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天下普請の江戸城 in 新宿歴史博物館 ~江戸城「再」築城~

次に大きく江戸の姿が変わるのが、
何と言っても、徳川家康による江戸入府。

お話を聞くにつれ、家康の街づくり・・いや、
「江戸」づくりがものすごい規模だったことを実感。

■埋め立て事業による江戸城城域拡張

1590年(天正18年)に豊臣秀吉による小田原征伐で、
後北条氏が滅亡。小田原城の開城が7月16日、
その後、後北条氏の遺領は家康に受け継がれますが
20日ごろに秀吉とともに、江戸城平川口そばの
法恩寺(現在は錦糸町に所在)に入った記録が残っています。

一般に、江戸幕府では8月1日を八朔の祝とし、
神君江戸入城の日として、盛大な祝賀をしますが、
実際には、7月中には江戸城に入城していたようですね。

しかし・・・東海一の弓取りと言われ家康が、
小田原開城からわずか1週間やそこらで、
さっさと江戸を本拠とすることにしていますが、
事前に秀吉から、北条旧領は徳川殿に・・と内示が
あったんでしょうなぁ。

さっそく、家康は江戸城の拡張に乗り出します。
江戸城の北側にある旧神田川(現日本橋川)の更に
北の台地に、旧領駿府から家臣団を移します。
それが今日の「駿河台」の地名の由来。

ちょうど、現在の本郷から神田川を経て、
駿河台に至る一帯の台地。
ちなみに、現神田川は二代将軍・秀忠の時代に
掘削されたもので、この当時にはありません。

これは、よく氾濫する利根川と石神井川を
避けた高台に住まわせるよう意図があったようです。

当時の石神井川は王子から南に下り、不忍池を経て、
谷田川という今はない川を経て神田川に合流。
これもまた、水害をよく引き起こす川だったそうです。

さて、江戸入府を果たした1590年から、
将軍宣下を受ける1603年までの13年間の間の
豊臣政権下の時代に、西の丸下郭(現・皇居前広場)、
大名小路曲輪(現・東京駅丸の内地区~有楽町~日比谷公園)
のあたりをすべて埋め立てによって造成。

駿河台に移住してきた家臣団を水害から守りつつ、
新たに居を構えさせていったそうで。

今の東京の中心になっているようなところが、
全部家康の埋め立て事業によるものなんです・・・!!

当時、家康の石高は250万石程度といわれてますが、
それにしても、大事業・・この規模の築城に当たって
ここまで埋め立てるのはなかなかないでしょ!

ちなみに、東京駅あたりはちょうど
大名小路曲輪の東端に当たり、海だったんですね・・

おもしろいのは、桜田門から北に上がって、
三宅坂を上り半蔵門にかけての桜田濠と、
西の丸下郭に沿っている日比谷濠、馬場先濠、
和田倉濠・・あたりの違い。

前者の桜田濠は、丘陵地に人工的に開削した濠で、
ここで開削した土砂で、西の丸下郭や大名小路曲輪を
造成したんですねぇ。

一方、直線的な日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠は
西の丸下郭や大名小路曲輪を作る際に
残った海の跡なんですよ。だから直線的なんだ。

日本三代水城というと、今治城、高松城、中津城
(いずれも訪城済)を指すのが通例だけど、
いやいや、江戸城こそ日本最大の水城ではないか・・・

太田道灌は丘陵地を選んで江戸城としたわけで、
ずいぶんと趣の違った、「海の城」として、
再び築城された・・というくらい、
大きく様変わりことでしょうな。

ただ、このタイミングでは、一切天守を
築いていない点は、三浦教授の講演会でも
お話されていた通り、豊臣政権に降らないという、
隠れたメッセージがあったのか、
あるいは天下を獲るために、資金を温存するためか。

どうなんでしょうねぇ・・・
ということで、次は天下人・家康としての
江戸城拡張・造成工事に進みます。

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