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「日本城検定」開催記念シンポジウム 秀吉の城 第2部 基調講演『秀吉の城~研究最前線』

次は、織豊期城郭研究会代表の中井均氏から、
秀吉の城の研究最前線という、えもいわれぬ
ワクワクするタイトルでご講演☆

●大坂城
[安土城との違いと石垣の平城のはじまり]

先ほども少し言及がありましたが・・・
信長の安土城との大きな違いのひとつは、
平地に築かれた平城であること。

単に城の形状としてだけではなく、
築城時にも大きな差として、現れてきます。

すなわち、安土城は山城ですから、
安土山を山城としての加工を施す過程で、
石を切り出して、石垣群を形成できますが・・・

平城の大坂城は、遠地から石を運ぶ必要があり、
土木工事の量としては、まったく比較に
ならないくらいの仕事量なんですね。

信長が近世城郭や天守建築への道を
開いたことは確かですが、近世城郭に欠かせない
平地に築城する総石垣の技術の基点は、
大坂城にあるということになるのだそうです。

[豊臣大坂城の遺構]

といいつつも、戦国期の城に見られるような、
軍事的遺構もあるのが、大坂城。


大きな地図で見る

大阪府警察本部が新しくできたんですが、
その建設前の発掘調査で、三の丸跡から障子堀が
確認できたそうなんです。

堀障子というと、後北条氏の山中城が有名。
ですが、近代城郭で見つかるのはビックリですね。
こちらに当時の現地説明会の様子が・・・

ほぼ後北条氏の専売特許といってもいい
この防御施設が大坂城で出るとは・・
冬の陣を前にし、使えるものは何でも使え、
という軍事的な緊張感のある遺構。

しかも、後北条氏の堀障子とは違い、
水のない空堀ではなく、水濠につけられていた、
というところがポイント。

この堀障子に適度に水が張ってあれば・・・
泳いで渡るにも浅すぎる、歩いて渡るにも、
堀障子が邪魔、ということでかなり防御力が
高かったんではないでしょうかねぇ。

徳川家康が、大坂冬の陣の後、濠を全部埋めて
裸城にしちゃった話は有名ですが、
そりゃ、この濠は埋め立てたくなるわ・・・

もうひとつが、こちらは有名な真田丸。
丸馬出といえば、武田流の城でよく見られますが、
武田流の曲輪を真田信繁が採用したのでしょうな。

けっこう見た目的には浮いてたんじゃなかろうか、
と思うわけですが、そんなところも時代背景を
想像しながら見てみると、おもしろいかもしれません。

●八幡山城
[八幡山城居館の破城の実態]

八幡山城は、秀吉から関白を譲られた秀次の居城。
詰めの山城と麓の居館という、典型的な中世の城の構造。

ま、それはいいんですけど、その居館の後が
非常に興味深いんです。建造物が解体撤去された後、
粉々に割った金箔瓦で一面埋め尽くされ、その上、
粘土で封印されていたんだそうです。

いわゆる「破城」です。ただ壊すのではなく、
意識的に封印し、秀次という存在を地上から
消し去るという強い意識がそこにあります・・・・

ちょっと意味合いは違うかもしれませんが、
秀吉の大坂城本丸が落城後に盛り土をされて、
石垣から何から地上から姿を消し去ろうとしたのも、
一種の「破城」なのかもしれませんね。

●秀吉時代の金箔瓦の意味

渡辺氏のお話の中で、信長と秀吉の金箔瓦の使い方、
そして、秀吉との人間関係のお話がありましたが、
まだまだ、金箔瓦に込められたメッセージがあります。

たとえば、家康の領国と接する諸城には、
金箔瓦が施されていたということ。
これで思い出すのが、浅野長政が完成させた甲府城。
甲府城にも、金箔瓦が葺かれていたと言われてますね。

とっかかりは家康ですが、途中で関八州に転封、
豊臣系城郭として、完成しましたからね。

このような金箔瓦が家康領と接する城には、
葺かれていたと考えると、金箔瓦が秀吉そのものを
象徴してさえもいたのでしょうなぁ。

さらには、聚楽第から朝鮮出兵の前線基地である
肥前名護屋城に至るルートに金箔瓦が葺かれていた…
というのも、秀吉を金箔瓦で象徴しようという
意図の表れなんでしょうな。

聚楽第~興隆寺~離宮八幡宮~高槻城~岡山城
~広島城~厳島神社~小倉城~名護屋城

ちなみに、広島城の金箔鯱瓦が発掘されてますが、
全面金ではないのは、周知の事実ですね。
この頃の金箔瓦もそうなんでしょうね。

確実に名古屋城天守は全面金鯱でしたから、
金で覆う鯱は、織豊系ではなくって、
徳川系城郭の特徴なのかもしれませんねぇ。

●秀吉の陣城

陣城というと、城攻めの際に群が駐屯する
一時的につくった城塞ですが、
これらもけっこう残っているようで・・・・

三木城攻めの際につくられた、高木大塚城や
二位谷奥城、鳥取城の包囲網の太閤ヶ平などが
例に上がってましたが、いずれも小振りながら、
立派なひとつの山城ですわな。

鳥取城の陣城のひとつ、太閤ヶ平は、
従来まで秀吉本陣といわれてきましたが、
実は、信長の出陣の際の信長本陣にするための陣城
というほうが自然ということのようですね。

最前線から一歩奥まったところにあるのも
なるほどーという感じでございます。

●倭城調査の成果

ある意味、究極の陣城とも言える倭城。
当時は「倭」城なんていうワケないんですが・・・

東は蔚山(ウルサン)城、西は順天(スンチョン)城まで
沿岸にびっしりと築城されていました城が多く、
水軍力は強くない日本軍の橋頭堡、として機能。

そのほかにも川沿いに物資を輸送するために
内陸に向かって築かれた城もあれば、
監視所みたいな小振りな城もあるようで・・・

興味深い例として、西生浦(ソセンポ)城の
上り石垣が挙げられていましたが、
復元されているという順天城と泗川城の石垣は
ちょっと・・・朝鮮式の積み方で、
日本式の積み方とは違うみたい。残念。

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