一日遅れもまた、思い出と思って。

昨日の夜、まさに日付が変わろうとする頃。
不満やるかたないまま、追いきれないTwitterのタイムラインを
リストの一つ一つを手繰って、それでも追いきれず、
眠気が強まってきたそのとき。

しまったぁぁぁぁぁぁ

大事な人の思い出記事を書いていないではないか・・・・
あぁ、なんたること・・・・でるふぃさん許して・・・

そんな思いで昨日眠りにつきました。

さて。

お初の方も多いので、改めて解説しておきますと、
今から20年前。インターネットのまだごく初期とも行っていい頃、
パソコン通信を知らないわたしが最初にネットで
人とのつながりができた頃、印象深いお姉さんがいましてね。

毎年、その方の誕生日に思い返しているのです。
・・・それがすっかり忘れてしまったなどとは!

ある意味、供養でもあり、自分の原点を振り返る契機でもあり・・・・

でも、相談したいと思ってももう居ないのだ。

47歳と40歳か・・・もう似たようなものかもしれないけど、
20歳のわたしには27歳のねえさんがまぶしかったな。

10年も経っていくと、自分でも記憶が変容していくのがわかります。
美化なのかなんなのか、繰り返し繰り返し思い出すことで
記憶が強化されていくって、こういうことなんでしょう。

そして、彼女のことはもはや伝説になりつつあります。
思いが深い人のことがそれぞれの人の中で、伝説になる。

ひょっとしたら、武田家の全盛時代を過ごした遺臣たちや、
甲斐の民の中に、武田家のこと、信玄公のこと、勝頼公のことが
伝説化していくのも似たような各人のプロセスが響きあって、
大きな集合体となっていくのかもしれないな、とふと。

いつまでもいつまでも残るWebサイト
無料だったからこそ、でもある意味いつ閉じられても不思議じゃないけど、
まだ残っているんですよね。なんだろうな、墓標というか、
史跡というか、なんかそんな不思議な感じを毎年しています。

読み物いろいろから、ねえさんの人となりがわかると思うんですけど、
こういう残ったものから再構成して、その人となりを感じるのって、
まさに歴史上の人物の接し方と同じなんですよね。
そして、今との断絶や時代感。

そしてもちろんリアルでも知っている・・・と言っても、
実は会ったことがなくて、ホントに近くて遠いのです。
そりゃぁTwitterやってる今でもそんな方はいっぱいいるけど、
絶対的な人数がやっぱり違うから、記憶の密度が濃いような・・・

そうそう、ねえさん(笑)だけじゃなくて、(爆笑)って
よくつかうんだよな。わりと少ないんじゃないか?
とか、さっと文章読んで気づいてなつかしめるのです。

> 文字で伝わる感情が確かにある。
> 文字でしか伝わらない感情が、確かにある。

ほんとそうよね。ライターでもなんでもなくて、
それでも文字を書くこと、文章で、ことばで伝えることを
なにより大事にしていたねえさんらしい。

・・・なんだか、本当に墓参りにしているような気分になってきたぞ。
いろんな岐路に立ったとき、何度相談したいと思ったことか。
そして何より、今が一番そのときだ。

嗚呼、生きていてくれたら・・・・でも。

忘れてくれないならせめて悲しまないで

残された人を縛ってしまうなら、忘れてほしい、
それができないなら、せめて悲しまないでほしい。
10年を過ぎて、ようやくその心境に少し近づけた気がします。

ありがとう。また来ますね。
来年は遅刻しないように、心を落ち着けられるようにするね。

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上司・・・・とは。

明日から、「上司」といわれる立場になります。

自分の関心の移ろいや業界の動向の行く末、
10年以上希望を叶えられぬまま、
あちらこちらをウロウロしながら、
がんばれるだけがんばってしまったのに、
何も聞き入れてもらえなかったことを踏まえると、
これまでのようなモチベーションを維持することが難しい。

いろんな経験が約束の地へとつながっているはず、と信じて
その場その場でやる気をつくりだしてきたものですが、
いい加減、業界を取り巻く状況も変わり、
自分が何をやっているのか、
誇りを持って語れなくなっていました。

その意味では、過去の自分には合わす顔もないほど、
申し訳ない気持ちになります。
もはや、当時に希望を記したメモなどには
向き合う勇気すらありません。

・・・そういう気持ちを確認し、もはやわずかな権限を得たとして、
自分の目指したい未来につながっている
感覚がもてない、そう判断しその立場は辞退しようとしたのですが、
その選択肢はありませんでした。

これまでなぜ高いモチベーションで仕事ができていたのか、
そのモチベーションの源泉はどこにあるのかには、
どうも興味がないようです。あたかも涸れることのない油田のように、
どうもわたしのモチベーションは無限に出てくるようです。

さっさと辞めてしまえば、というのもあったと思います。
これが社会人になったときのモチベーションの
源泉の据え方を間違ったと思うところです。
簡単に言ってしまえばつぶしが利かない。
そういう持ち方をしてしまったのです。

いわゆる就活前の「自己分析」ですね。何が分析なものか・・・・
そういう特定の何かをモチベーションの源泉に
することは、次へとなったときに何を基準に仕事をすれば
いいのかわからなくなるのです。そして、今のまま居つくしかなくなる・・・
違った角度の経験を得ていると誤魔化しながら。

昨日までやる気になっていたことが、明日もまたやる気で取り組める。
いつの時代の話でしょうか。過去の延長線上に現在がなく、
現在の延長線上ともまた違うどこかに
未来がつながっている今、どうしてわたしが人を率いるべしという
判断になるのか理解できません。

明日朝から部下という立場になる年上の皆さんと
どううまくやっていくのか、家族に関しても問題が起こっているなかで、
自分に何ができるのか非常なる不安しかありません。
なまじできるはずという無用の期待があるだけに、
ものすごく重圧感が増してきます。

とはいえ、上司部下の関係で仕事をすることに
なってしまった皆様に、どういうことができるのか。
せめてその皆様に迷惑は最低限かけないようにはしたいと思います。

その人その人のこれまでの歴史、
できること、やりたいこと、何を大切にしているのか、
どうなりたくて、どうなりたくないのか。

そんなことぐらいは的確に把握して、わたしとは違って、
望むように進んでいってほしいなと思います。

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去年の今頃はシリーズ(8-2) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一

さて、後半です。

◆武田四天王について◆
<なぜあの人選?>
武田四天王にしても、二十四将にしても、
後世の人たちが言い始めたものではありますけれども・・・

まずは、諱の話から。武田好きにはもはや当たり前の感はありますが、

馬場信房 → 信春
山県昌景 → ○
内藤昌豊 → 昌秀
高坂昌信 → 春日(香坂)虎綱

ですよね。

ちなみに春日虎綱が養子入りした香坂家とは
元は佐久の国衆、転じて筑摩郡牧ノ島に居を構えました。
現在は、牧ノ島城跡になっています。

ちなみに、「高坂」とあるのは上杉景勝から
北条景広への書状で、当て字として「高坂」とされている
と思われる、ということだそうです。

まぁ、四天王も二十四将も人気投票だったんだ
というのが実際のところなんでしょうね。
その中でもTOP4がこの四名だったんでしょうかね。

石川数正が豊臣方に出奔して後、信玄・勝頼時代の
軍制に関わる資料を提出させて、武田流の編成に
したことなどもあって、甲陽軍鑑が江戸時代通じて刊行が
ずっと認められてきて、ベストセラーになります。

そこで、いろんな人がカタチあるものとして見たいと
絵師に注文をつけ、誰々は入れてほしい・・・のなかで、
必ず登場するのがこの4人、というところから呼ばれたのでしょうね。

<四天王の地位>

さて、この四人、そういった後世の人気投票で
決まったのだとすると、当時の地位・職位とは
まったく関係ないわけです。ふむ。

地位が最も高いのが、山県昌景で
それに次ぐのが内藤昌秀。そして春日虎綱、
最後にくるのが、馬場信春。

譜代家老衆の家であるのは、山県家。
実は(武田家もそうですが)この時代の武田の嫡流は
安芸、継いで若狭だったそうです。

もともと甲斐源氏とはいいながらも、南北朝時代に
武田信武の子の信成と氏信(信頼)がいて、
信成が甲斐を、氏信が安芸を継承しているんですが、
氏信が嫡流というのが、最近の考え方のよう。

このとき以来の譜代に山県氏があり、安芸だけでなく、
若狭、甲斐と山県氏が譜代にいるんですね。
ただ、このときには甲斐山県氏は断絶していて、
その名跡を飯富昌景が継ぐことで、この四人で一番の家格
に位置することになるわけですね。ほうほう。

石和の百姓の子といわれる虎綱。信玄公に非常に目をかけられ、
どんどんと出世していくのですが、やはり当初の地位が低かった
というのは事実。それは、諱に秘密があるそうです。

「信」 … 武田家の通り字、家臣のうち嫡男に与えられる
「昌」 … 武田信昌の「昌」の字、次男以降に与えられる
「虎」 … 武田信虎の「虎」の字、地位のより低い家臣に与えられる

というルールがどうもあったらしいんですね。ということで、
当初(元服時点で)どういう立場だったかというのがわかります。

しかし、そこからこの四人がどういう出世ルートを辿ったかで、
見えてくることもあります。

武田家中のエリートコースといわれるのは、
小姓→近習→御使番→奉行→侍大将→城代・・・
と続いていくわけで、昌景、虎綱、
それに真田昌幸もこのルートで出世をしています。

昌景は江尻城代から駿河郡司、虎綱は海津城代から川中島郡司、
昌幸も西上野郡代になっています。が、信春の場合は
いきなり侍大将に抜擢、牧ノ島城代にまでなっています。

内藤昌秀はちょっと変則的で、小姓・近習時代は確認できない
そうなのですが、奉行からスタートして・・・後は同じ。
最終的には、箕輪城代から西上野郡司になっていますね。

このエリートコースを辿るには、文武両道、正確に言うと、
武勇に秀でるだけでなく、官僚としての能力と経験が求められます。

そこで実績を積んでいくことで、郡代という行政・警察権をもつ存在へと
出世をしていくわけですけれども、信春の場合、
その軍事指揮を買われて侍大将にはなっていますが、
行政経験がありません。したがって、城代止まりなんですよね。
ただ、信春は特定の部門(軍事のスペシャリスト)として、
活躍するタイプの人材だったのでしょう。

身分としてはやや低いわけですが、会社でも
そういうスペシャリストで生きる人もいれば、
エリートコースで出世していく人もいますよね。うんうん。

◆戦国時代の甲斐の経済について◆

朝鮮出兵の話。朝鮮から陶工を連行してきた
のは有名な話ですが、学者も朝鮮から連行してるんですって。
その学者のひとりが、甲斐について記述を残しているそうです。

曰く、田より畑が多く、馬の産地。中の下程度。
ということで、そこまで最貧国とまでは行かなくても、
それでもあまり豊かではなかった、ということになりましょう。

朝鮮出兵後、ということを考えると、武田家が滅びて
20年ほど経った後。ということは、信玄公が家督を継いだ頃は
もっと貧しくて、その中で豊かにしてきてようやく・・なんでしょうね。

甲斐では、吉田を除き二毛作が普及。山林資源が豊富。
これに関する史料も多いそうです。
水害の多いのは、周知の通りではありますね。

「甲陽軍鑑」には、別の観点で甲斐が豊かだった、
と記しているようです・・・それは、敵に
甲斐の地を踏ませなかったから。略奪されないわけです。

そして、どの軍もやっていた(黙認されていた)乱捕りで、
あらゆる動産を分捕ってくるわけですよね。そうして領国が豊か・・・と。
それは生産性を上げるという、長い目で見て成果が上がる
なんて、そんな悠長なことばかりではいかんわけですな。

戦国時代とは、気候不順と飢饉と災害が頻発し、
食うための戦の時代だったという側面があるのだそうですね。

ちょうど大きなタイムスパンで考えると、室町から氷河が発達し、
戦国の終わりごろから、暖かくなり始めて海面が上昇する、
という時期でもあって、これが寒冷期であったんですね。

それによって、作物が取れにくくなるでしょうし、
そんな中で台風がよく来襲したりもしたわけで・・・大変。

領国内生産性を上げながらも、その一方でなりふり構わず
略奪させて兵が豊かになり、さらに他国を侵略して領国を広げる。
そのためには、他国とあるときは手を結び、あるときは手を切り・・・

現代的な感覚で、見誤りますよね。
これが常態化しているということが、「戦国」という、
不安定な時代とも言え、その環境下にあって、
甲斐を豊かにするという自負があったのかもしれません。
そのためには、敵は利用するものだと・・・・そんなように
思いました。まぁ、かなり好意的に解釈して、ですけど(笑)

◆文書の解読◆

元は女性の名前はなかなかわからない、
そして女性の文書(北条夫人願文)の鑑定も、
比較対象が少ないので困難、という話だったんですけれども。

一方で、信玄公や勝頼さんだったらね・・・というところから。
本人はほぼ書状は書かず、花押のみというのがほとんど、
あとは右筆というのは、歴史好きなら知ってることかもしれません。

鑑定するとき、年号が特定できていれば、
その前後の証明済の文書と徹底的に比較して、
その筆跡から、どれか同じもの、つまり右筆の誰かと筆跡が
一致するはずではないか?という比較の仕方をするんですね。

本人書状の場合は、本人のクセ字を押さえておく
というのがポイントになるそう。信玄公の場合は「入」「事」。
後に武田二十四将展を見ると、確かにクセあるなーと思ってました(笑)

あとは墨継ぎね(笑)筆跡を真似ようとしても、
なかなかこれがマネのできない落とし穴。

普通だったら文章のキリのいいところで、
自然と次の文章を考えて筆が止まって墨継ぎするわけですが、
偽物つくってると、筆跡真似るのに精一杯。
墨継ぎが、文章の切れ目と合ってこなくなるんですってね。
信玄公の場合は、けち臭いんでしたよね(笑)
それはまた追って・・・

ということで、ここから怒涛の武田講座の2016年・3月4月5月が
始まったのでした・・・・つづく。

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去年の今頃はシリーズ(8-1) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一

さて、昨年のお話にビューンと戻ります(笑)
昨年の今頃は、初めての恵林寺講座でした。

P1170957

品第一、ということで法華経や甲陽軍鑑なども
章構成をこのような表現していますよね。

『今後平山先生には迷惑なんですが、
ずーっと生きてる限りやっていただきたく』

『平山先生、今の拍手聞きました?』

小野正文・信玄公宝物館長のブッコミ具合に苦笑。
というのも、山梨県埋蔵文化財センター時代の、
平山先生の元上司であられるそうで…ナルホド(笑)

平山先生がアタマが上がらない小野館長との
やりとりおもしろかった・・・

って、本題。このような恵林寺の中で、
講座をやっていただけるのは素敵ですよね・・・・

P1170959

P1170962

今回は、事前に参加者から質問を集め、
その中からピックアップして、平山先生が話を広げてくださる、
という新しいスタイルでした。講師側としては、シンドイだろうな…

◆信玄公の若い頃の話◆

信玄公の生まれた頃や若い頃の話、というのは
一次史料では「高白斎記」に出てくるようで、
蟇目役(ひきめやく)の話から始まりました。

蟇目役、とは貴人の出産や病気のときに、
邪気をはらうために蟇目を射る役

とあります。

このお役目、曾根三河守という重臣が仰せつかったそう。
当時は曾根三河守昌長。後代信玄期の偏諱ではなくって、
まさしく武田刑部大輔信昌の「昌」ですね。

曾根氏は、甲府の南、曽根丘陵のあたりを領した一族。
一説に、昌長は武田信重の曾孫ともいい、
書状では、姓を省いて単に「三河守」と記され、
武田の名乗りと待遇を許されていたようです。

そして縄長、虎長・・・と宗家当主の偏諱が続き、
虎長の子が勝長、すなわち内匠助、のち下野守昌世。
後に信玄公にわが目と称されたもうひとりですね。

同じく、「下」曾根家も姓を省かれるようなので、
武田一族待遇だったのでしょう。
乳母は不明、守り役は板垣駿河ですね。
でも、甲陽軍鑑を見る限り、という状況推測に過ぎず、
甲陽軍鑑に明示的に「守り役」とは書いてないんですって!
最初に「守り役」と記したのは、実は「甲斐国志」。

エピソードは甲陽軍鑑でしかわからないのですが、
駿河から届いた貝を数えさせ、過大評価
しちゃいがちと勝千代君の話や、ウツケを演じた話など。

そのウツケが晴信の作為によるもの、と見抜いたのは
わずか四人だったと伝わります。

板垣駿河、甘利備前、小山田備中、飯富兵部。
板垣、甘利、飯富はよく知られていますが、
小山田備中はイマイチ?かもしれません。

後に、小県~川中島戦線の責任者として、
真田弾正らを率いて活躍する小山田備中守虎満。
信玄からの全面的な信頼を受けているのも、
この頃からの信頼があったのでしょうか。

さて、勝千代、太郎、晴信は、慎重かつ冷静沈着。
こうした子供時代の性格は、天下に聞こえる大大名に
躍進してからも、変わらずにいたような気はしますね。

そんな幼き太郎がいかなる教育を受けたのか?
ということについて、直接的に解る史料はないのだそうですが、
信繁家訓九十九箇条に、ものすごい中国古典から
その論拠・典拠を示していることが知られていて、
現代に伝わらない古典からも、典籍からも幅広い引用。

信繁ですらそうなのですから、況や信玄をやであります。
信玄公のご兄弟だけでなく、武田家の一族、
特に信玄公母方の大井氏は、文化人を輩出しており、
甲斐国守護の家として、高い文化水準の教育を
受ける環境があり、信玄公ご本人の漢籍への興味関心も
あいまって、ものすごく吸収され消化されていったんでしょう。

ここからはわたしの推測ですが、信虎自身は14歳で
家督を継いで戦いに明け暮れる半生でしたが、
京との関係を非常に重視してましたから、
守護家たる武田家の教育とは、どうあるべきか関心が
あったのでしょうか。

性格面では反りが合わなかったであろう太郎ですが、
本人にその素養があるかはさておき、結果的に
その教育への関心が、後の武田信玄をつくった…のかも。

こう考えると、義信・勝頼両氏のことへ関心が向いてしまいます。
おそらく信玄公のことですから、義信さんへの教育は
手厚くされたんでしょうと想像できることと、
早くから諏訪家入りが決まっていた勝頼さんが、
そのような中国や日本の歴史から、大将かくあるべき…
ということを学ぶ機会がなかったのかもしれません。

ホントに遠い遠い遠すぎる遠因かもしれませんが、
勝頼さんのそういう教育環境も後の結果に
つながったのかな・・・などと想像。
確か勝頼さんも和歌の会は催していたように思いますが…

さて、話を戻します。信玄公の受けた教育、
という観点には、臨済宗との関係は切っても切れません。
臨済宗は当時の天下の教養人を相当輩出。

信玄公のバックボーンには、そんな臨済宗の思想が
深く刻まれているわけですね。

「信玄」という法名もまた、師であった岐秀元伯から、
臨済宗にあって高名な関山慧玄の関山派の高僧、
関山慧玄の「玄」の字を頂いたわけで。

ここから信玄公のバランス感覚の話に進みます。

余談ですが、このバランス感覚、ひいては、
物事の全体を見て、局所的に重きを置かないというのは、
わたしも非常に大事にしていることだったりします。

その一端として、一向宗の保護が話に上がりました。
隣国である北条、上杉では浄土真宗を堅く禁じましたが、
信玄公は領国に宗徒を迎え入れ、保護しました。

実はこの保護が遠い先、武田家の命脈が保たれる重要な鍵に
なるとは、信玄公も思ってもみなかったでしょう。
信玄公が保護し、一向宗の寺長延寺(現光沢寺)を開いた
実了師慶は、次男武田竜宝の子を弟子にしています。

そして、武田滅亡の折、この実了が信濃飯山に
弟子にしていた武田竜宝の子、すなわち還俗して
武田信道を匿って、命脈を保つことになるのです・・・・

すべての宗派を受け入れ、保護し、自由な布教を許した
信玄公ですが、法論だけは堅く禁じました。

法論とは、仏教各派の教義の解釈についての議論のことなんですが、
往々にして、各宗派の主張の押し付けと相手の主張を無視し、
相手を論破するだけでなく、法論に破れた者に改宗を迫るというような、
揉め事の原因となることが多かったようです。

これ・・・領国内の秩序が乱れる原因になるわけですね。
法論とは僧同士の決闘のみならず、各派につく信者も巻き込んだ
争いになるわけでして・・・互いの宗派は
おのおの互いを尊重すべし、これが信玄公の考え方です。

この禁を破ったのが、あの鬼美濃こと原美濃守虎胤。
日蓮宗信者なんですが、法論に首をつっこんで、
北条に追放されていました(後に呼び戻されて帰参)

ここからわかることとして、信玄公が仏教をどう捉えていたか、
の一端がわかるとともに、信玄公の基本的な考え方が
現れているようにも思います。

◆信玄公の肖像画の話◆

まぁ、よく知られた話ではあります。
いわゆる成慶院の伝・武田信玄像が畠山義続と思われること、
真像といえば、持明院蔵や浄真寺蔵の吉良義康像
ではないの?ってことですよね。

信玄公じゃないのでは、というのは20年前くらいから
言われているそうですね。でも、成慶院蔵がなぜ違うのか???
について、しっかりと振り返ってみるのもよさそうです。

(1) 家紋の違い … 花菱ではなく二引両紋
通常の人物像とは違い、烏帽子を被らず、
素襖で寛いだ格好ですが、素襖には家紋が一切ない
刀と脇差の柄の部分に二引両紋が・・・

(2) 等伯の落款

長谷川等伯の落款があるので、彼の筆によるのは確かなのですが、
彼が故郷の七尾にいた頃のものであって、信玄公が亡くなる
少し前、信玄公の西上作戦があった、元亀三年(1572年)に上洛。
ということは、元亀三年以前でないと辻褄が合いませんね。

一方、この伝・武田信玄像を見ると、髷があるのがわかります。
ということは、描かれた人物は出家していないことになってしまいます。
信玄公が出家したのは、第四次川中島合戦の少し前の
永禄元年(1558年)。永禄年間の初期・・・だと、
長谷川等伯の事実と矛盾してしまいます。

また、信玄公が出家した時期とその年齢を考えると、
ちょっと描かれる人物が老けて見えるというのも気になる点。

これらを総合すると、信玄公ではなくって、二引両紋を使える身分で、
等伯がいた元亀三年以前に能登七尾に居る人物・・・
ということで、畠山義続ということになるわけです。

さて、武田家の遺品が納められた、高野山成慶院・持明院。
勝頼が自分とともに武田家の遺品が滅びるのは
惜しいと甲州慈眼寺の尊長に託し、それらが高野聖の手によって、
高野山に伝わることになるわけですけれども。

現在、高野山成慶院には、ここで信玄像ではないとされた
伝・武田信玄像のほか、勝頼・信勝・北条夫人三人の像、
持明院には、信玄公が若い頃、出家前の、
武田晴信寿像が伝わっています。

高野山の記録には、他にも信玄公寿像があったとされていますが、
実はこの寿像、現代には伝わっていません。

信玄公の本葬は、武田氏館で長篠合戦の翌年、
天正四年(1576年)に執り行われた後、
信玄公の遺品を勝頼さんが高野山に送ったことがわかっています。

この中に信玄公寿像(=生前描かれた像)が含まれていた
というわけですね。つまり、勝頼らの三人の像や晴信画像が
高野山に伝わったのとは、別の経緯で高野山に伝わったわけです。
描いたのは、武田逍遙軒信綱。

この模本と思われる像が四点あります。

(1) 山梨県立博物館蔵
(2) 浄真寺蔵
(3) 東京大学史料編纂所模写
(4) 個人蔵(長浜市長浜城歴史博物館寄託)

このうち(4)は当日紹介されていなかったのですが、
少し前に東京で行われていた、そして現在京都で行われている
戦国時代展で展示されていて、おそらく(3)と同一なのでは
という気がしますが、寛政年間の写しだそうです。

以下、Wikipediaリンクと戦国時代展図録から転載。

(1) 山梨県立博物館蔵

(2) 浄真寺蔵

(4) 個人蔵(長浜市長浜城歴史博物館寄託)

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おそらく髷があることから、出家直前の三十代前半くらいでは
ということですね。山梨県立博物館蔵、
浄真寺蔵については、写された時期は判明していませんが、
浄真寺蔵はかなり古い段階で、原本に近いとされているようです。

しかし、個人的には、東京大学史料編纂所模写の個人蔵の
信玄公像が一番丁寧な仕事をしている気がしていて、
その信玄公の甲冑姿を一番よく伝えているのではないか、と思います。

というのも、晴信画像を見る限り割と面長であるように思え、
浄真寺蔵では頭が丸く描かれているのに違和感がありましてね。

そもそも頭の形はそう変わらないでしょうが、年代比定も
出家直前と考えるならば、晴信画像が描かれてから、
10年は経っていないくらいなわけで、ちょっと晴信画像とは
異質な気がするんですよね。。。というわけで、
個人的には、(3)(4)推しです、はい(笑)

◆武田家中の酔っ払い・穴山蟠龍斎◆

さて、続いて食べ物・飲み物の話。残念ながら、
信玄公には、食べ物や飲み物のエピソードはないらしく、
どういう好みだったかはよくわからないようなのです。

その代わりっちゃなんですが、酔っ払いエピのあるのが、
穴山伊豆守信友、号して蟠龍斎。

・・・と言ってもなかなかわかりませんが、息子が信君(梅雪)
というとあぁ、とわかる人も多いでしょう。梅雪の父ちゃん。

村上との和睦交渉でも、酒飲んでおじゃんにしてしまい
晴信公曰く「いつものことだけどしょうがない」・・・

しかも、冷泉家への信玄公からの歌の会のお誘いには、
先般の非礼をお詫びしたいと穴山が言っているとし、
今、禁酒をしているともあるそうです。相当やっちゃったんだな・・・

これを聴いてから、わたしもこれから酒の席で失敗して、
蟠龍斎と呼ばれないように、気をつけたいと思います(笑)

◆信玄公の後継策と勝頼評◆

これは気になる、信玄公が後継者育成をどう考えていたかって質問。
また、勝頼さんの評価について。

まずご指摘されたのは、隠居をしないことによる権力移譲・分掌をし、
スムーズに移行することができなかった。。。

壮年期にあって、隠居せずに死ぬまで当主の座にいたのは、
信玄公と謙信公。そして、両者とも権力移譲に
失敗しているわけですね。

義信事件も最も直接的な原因は、対今川家の考え方の相違
ということなんでしょうが、信玄公がなかなか義信さんに
家督を譲らなかったこと、そして勝頼さんが高遠諏訪家を相続し、
しっかり領国経営をやってたとしたら、自分は何も任されず・・・
という焦りや不満があった、とするのは自然なことだと思いますね。

北条、今川、織田、それぞれの例を見ても、やはりきちんと
隠居していて、特に北条の世代交代のスムーズさは
特筆すべきものがあります。

ではなぜ、家督を譲らなかったのか。遠因として内紛続きの
武田家にあってなかなか踏ん切りがつかないのもあるかもですが…

鶏と卵の関係になっちゃいますが、今川家問題で意見を異にし
この状態では家督は譲れないという状況、あるいは、
もっと根本的に、当主としてあるべき心構えがなっていない、
というように、信玄公が義信さんを見ていた可能性もあるかな、
と個人的には感じているところがあります。

義信事件の前に、今川家にべったりで困っているというような
心情を信玄公は吐露していますが、後に本格的に
今川家を追い落とす際に、信玄公は氏真がいかに当主不適格か
をあげつらっている文書があったかと思います。

もちろん、武田が駿河を領有する正当性を主張する目的が
強いとは思われますが、氏真もまた信玄公からすると、
あるべき当主・大将像に適わぬ人物である認識があったような感じ。

つまり、信玄公が当主としてかくあるべしという理想像が強すぎた
という側面もあるように思います。まずは家督を譲ったうえで、
方向付けをするということもできたかもしれないのに。。。

実際、信玄公自身が当主のあるべき像をすごい意識していて、
そうなるように修養を重ねようとお考えだった節は、
すごく感じていますので・・・個人的には理想が強すぎた、
という点も問題点だったのではないか、と思っています。

さて、勝頼さん。もちろん勝頼さんだって、同じように
なかなか家督を譲ってくれない問題に直面します。
重臣が列する軍議にも参加できていないですし・・・

信玄公は勝頼さんを「おっちょこちょいだ」と評しています。
例の蒲原城を落とした際の書状なのですけども、
一軍の大将が前線に出て行って、戦いに出てしまって、
しかもそれを「例式」としていて、それでも自慢げに語ってる。

それは、大将としてというよりは、一部将としての活躍、
と捉えた上でのことのようにも思えます。

そうそう、勝頼さんが高遠から甲府に呼び戻されたのは、
元亀に入ってから、ということは1570年。
義信さんが没して3年後。そして、そのさらに3年後に
信玄公は亡くなるわけです。

それまで長く諏訪勝頼として、高遠を治め、
突如甲府に呼び戻されて「武田」勝頼となって、
わずか3年の時間しか残されていなかったのですね・・・

自身の死期について、予想し得なかったのかもしれませんが、
もしそうだとしても、また勝頼さんを公式的に後嗣と
言いにくい事情があったにせよ、リスクヘッジが甘いとは
言わざるを得ないでしょう・・とは思います。

◆信玄公の死因とご遺骨について◆

これも長らく語られてきたことですが、結核説というのが
あったかと思います。この根拠は、御宿監物友綱の
小山田信茂宛書状によるもの。

御宿監物は、葛山氏元の甥で氏元養子となった
信玄公六男・信貞の後見を務めた人物。
医者でもあり、信玄公の治療にも当たったとされます。

そこには、「肺肝」をその死の原因としています。
この「肺肝」を結核と解釈したのが、結核説。
しかし、これは内臓の病の総称。

しかも、御宿監物文書は偽文書だということらしく、
これを根拠に信玄公の死を語ることができなくなる・・・
となると、甲陽軍鑑しか手がかりがありません。

甲陽軍鑑には、「膈」とされていて、その病に冒された
様子が記述されています。曰く、心身くたびれ果てていて、
神経をすり減らしていた、よくなったり悪くなったりを繰り返す、
亡くなる直前は、口臭がひどく歯が抜けたと・・・

これをとある番組の一環で、医学史に詳しい
順天堂大学名誉教授、酒井シヅ博士に鑑定を依頼したそう。
そうすると・・・ストレス性食道がん、もしくは胃がんとのこと。

口臭が内臓が冒され腐敗臭がし、歯槽膿漏で歯にできものが
できたのではないか、ということなんだそうです。

信玄公が人を育て、その才覚を見抜くということは、
それだけ我慢強く、気を遣いすぎる人でもありました。

さらに信玄公が置かれた環境は、ある種自分で招いたところも
ありはしますが、義信との対立と死に追いやってしまったこと、
北条を敵に回して窮地に立たされたこと、
織田との全面対決に突入していくこと・・・ストレスの連続。

ご遺骨ですが、おそらく長岳寺から遺骨が出てきた?
というのは伝承であり、しばらく甕に入れられて保存された後、
甲府で荼毘に付されたのは、天正玄公仏事法語からも確実。

で、まだ蓋然性があるとされていたのは、龍雲寺の遺骨。
北高全祝は信玄公はもとより、信虎の葬儀にも参列していて、
後でわかった(武田二十四将展)ことですが、
逍遙軒信綱の逆修供養(生前供養)も行っていますし、
真田昌幸は信綱寺に信玄公廟を造るにあたって、
佐久龍雲寺領を信綱寺に寄進するといっています。

信濃のお寺ではあるのですが、何かと武田家の
仏事には深く関わっているんですよね。

龍雲寺には北高禅師が信玄公を荼毘に付して
埋葬したという内容の記録もあるそう
ですが、
さすがにそれは、天正玄公仏事法語から否定されるとしても、
参列した北高禅師が分骨された遺骨を持ち帰り、
龍雲寺に埋葬したというのは、十分にありえることではあります。

DNA鑑定でもすればいいんでしょうが、何を以って
信玄公のご遺骨かを判定・照合すればいいかがないわけで・・・
恵林寺には埋葬されたのでしょうが、百回忌の際に建てたれた
現在ある信玄公墓より以前、どうなっていたかまるでわからず。

織田の兵が墓を暴いていても、おかしくはないわけですよね・・・
ただ、墓石のみを倒して破壊しただけという可能性もあり、
そこのところは闇に包まれたまま、ということでしょうか。

ということで、前半終了です。盛りだくさん過ぎる・・・(笑)

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