上野・下野城廻。
さて、土日の話。
またですかぁ、といわれそうだけど、
城廻であります。
いつでも行けるから、ということで
どうしても後回しにしがちな近場。
といっても、今回は群馬・栃木です。
タイトルの上野・下野は
それぞれ、群馬・栃木の旧国名。
あえて読み仮名振りませんが、読めますか?
ということで、まずは高崎城。
●高崎城
JRの湘南新宿ラインで行き先ではよく見る高崎。
たどり着くには、新宿から普通電車で2時間。
長野新幹線に乗ればすぐだが、
例のごとく、18きっぷでの移動なので、
2時間掛けて高崎へ。
ただし、グリーン車に乗って目的地までぐっすり。
まぁ、新幹線に乗ることを思えば。
高崎についてすぐ目に付いたのが、マンホール。
もうどこかへ行くと、マンホール探しが習慣。
わかりやすい消火栓のマンホール。
駅からしばらく歩くと…堀?
あまり城址的な雰囲気はないなぁ。
バックはこんなんだし。高崎市役所。あちゃちゃ。
ココを右手に折れて、しばらく行くと…
ありました!乾櫓。
明治期に民間に払い下げされていたものを
所有者からの寄付で再び城内へ。
ただホントはココにはなく、別の位置にあった。
が、本来あった本丸が跡形もなく消滅しているので、
こうなんというか、博物館のディスプレイ的な置かれ方。
たとえが悪いかもしれないけど、
動物そのものではなく、剥製を見ている感じ。
まー、関東周辺は仕方ないのかもね。
あるだけましかもしれない。
群馬県下唯一の江戸期城郭建築だし。
なんか、ホントこの櫓だけ見た感じで、
高崎を後にする。
帰り際にもひとつマンホール。
ちょっと見づらいけど…お祭りかな?
●沼田城
沼田城、といえば真田氏を語る上では、
上田城・松代城に次ぐ、なくてはならない城だ。
武田家滅亡後、上田から沼田に渡る地域を
支配していた真田昌幸。
実は、昌幸と小田原北条氏との和議・抗争が、
豊臣秀吉の小田原攻略のきっかけだった。
さて沼田だが、一般的にはこのような歴史的なことより、
尾瀬沼に向かうルートのひとつ、
として知られていることが多いだろう。
かくいうわたしも、母が尾瀬が好きということで、
一度連れて行こうとしたのだが、
折り合いがあわず、また来年ね
ということになったのだが、
どうもここから向かうのが、セオリーらしい。
沼田城址となっている沼田公園まで、かなり坂がキツイ。
そりゃそうだ、戦国期の城跡に近いわけだから
そんな平坦なはずがないのだ。
途中、道を間違えとある民家で、
ザッザッザっと。何の音かと思ったら。
でかっ!あまりにでかい陸ガメ。
でも目がちょっと、かわいらしかったりする。
で、ココが入り口。
いかにもな感じがちょっとやだな(笑)
これが沼田城の古地図。
赤で現在地、と書かれている正面に
描かれているのが、沼田城天守閣。
そう、天守閣があったのだ。しかも5層。
しかしですね。沼田藩は3万石。
改易された真田信直は14.4万石レベルまで引き上げた
(要は重税を課したということね)
ということはあるにせよ、たかだか3万石程度の大名が
5層もある天守閣を築けるだろうか?
しかも、建造したのが慶長年間(1596~1614)。
秀吉の最晩期から関が原の戦いを経て、
江戸開幕、そして豊家滅亡、元和偃武と続く。
真田家は長男信之が徳川家、
次男信繁(幸村)が豊臣家にたって、
真田家の存続を図った。
というわけだから、建造したとされる信之は
徳川家ににらまれぬよう、下手な行動はできない
と思われるのだ。
あの伊達政宗でさえ、徳川家に遠慮してか、
天守閣を建造しなかったし、
九州の大藩・福岡藩の黒田長政も、
天守なんぞは要らぬ、ということで建造していない。
なのに、真田信之が建てられるか?
とても、疑問が残る。
さらに上田城との関係は?
どうして、上田ではなく、沼田に天守を築いたのか?
ますますわからない…
要は、かなり怪しいということだ。
一応、想像図としてはこう描かれているけれども…
今ではこう。高石垣はどこへ?
壊すといっても、石垣までなくしちゃう?
今となっては、再建された鐘楼が、
城跡らしい雰囲気を醸し出している。
天守閣、あればもちろん見てみたいのだが…
真田関係のサイトにあった復元図を見ると、
なかなか精悍で立派な天守。
市の観光協会は復元に乗り気。
でも、歴史を重んじる人からは反対の声もあるだろう。
城好きとしては復元してほしいのはヤマヤマだけど。
個人的には別の場所に作ったらどうですか、
という感じですね。もめるんだったら。
遺跡は遺跡として残し、
新たに当時の縄張りから何から
全部つくってしまってはどうでしょうか?
最後に、沼田でもマンホール。
シンプルすぎ?
●館林城
さて、沼田から前橋に引き返し、
両毛線で足利を経由して、館林。
家康の関東入府後、家康幕下の榊原康政が入城。
その他、将軍なる前の徳川綱吉が館林城主。
まずはマンホールから。
なんで、館林にタヌキなのか。
それは、分福茶釜の逸話が
ここ館林の茂林寺の伝説だからだ。
ちょっと腹の辺りが茶釜っぽい?
さて、館林城は沼に浮かぶ特異な城。
沼の中の島が郭になっていた。
が、もうほとんどの沼が埋め立てられ、
どこが本丸なのか、もうさっぱり。
今の地図がこれだけど、左右に長い沼は、
当時はもっと上下にも幅がある楕円形だった。
沼に浮かぶ城。ぜひ見てみたかったものだ。
ちなみに近くにある資料館に、
当時の館林城を偲ぶ模型でもあるかと思ったが、
なーんもなし。
城らしいのは、この土橋門のみ。
沼という特徴はまったく生かされていないが、
とりあえず城があったことだけは分かる。
さて、この後は翌日23日。
宇都宮まで向かい、建設中の宇都宮城へ。
●宇都宮城
宇都宮城は目下整備中であり、
櫓も建設中。
うっすらと屋根が見えるかな?
宇都宮城は地元が主体になって、
募金を募ったりして盛り上げて、
復元活動が進んでいる。
こうした取り組みで城が身近になるといいなぁ。
てか、あっしも募金しようかな。
これが完成予想図。
入り口の当たりはどうなの?
と思う面もあるが、見晴らしもよく
なかなか期待できそう。
ここ最近の工事。
こうやって地道に櫓は造られるのだ。
今は影も形もない城から、
かすかに面影が残る城、
これから新たな時代を作っていく城。
いろいろあるが、ぜひ城は歴史の遺物
としてだけではなく、活きた城として活躍してほしい。
このあと日光にも向かったのだが、
それはまた後ほど、ということで。
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「新幹線」でココログルしてきました。城廻ですか。木造400年以上。松本からやって参りました。地元の人間はあんまり見にいかないんですが。空いているときに天守のてっぺんで昼寝すると気持ちいいかも知れないなあ。
投稿: ぽくぽく | 2006.07.25 14:30
nikko81です。
●ぽくぽくさん
はじめまして。
特に関心がないと地元人は
行かないのかもしれませんね。
わたしも大阪人ですが、
通天閣に登ったことがありません。
投稿: nikko81 | 2006.07.26 23:58
大阪!いったことないんですよ。出不精だし、国内旅行は高いというイメージもあるし。でも、バイクあることだし、全国行脚、すこしはしないといけないかな。
投稿: ぽくぽく | 2006.07.27 09:10