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夏の西日本・城と酒に溺れる旅 … 竹原(2)

さて・・・特別講座に参加しまっせー!

タンク前に並んだ「竹鶴」たち・・・
もちろん、試飲は最後のお楽しみ!

P1000124

こちらの看板は、映画のセットで使われたものを
後に譲り受けたのだそう。

P1000122

竹鶴友三さん・・とは先代の社長さん。
なかなかウィットの利いた方のようで・・というのは、
また後ほどご紹介するとして。

今回のお話は、竹鶴酒造を背負って立つ、
名物杜氏の石川達也氏。ゴジラ松井に似ている?
とよく言われるそうで、酒モアイだとか、
酒造界の大魔人と呼ばれてるそうな(笑)

わたしが参加した回は、最終回だったのですけど、
これまで3回のお話、2時間の予定通りに
いずれも終わらないという語り好きな方!
でもいらっしゃいます。

せっかく竹原に来てくださったのだから、
という石川さんの心遣い、ですね!

ということで、まずは見学前の石川さんの
お話から振り返ってみましょう。

■なぜ酒蔵が観光キャンペーンの目玉なのか
 ~ 竹原の魅力

この特別講演、JR西日本がやっている
7月~9月までの「尾道・三原・竹原キャンペーン」
の一環として、開催されているもの。

で、なぜ酒蔵の講演がキャンペーンの
目玉になるのか・・ということを通して、
竹原と観光を考えます。

そもそも、観光とは何か。何を「観」に行くのか。

ある人は、自然や街並みといった風景を求め、
またある人は、その土地の歴史に触れようとし、
またある人は、その土地でしか堪能できない、
美食を求めることもあるでしょう。

酒蔵とは、そのどの要素も兼ね備えている
観光資源なのだ、と石川さんはおっしゃいます。

例えば、風景。竹鶴酒造の場合は酒蔵そのものは
外からはあまり見えないですが、外の構えは、
竹原の「町並み保存地区」の重要な要素として、
魅力的な町の風景を形成していますよね。

そして、歴史。100年以上続いている企業を
集めた本というのがあるそうで、職種別に見た場合、
ダントツに多いのが酒造業だそう。

それはまさしく、歴史に触れることになるわけで、
観光の中心とまではいかないにしても、
観光の重要なポイントとして、酒蔵が位置づけられるのも
なるほど・・という感じです。

もちろん、酒は飲んでナンボ・・・
地酒ということは、まさしくその土地その土地が
育んだ味なわけで、大きな旅の醍醐味。

さらに、同じ歴史を感じさせる観光資源であっても、
酒蔵の場合は多くが現役、つまり「生きた」資源。

しかも、竹原の場合は、町並み保存地区全体が、
今もなお人が住んでいて、生活は営まれていること、
別の言い方をすれば、見せるために保存しているんじゃない、
という点が、竹原の町の大きな魅力・価値があるんですね。
人の生活の匂いがする・・古い町。

竹鶴酒造さんも創業278年。278年前というと、1733年。
時は享保年間、徳川吉宗の享保の改革の頃です。

母屋も250年くらいは経っていて、そのまま
使っているそうですから、歴史は古いですね。

■竹原の歴史(1)~製塩業と酒造業

竹原の印象・・・古い町並みが残ってるのは、
まぁ、そうなのですが、特段大きな街でもなく、
要するに田舎町でしょう、と。

・・・ま、現在の町並みを見る限り、
そうなのですが、昔は非常に栄えた町だったそうです。

栄えたワケのひとつが、歴史民俗博物館にも
掲示してあったように、製塩業の発達。

JRの竹原駅を中心とする、現在の竹原市街は、
すべてかつての塩田で、町並み保存地区の
あたりのみが、町だったんです。

歴史を紐解くと、だいたい解るんですが、
江戸時代以来、塩は専売の対象となっていて、
幕府や藩、明治維新後(1906年~)は政府の貴重な財源。
塩の専売が廃止されたのは、ごくごく最近の1997年。

ということを見ても解るように、取りすぎはダメなものの、
塩は人間になくてはならないものであり、
また、かつては貴重なものでもあったのです。

昔の製塩業は、海水を煮詰め、塩田でひたすら乾かして、
つくっていくわけで・・・

・海水を入手しやすい海のそば
・海水を乾かせる海抜が低く、かつ広い土地
・日照時間が多く、雨が少ない

という条件が必要になってくるわけですが、
竹原は良い条件が揃っており、赤穂と並ぶ塩の産地
として、繁栄したのだそうです。

広島藩内はもとより、藩外にも出荷されて、
大いに潤ったそうです。

そして、塩を特産物として全国に出荷して得て、
次に取り組んだのが酒造業。

実は、竹鶴家(という姓は明治になってから)も
元は製塩業を営んでいて、江戸中期になって、
酒造業に転業したんですね。

あまり広くないこの竹原の町に、
大正末期の時点ですら、造り酒屋が23軒も
ひしめき合っていたそうなんですね。

酒屋のほか、醤油・味噌の醸造も行われていて、
(その名残が先ほどの醤油屋さんなんでしょうね!)
醸造業の一大メッカになって発展したわけです。

■竹原の歴史(2)~酒造りと輸送手段

ですが、今広島の酒処というと、西条を
挙げる方が多いのでは・・・ということですが、
かつては、ここ竹原が広島の酒造りの中心。

生産量や酒造メーカの数、規模・・・
どれをとっても、いまや西条が現代において、
広島の酒造りの中心であることは、論を待ちません。

では、なぜ竹原はその地位を西条に、
譲らねばならなかったのか・・

酒造りの条件として、すぐに思いつくのは、
水がいい、気候がいい、良い米が手に入る・・・
などということが挙げられます。

が、忘れてはならないもう1点。
それが、輸送手段。

先の3つが、いずれも酒質に関わる点だったのに対し、
輸送手段だけは、現代的に言うと、
サプライチェーンに関係するものです。

原材料である米、製品である酒。
どちらも重くて嵩張り、運ぶには厄介な代物。
ゆえに、輸送する手段を持っていないと、
酒造業は発達しないんですね。なーるーほーどー。

この話を聴いたとき、すぐに久光さんの、
竹鶴翁が余市を蒸留所に選んだときの条件
お話になったくだりが思い浮かびました。

キチンとその中に「鉄道の便ある所」と
挙げられていますね。

これ、違った解釈をすると、あくまで
酒を造る場所は、酒造りに適した場所で
行うのが前提であり、だからこそ、
消費地に対してどう運ぶかの手段をきちんと
確保することが重要なんだ、とも読み取れます。

壽屋の鳥居信治郎は、工場は消費地に近い
ところに建てるべきだということで、
北海道を推す竹鶴政孝と対立し、
結局、大阪郊外の山崎に蒸留所を建設することに
なるわけですが・・・

この時の竹鶴翁の考え方と、近しいところが
あるかな・・と思います。

で、閑話休題。

竹原が栄えた理由のひとつとして、
製塩業を支えた海のそば・・という立地が、
酒造業でも、海上輸送というカタチで、
大きく寄与したんですね・・・

他にも、例えば日本有数の酒処である灘は、
西宮港から江戸に向けて、大量に出荷されたそう。

そして、この栄えた理由がそのまま、
竹原が西条へ、広島酒の覇権を譲らねばならなかった
理由へと直結するのです。

つまりは、輸送手段の世代交代。

新たに山陽本線が開通し、主要な輸送手段が、
船による海上輸送から鉄道輸送へと切り替わると、
山陽本線の利のある西条がのし上がり、
逆に竹原は取り残されて、衰退を始めた・・と。

なので、西条はかなり酒処としては、
新しいところで、他の酒処にはない特徴があって、
かなり、酒造メーカが密集しているそう。

これは、西条駅から貨物鉄道で出荷するため、
駅の周辺に寄っていったから。

かつては、昔の旅行会社が発行している地図にも
「灘より西では一番の酒処・・」と称されたほどの
竹原が、昭和に入ってからあっという間に、
その地位を奪われていくのでした・・・

その地図が掲載されている大正末期、
年間生産量は、23軒合わせて約1万5000石。
現在は3軒しかありませんが、3,000石程度。

P1000124

ちょうど、ここに見えるタンクが100石。
1石=180ℓですから、100石=18kℓ。
わぁ・・・ものすごい量です。
23軒あったとはいえ、現在と比べると、
機械も満足にない手づくり、ですからね・・・

今、竹原の町を歩くと、残っている建物にも
余裕があるというか、なかなか贅を凝らしたつくり、
だったりしますが、そういうこともまた、
かつての竹原の栄華を物語る証人なのでしょう。

ということで、竹原の歴史と魅力を
理解したうえで、実際に蔵の中を案内していただき、
いよいよ、酒造りの現場に向かいます。

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