの、寺社建築では瓦葺きは
当然あったわけで、戦時の砦としてだけではなく、
長期的な居住性を想定した城・・なのではないか、と。

しかし想定されるのは、非常に細長い長屋のような
建物だそうで、人が住むには厳しい寸法…
ということで用途は謎というのが、中村氏。

加藤氏ご自身は、曲輪の中央部にあるため、
近世城郭のような多聞櫓の前身・・・とも言えず、
濡れては困る、兵糧や武器に倉庫ではないか、
と推察されていました。

いずれにしても、中井氏は石垣よりも瓦が
先に導入される城というのが珍しい、
と言えるのではないか、と問題提起されます。

石垣が導入された例は、大阪府下では、
高槻市にある三好長慶の芥川山城。
そして、四条畷の飯盛山城。こちらもかなり
石垣がしっかり残っているそうですね。

こうして戦国時代に徐々に採用されていく石垣と
豊臣大坂城の石垣との差はどこにあるのでしょう?

■石垣、戦国期と豊臣大坂城の違い

石材の質や加工技術等々は、ほぼこの間には
進歩はないものの、大きな差となって現れてくるのは、
戦国時代の石垣が垂直に積まれているのに対し、
豊臣大坂城の石垣は、後年の総石垣の城と同じく、
角度がついた石垣になっているということ。

言われてみればなるほど、という感じなのですが、
垂直に積んだ状態では、上からの荷重に弱く
その上に建物を建てるのは難しい。

戦国期の石垣は、あくまで土塁の土留め、
つまりは、土塁でできた曲輪をしっかり支えること、
であったというわけですね。だから垂直。
この石垣が16世紀初頭、徐々に浸透してきます。

■豊臣大坂城の多種多様な石質の石垣

豊臣期の石垣は、徳川大坂城天守台西隅角から
45m南、7.4m地下で発見された石垣が有名。
丸く井戸のように囲ってるあり、1959年に発見。

幅が20cm~50cmくらいの小振りの肥前石が
野面積みで積まれており、夏の陣の焼けた痕である
煤が付いたりしているのだそう。

建物を上に建てる前提で角度が付くのは、
安土城くらいから・・ということは
石垣の面でも、近世の幕開けの片鱗が
安土城にあったわけですね。

ここ以外にも3箇所ほどで、発掘されていて、
いずれも野面積で積み上げた石垣。

徳川時代との比較で言うと・・・
わかりやすい石垣の反りの美しさのほか、
さまざまな石材で石垣が組まれていた、
と中井氏がご指摘されました。

大手前貯水池の南端に1984年発見された
高さ6mにもおよぶ東隅櫓下石垣は、
花崗岩から砂岩、古代の寺院の柱礎の石、
播州の龍山石を使った石棺で使われるような石
も使われているのだとか・・・・

いずれにしても、花崗岩一色の整然とした
徳川大坂城の石垣とは随分違った外観だったそうで、
豊臣大坂城は、平城の先駆けでもあったわけで、
石の調達には苦労したことでしょう。

遠くからは持ってこれず、さまざまな石を転用して、
石垣を組んだようなのです。

平地にあれだけの城を築こうと思えば、
秀吉の力を持ってしても、まだ遠くから石を
運ぶことはできなかった、とも言えるでしょうな。

■規格加工が進んだ徳川大坂城石垣

加藤氏によれば、徳川大坂城は石切り場で加工して
ある程度標準化して調達するという、
工業化された石垣構築ということにあるみたい。

野面積を経た手法の変化が、打込接や切込接の
ピチッとした石垣を可能にしたんですね。
これは、見た目が整然とするということだけでなく、
石垣構築のスピードアップにも寄与したようで。

徳川大坂城のなかでも、第1期工事(1620年)、
第2期工事(1624年)、第3期工事(1628年)に
分かれるのですが、この8年の間の工事で
随分と石垣を積む技術が進歩しているんですね。

第1期工事では、大手口から西外濠、北外濠、
東外濠の玉造口に至る一帯は、まだ多種多様な
大きさの石がところどころ使われていて。

これに比べて、南外濠が築かれた第3期工事では、
整然とした切込接布積でピッチリ。

徳川大坂城だけでも、見るところによって、
随分と違いがあるんですねぇ☆

■江戸城にすら負けない徳川大坂城の石垣のすごさ

徳川大坂城って、東外濠の石垣の一角が
第1期工事後すぐに崩れた以外、地震等で石垣が
崩れたことはないんだそうです。

江戸城ですら、石垣が崩れて安山岩の石垣を
花崗岩で修築して目立っていますし、
江戸時代通じて、石垣の修理がほとんどない石垣は
徳川大坂城くらいのものなんですってよ。

さすが…徳川が豊臣を凌駕する気合いを入れて
造ったということもあるのでしょうかね?
江戸城以上に気合が入っているという・・・

第二次世界大戦の最後の大阪大空襲では、
一部石垣が崩れたそうですがね。67年前の今日、
1945年8月14日のことでありました・・・

非常におもしろい講演でありました・・
わざわざ東京から行った甲斐がありましたよ。

東京に住む大阪人として、大坂城と江戸城、
どちらにも詳しくなりたいものだと強く感じました!

・・・・この後は、大坂城を実際に少しぶらぶら。

blogramに参加してます。
ボタンを押してもらえるとうれしいですぅ。
blogram投票ボタン

|

« 「日本城検定」開催記念シンポジウム 秀吉の城 第2部 基調講演『豊臣大坂城を凌駕すべく築いた徳川大坂城』 | トップページ | ぶらり、大坂城。 »

「イベントレポート」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16856/55408694

この記事へのトラックバック一覧です: 「日本城検定」開催記念シンポジウム 秀吉の城 第3部 パネルディスカッション『大坂から見た戦国の城・近世の城 ~土の城から石の城へ~』:

« 「日本城検定」開催記念シンポジウム 秀吉の城 第2部 基調講演『豊臣大坂城を凌駕すべく築いた徳川大坂城』 | トップページ | ぶらり、大坂城。 »