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2012年7月

「大坂の陣と大坂城・四天王寺・ 住吉大社の建築」世界遺産を つくった大工棟梁― 中井大和守の仕事(Ⅱ)

さーって、ずっと後回しにした・・・
5月下旬の大阪。日本城検定の大阪シンポに
わざわざ、東京から出かけましたぜ。
だって・・・秀吉の城特集なんだもん(笑)

わたくし、戦国武将としての豊臣秀吉には
あまり魅力を感じないのが、正直なところなんです。
大阪人、秀吉好きな人多いけどね・・・

がっ、秀吉の城にはけっこう興味があって、
もちろん、豊臣大坂城は一番好きですし、
城郭建築の発展を追うなら、秀吉は避けて通れません。

いいタイミングで大阪でみたい展示もあるし・・・
ってことで、午前は徳川大坂城・江戸城等、
徳川系城郭建築を主に手がけた、大工頭の家柄
中井家の重要文化財を見学してきました。

P1200759

ええ、東京からわざわざ行きましたが何か?
1日だけの滞在ですが何か?(笑)

そんな変わり者に、関西の城好きさんたちを
もりあげているゆうりさんがお付き合いくださいました。
ありがとうございますー。

■豊臣大坂城指図(重文・中井家蔵)

わたしがウヒャウヒャ言っていた(笑)
豊臣時代の大坂城指図もあって、テンション上がる!

豊臣大坂城の作事に中井家(当時は中井正吉)が
携わったかはわからないそうですが、
豊臣時代の本丸のようすがよくわかります。

観れば観るほど・・・本丸の形状や天守の位置が
岡山城そっくりなんですわ。いや、岡山城が
豊臣大坂城にそっくりといったほうが正しいでしょう。

これをみても、秀吉の宇喜多秀家への寵愛ぶりが
わかりますよね・・・秀吉みずから、
岡山城の縄張りをしたとも言いますからね。

■中井正清 - 徳川の御大工初代

中井正吉の子・正清は、家康に取り立てられ、
徳川城郭の多くの城郭建築を担当します。

伏見城、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城・・・
いずれも名だたる大城郭ですよね。

しかも、小堀遠州や古田織部などとタッグを
組んで城郭建築の作事をしていたそうで、
有名人との書簡がけっこう残ってるんですよね。おお。
あの方広寺造営にも関わっていたようで・・

それだけでなく、戦時にも活躍していて、
大坂冬の陣の茶臼山家康本陣を造営したり・・・
かなり、建物造りという意味では、
方々に活躍しているのですね。ふむふむ。

■中井正侶 - 徳川の御大工二代

そして、徳川大坂城の造営。
これには、次代の正侶(まさとも)が参画。

先ほどの豊臣時代の指図と徳川時代の指図
「大坂御城惣絵図」(重文・中井家蔵)と比較すると、
本丸の形状は同じながら、天守台や御殿の位置、
規模がまったく異なっていることが、
克明にわかりますねー。

■中井「大和守」

興味深いのは、中井正清が「大和守」を名乗り、
従四位下に叙位されてること。
これ、なかなかそこらへんの大名でも、
このような位には、叙せられないものですが・・・

よほど、家康から大工棟梁としての技量を
買われていたということ、またそれだけまだ
城郭建築ラッシュが続いていたことを物語ります。

また、出てくる書状の相手が、
先ほど書いた小堀遠州や古田織部のほか、
片桐且元、本多正純、大久保長安など
江戸幕府初期の幕閣ばかり。

彼の地位の高さを物語りますよね・・・
肖像画ももちろん束帯姿で、言われなければ、
どこぞの大大名の風格すら感じます!

■天守立面図 - 二条城

二条城や駿府城、江戸城にも関わっているので、
それらの指図ももちろん残っているのですが、
個人的に惹かれたのが、二条城天守と小浜城天守。

二条城天守は、1601年に京都所司代・板倉勝重を
総奉行とし、建築工事は中井正清が担当。
1603年に完成し、家康の将軍宣下が行われます。

まず、二条御城中絵図。二条城一日城主の際に
教わった行幸御殿が描かれ、ここから本丸へと連なる
櫓群がしっかり確認できます。

こうして、後水尾帝は二条城天守に外に
出ることなく、登ることができたんですねぇ・・・

そして、二条城天守立面図。二条城天守も
二度建てられたそうで、慶長度天守は淀城天守として
移築されたそうで、図面が残るのは寛永度天守。

破風の位置や種類が若干違うものの、
江戸・駿府・名古屋・大坂の各城天守によく似た
徳川系の天守デザインですなぁ。

■天守立面図 - 小浜城

もうひとつ気になる立面図が、小浜城。

酒井忠勝が小浜に入封し天守を造る際に、
五層か三層か2つの案があったそう。

その2案の立面図がいずれも残っていて、
うわうわ・・と感動。後日、小浜城址を訪れ
その天守台を確認してきたわけですが、
かなり立派な天守だったであろうことか、
残る石垣と天守図面からも、容易に想像できます。

・・・ということで、非常に楽しめた展覧会。
個人的には、中井家所蔵品だけでなく、
天守・櫓の立面図だけにフォーカスした
展覧会があるいいんだけど・・・

あったら、たぶん萌え死ぬと思います(笑)
てことで、午後はシンポジウム会場へ移動。

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阿佐ヶ谷夏の陣 戦国武将三番勝負!質問編。

ここからは、小和田先生が質問に
お答え頂ける質問たーいむ☆

好きなライバル関係と訊きたいことを
会場の皆さんが書いていきますよ!

事前に小和田先生に訊くこと考えてなくて、
あせあせしました・・・(汗)

わたしが挙げたのは、武田信玄と村上義清の関係。
信玄(当時晴信)が大敗したのは、
いずれもこの対義清戦。猛将義清が晴信を大きくした、
という側面がたぶんにあると思ってるんですよね。

この上田原の戦いと砥石崩れの手痛い敗退は、
大きく晴信を成長させたのだろうなと思うのです。
小和田先生に、「負けて強くなった」武将で、
信玄を強くした初期のライバルですね、
とおっしゃっていただきました♪

一般に言われている、晴信の慢心によるもの・・・
かどうかはわかりませんが、負けることによって、
失って初めてわかることがあったのだろう、と推察します。

凡そ軍勝五分を以って上と為し、七分を以って中と為し、
十分を以って下と為す。その故は五分は励を生じ
七分は怠を生じ、十分は驕を生じるが故、
たとへ戦に十分の勝ちを得るとも驕を生じれば、
次に敗るるものなり。すべて、戦に限らず世の中の事
この心掛け肝要なり・・・・

この言葉が、二度の敗戦から得た経験を
よく物語っているな、と思うんですよね。

その他・・・質問です☆

Q:○○守って名乗ってる人いっぱいいるけど、
  調停から苦情こないのでしょうか?

A:苦情は来なかった。朝廷から与えられるほか、
  主君が家臣に与えたり、自分で名乗っている場合もあり、
  同時期に同じ官職を名乗る人物は、相当いたそうな。

Q:小和田先生の、好きな武将・観光地は?

A:言わないようにはしてるので・・・(笑)
  でも、勝ち組より負け組、石田三成、明智光秀、
  豊臣秀次といった勝者の歴史に埋没するような人に
  光を当てたいと思ってます、とのこと。

  観光地・・は、城跡推し!やったー。
  その地の地酒を探して・・・すっかり酒飲みイメージ(笑)

Q:戦国武将は、どうやって甲冑師を探したのでしょう?
  クチコミ?評判?甲冑デザイナーと武将は、どのような
  やりとりでデザインをきめていくのでしょうか?

A:甲冑師は奈良に集まっていて、地方大名から
  スカウトされて、国々に赴いていくそうな・・・

  城近辺に住まわせ、ノルマとして課せられた数を納めれば、
  あとは、自由に販売していい、というのが北条の槍職人。
  おそらく甲冑もそうだったんだろう、と推測できそう。
  デザインを決めるやりとりは、残念ながら
  史料はないそう・・・

Q:恵林寺の快川禅師の弟子虎哉禅師は、
  政宗の教育係になっていますが、虎哉禅師が
  快川禅師を経由して得た信玄のエピソードを
  政宗に語ったくだりがもし史料にあったら、
  ご教示ください。
  [nikko81の質問]

A:史料としては読んだことはないが、
むしろ話さないほうが、不自然だと思うので、
何かは話していたと思いますよ・・・

Q:軍勢の数、数万に上って数えられるのですか?
  どこまで正確な数字なんでしょう?

A:戦国初期の数百、数千であれば、ある程度正確
  と思うが、万を超すと怪しい。特に軍記モノの数字は
  倍ほどサバ読みしてる。 ただ、兵数を数える方法は
キチンと研究してないので、今後の研究対象かも。

Q:武田水軍が織田水軍と戦っていたら・・・
  歴史はどう変わったと思われますか?

A:信玄が大成できなかったのは、本拠を甲府から
  移せなかった、その発想を持てなかったところにあると
  思っていて、いつも戻るのは大きなロス。

  駿河を落とした後、本拠を駿河に構えて徐々に
  西上するだけでも天下が取れた可能性は高まっただろう。

  武田水軍はほぼ今川水軍を継承しており、
  その今川水軍は伊勢水軍がルーツ。ということは、
  海上ルートで伊勢湾を押さえ、上洛の足がかりに
  なったのではないか・・・・

この質問は、後日談があって・・・
とあるフォロワーさんが、おもしろい話を
ツイートされていたんですよね。

志摩国地頭の中に、武田左馬介という人物がおり、
駿河に追放された武田信虎が世話になった者に
武田姓を与えたのだとか(三国地誌)で・・・

信虎は、追放された後けっこう上洛をしていて、
駿河から京に上るのに、海上ルートで伊勢・志摩を
経由して京に行ったとすると、伊勢水軍が
絡んでいたとしても、不思議ではない・・・

ということと、小和田先生の武田水軍のお話。

そして、上洛の野望・・上洛作戦に実は、
ものすごく長生きした信虎が絡んでいたのでは?
と思わせるおもしろい話につながりました。

いやー、いろいろ戦国バナシのシャワーを浴びて
楽しかったですねぇ。聴くだけで楽しすぎ。

最後に、美甘子さんのクリアファイルに
サイン頂きました!けっこう気さくな方でした☆
ありがとうございましたーん♪

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阿佐ヶ谷夏の陣 戦国武将三番勝負!3番勝負 伊達政宗 vs 真田幸村

さて、最後の3番勝負・・・は、
伊達政宗 vs 真田幸村(信繁)。
明らかに・・・・BASARAの組み合わせ(笑)

今回は、真田信繁の名前は「幸村」で
統一することにします(タイトルがそうなので)。

■一方は徳川方に、一方は豊臣方に・・・

どっちが勝っても生き残るため、と言われる
真田家の関が原の一件。あの時点でそうしようと
考えたもんでもなく、そもそも信幸は小松姫を娶って、
徳川とのつながりが深いし、幸村は人質として、
大坂にいたわけで・・・予想された結果なんですな。

■幸村、九度山での生活

そういわれれば・・幸村って華々しい活躍の場が
なかなか来ない武将ですよね。関が原の時点で
すでに33歳ですからね・・・

で、九度山に蟄居。その間には真田紐あみあみ、
そして子つくりに精を出し(笑)それだけかい!

幸村好きの方には、有名な話らしいのですが、
幸村かなりの大酒飲み。甕に並々注いで
零れないように蓋をしてください・・と
手紙を遣って、酒をよこしてもらったりだとか。

政宗も酒に関する所感があるけど、
酒好きではあるけど、あまり強くはないよね・・・
酒飲み合戦なら、間違いなく真田の勝ち(笑)

政宗、幸村と一緒に酒を飲む機会があったら、
どんな話をするんだろう・・・
と酒飲みは、いろいろ妄想しちゃいますな(笑)

で、結局紐編んで、酒飲んで、子づくりかい!
いやいや、それだけじゃないですよ・・・・

■幸村、大坂で花開く軍学の学び

幸村は一時、上杉家に人質として赴いていて、
そこで上杉流の軍法を学ぶことができたのだろう、
と小和田先生は、おっしゃいます。

ついで、大坂に(また人質として)赴いた際には、
秀吉から学ぶこともできただろうし、
幸隆や昌幸譲りの真田・武田の軍法も学べたろうし。

実戦経験は少ないとは思うけど、やはり
しっかり学んではいたんだよな。そうでないと、
いきなり、大坂の陣で大活躍とは行かないでしょう。

大坂冬の陣で有名な真田丸も、まさに
甲州流築城に見られる丸馬出の系統。

大坂の陣って、実はそう興味がなかったのだけど、
この頃まで、武田の兵法が活きていた、
と考えると、興味深いものがありますね・・・
(大阪人ですが、行ったことないのよね。汗。)

夏の陣でも、家康本陣に切りかかっていき、
三方が原についで二度目の馬印を倒すところまで
追い詰めるわけですよね。

山田さんが、芸人のたとえを引き合いに出しながら、
 
 ここで華々しく活躍せな、どこで活躍するんや!

という焦りが、ここまで強くさせたんじゃないだろうか?
という指摘には、なるほどと思いますね!

■「独眼流」政宗の由来

この由来は、中国・唐末の武将・李克用。
唐を滅ぼした朱全忠と激しく戦った
突厥出身の猛将で、彼も同じく隻眼で、
独眼龍との異名を持っていたそうなんですね。

また、軍装をすべて黒に統一していたそうで、
これも伊達軍に取り入れられています。
武田の赤備えに対して、伊達の黒備え、
とでもいう感じでしょうかね?

映画『スター・ウォーズ』の監督、
ジョージ・ルーカスがこの政宗の甲冑、
黒漆五枚胴具足をいたく気に入ったそうで・・・

政宗の黒漆五枚胴具足の写真がほしいと
仙台市博物館へ問い合わせがあったとか。
それが、ダースベイダーの衣装に生かされてる・・

中国と日本とアメリカ、おもしろいツナガリ☆

■戦国料理人・政宗

政宗と言えば、お洒落さんとグルメさんですわな。
戦をやっていた頃とは、また全然違う側面。

それが、小和田先生がおっしゃるには、
毎朝トイレに入って、今晩のレシピを考えていたとか?
トイレで考えるって・・・信玄みたい(笑)

食の研究は、接待して将軍や諸大名をもてなす
伊達家の家格アップにもつながっていたんでしょう。

政宗が30年早く生まれていれば・・・と
信長や信玄・謙信らとおもしろい拮抗が見られた
かもしれないけどね・・・でも、ある意味、
この時代に生まれていたからこそ、文化の薫りが
する政宗を形成したのかな、と思うんだよね。

政宗の料理観に感銘を受ける料理人も多く、
校訓にしている料理学校もありますからね・・・

あと、仙台味噌の基礎をつくったとかね、
食べ物のエピソードが多いのも、政宗の特徴。
# あ、信玄だって、信州味噌の発展に
# 貢献してんだからね!ね!

■政宗、空気を読む男?

小田原遅参での秀吉への取り入り方とか、
機転を利かせるというのも、政宗らしいとこ。

ではあるんですが、どうして彼がこうできたか?
というところを知りたいものですね。

史料としての情報はあまりないようですが、
こういった戦国を生き抜く感度の鋭さが、
平和な江戸時代になっても、趣味の世界に
生かされているような気がするんですよね・・・

■政宗=丹波哲郎?

瑞鳳殿には、戦災で焼けた後から、
政宗の遺骨が発掘され、頭骨からその顔の復元を
試みた蝋人形があるんですけどね。
美甘子さん的には・・・丹波哲郎だってさ(笑)

確かに彫が深い顔ではあるけど、見たときに
背が低い!ていうのは、思ったよなぁ。

あそこ、撮影禁止だから写真ないんだけど、
今度、行ったら丹波哲郎の写真と見比べてくるかなぁ(笑)

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阿佐ヶ谷夏の陣 戦国武将三番勝負!2番勝負 徳川家康 vs 石田三成

続いては、家康 vs 三成。

小和田先生的には、三成推し・・・なんですが、
お聞きした感想をちょっと並べていきたいと思います。

■家康は裏切らない?

清洲同盟の話なんでしょうけどね・・・
個人的には、裏切らなかったというか、
裏切ったら後がないことを、家康がよく
わかっていたということなんだと思いますよ・・・

ま、秀吉にも講和してから従順といえば、
従順ですけどね・・・チャンスがあるまで待つ、
というのは、家康のパーソナリティに
よるものだろうけどねぇ。

ただ、築山殿事件で信康と築山殿を
死に追いやってでも、信長についていくのも、
信長自身が殺せと指示した文書はなく、
徳川家内の問題として、家康に処分を
任せているそうなんですね。

あくまで、家康の判断として、信康を
切腹させている・・そこまでして、
信長にすがらないと、徳川が生きていけなかった
ということなのでしょうねぇ。

■家康は爪をかむ?

これ、知らなかったんですけど、
家康って爪を噛む癖があるんだそうです。

爪噛みって、ストレスがある証拠・・とも言いますが、
幼少時の人質生活、そして不利な清洲同盟、
で強いストレス下にあったということなんですかね?

■家康のすごさはここだ

個人的には、家康のすごさって、
地道とかそういうこと以上に、自分を客観的に見て、
敵からもいいと思えるところを学べるキャパの広さ、
にあるんじゃないかな、って思うんですよ。

そうじゃなかったら、信玄に三方が原で
ボロ負けた絵を書かせはしないですし、
武田を自軍に吸収して、強くなることもなかったはず。

武田推しな割りに、家康がきらいでないわたし、
個人的に武田イズムをかなりの部分、
家康が継承したんじゃないかなって思うから。

江戸時代にまで引き継がれた諸制度もありますし、
家臣団だけじゃなく、江戸幕府の基礎の一部に
武田は欠かせなかったと、わたしは思ってます。
少なくとも、勝頼よりは信玄に学んでいる気が・・・・

■家康の体力のすごさ!

健康オタクの家康、薬の調合は有名ですが、
御年69歳にして、当時は流れが急だと
言われていた瀬名川を泳いで渡りきるとか・・・
マッチョじじいだったんでしょうなぁ、家康。

■三成が太平の世にいたら・・・

で、石田三成、太閤検地の奉行を歴任した
有能な行政官のイメージ。そのほかにも、
堺や博多の開発なども、手がけているそうで・・・

兵站路を確保するシゴトとかも、
戦時の官僚って感じだよねぇ。

家康自身というより、後世の江戸時代の幕閣が
三成をアンタッチャブルな存在にしちゃった?

実際、三成を家康が悪くは言っていなくて、
あれはあれで、主君に忠義を尽くした生き方、
評しているそうですしね。

あと、大河ドラマの影響かもしれないけど、
悪左府・藤原頼長や信西入道のような、
理想に一途過ぎるようなところは感じますよねぇ。
美甘子さん曰く、頭がよすぎて嫌われるタイプ。

基本、あまり三成の話などできない江戸時代に、
死ぬ間際まで干し柿を拒んだ逸話が伝わる・・のも、
公にはできないけど、どこか当時の人も
共感できる部分があったんでしょうねぇ。

って、美甘子さんの三成推しっぷりが
ちょっと甘い気はしたけど・・・(汗)

大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)の家紋。
All for one, one for allの精神といいますが、
居城・佐和山城も質素だったという逸話が・・

知ればするほど、この時代にいた不幸を
感じざるを得ませんね・・・

それでも勢力の差の割りに、関が原で東軍
7万4千に対して、8万4千の軍を集めた人望は
戦国人として、買ってもいいのかも。

小和田先生も、もっと石田三成は評価されるべき
人物だろうとおっしゃっていましたね。

どうしても悪者として見られた歴史が長く、
また研究者の間でも、彼の業績が埋もれていきつつ
あるんだそうですね・・・・むむむ。

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阿佐ヶ谷夏の陣 戦国武将三番勝負!1番勝負 武田信玄 vs 上杉謙信

なかなか通な雑誌「一個人」主催のイベント
阿佐ヶ谷夏の陣、戦国武将三番勝負』に参加してきました。
例によって、約1ヶ月前という遅い記事。
・・・・締め切りに追われるマンガ家の気分です(汗)

司会進行は、歴ドル美甘子さんと山田ルイ53世さん、
そして、語りは戦国氏の重鎮・静岡大名誉教授の
小和田哲男先生。戦国好きなら有名なお方ですよね!

小和田先生、歴っしゅ、やりはるような
お茶目なところもあったり、笑かしてくださいますが、
身近なところでは、信長の野望の監修も
されていたんだとか!へぇーへぇーへぇー!

オープニング、山田さんはお子さん(54世?)が
誕生とのコトで、お祝いがあったり・・・
信長の野望、里見で天下統一自慢話とかも飛び出し(笑)

本題(笑)は、戦国で有名なライバル関係にある
名将を取り上げてお話していただけました!

ま、基本は知ってる話が多いのですが、個人的に
おおっという小和田先生のコメントをちょちょいと。

■両者の総評

小和田先生曰く、信玄が現実的な有能な政治家、
戦国大名らしい戦国大名。甲斐という条件の悪いなか
あれだけのプレゼンスを出したということで、
評価したいとのコメントでしたよ!

謙信は、戦国大名としては異質でミステリアス。
謙信は生涯の戦で、勝率が9割を超える強さにも関わらず、
支配圏を広げる気があまりないので、落とした城を
取り返されることもあって・・・と。

謙信は、三人養子がおり、景虎・景勝のほか、
能登畠山家から義春を養子にしているそう(のち出奔)。
跡目を決めないから・・・

でも、こればかり信玄も人の子といえなくて、
勝頼を後見人にして、信勝を跡目にというのは、
ちょっと無理があったんではないかって思いますです。
信玄贔屓目に見てもね・・・

話しは、川中島合戦のほうへ。

■川中島の五回の戦い

信玄の力が善光寺平まで及ぶと、春日山城まで
直線距離にして約80km。これは・・焦りますな。

第二次犀川の戦いは、今川義元の仲介で甲越両軍
手を引いてるんですがここで、今川義元の
地元(静岡)での扱いに話題が。

小和田先生曰く、静岡にはまだ1つも義元像が
ないのだそうです。先日、静岡城飲みで、
さらさん
静岡駅に家康像はできても、義元像はない・・・
と聞いたばかりなんですけどね。
桶狭間には銅像があるそうですが・・・カワイソウ。

第三次も小競り合い、そして第四次、八幡原の戦い。
甲越両軍ともほぼ最大動員兵力を集結させ、
甲軍20,000人対越軍18,000人が大激突。
信玄は、MAX25,000人くらいだせたそうですが・・・

いい加減決着付けて、中央に勢力を伸ばしたい信玄。
これ以上、喉元まで勢力を張らせるまいとする謙信。

しかし、実際の戦いの経過はよくわからず。
甲陽軍鑑などの講談モノの語りが先行。
あの、啄木鳥戦法もね・・・

■第四次川中島合戦のウソとホント

小和田先生曰く、12,000の軍が背後から妻女山を
果たして登って背後から衝ける地形なのか、と。

実際に背後から迫るルートで歩かれたそう・・・
なんですけど、先頭集団が妻女山に着いても、
まだ、後発集団は海津城にいるくらいの感じ??

謙信が海津城の煙がいつもより上がってる・・
のを見てというくだりですけど、
信玄もそんなポカはせんだろう、と。

どっちも動く頃合いだという感覚が
たまたま一致したのかな、というのが小和田先生。

もちろん、一騎打ちの話しですけど、
まぁ、架空のものと切り捨てる前にね・・・
資料に書かれてあることをたどると実に興味深い。

それは、上杉側の資料(上杉家御年譜)では
謙信本人ではなく、謙信影武者とも言われる
荒川伊豆守長実が切りつけた、という記録が残っていて。

甲陽軍鑑では、謙信が切りつけたとありますから、
甲軍が謙信と見誤ったか、ダイナミックに見せるため、
謙信が単独切り込みと変えたのでしょうな。
やはり、大将自ら対象に切り掛かりはしないと。

結局、信玄がこの戦いで負傷し
危機的状況だったことは、確かなんでしょうね。

あと、川中島合戦図屏風ですが、
紀州本と岩国本とで描かれ方が違うのも有名な話。

甲陽軍鑑を元に描いた岩国本では、地上で信玄が
謙信の太刀を受け止めているのに対し、
北越軍談を元に描いた紀州本では、川の中で
馬上の両雄が切りあっている図として
描かれているんですよね。川の中で切りあうのって
ありなんですかねぇ・・・ないと思うなぁ。

ここで、奇襲に特化した奇襲ナイト!なんて
やるのがおもしろいじゃーんという
山田さんのご提案も、おもしろいですよね!

■第五次・・・はなぁなぁ?

多くの被害を両軍に出した第四次ですが、
結果的に、武田軍多大な犠牲を払って
北信を押さえたわけですね。

一方、上杉軍も次回の出兵に苦しむほどの、
犠牲はありますが、幹部クラスの討ち死にはなく。

その意味で、犠牲も多い分、成果もあったのが武田軍、
犠牲はあったのに、あまり成果のなかった上杉軍
といえるんでしょうな。

で、第五次でも対峙はしますが、武田側が
避けた側面が強いようですね。

第四次と第五次の間に桶狭間の戦いがあって、
今川義元が織田信長に破れ、討ち死にしたことにより、
謙信と退治することは諦め、弱った今川を刈り取るべく、
信玄は、駿河・三河方面に目を向けていきます。

もう少し、早く雌雄を決していればなぁ・・・
という気はしますけどね。まぁ、義元がいれば、
駿河には出れないだろうから、仕方がないかも。

■例の塩の話

敵に塩を贈る・・有名な故事ですが、
これも謙信が積極的に塩を贈ったという意味ではウソ。

むしろ、信玄の駿河侵攻で今川・北条から塩を
止められたにもかかわらず、謙信は越後の塩商人が
甲州へ塩を流すことを黙認した、
ということみたいですね。なるほどね。

謙信って、関所つくって小遣い稼ぎしたり、
けっこう儲けてるからなぁ。いわゆる経済原則に
照らして考えるなら、供給が著しく不足しているわけで
ものすごい高い価格で塩を売れたことでしょうな。

・・・謙信、うはうは?美談ちゃうしー、みたいな。
知ってはいたことだけど、意外と皆さん知らないのね・・・

■衆道

信玄と香坂弾正の話・・・衆道の手紙として、
ボクは浮気してません的なないようなんですけど・・・
まぁ、有名な話です、戦国BL。

衆道が一般的だったとはいえ、手紙が残るのは、
信玄と香坂弾正くらいなもんなんですって。
そして、香坂弾正が大事に取ってたってこと??

でも、言い訳がましい信玄の手紙を
ずっと持ってるってのもねぇ・・
おもしろいはおもしろいですわねぇ。

てことで、信玄×謙信の会はこれで終わり☆
続いて、家康×三成ですぅ。

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江戸城講座「江戸図屏風」の謎。

さて、また城・・・に戻ってきました。
なんかもう順不同、書きたいもの書きたいように・・
なので、時系列がむちゃくちゃですが、
そこは、なにとぞご容赦いただきたく・・

で、新宿歴博・江戸城講座5回のうちのひとつ、
「江戸図屏風」の謎、を拝聴してきました。

黒田涼さんの「自然改造都市、江戸の痕跡」に続き、
今年2回目の参加です!

講師は、黒田日出男先生。
絵画史料論を中心にした中世史がご専門。

最初に自己紹介をされたのですが、
非常に論旨が明快で、聴いていて清々しい。

正しいことを正しいと論証し、間違ってることは
キッチリ批判するという考え方。
いや、偉い方なので当然といえば当然なのですが、
そういうばかりではない・・ですものね。

ちなみに、文芸春秋SPECIAL2012年季刊夏号で
頼朝「本当の顔」という題で、よく知られた
神護寺所蔵の伝源頼朝像が、実は別人という論説を
書かれてもおられます。(読みました)

最初にこの年で痩せる秘訣をお話になったり、
なかなか愉快な方で・・(笑)
60代をこんなに痩せられたのは、すごい!
でも、減量思想はわたしとかなり近いなーっと。

さて、本題。江戸天下祭図屏風が今回の話題。

これ、京都の古美術商が保有していて、
戦前にすでに知られていたそうですが、
京都・本圀寺(日蓮宗)に納められていたそうです。

これが、黒田先生によるこの屏風が何であるかを
決定付ける重要なポイントなんだと。

この図屏風は、江戸城内への行進が許され、
将軍が観覧する祭りということで
「天下祭り」と呼ばれた山王祭を描いています。

これが実に江戸城内を細かく描いていて、
他の屏風では見られないほど、詳しく描かれてて。

もちろん、天守がしっかり描かれている
ということは、寛永以前の江戸の姿。
天守に興味がある者としては、
注目せざるを得ない重要な絵画ですね。

さすがに史料をそのままアップするのは、
気が引けるので、載せておられる記事へのリンクを。

見て頂ければわかるのですが、素人目にも
かなり天守指図等の図面と照合しても、
正確に描かれているなーという印象。

リンク先の写真だけではわかりませんが、
寛永以前でなおかつ、紀州徳川家上屋敷が
大きく屏風内に描かれている…

このことから上屋敷が吹上にあり、
つまりこの天守は、南西面から描かれて
いることが分かります。明暦大火後、
吹上は火避け地として、庭園になります。

その他の屏風絵というと・・・
国立歴史民族博物館所蔵の「江戸図屏風」や
国立国会図書館蔵の「武州豊嶋郡江戸図」に
描かれている天守がよく描けているよう。

しかし、いずれも南東面ですから、
西面が描かれたものとしては、唯一かも。

そして、天守だけでなく寛永期の江戸城内を
かなりの正確性をもって描いた屏風絵としては、
唯一と言ってもよいくらいのものだそうで。

また、天下祭を描いた屏風絵としても、
最古といえる一品であるそうです。
五層の天守(元和度あるいは寛永度)を描いた
史料としても、非常に重要。

政府なら、国立歴史民族博物館、
東京都が買うなら、江戸東京博物館…あたりが
買うとよいのでしょうがねぇ。

戦後、この本圀寺から流出したそうで、
所在が分からなくなっていたところ、
近年、京都の古美術商がお持ちというのが
分かったんだそうですね・・・

ま、あまりこの屏風の出自がどうだったのかは
黒田先生の著書:江戸図屏風の謎を解く
読んでいただくこととし、
わたしが種明かしをするのは、控えます(笑)

でも、繰り返しますが論旨が明確で、
既存の学説をバッサリ切り捨て、明快な指摘を
進める議論の切れ味は痛快ですよ!

これ、どこかの博物館が手に入れて、
デジタル化してもらって、江戸図屏風や
武州豊嶋郡江戸図みたいに、インターネットで
みれるようにしてもらいたいんだよね…

先にあげた2例は、しっかりデジタル化されてます。
ここまでの精度で見れるのか!と驚きました。

国立歴史民族博物館所蔵・江戸図屏風

国立国会図書館蔵・武州豊嶋郡江戸図

これ、ぜひ観てみてください。
おおーっと、感動できると思います!

江戸天下祭図屏風の資料も手元には、
このとき参加した紙の資料とこれをPDF化した
資料は手元にありますが、広く公開されて
ほしいくらいよくできた屏風です!

余談ですが、江戸図屏風についても
その制作年代について論争があるみたい…です。

こちらについても、黒田先生は、寛永12年頃に
松平信綱が将軍徳川家光に見せるためにつくらせた
という説を唱えておいでです。

一方、18世紀吉宗の時代につくられたという
説もあるのだそうですが、でも、江戸図屏風で
使われている紙を放射性炭素年代測定すると
寛永17年以前・・・あららら??

まぁ、学問の世界もいろいろあるんですな。
黒田先生の説は「王の身体 王の肖像」という本に
詳しいそうなので、わたしも読んでみようと思います。

しかし、天守の立面図・平面図だったり、
屏風絵等々、江戸城天守はものすごい史料に
恵まれた天守だなぁと改めて思うわけですよ。

天守が建ったことはこそないけど、江戸時代当時の
再建天守台もあり、史料は豊富。
さらに、名古屋城や大阪城のように、
コンクリ天守がのさばっているわけでもない・・・

こんなに「正しい」天守再建に向けて
ふさわしい天守があるでしょうか、と思うわけですよ。
ぜひともいつの日か、平成度天守が日の目を
みてほしいなぁ、そう思わずにはいられません。

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年の重ねとは、いかなることぞ。

黙っていても、年は重ねるもの。

なのに、どうもそれなりに年を重ねていくと、
何か想いをめぐらさないわけにはいかないように
なってきたような気がする。

普段はね、けっこう力が抜けてきてるな
って思うだけどね。

年齢なんて関係ないと思いつつ、
どこか年にとらわれてる。そんな感じ。

思ったところと違う道を歩んでいることが
より一層、そう思わせているんだろうな。

ちょっと前まで、偶然の産物で大きく変わっていく
ということに、どうしても許せない感覚を
捨てきれずにいたんだけど・・・・

それでも、ようやく10年そこそこかけて、
軸と呼べるものを持って生きてると
言いきれるんじゃないか、それがあれば、
目指したとおりじゃなくても、
いいじゃないかと思えてきたりなんかして。

思っていた通りだったら、今の人間関係や
こんなに楽しく感じることたちとも、
出会ってなかったわけでさ。

もちろん、価値観と価値観をぶつけ、
削りあってきたこともあったけど、
それが鋭く尖って、これから切り開いてくれそうな。

思ったとおりにコトを運ばせるんじゃなく、
自分がコレだと思う軸をつくって、
柔軟に、でもブレずに生きていければ、
それもまた、納得した人生といえるのかな。

あれこれいう割には、30代のほうが
楽しいじゃないって思ってるんですけどね。
これでもね。楽しさに奥行きがあるもん。

BICENTENARY HIGHLAND PARK 1977。
同い年のハイランドパーク。
1977ヴィンテージで一番好き。癒しだ。

P1150110

よし、また好奇心のアンテナ張って、
ちゃんと自分を律しながら生きてくとするか。

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御殿場バスツアー presented by Bar Virgo ブレンド体験編。

工場見学から帰った後は、ブレンド体験。
以前からあるのは知っていましたが、
キリンのブレンド体験は初!です。

P1130710

最初は、ロバートブラウンになるブレンドに
近づけようというモノ。

原酒A:ピーティモルト
原酒B:フルーティモルト
原酒C:フローラルグレーン
原酒D:ソフトグレーン

という4つの原酒を使い、ロバートブラウンを
つくるわけですが・・・わたくしめは、
原酒Bと原酒Cの割合がすっかり逆になってて、
あららら・・・ある種ブラインドティスティングに
近い難しさがあります。

そのあとは、オリジナルブレンド。
ニッカでもそうでしたが、こちらでも敢えて
割り材としてのグレーンは省き・・・

骨のあるグレーンとのみブレンドするブレンテッド。
原酒A:原酒B:原酒C=2:5:3の割合で。

かなりわたしがイメージする、キリンらしい
ウイスキーに仕上がったと自負。
このクリーンさは、追い求めているだけあって、
他にはマネのできないアロマですね。

P1150102

メイプルが軽くかかったクッキーのようにも、
また、どこか妖艶な金木犀の香りのようにも、
あるいは、また違った花のようにも・・・

ブレンドしたウイスキーはもちろん、
使った原酒の残りも含めてすべてお持ち帰り可・・・
というものすごく太っ腹な企画でした(笑)

お土産には、蒸留所限定のピュアモルトと
何度飲んでも美味しいシングルグレーン15年。

P1150104

P1150103

これで、シングルグレーン15年は在庫が2本。
ようやく1本開けようかなという気になりますね(笑)

帰りはちょっと渋滞したけど、大河ドラマ「平清盛」には
間に合ったし、さらにここからソサエティの
ティスティングにまで言ってしまうという・・・
濃い濃い日曜でありました(笑)

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御殿場バスツアー presented by Bar Virgo 樽場編。

さてさて、試飲タイム。こちらでは、
樽熟成の現場にある樽から、原酒を掬いだして
ウイスキーをいただけます☆

■樽出しモルトと樽出しグレーン

モルトは21年、41%まで下がってはいますが、
加水はしておらず、湿気が高く気温が低いので
自然とアルコールが抜けた結果・・・です。

多くは60°前後で樽詰めするところを
50°で詰めるというキリン独自の方法に
よるところもあるのですが、このほうがキリンが
目指す「フルーティでクリーン」な
ウイスキーに出来上がるようなんです。

それに、何年熟成しても「フルーティでクリーン」という
コンセプトに合わない粗い香りがあるそう・・・・
でも、それだったら最初から熟成しているときに
抜くということが大きい理由なんだそう。

こうしてつくることで、加水して度数を下げて
口当たりをやわらかくしなくても、樽から出せば、
すぐに「ready to drink」の状態にし、50°で
製品にしたい・・ということで生まれたのが
「富士山麓樽熟50°」。

50°あると、冷却濾過(チルフィルタリング)しても
あまり析出する成分はないんだそうです。

あれあれ、でも、たとえば富士山麓樽熟50°などは、
モルトが40°くらいまで下がっちゃうとどうするの?

それは、モルトとグレーンでアルコール度数の
変わり方が違うところにあるんです。
そう、グレーンは60°で樽詰めするため、
ブレンドする時点で合わせられるんです。ほぅほぅ。

それにしても、50°から20年で40°近辺にくるってことは、
御殿場の天使は飲兵衛なのか??ですよね(笑)

決して薄まったわけではなく、飲みやすいけど、
熟成感はたっぷり残り、蒸発してほしくない成分までは
抜けてっちゃうわけではないそうで、
分子量の小さな物質が抜けていくみたいです。

一方、香味成分は出て行かないんだそうで、
ひたすら、樽の中で濃くなっていき、
天使が飲むのは、ライトな成分ばかりなんですね。

天使に差し出すのをケチると美味いウイスキーは
できないというのは、こういうことでもあるんですな!

てことで、今度は20年オーバーのグレーン!
これがまた美味いんだ。86年蒸留のこの原酒、
Evermoreの最後のブレンドにも、使われていたそう!
# Evermore、1本だけあるなぁ・・未開封。

止めちゃったのは惜しいですけど・・・・
売りにくいそうで。毎回味が変わって(苦笑)

■樽種

今では、クリーンでフルーティなウイスキーを
ということで、バーボン樽しか使ってないのですが、
かつては使ったこともあるそうなんですね。

あくまで実験的にしか詰めなかったため、
かつてのリリースで使い切ってしまったそう・・・

そのほか、バーボン的なヘビーグレーンを
つくるさいには、バーボンと同様、新樽で熟成を
させるようですね・・これはこれで単独で
いただけたらおもしろいだろうになぁ。

■樽は手をかけない

これけっこう、興味深かったんですが、
バーボン樽を買い付ける際には、ばらさず
そのままで日本に持ち込むんですって。
それに、リチャーは一切しないとのこと・・・

中はカラ。ばらすとコンテナの匂いや
他の貨物の香りとかが移るんだと・・・そうなんだ。
簡易的な修繕で使えれば、修繕して使いますが、
漏れ出したら、基本的には廃棄。

樽は、履歴と古さで使い分けるんだそうで、
長く熟成したいグレーンは古い樽をつかったり、
早く熟成させたいモルトは、バーボンの空き樽の
空いてすぐの樽を使ったりだとか。

あと、モルトを熟成させた後の樽に
グレーンを熟成させたりだとか。

空いてすぐの樽が荒々しさが取れ、しかも
熟成力が強く、もっともフルーティになりやすいとか。

キリンはフォアローゼズをもってはいますが、
フォアローゼズに限らず、幅広くバーボンの
空き樽を集めているそうですね。

チャーの具合が違ってそうですが、バーボンとしては
もちろん違いがあるわけですが、あまりその差は
大きくはないというのが、キリンの立場。

焦がした部分と焦げてない部分の間から
必要な香味成分が出てくるのであって、
炭の厚さ(=脱臭力)はバーボンの刺々しさを
和らげるときに効いてくるものだと。ふむ。

・・・こういう話は聴いていて、飽きませぬなぁ。
続いては、お部屋に戻ってブレンドをしてみますぜ!

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御殿場バスツアー presented by Bar Virgo 連続式蒸留機見学編。

こちらも約1ヶ月前のこと・・・懇意にさせて
頂いている赤坂見附のBar Virgoさんにお誘いいただき、
キリンディスティラリー・御殿場蒸留所へ。

P1130705

御殿場というと、前日に小田原あたりまで行って
ゆったりして、翌日朝から・・という感じですが、
バスツアーだと、気兼ねなく行けて実にありがたい・・・

内容的には、昨年末に参加したうんちく教室+α
という感じで、+αの部分はブレンド体験。

前回は田中チーフにご案内いただきましたが、
今回は鬼頭チーフにご案内いただき。

■仕込・発酵

ちょうどモルトのほうは糖化が始まっている頃で、
マッシュタンを見せてもらえたほか、グレーンの糖化槽
クッカーのご説明も頂きました。

とうもろこしだけだと発酵しないので、
蒸気で沸騰させながら、モルトを加えて発酵。
モルトのような麦汁ではなく、どろどろの
おかゆみたいになるんですね・・・
アルコール度数約10%程度。洗うの大変そう。

この後、蒸留工程に進むわけですが、
いわゆる一般的な連続式蒸留機のほか、
バッチ式という連続式ながら香味が豊かなグレーンを
つくる蒸留機やバーボンに近い蒸留方法を
とるヘビーグレーンをつくる蒸留機も。

グレーンにコダワリがある、御殿場蒸留所らしい
ところが感じられますね。

■連続式蒸留機(1)ビアカラム

御殿場のスペシャルツアーに行って何が
目的かって・・これこれ、連続式蒸留機見学。
普段は入れませんからねぇ・・

写真はもちろんダメですが、
きっちり解説を頂きましたよぉ。

まず、すべてのグレーン発酵液は、
ビアカラムといわれる初溜釜に相当する蒸留機に
一度集められ、蒸留されます。

発酵液を「ビア」と呼ぶのは、シーグラムの
バーボン製造技術を入れているため、
アメリカ的な呼び名なんですね。

ここでの主な目的は、固液分離。
カラム(塔)の3/4くらいの高さから、
先ほどの発酵液を落としつつ、
下から蒸気で熱していき、発酵液がどんどんと
熱せられながら落ちていくんですね。

その途中で、網が幾層にも張ってあり、
その上で蒸留が起きてアルコールや
香味成分は発酵液から分離・気化して上昇、
発酵できない固形成分などが、下にたまります。

ここでできた粗留液が、3つの精留釜に別れ、
ライトなグレーンから、香味豊かなグレーンまで
つくりわけられるんですな。

■連続式蒸留機(2)マルチカラム

一番ライト、つまり香味成分が少なく、
アルコール純度が高いグレーンの精製・・ですが、
マルチカラムという装置で精留(2度目の蒸留)します。

4つのカラム(塔)で1セットになっていて、
ビアカラムの隣から、アルデヒドカラム、
精留カラム、ヘッズカラム、フーゼルカラムと並び、
アルデヒドカラムと精留カラムでグレーンをつくります。

ちなみに、ヘッズカラムとはその名の通り、
精留初期に出るヘッズを回収するカラム、
フーゼルカラムは、高沸点の揮発性成分として
出る(テール?)フーゼル油の回収を行うカラム。
直接、グレーンの精製には関わりません。

ヘッズはフーゼル油は香料の原料として、
香料会社に売却され、アルコール感を出すための
香料の主成分になるそうで・・・
ノンアルコール飲料などにも含まれてるのかな?

さて、アルデヒドカラム・精留カラムともに、
ダブルキャップと呼ばれる粗留液が溜まる部分が
何層にも渡って設置してあり、蒸留が繰り返されます。

アルコールの沸点くらいの温度の蒸留液が
集まるところで最も高濃度のアルコールが取れ、
それを少しずらして、香味成分を増えていくわけですね。

ニッカのカフェ式蒸留機と比べると、どの程度まで
純粋なアルコールを抽出できるかという精度が
違うんでしょうねぇ。

■連続式蒸留機(3)バッチ式カラム

ただ、キリンのグレーンはマルチカラム式の
一般的なグレーン製造法によるものは主流ではなく、
このバッチ式カラムが80%程度を占めます。

ニッカがカフェ式蒸留機で、香味のあるグレーンを
つくろうとするのに対し、キリンは別のアプローチにて、
香味のあるグレーンをつくっているわけですね。

粗留液は、ビアカラムで蒸留されたもので
共通なんですが、6万リットル程度入る
大きなタンク(ケトル)に一回溜めていきます。

そこに熱を加えて、(連続的ではなく)蒸留。
「バッチ式」とは、コンピュータの処理の「バッチ処理」
と同じことで、溜めて一度に蒸留するところから。

ここで上がったアルコールを含む蒸気を
先ほどのマルチカラムの精留カラムに戻していくと、
高いところから低いところまで、それぞれが
一定の温度で特定の成分で満たされるようになります。

高いところにはヘッズの成分が、次に
アルコールとエステル香の部分、
より低いところには、テール部分があつまり、
それぞれを分けて回収していきます。

もちろん、アルコールとエステル香のある部分が
グレーンウイスキーの元になるわけですが…

ポットスチルでもヘッズ・ハート・テールを
分けられるんじゃないの、と思いがちですが、
やはり、そうすると香味成分が多すぎ、
グレーンとして求められるライトさに欠けるんだそう。
適度に香味成分を残すのが、難しいんでしょうね。

その意味では、カフェ式蒸留機が(旧式なため)
結果的に、香味成分がよく残るのに対し、
バッチ式は、シーグラム社が香味成分を
程よく残したいという意図を持って、
開発されたんだろうな、と思ったらまさにその通り。

日本では、ここ御殿場しかないそうで、
主にカナディアンウイスキー向けの
グレーン製造に用いられている方式とのこと。
そう、ブレンテッドスコッチのための
グレーン製造ではなく、カナディアン用の設備。

カナディアンは多くがグレーンで、
飲みやすいものの、味に厚みをつけにくく、
プレミア感の出るウイスキーを造るのに、
当時のシーグラム社は悩みがあったとか。

そこで開発されたのが、グレーンのライトさと
味の奥行き感を兼ね備えた原酒をつくることができる
この「バッチ式カラム」なんですね。

ちなみに、御殿場のモルトはフルーティでライト、
透明感のある香りと味わいですが、逆に
グレーンは少し香りの幅があるミディアムタイプが
相性がよく、製造のほとんどがこのバッチ式による
「ミディアムグレーン」というわけです。

ちなみに、売店で売っているシングルグレーン15年も、
このミディアムタイプのグレーンだそう。

■連続式蒸留機(4)ダブラー

さらにヘビーなグレーン・・・ということで、
フォアローゼス(バーボン)のような
バーボン製造設備も御殿場には配備してあります。

ダブラーと呼ばれる特殊なポットスチルで
精留するのですが、内部は連続式蒸留ができ、
最低限の雑味やフーゼル油を取るだけで、
香味豊かなグレーンが生み出せるとか・・・・

これ、ロバートブラウンのような、
バーボン、スコッチ、ジャパニーズの
三国ブレンドウイスキーの原酒の
バーボンの代替として、使われているそうで
数年に1回程度しか、稼動しないんだそうです。

このあとは、前回と同じく樽出し原酒を
本当に樽から出したそのまんまを頂きまーす☆

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竹鶴17年・WWA受賞記念セミナー

えーっと・・・ぜんぜん記事が追いつかなくなるの、
大体8月に入ってからなのが、通例なんですが
もう6月ごろから、かなりキッツイ状況・・・

てことで、はや1ヶ月前になりますが、
NIKKA BLENDERS BARの竹鶴17年WWA受賞
記念のティスティングイベント。

P1130674

ま、もちろんなんども飲んでいるウイスキーですが、
いや、それだからこそ、こういうお祝いの場には
ちゃんと参加したいのですよね。

新しくチーフブレンダーになられた佐久間さんの
お話も聴きたいですしね。

今回は乾杯のカフェソニックが付いてます。
ま、わたしの1杯目は言われなくても
コレなのですけどね(笑)

P1130679

とうもろこし主体のグレーンウイスキーを
トニックウォーターとソーダで割るハイボール。
グレーンの甘みは、1杯目に最適☆

かんぱーい!

P1130681

最初に、佐久間さんの経歴のお話を。
ちょうど1987年に余市の原酒改善に取り組まれて、
その成果が、シングルモルト余市1987
受賞につながるわけですが・・・

余市におられたときののットスチル掃除体験談
なんて、おもしろかったなぁ。

あんなに大きく見えるポットスチルですが、
中腰にならないといけないそうで、
初溜釜の底には、醪の残存成分が焦げ付かないよう、
鎖が常に引っ張ってぐるぐる回してるんだそう。

もちろん中は真っ暗、懐中電灯をつけて、
焦げ付きをキレイに落としていくわけですね・・・

発酵槽もむかしは横型の鉄製だった時代があったそうで、
こびり付いた酵母を洗っていくんですね。

そして、級別廃止の話へ・・・
安いウイスキーが高くなって、他のお酒に流れたり、
高くて贈り物になっていたウイスキーが安くなって、
プレミア感がなくなったり・・・ウイスキー市場は
ちょうど挟み撃ちをあったように、しぼんでいくんですね…

そうなると、原料調達にも苦労するように
なるんだそうですね。つくりたくてもつくれない…
という苦しい局面なんですね。

それがハイボール流れで、まぁいい感じに
業界が流れてきましたよね。ウイスキー好きにとっても
いい時代がやってきましたよ。

なにせ、5年も遡ればウイスキー飲みなんて、
ほとんどお目にかかることはなく、自宅で飲む酒、
でしかなかったですからね。うれしい限り。

で・・・竹鶴17年。これまでもニッカは、
ブレンテッドモルト部門で受賞していましたが、
今年は初めて竹鶴17年。21年ではなく、17年。

P1130685

実は、コレがわたしにとって、
すごくうれしいことなんですよね。

一番、パンチがあって樽香に深みがあり、
そして、ピート感も豊かで・・・
好きなウイスキーが世界一と認められるのって、
喜ばずにはいられないわけですよ。

予選に勝ち残ったのが、今までから
評価が高かった竹鶴21年じゃなく竹鶴17年、
ということで、前任の久光前チーフブレンダーも
少し不安があったそうですね・・・

P1130687

ティスティング。まず第一声、シェリー主体の
ウイスキーであるということ。そ、そうなのか・・・・
好きだという割には、あまりシェリー感を
意識しませんでした・・

むしろ、17年はやっぱりピート感ですかね。
竹鶴シリーズの中で一番効いている、そして、
一番豊かな樽香を感じるところ・・・

程よいピート感と樽香の豊かさ。
これこそ、わたしが竹鶴17年が竹鶴シリーズで
一番好きなところなんですよね。

よくよく香りを探すと、クッキーやビスケット
のような穀物由来の甘みも確かにあるけど、
樽香が好きなだけに、自然と樽香を優先して
香りを探してるんだなって思いましたね。

さらに、内容もさることながら、
ティスティング方法に改めて開眼させられましたね。

鼻にも効き鼻・・があるそうで、鼻のてっぺん、
ふくらんだあたり、出口に意識を集中させると
感じられる香りが変わってくるみたいです。

あと、かすかなピート感は鼻に抜けるときに
よく感じられるとのこと・・・ふむふむ。

知ってるモルトのセミナーでも、
発見はあるものですね。日々発見、日々感動。

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和歌山城の危機・・・なのか?

ちょうど1週間前の記事ですが、和歌山市内の障碍者
支援者らが「みんなにやさしい和歌山をつくる会」を結成
というニュースが出ていました。

まぁ、それはそれでいいことだろうとは思うのですが、
なぜか和歌山「城」のバリアフリーを目指すと。

フォロワーさんとも話していたのですが、
なぜ、和歌山城からはじめるのか・・がイマイチ奇怪。
和歌山城をバリアフリーにするのが、会の目的?

いずれにしても、

会では、和歌山城は砂利道や石畳が多く車椅子が進みにくく、
市が11年度から登城支援で導入したスロープは一般の人が
自由に使うことができないなどとして改善を求めている。
しかし、市教委文化振興課によると、国指定史跡であるため、
掘削を伴う工事には文化庁の許可が必要となる。

などという文言を読んでしまうと、城跡の破壊を伴う
可能性がある岡城のエレベータ設置案
類似した動きなのか?と思ってしまうわけです。

わかやま新報の記事を見ると、

和歌山城は砂利道や石段など高齢者や障害者の通行が
難しい箇所が多く、特に天守閣に登るのは困難なのが現状。
同会は、観光スポット、市民憩いの場、和歌山のシンボルである
和歌山城のバリアフリー化に、市民やNPO、企業、
学校、行政などが協力して携わることが
「みんなにやさしい和歌山」 をつくる第一歩になる

とありますが、やはり文化財保護と歴史的価値の観点は
やはり見出せませんし、発起人のご経験がきっかけに
なったのでしょうが、文化財である和歌山城跡から
わざわざ始める理由には、乏しいような気がしてなりません。

もちろん、バリアフリーに反対するつもりはないのですが、
ハードありきで考えているのではないか、と
邪推したくなっちゃうんですよね。
ハードを含めたバリアフリーには、城跡の破壊を伴う
ケースが容易に考えられるわけです。

先週に設立会があったようですが、
公式ページを見てもどのような内容だったかは
まだ、掲載されていません。

和歌山城になぜバリアフリーが必要か、
などというタイトルの講演は、
逆に聴きたかったんですけどね。
どういう立場でどうお考えなのかを・・・

が、さすがに、和歌山までは・・・

個人的には、今の段階で文化財たる城跡を守れ!とまで
言うのは、勇み足だと考えてはいますが、
今後の推移はしっかり見守る必要はあるだろうな、と
感じた次第であります。

ただいえるのは、緊急避難先だからバリアフリー化
というのは、一般の建物ならいざしらず、
文化財に対して当てはめることではないと考えます。

また、歴史的価値と障碍を持った方や
お年を召した方への配慮を両立させるのは、
ハードではなくソフトでしかありえない、ということですね。

あるひとつだけの価値観だけで動いてしまい、
取り返しの付かないことにならないようにだけは
して頂きたいものです。

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竹苑冰脆龍鬚糖。

2月、香港に出張行ってきたんですが、
とあるお土産を社内に買って帰って・・・・
なかなか評判がよくって(こういわれるのも楽しみ)、
自分も食べようと思ったら・・ナイ!ナイナイ!

というわけで、いつか欲しいと思っていたもの、
それが「竹苑冰脆龍鬚糖」。ちょうどまた香港に行く
後輩に買ってきてーとお願いし、げっとん。

P1130755

これ、ながーく伸ばした水あめでピーナッツを
包んだお菓子なんですが、乱暴に扱うと
壊れますよって書いてあるくらい、繊細なお菓子。

ノーマルをはじめ・・・

P1130758

緑茶・・ではなくジャスミン茶味。

P1130756

黒ごま味もあります。

P1130757

さっそくノーマルから頂きます。

P1130760

蚕みたいな感じ?確かにふわふわしていて、
崩れやすい感じです。

P1130761

なかなか難しいですが、割ってみました。
ホント「脆」です・・中は砕いたピーナツかな。

P1130762

一口食べてみると・・外のふわふわした水あめ、
かすかーな甘さで非常に上品。むしろ中のピーナツのほうが
少し甘めに味付けされております。美味!

続いて、ジャスミン味。外見は「茶」とあって
紛らわしいけど、緑茶ではないみたい。

中のパッケージには、「茉莉(mòlì)」
とありますね。

P1130764

こちらも中を。ピーナツに混ざり、
茶葉がしっかり混ざっておりますよ。

P1130769

こちらも甘さはかなり控えめで、最初に
茶葉の苦みがしっかり、あとになって
ジャスミンの香りがほんのり。

最後は、黒ごま味。味というか、
ダイレクトにごま!ですよね(笑)

P1130773

こちらも、かなりごまの風味がしっかり。
意外というか・・あまり味付けを
ベタベタしないところが好印象でしたね。

いずれもあまり甘いものではないので、
スイーツとして食べるとがっかりするやも知れません。

上品な中国茶の付け菓子にどうぞ、
という感じですね。うん、わたしは気に入りました。
めずらしくMADE IN HONGKONGを謳ってます。

冷やして食べるとまた違うそうなので、
冷蔵庫にいれとこー。

ちなみに、1箱9個入りで、3個入りの袋×3つ。
黒ごま味が1個約27kcal、ジャスミン味・ノーマルが
1個約30kcal。blog書くのに今日はいっぱい
食べてしまいましたが(汗)、普段のおやつにも
いいですねぇ・・・日本じゃ売ってないけど(笑)

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あの悲劇を繰り返してはならん・・・

というのは、HDDが消えちゃった話。
RAIDしていて、RAIDコントローラがぶっ飛んじゃって。
結局、なんとか復元はできたんですが(高い…泣。)
もう、RAID(ミラーリング)は勘弁です。

ということで、外付けHDDに記録はしてるんですが、
Blu-rayドライブと交換でHDDが入るようなので
内蔵HDDに記録+定期的に外付けHDDに
バックアップ・・という古典的な方法に戻っちゃいました。

にしても、普段のHDDをPC内に格納しておけるのは
いいですね。場所とらなくて。
願わくば、HDDの故障が起きないように・・・

P1130754

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新生・伊達!

7月に入って発売になった
新生・ニッカウヰスキー「伊達」。
さっそく入手して、頂いております。

P1130750

めっちゃ減っとるやんけ!という
ツッコミは敢えてなしにして頂きたく・・・(笑)

前回の2008年・2009年に発売された「伊達」は、
ポットスチルのモルトとカフェモルトとの
ヴァッティングで、シェリー感がほどよく感じられる
ピュアモルトだったのに対し、今回はカフェモルトに
カフェグレーンをブレンドしたブレンテッド。

晩年期の文化い幅広く精通し、海外にも目を向けた
伊達政宗のイメージからすると、前回のほうが
そのイメージにあっている気はしますが、
今回のも、これはこれで美味しいです。

こちらが前作2009年版。2008年版がいいのですが、
在庫がわずかなのでちょっともったいなくて、
まだ開けられておりません・・

P1130752

旧伊達はちびちび、新伊達がグビグビと
頂いていこうと思います☆

ちなみに、新・伊達を頂いているグラスは、
木更津アウトレットのマイセンにて買ったグラス。
これなら、ティスティンググラスとしても
使えそうでしょう?

P1130728

マイセン印も・・ちょっと見にくい(苦笑)

P1130751

最近は、このマイセンのグラスと
リーデルのコニャックV.S.O.P.用グラスがお気に入り。
2009年伊達が入ってるのが、リーデルのグラス。

ウイスキーは、やっぱりティスティンググラスで
頂かないとね。どうもリーデルのシングルモルト用グラスは
足が長くなくて・・ちょっと敬遠。

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武田神社境内整備事業。

躑躅が崎館跡武田神社の整備に募金を
募っていたので、投資をしてまいりました・・・
ということで感謝状を頂戴して。

Takeda2

灯籠と石玉垣の建設。城跡としての整備ではないですが、
神社としてふさわしい姿の一助となるなら・・
ということでご協力することに。

そして、整備事業とは直接の関係はないですが
ほぼ同時期にちょっと早めにわたしの誕生日に合わせて
武田神社で祈祷されたお札も頂き。
「誕生奉告祭」ってあるでしょ?

Takeda_nikko81

まぁ、外国人にはなかなか人間を祭って
神として讃えるのは理解しにくいでしょうけどね・・・
これも尊敬の念を表す一つのやり方だと。
信玄公のご加護がありますように。

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「日本の木と森を考える」江戸城天守木造再建への道 その5 パネルディスカッション

さて、パネルディスカッションへ。
冒頭、三浦先生から興味深いお話しが・・・

■三浦教授

先ほどの記事に書いた建築基準法。これがなんと
城郭建築のみならず、寺社建築も含めた
日本古来の伝統建築の足かせだとか!?

建築基準法の精神とは、一般住宅の10cm角の
木材で造られる木造建築の強度確保のためだったのに、
それを20cm、30cmという高い強度を誇る材を
つかった伝統建築にまで適用されてしまい、
木造で建てることを困難にしてしまっているそう。

強度の面では、十二分に耐震性があるにもかかわらず、
本来の伝統的な工法で建てられなくなってしまい、
要らぬ補強、たとえば鉄骨を加えたりだとか、
アンカーボルトで基礎を固定したり・・・

日本古来の伝統建築は、それだけで強度を
十分確保できていて、要らぬ補強はむしろ強度を
落とすことにもなってしまう・・・

いや、待てよ、先ほどの記事にも書いたとおり、
建築基準法には、第3条第4項にある適用除外規定で
復元建築でも適用除外できる可能性があるはず・・・

その障碍になっているのが、各市町村の姿勢。
建築基準法に従っていれば、お咎めはない・・・
ということで、敢えて適用除外申請をすることに
消極的なんだとか・・な、なんたること・・
許せぬ・・ぐぬぬぬっ・・

先ほど、沼田次長の話にあったような、
戦後植林された45年も経った木を木材にしようとすると、
一般住宅向けには、もったいないような
巨木に生長しているはずで、三浦先生としては、
城郭建築のような建築にこそ、ふさわしいと。

そして、耐用年限めいいっぱい使って、
その木の「いのち」を全うさせてあげたい・・・

通柱になるような大径木の木は、江戸城天守ですら
13本だけであって、たとえば屋根を支える垂木は、
一般に流通してもおかしくない4寸角(約12cm角)の材も
大量に必要になってくるわけですよ。

城郭建築をいわば活きた建築として、
世に活かすことで、木材の需要を押し上げ、
日本の森林をきっちり管理できる一助にもなるわけ。

■沼田次長

続いて「公共建築物等木材利用促進法」によって
木造建築の問題に関して、国土交通省や文部科学省との
関係が大きく変わった、と沼田次長はおっしゃいます。

官庁の建造物として建てる場合、国土交通省の官庁営繕事業
に当たるそうですが、木造としての建築基準を
策定したそうですし、文部科学省では学校建築の場合の
木造建築の基準作りを進めているのだそうです。

そして、城郭建築等の場合、技術的にはOKでも
お役所仕事にありがちな・・前例をつくりたくない
という二の足踏みは実際あるとのことでした。

これには、現在の各自治体の建築に関わる方が、
先ほどの公共建築物には木造は使わない、とした
戦後直後の方針の影響で、木造建築に関わったことがない
人が多いことも、二の足を踏む理由になっているみたい。

ぜひ、政府からその意識改善に向けたサポートを
強くお願いしたいところですね。
もはや、天守・櫓など城郭建築だけではなく、
日本の伝統建築のDNAを守るという大きなテーマ。

ここで、コーディネータの野村氏から、
城郭建築を建てる技術力のほうはどうなのか・・?と。

■三浦教授

城郭建築や寺社建築を手がける匠は居なくなった?
と誤解される向きもあるそうですが、
優秀な宮大工の集団「日本伝統建築技術保存会
という会があるのだそうです。知ってました?

この団体に三浦先生も所属しておられ、
この会の宮大工さん方にお話を聞いたところ、
悩みが2つあるんだそうです。それは・・・

ひとつは、仕事先がない。
腕を振るいたい現場が乏しいのです。

決して宮大工さんが居なくなったのではなく、
木造で建てようとする発注元が激減したわけです。

それは、もうひとつの理由である建築基準法とも
関係していて、建築基準法のシバリで木造建築を
断念する例もありますし、仮に木造であったとしても、
法のシバリで伝統建築として腕を振るえない・・・

今、日本の森林は50年近く経った木が鬱蒼とし、
腕を振るう機会を待ちわびている匠が居るにもかかわらず…
木も人も活かすことができていないのです。

宮大工の皆さんは、きっとやりがいのある
プロジェクトを待っている。江戸城天守再建は、
おそらく宮大工の方々にも、大きな希望になるでしょう。

続いて、沼田次長。

■沼田次長

木造建築を増やしていくということに当たり、
大学で設計を学び、設計事務所等に勤める方は多いですが、
木造に限って言うと、極めて少ないのが現状。

木造に理解のある建築士をどう増やしていくかが
林野庁としての課題でもあるし、
もちろん、法制度の適正化も課題のひとつ。

たとえば、カナダでは木造で10階建ての建物を
つくることができるそうです。事実、法隆寺五重塔は
1,500年も現役で使われているわけであって、
木材は使える建材なんだという環境を整えていく、
ということを進めていきたいとのお話しでした。

最後に、木材に関して「木は伐らないほうがいい」
という考え方について野村氏から問題提起。
本当にそうなのだろうか?

■小椋教授

木を伐っていけないというのは、木がないときの考え方。
大切なのは、木材の需給バランスを考えること。

もちろん、木が足らないときには需要抑制が必要だが、
今はむしろ、森林資源が過剰であり、
どんどん木材を使うべき、ということでした。

これ、個人的にはかなり目からウロコ。
だって、木を伐る=環境破壊って思いません?

たとえば、どこぞの山城を整備するに当たり、
木を刈っちゃいますなんていうと、自然保護団体が
剣幕変えて怒ってきそうじゃないですか。

でも、そうじゃないんだ、と。森だけじゃなく、
草原も必要なわけで「野」が消え「林」になることで、
消えていく生き物もいるわけですよね。

このまま木を使っていかないと原生林化が進み、
要は放置された状態が進むだけ。適度に使って
経済の仕組みをつかって、森林を管理するプロセス、
これを回すことが必要なんですね・・・

そのプロセスの一環として、木造で天守をつくれれば、
もちろん、城郭建築好きにもうれしいですわなぁ。

さらに特段、城郭建築好きじゃなくても、
日本の伝統建築の潜在能力のすごさを理解し、
誇りに思えるのではなのではないか、と思いますね。

最後・・わたしから質問させて頂きました。

■nikko81からの質問

今、木造での復元はかなり潮流として
出来上がってきている感があり、他城の櫓や
城門の木造復元とも連携していくとよいのでは?
と思って、そのあたりの取り組みを質問しました。

結論から言うと、かなり難しい。

これには「節」の問題があるようで・・・
江戸中期から明治にかけて、節がない柱が
重宝されだしたそうですが、本来、寺社建築も含め、
古来より節のあるなしは、あまり区別して
こなかったんだそうですね。

事実、国宝に指定されているような
古建築では、節のある柱がたくさんあるのだとか。
もちろん、城郭建築も例外ではなく、
節のある材もたくさん使われるものなんだそう。

三浦先生がおっしゃるには、無節で天守の芯材になる
ヒノキの見つけるのは困難だが、節にこだわらなければ、
江戸城天守に必要になる大径木も見つかるはず、
と考えておられました。

ですが、この「木造=節のある木材じゃないとダメ」
という無節信仰が強いそうで、かつて三浦先生も参画した
復元プロジェクトでも、無節にこだわるべからずという
ご主張が聞き入れられなかったこともあるそうで・・・

逆に聞き入れられたところでは、当初予算の1/3で
復元が成り、驚かれているところも。

あとは、先ほども指摘があったような、
建築基準法の除外適用もできるのにあえてしなかったり、
申請して許可がでているのに、自治体の意向で
むりやり建築基準法に合わせてしまう例も。

むしろ、この江戸城天守再建活動を通じて、
あるべき城郭建築の木造復元活動とは何か?を
模索していきたいということでした。

なるほど・・・江戸城天守をひとつの事例として
よりよい木造復元につながるとさらによいなぁ!

実に・・・実に有意義な時間でありました。
大阪人ですが、江戸城への想いを深くした1日。

ま・・秀吉の大坂城はどうしたって、
再建はムリですからね。その点、江戸城は恵まれてます。

図面や絵図が実に豊富、天守台にコンクリ天守が
建てられていないというだけでも、
当てはまる天守は、江戸城天守くらいなのでは?

いつの日か、天守と・・本丸御殿の一部
くらいは再建される日が来ることを願いたいですね。

しかし、こう材の話を頂くと、いろいろ反芻します。
伏見地震で豊臣伏見城が倒壊、豊臣大坂城ですら、
一度倒壊、秀頼再建説があるのもうなづけるな、とか。

安土城天主、岡山城旧天守、広島城旧天守、
熊本城旧天守の材の種類は・・・とか、
現存十二天守それぞれの材の違いとか・・・・
福岡城二の丸隅櫓や熊本城宇土櫓は??

あ、ついついマニアックになってしまいましたね。
(今更??笑。)

文章ばっかりになりましたが、江戸城シンポジウム
これにて終了であります。続いては・・・
翌日の大坂城シンポジウム・・最近、城ばっかり(笑)

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「日本の木と森を考える」江戸城天守木造再建への道 その4 日本の森林・林業と木材利用推進。

さて、ご発表の最後は、林野庁の沼田次長より。

林業と公共建築物における木材利用の推進の立場から、
お話しくださいました。これまた、違った角度で
おもしろいお話でしたよ。

まず、国産材をもっと使いましょうというのが、
最初のメッセージでした。木を伐らないのがよいわけ、
じゃないのか・・・・

■日本の森林資源の現状

約40年前の1966年と2007年との比較で見ると、
天然林・自然林ともに増加はしているのだけれども…

天然林が1,329百万m3から1,780百万m3と
約1.3倍くらいの増加なのに対して、
人工林は、558百万m3から2,651百万m3と
実に4.7倍にも膨れ上がっているんですね。

もちろん、伐採もしているんですが、
圧倒的に需要が少ないということなんですよね。
蓄積されるばかりで・・

人工林を構成する木の樹齢を見てみると、
樹齢45年くらいの木が多く、このあたりの年代に
多く造林された一方、急激に需要が落ち込んで、
伐採されないまま、残っているということなんです。

ということで、人間だけじゃなくって、
森の世界でも高齢化が進んでいるんですね・・・
「使う・植える・育てる・収穫する」という
サイクルをどう回していくか・・が課題ですね。

■林業の国際比較

そんなあるなら使えばいいじゃないか、ということ
なんですが、国産材が使われにくい要因のひとつとして、
日本の森林は、山の傾斜角が急なのに加え、
森林の中の道と道の間隔が狭く、森林面積が
多いにもかかわらず、伐り出すコストが嵩むとか。

日本は森林面積が2,512万ha、年間1,760万m3だが、
ドイツは半分以下の面積1,108万haなのに、
木材生産量が4,810万m3にも達する林業先進国。

日本と同じく山の傾斜角が急なオーストリアでも、
386万haの森林に対し、木材生産が1,210万m3・・・
そして、木材需給率も高いんですね。

木材生産だけで、森を見ることはできませんが、
あまり日本の森林は木材という観点では、
活用できていないのかもしれません。

■林業再生と公共建造物

そして、その林業の再生を目指しているなかで、
課題のひとつに挙げられているのが、
公共建築物における木造率の低さ。

しかし、それは戦後すぐの政府方針に
端を発していたんですね。

1950年 衆議院「都市建築物の不燃化の促進に関する決議」
→官公庁建築物の不燃化を目指し、同年建築基準法制定

1951年 閣議決定「木材需給対策」
→都市建築物等の耐火構造化、木材消費抑制
 未開発森林開発推進(同年、森林法制定)

1955年 閣議決定「木材資源利用合理化方策」
→ 政府・地方公共団体が率先して建築物の不燃化、
  木材消費の抑制、森林資源開発の推進を行う

1959年 日本建築学会「建築防災に関する決議」
→ 防火・耐風水害のための木造禁止

これ、戦後すぐにはどの大都市でも激しい空襲で
一面焼け野原になり、木材需要が激増したため、
公共建造物はなるべく鉄筋にして、
民間に回したということ、そして、防災の観点から
木造を忌避してきたという背景があるんですね。

1950年代から60年代といえば、あの鉄筋コンクリの
天守が乱立した時代、ですよね。

もちろん観光目的だったり、燃えない天守を!
という市民の声があったのかもですが、
こういった木材を取り巻く時代背景があったことは、
近現代城郭建築史を語る上で、押さえるべき点とかも。

その結果、住宅を含む日本の建築物全体の
木造率が43.1%なのに対し、公共建築物では
実に8.3%しかなく(2009年度)、
高層建築物はほとんどないという現状。

個人的には、ちょっと木材の需給管理に
手を入れるのが遅かったんではないかと思いますが・・・

大規模木造建築の場合の耐火性と一般住宅の場合では、
同一には論じられないということに着目されるのが、
遅かったのも理由なのかもしれませんね。

そして、ようやく2010年に制定された
「公共建築物等木材利用促進法」によって、
木材の利用促進を本格的に図り始めたわけですね。

特に低層の公共建築物は、原則木造にすることとし、
政府・地方公共団体が整備するすべての建築物を
木材利用を促進すべき公共建築物と位置づけられました。

■木造建築のムーブメント

もちろん、城郭建築の復元は文化財としての
価値がありますから、建築基準法第3条第4項にある
適用除外規定に則れば、これまでも木造再建できる
余地はあったわけですけど・・・

やはり、こういう取り組みというのは、
流れがあるような気がしていて、
城郭建築の復元も、木造による史実に忠実な
復元の流れが出ていることと無関係ではないだろうな、
という気がしますね。城郭建築復元には、
追い風になっているんですね。

木造でと一口に言っても、城だけ見てると
なかなかこういう視点では見れないですものね。
かなり貴重な気づきを得た講演でした。

続いて、パネルディスカッション。

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「日本の木と森を考える」江戸城天守木造再建への道 その3 江戸城寛永度天守とその材質

さて、続いては広島大学・三浦正幸教授より、
城郭建築も含めた材種についてのお話。

三浦先生というと、わたしはよくWeb
見させて頂いておりまして、城好きさんの中にも
なじみのある方も多いのではないかな、と。

ま、城のページしか見に行ったこと
ないのですけど(笑)

■コンクリ天守と木造天守

まずはじめに、実用的な意味での木造建築の意義について。
それは以前から三浦先生がおっしゃっていることですが
極めて耐用年限が長いということ。

鉄筋コンクリート製の天守(ビル?)の場合、
約50年から80年がその耐用年限なのだそうですね。

戦後すぐの1950年~60年代の復興城ブームに
その多くがつくられるわけですが、復興コンクリ天守の
最たるものといえば、なんと言っても大阪城三代目天守。

つい昨年、ちょうど80周年を迎えたわけですが、
三浦先生によれば、もう危ない?ということになりますね。
もちろん、1995~1997年に平成の大改修をしていて、
まだその耐用年限は延びているのでしょうけど・・・

そして、小田原城天守でホットな話題に
なっている通り、ブームの時代に建てられた
多くのコンクリ天守がその耐用年限が切れかかって、
あちらこちらで耐震工事が行われていますよね。

大垣城天守も、最近リニューアルして、
少し戦災焼失前の天守との差異が修正されましたが、
建物自体へも補強工事がなされているようですが、
三浦先生としては、付け焼刃にすぎないと
考えられておられるようでした。

これに対して、木造天守は姫路城大天守の修理を
見ても分かるとおり、痛んだ材だけを
交換することができる、これがいいところ。

材を交換していけば、優に1,000年は持つ
という木造建築。これから建てるなら、木造ですね。

■江戸城寛永度天守とは■

そこで、江戸城天守(寛永度)がどのような材で
つくられていたか・・なんですが、三浦先生から
貴重な資料が出されてました☆

このたび「江戸城再建を目指す会」の協力を頂き、
ブログへの掲載許可を頂きました!

Edojotenshu01
「復元・創作 広島大学 三浦正幸研究室」

こうカタチだけまじまじ見ると、
名古屋城天守との似ていますね・・・・

三代将軍・徳川家光の時代に建った
寛永度天守、実にものすごいスピードで
建ったんだそうです。

1638(寛永15)年7月13日 穴蔵立柱
 → 地下階(穴蔵)の柱立て

1638(寛永15)年7月27日 初重立柱
 → 1階部分の柱立て

1638(寛永15)年10月26日 鯱上
 → 5階まで組み上げ、鯱を上げる

1638(寛永15)年11月5日 鯱金子包
 → 鯱に純金板の貼り付け

す、すげー・・・なんという速さ。
これ、なんとなくだけど、秀忠の元和度天守解体後
かなり元の材を使って組まれたんだろうなぁ。

大きさも史上最大、姫路城大天守との比較で
1階床面積が2.5倍以上にもなるんだそうですよ・・・
体積で3.5倍程度になるとか・・あわわ。

日本の3大巨大木造建築は、東大寺大仏殿、
秀吉創建の方広寺大仏殿に次、史上第3位の大きさ。
もちろん、天守としてはダントツ1位。

外観ですが、資料をアップにしましょう。

Edojotenshu03
「復元・創作 広島大学 三浦正幸研究室」

屋根は資料にもある通り、銅瓦葺。
これは単にデザイン上の都合だけではなく、
木の瓦に銅板を貼り付けた瓦にすることで、
軽量化にもつながっているんですよ!

そう、この規模の天守を上げるには、
銅瓦葺が必須だったわけです。

そして外壁は、白漆喰塗籠と銅板張黒チャン塗の
ツートンカラー。黒チャンとは松脂と煤で
できた黒い塗料。これを銅板の上から塗ってあり、
全体的に黒が基調の締まった天守。

これも、デザイン性の理由もあったようですが、
風雨に晒されると白漆喰は比較的短期間で
ダメになりやすく、外壁を保護をする意味もあるとか。

個人的に気になったのは、千鳥破風・入母屋破風、
天守も銅板張の青海波文様だったんだ、と。

Edojotenshu04
「復元・創作 広島大学 三浦正幸研究室」

そして、断面図。

Edojotenshu05
「復元・創作 広島大学 三浦正幸研究室」

この図で見える各階の下部に見える小さな長方形。
これが襖であって、高さが約2m。これが2m!!

ということは、各階の天井がとんでもなく
高いんですよね。4倍くらいはあるでしょうか。ひゃー。

そして、地下1階・1階には通柱はないのですが、
図を見ると分かるとおり、2階から3階、
そして、3階から4階、4階から5階に通柱。

その大きさたるや・・・2階から3階の通し柱だと、
60cm×60cm×15mの超巨大な柱が13本!

えーっと、30cmものさしの2倍の長さの
正方形で15m・・・想像を絶するデカさ・・・

この材を取り出すには、60cm角の対角線分の
長さが必要になりますから、60×√2=約90cmとなり、
製材を考えると直径約1mの極太建材が要ります!
樹齢500年~1000年くらいになるとか・・うわぁ。

1階の柱でも、36cm角の7.5m長の柱が
なんと191本も使われてる・・・
これ、ちょうど名古屋城旧天守でも
使われていた材なんですってねー。

これだけ太い材は、もちろんこれだけの
高層建築を支えるためのものなわけですけど、
これだけ太いと、強度もすごい。

一般の木造建築で使われるのが10cm角で、
仮に同じヒノキが使われていたとすると、
柱が折れるように、掛かる力が160倍!

■城郭建築における木材の質

材はほとんどがヒノキが使われていたそうで、
強度・耐久力・木肌の美しさ・香り、どれをとっても
建材としては、最高の品質。

これは、ある意味江戸城天守だから・・・
であって、他城の天守が皆ヒノキ材でつくられていた
というわけではないんだそうですね。

姫路城大天守の場合、ほとんどがヒノキ材ですが、
地下から5階までを貫く心柱だけは、
太い材が調達できず、モミの木なんだそうで、
あまり強度的に見ても、いい材ではないそうな。

奈良時代・飛鳥時代より、寺社建築には、
ヒノキが使われていたようですが、当然なくなっちゃう。
鎌倉後期ごろから、ヒノキが枯渇。
代わりにスギ、続いてツガイヌマキが使われ始めます。

室町時代には、クリやマツ、ケヤキあたりも
使われてくるようになります。このあたりになると、
建材としては、あまりいいものではないみたい。

時代が下るにつれ、マツの比率が上がってきて、
最も材が手に入らない時代が桃山時代。

秀吉は近世城郭を次から次へと建てていくわけですが、
実は、最も材に乏しい時代であったわけで、
大坂城天守にしても、もっと大きな天守を建てようにも
建てるための材が手に入らなかったんですね。

ムリにつくろうとマツ中心につくった
秀吉の建造物は、200年ほどで壊れていったものが
多いんだそうですね・・・ふむ。
じゃ、あの豊臣大坂城も大坂の陣で炎上しなくても、
江戸時代のどこかで倒壊しちゃってたかも?

残ってる建築も半分以上、ヒノキ材に
取り替えられ、生きながらえているそう。

そんな木材調達難の時代に、天守とよばれる
木造高層建築が建てられ始めるわけですわ・・・
よりによって、こんなときに(笑)

てことで、当然天守もマツやスギが多く使われ、
ヒノキをつかった天守は珍しいそう。

現存天守では、1784年に落雷で焼失した
伊予松山城天守が1854年に再建された際には、
ヒノキで再建されたそうですね。

一方、たとえば、いわゆる天守建造のラッシュ時期に
建てられた松江城天守は、ほとんどがマツ、
少しスギが混ざっている程度でヒノキはナシ。

応仁の乱の頃あたりから、木曽檜、その中でも
糸柾(いとまさ)材という年輪幅が
糸のように狭い柾目の材が京で使われ始めたとか。

この材でできた京町屋などは、細い材で
建っていても、材がよいので古い建物でも、
しっかりしているそうですよ!

で、寛永の頃には尾張藩がこの木曽檜に目を付け、
江戸城寛永度天守の建つ頃には、
超巨大な木曽檜が使えるようになったと・・・

秀吉の時代には、心柱に使えるような
大きな木曽檜は見つけられなかったのでしょうかねぇ?
一部、彫刻類に使われたくらい・・

ふーむ、材質の話、ものすごく興味深い
お話しでありました。いやー、来てよかったよ。

まだまだ、続きまっせ。

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