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twitterがどうにもしっくりこない理由。

ブックマークをため始めて4ヶ月。twitterってなんじゃ?
と考え続けてきたんだけど、なんかあまり気乗りがしない理由が
徐々に見えてきた気がする。

結論から言ってしまえば、twitterの特徴とされる
「リアルタイム」で「場所に縛られず」「双方向」に
コミュニケーションできるというそのものが
自分自身のネットの向き合い方に合わない気がするからだ。

いや、合わないというと大雑把過ぎて、正確ではない。
ひとつには、あまりにもネットとの距離が近すぎ、ということと
もうひとつは、すべてを網羅できないという
えもいわれぬもどかしさ、とかとか。

やってないのに情報だけ集めてるんで、
間違ってることとかあれば、そこんところはご容赦を
頂きたいんですけど。


●スピード感に感じる息苦しさ

心理学で、パーソナル・スペースという考え方がある。
コミュニケーションをとる相手に求める物理的な距離感のことで、
心理的な縄張り意識、とでも言えば分かりやすいか。

親密な関係になればなるほど、そのパーソナル・スペースが
どんどん縮まっていくのだが、程度は個人差があって、
内向的な人ほどスペースが広く、社交的な人ほど狭い。

人と人とのコミュニケーションで、心地よいと感じる
距離感が合うということは、人間関係がうまくいく・いかないの
重要なポイントなんじゃないか、と思っている。

で。

リアル空間での人と人との「距離感」を
パーソナル・スペースとするなら、
ネット空間での距離感は、何に相当するのか?

今は、ないんじゃないかと思う。

個人的に思うのは、リアル空間での距離感に相当するのは、
ネット空間では、「スピード」なんじゃないかと。

ということを頭に思い描いて、twitterのことを考えてみると、
followされる、している人の発言(tweet)がだーーーと流れ、
それを見ながら、気になることにはtweetし…ってやっぱり、
せわしなく感じることが先行する。

ネットと向き合う自分のリズムからは、
あまりにも早すぎるような気がしていて、やる前から
息苦しさや鬱陶しさを感じるわけ。

twitterを使っている人ですら、その手のリアルタイム感が
あらゆるニュースで行われていたならどうか?
と考えたときには違和感を感じるというくらいだし。


●欲張りはダメ、諦めが肝心?

年に何度も、展示会によく出かけているのは、
blogをみてくださっている方ならよくご存知だと思う。

最近ではいろんなジャンルの展示会を見に行くので、
一部じゃ、展示会マニアなんて呼ばれたりもしているが・・・

そのときに、どうしてもやめられないのが、
「全ブースを回ること」だったりする。

疲れがたまっているときに、ビッグサイトや幕張メッセの
端から端まで歩き通すのは、けっこうきつく、
回りたくても、へばってしまうことも多々あるのだけど、
気持ちとしては、「全部回りたい」。

しかし、twitterはそうじゃない。

フォローする・される数が大したことがなければ、
全部くまなく見て回れるかもしれないけど、
ある程度の数になると、全部を追っていくのはムリなようだ。

てか、そもそも全部を追っかける!
なんていう考え方が間違いで、
たまたま目にしたものに興味があれば、
反応すればいいんじゃないの、という感じ。

ムリに追っていこうとすると、それこそ「twitter疲れ」に
なってしまうんだろうな、と。

割りきりが大事、といわれても感覚的にどうも、
「落ち着かない」「キモチワルイ」のはどうしようもない。

容易に想像が付くと思うが、基本的には
モノを「捨てられない人間」でもある。

これも個人の嗜好性によって、好き嫌いが分かれそうだ。


●一国一城の主か、流浪の狩人か

個人的な感覚として、かつて眞鍋かをりが「あそびば」と
表現した
ように、blogはすごく「自分」を表現したり、
「自分」の活動を伝えたりする「場」の感覚がすごく強い。

キーワードは、自分と場。twitterとの比較でいうと、
「場」の感覚があるかどうか、だ。

blogは、箱庭的に自分のスペースをせっせとつくりこむ感じ。
自分の部屋をお気に入りのもので囲んだり、
ドラクエやFFを納得いくまでやりこんで、自分色に染める
という、あの感覚に近いものがある。

twitterには、「場」がない。いや、「場」はあるが、
タイムラインという人(=tweet)が行き交う、
パブリックスペースはあるけれど、自分を表現するために
用意できる場、というものはない。

情報を求めてタイムラインを彷徨う「流浪の狩人」と、
自分の「場」をせっせと表現に邁進する「一国一城の主」。

要は、コレも趣味嗜好の問題だ。
twitterのせいでblogが書けないとかって人は、
twitterだけでいいだろうし、
じっくり考えて文章を書きたい人(わたしもそのタイプ)は、
blogを書けばいいわけ。

並存する人も出てくるんだろう。自分で情報を狩りに行って、
帰る「場」に持ち帰って、より自分色にしてく、みたいな。
時間的にできればいいんだろうけどね。

個人的にはタイトルを付ける時点で重いって、
なかなか感覚を理解するのが難しいけど…


●all or nothingは危険

どんな物事であっても、極論には解はないと思っているが、
twitter的な「時間の共有」がこれからの潮流であって…
という議論もけっこう見受けられるが、
これには正直、辟易する。意外と多くてね。

発明扱いしているのなんて、持ち上げ過ぎでは?

チョット昔に、ネットがテレビや新聞を殺すかと
まじめに議論されていた記憶があるけど…

実際は、そんなはずはなく、
今までテレビを見ていた人の何割かが
ネット中心になるだけ。

もちろん、テレビに携わる人にとっては、
それが危機であることは確かだとは思うけど、
それが即、テレビの「死」を意味することにはならない。

そんな新しいサービスが起こった途端に、
既存のサービスがまったく見向きもされなくなるような、
多様性のない社会だとしたら、そっちのほうが問題だ。

twitterは新しい。その今盛り上がっているなかに
身を置くことが、テンションが上がるのも
分からないわけではないが、少し冷静に
考えてみてもいいのでは。

blogでコレ欲しいっていたら、時すでに遅しって、って何?とか。

RSSって、もう死んじゃうの?とか。

RSSのような特定サイトの更新情報を持ってくるのではなく、
twitterで「関心が近い誰か」が関心を持ったニュースで、
要は人で情報の振り分けをするという発想は、
確かにアリかもしれないけど。

いずれにしても、100%Webの世界がこんな風
「流れの世界」になったら、やりにくくてしょうがない…

何度も書くけど、自分のネットへの向き合い方として、
時間的な概念で進めることは、どうにもニガテ。
静的な場としてのWebと、動的なストリームとしてのWeb。
並存してくれなきゃ、困る。
そんな多様性のない世の中にはしないでくれ。


●で、結局。

基本的にやったみたいと思わなければ、足を踏み入れない。
誰かがやってるから、流行りだからというのは
これまでも一貫して、あまり新しい何かをする動機には
ならないんだよね。自分の場合。

ということで、オモシロイと思う人には、
まぁ、オモシロイと思うんだろうな、ということと
どうやら、自分はその人ではないらしいということ、
この2点は、はっきりした感じがする。

ならば、そう思える日まで、twitterは取っておこう。
twitterを潮流と呼ぶのなら、あえてその潮流から
離れるとどうなるか、ということを体験してみるつもり。

また、オモシロそうと思えれば、
そのときに、やればいいだけの話だから。

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