また、週末旅に出てしまった。
火曜から長期出張だというのに…
その行き先は、長野。
昨年から始まった善光寺のライトアップ
「長野灯明まつり」というイベントがあるのだが、
その色とりどりのライトアップが楽しみで、
また行くことにしたのだ。
でも、休みが土日とあるのに、
それにいくだけで長野新幹線に乗るのは
どう考えても癪である。
昨年も同じように考え、あちこち行ってきたのだが、
今年は、昨年に行きそびれたところを
行くことにしてみた。
というわけで2/5(土)は、
真田のルーツを巡ることにした。
この日は、日本史一色でござります(笑)
日本史、特に戦国時代に日本なんて、よ~わからへんわ~
という方は、ごめんなさいです。
早朝の新幹線に乗って降りたのは、長野県上田市。
あの有名な真田幸村の父、
昌幸が徳川を追い返した、上田城のあるところだ。
ところが、お出迎えは幸村氏。
やっぱり、幸村氏の人気は大きいんだろうねぇ。

まずは、上田城。この城が有名になったのは、
徳川家を2度も打ち破ったからだ。
一度目は徳川家康。二度目は徳川秀忠。
特に二度目の秀忠に対しては、
真田昌幸が徹底的に秀忠の目を上田に釘付けにし、
関が原への進軍を遅らせた。
で、合戦に間に合わなかった秀忠は、
家康に大目玉を食らうという
情けない結果となったわけだ。
結局、関が原では徳川が勝って、
真田昌幸・幸村は、高野山に幽閉されるのだが、
秀忠は最後まで処刑を望んだという。
# コイツの器量の狭さが分かるエピソードですな(笑)
という実戦的な城郭のため、
天守閣など飾りになるものはないが、
それはそれで、よいものだ。
城門だけは復元されていて、往時の雰囲気だけはある。


その手前には、「真田石」という石がある。
上田から、松代へ転封になった昌幸の息子
真田信之が持ち出そうとしたが、どうにも動かなかった
というエピソードがあるそうだ。

城門をくぐると、真田神社。
福岡・太宰府天満宮や京都・北野天満宮にはじまり、
甲府・武田神社もそうだが、
実在の人物を「祭神」として祭るのは、
日本だけじゃないのかなぁ。
なかなか他では見ないような気がする。
# あ、三国志の関羽もそうか。神様になってるもんな。
二の丸には、上田市立博物館があり、
真田関係の展示もいくつかある。
そのなかで気になったのは、
真田昌幸が身に着けていたという具足(鎧)。
すっごい小さいんだよな。
昌幸は小柄な人物だったんだろうか…
なんてことを思いながら、
今度は、上田築城まで拠点であった真田町へ。
そう、町の名前が表すように、真田氏発祥の地である。
歴史上の人物の氏(うじ)は、
領地を持っていた地名を関することが多い。
真田も例外ではない。
JRバスが廃線になっていて、ドキッとしたが、
別のバスが運行していたので、一安心。
かなり歩かされて、ちょっとうんざりしたけど、
その途中で、真田町の住民投票を呼びかける
放送が聞こえた。
日曜日(2/6)に、上田市との合併の是非を問う
住民投票があるらしい。
で、この放送は、合併しないよう呼びかけていた。
それは、上田市の財政事情があって、
真田町は単独でやれる、ということだそうな。
でも、今日(2/7)住民投票の結果を見てみたら、
住民は合併に賛成であるようだ。
半数以上、3分の2以下の賛成ということで、
圧倒的ではないけど、住民投票でこうなんだから、
合併の方向に傾くんだろうなぁ。
でも、「真田」の地名はどうなるんだろう?
ま、それはさておき。真田氏屋敷跡へ。
隣に真田歴史館がある。
こんな洒落たオブジェで出迎えてくれる。

中は…意外と新しい情報はなかったなぁ。
来るのは大変だったのに。
隣にある真田氏館跡も、ちょっくら寄ってから
真田氏記念公園へ向う。
その途中、マンホールのデザインに眼が行く。
甲府も確か、武田信玄一色な
デザインだったような気がするが、
こちらも負けず劣らず、真田一色だ。

ちなみにほかにもこんなマンホールが。

着いた真田氏記念公園は、公園とはいっても
石碑があるだけだった。

ここには、真田幸隆・昌幸・幸村の石碑と
真田太平記を書いた池波正太郎の筆で、
「真田氏発祥の碑」、とある。
なんか、真田という名前でイメージするような
動乱や謀略とは無関係っぽい、
すごいのどかなところだ。
でも、こうして郷土の人間に有名なひとがいると、
ちょっと誇らしい気分になるんだろうな。
というわけで、またバスに乗って
上田に戻り、上田から松代へ向った。
松代は、昌幸や幸村と違い、
関が原の合戦で徳川方についた、
昌幸長男・信之の時代、転封となった場所。
それよりなにより、かの武田信玄と上杉謙信の
川中島大合戦の舞台でもある。
松代城は、この時代海津城とよばれ、
信玄が信濃経営の基盤としたところだ。
ということで、松代の「真田邸」「真田宝物館」
そして、松代城へ。
とはいっても、江戸後期から明治期の真田邸は
そこそこにしておき、まず宝物館へ。
宝物館、なんだけど、興味を持ったのは、
さまざまな解説のほうだ。
■真田と伊達
昔は、他家から養子縁組をして、
家系を保つ、ということをよくする。
真田家も例外ではなく、
結構養子縁組をしているようだ。
八代松代藩主・真田幸貫(ゆきつら)は、
寛政の改革で有名な松平定信が実父だし、
十代・幸民(ゆきもと)は、宇和島伊達藩の出身。
実は、真田幸村の子孫が仙台伊達家で存続、
なんていう話もあって、
意外と伊達家とつながりがあるんだなぁ、と。
■真田幸隆が重用されたワケ
信濃の一小豪族であった真田氏。
その真田氏が、武田信玄に重用された理由も
解説されてあった。
というのも、信玄は謙信と直接対決を避けた。
そう、謙信は戦争の達人であり、
とにかく戦争をしたがるわけで、
あくまで、武田領の拡大を目指す信玄とは、
考え方がまるで違っていて、そんなヤツを相手にしてられん
ということだ。
そうすると、信玄の目は上野(こうずけ・現群馬県)に向く。
信濃から上野に向うには、真田を経由するのが近道であり、
上野を押さえておきたい、信玄の先頭になった
というわけだ。
なるほどねー。
もともと甲州の人間でないのに、
武田家の中で、かなり高い位置に
いた理由はそういうことだったんだ。
さてさて、本日の最後、海津城。
城門などが復元され、すこしはイメージを
膨らませることができるようになっていた。

といっても本丸には何もない。
城というよりは、砦みたいなものだから、
当然ではあるが。

ここが川中島合戦の舞台・海津城であったことは、
この石碑のみが示していた。
ちょっと寂しいもんだ。

この日も上杉軍が陣を張った妻女山は、
雲に隠れて見えず。
でも、ちょっと川中島な気分が味わえた。

さて、もう日がそろそろ落ちようとしている。
松代駅の屋根に西日が差し、つららが輝いていた。

さて、この日は松本まで行き、
次の日の白骨に備える。
(つづく)
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