2024.04.10

わたし、そういう立場なんですよ、姉さん。

4/10はでるふぃさんを偲ぶ日。54歳かあ。

姉さんそろそろアラ還やな。早いもんやで。

 

ちょっとうれしいことがあってねえ、ご報告。

自分のとこにいた若手を送り出すことになって、

振り返りをしているときに、すごくその人に合った接し方が

できてるという認識をお互い持ててたみたいで、

うれしいし、有り難いことだなあと。

 

後進を見守る立場になって、お互い納得できる関係を構築でき、

羽ばたいていく姿を見送るのは、すごくいいなと思って。

姉さんならどんな感想を持つか、聞きたいんだ。

 

ガッツのある人だから、やや放漫気味な感じで、

で、あれって時は間に入るってスタイルで。それがねえ…

彼にとってもよかったみたいで。

 

そして、自分じゃなかったら、もっと引っ込み思案の人なら

判らないことを判らないと言えない人なら、

つらかったかも、という立場の違う人を慮ることもできて。

 

なんだろう、ある程度年を重ねると、こうした人の成長を願い、

喜び、後押しをすることにある種の生きがいを感じるものって

気づいたんですよ。わたしに接してくれた姉さんも、

そんな感覚をお持ちだったかも知れないな、とふと。

 

そちらに行く時にはいろいろ土産話をもってく、って言ったけど、

土産話が多すぎて覚えていられないかもしれない(笑)

その時にはたくさんお話ししたいな。

 

まだまだ溜めていくので、お楽しみにね。

 

 

 

2024.02.01

すっかりblogというよりも…だけど。

2/1はblogをはじめた、というか、Webサイトから切り替えた日。
ちょうど20年になる。ただ、Twitterをはじめたのも揃え、
こちらは13年。Xなどという、いかがわしい名前になっても、
存在感としては、やはりTwitterの方が大きく、すっかり、
blogの記念日というより、Twitterの記念日になっている…が。

すっかり、blogという存在の影が薄くなり、
長文でアウトプットするなら、今やnoteなのだろうけど、
同じにプラットフォームに居続けられるという安心感。
niftyにはがんばってほしいものである。

変わっていくもの、新たに生まれるもの…とかく、
Webサービスとしてはそういうのが多い中で、
続いていくものというのは、大事にしたい。

Twitterが信用ならないので、代替として新しく始めてみたのも
たくさんあるけれど、Mastodonにしても、BlueSkyにしても、
タイッツーにしても、やはりそれぞれの世界が形成されていく。
たとえ、それらがFediverseとして連合したとしても、
それもまた独自の何かになっていくことだろう。

blogというプラットフォーム、当初はトラックバックといった
異なるblog記事間でつながれる仕組みはあったけど、すっかり廃れていて、
「つながる」という側面はほぼなく、逆につながらずに、
壁打ちに近い想いの吐き出しができる環境のひとつになっている。

そういう「つながる」のは、それこそSNSに持って行かれてるだろうから、
今更、blogにはなくていいのだけど、これからどう
生き残っていくのだろう、とボンヤリ考えてみる。

noteは有料コンテンツ化可能だったり、カネの匂いがするのが気になるけど、
それを除けば、盛り上がっているという以外に特筆すべきものを感じない。

SNSとは違う、思いの丈を思いっきり吐き出すもの、短文を大量に、ではなく
まとまった文章を表出させるものとして、どういう進化があり得るのだろう。

もちろん、地殻変動のような、大きな変化は求めていないのだけど、
ある種の伝統産業のような、昔ながらのやり方を頑固に…というものでもあるまい。

十年一昔、とは言うものの、あまりに世の中が変化しすぎて、
もはや10年じゃないよね、と考えて調べてみると、こんな記事がある。

ということを考えると、blogサービスはそれ以上であって、
ココログの開始は2003年12月で、ライブドアブログやはてなブログあたりも同じ年
当時からこういうトレンドは結構みていたので、始めたのはかなり早かった。

それからblogがどう変遷してきたのか、あんまり正確に把握してきてはいないけど、
ある程度の小さな変化はあってほしい、でもサ終含む大きな変化は要らない…
という、わがままを抱きつつ、あと10年20年30年と書き続けていきたいな。

今年になって、BlueSkyは日記として利用してみているのだけど、
またそれとも違った、ある程度間隔を置いた振り返りをするツールとして、ね。

Twitter登場前は、今のTwitterみたいな時事ネタへの反応や、
旅の記録みたいなのも、全部blogだったから、位置づけが変わっていくのは、
SNSが割拠するこれからの影響を受けて、blogの位置づけもまだまだ変わるかもね。

 

2023.12.31

武田で振り返る令和五年と来たる年の展望

毎年恒例の年末振り返り。昨年は三方ヶ原合戦(笑)の途中だったので、
行えませんでしたが、昨年末から今年はいろいろと充実したこと、
厳しかったこと、結構極端でなかなか体力気力を求められる1年でした。

大河ドラマ どうする家康については、付いていくのがしんどくて、
いろいろオーバーフローなところもあって、こちらで愚痴っていますが…

その分、充実感も高かった1年。もう少し来年は落ち着き、
腰を据えて…とは思いますけども、

①甲斐武田氏と戦国京都オフ開催とその余波
②三方ヶ原合戦前後の武田軍の足跡を歩く

の2点が特に印象的な今年。それ以外ですと、Twitter滅亡元年…でしょうか。
Twitterの話は以前に書いているので、①②で今年を総括してみます。

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①甲斐武田氏と戦国京都オフ開催とその余波

最初に印象深いのは、三方原・上洛オフの上洛編だけをやったオフ会。
三方ヶ原合戦450年の後、武田軍が上洛したテイで京都の武田史跡(主に古文書が残る寺院)
を巡ったのだけど、正月三が日にやる頭のおかしさだったので、
これだけ別にやってくれ!というご要望をいただき実現。

ほんとねえ、すっごい関連書籍あたって、その所縁を調べたわけさ。
そういう関わりのある寺院に、あるところは信玄公自らお出ましになるかも知れないし、
使者を派遣したかも知れないし、また寺院側から使者が参上したかも知れない…

上洛したはいいが、どういう廻り方をしようか?というヲタク丸出しの発想で
調べはじめたわけだけど、これがすごくおもしろくってね。
これをオフ会丸2日、ずっと喋ってました。それこそ喉がやられそうになるくらいに。
ちょっとこりゃ、講演会の後のビールが美味いわけだ…と某先生のいつもを追体験してみたり笑

武田信玄という人物を違った側面から知るキッカケにできたし、
まだまだ調べ尽くせない…というところから、戦国時代の関心の持ち方として、
今後のテーマのひとつになったということが、印象深いですね。

普通、歴史ヲタクでテーマとかないわ…と言われそうですが、
なんでも吸収するのもいいけど、テーマに沿ってそのひとつひとつが
数珠つなぎになる楽しみはかけがえのないものでして…

オフ会を終えてからもまだまだ調査は続いています。それ調査旅行やん…とか言われながら笑
複雑怪奇な寺社の世界、そして武田家との関わり。ホントすごく多様で。

それぞれがそれぞれの背景と、中世当時の事情を抱えていて、
そこと信玄公との関わりを観ると、その複雑さだけではなく、朝廷(天皇・公家)や幕府とも合わせた
重層的な中世の複雑さと、それらと更に複雑に関わり合う戦国大名としての武田信玄の姿は
戦国時代の武家の抗争とはまた違った人間模様が見えてくるような気がします。

オフ会をやるのに、それなりに資料をまとめたので、これがその後さらに追跡調査をする上でも
役立っているんですよね。それと昨年来、相当図書館、特に国立国会図書館に通って、
国会図書館の使い方に慣れてきたのも大きいですね。
今更ですが、図書館の活用方法が日常に根付いてきた感じがしてきていて、
自分の中では、知識の深め方が確立されてきていい傾向。

また、今年はどうする家康があったことで、家康との関わり、また家康と周辺諸大名に関わる
著作が多かったのも印象的。もちろん、家康と信玄公・勝頼公もありますが、
今川氏真や北条氏政などの関係も興味深く、武田氏を考える上でも押さえておきたい…

もちろんとてもじゃないですが、すべては追いきれず、来年に積み残しとはなりますが…
まだまだ、朝倉義景没後450周年ということもあって朝倉義景、ひいてはその同盟者浅井長政…
さらには、その思想性や戦国大名の発達段階を考えて北条氏綱も興味深い。

ようやく、寺社から始まって周辺勢力からみた武田信玄・勝頼という視点のおもしろさも
自分の中で、本格的になってきた気がします。

②三方ヶ原合戦前後の武田軍の足跡を歩く
続いて、三方ヶ原合戦の足跡、またその前哨戦の二俣城攻城までの別働隊の足跡を
徒歩でたどって歩く…というの、本戦ももちろんですがちょくちょく進めています。
歩いてこそ判る高低差、距離感、現地だからこその気付きもあって、これまた楽しい。

堀江城については、昨年少し(ほんの少し…)研究に資することができたことがあったのですが、
それが講演会という形で大々的に企画となって、もちろん堀江城と武田信玄というテーマそのものの
お話も興味深かったのですが、社山城から堀江城に向かって武田軍ルートを辿ったり、
堀江城包囲陣地跡を現地で、また大草山から特定してみたり…などと、
今年になって、ますます堀江城がわたしのなかで思い入れの深い場所になりました。

何より、昨年の、ほんの思いつきの行動がこんな大きな地元の活動に繋がっている…
という、なかなかない感慨深い経験ができましたね。

まだまだ、袋井における秋山の攻勢・撤退路や三増合戦に至る行軍路、
勝頼公の長篠撤退路…など歩きたいところがたくさん。
まずは、新府から景徳院を歩き通してみたいと思います。

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まだまだ今年やり切れなかったことがありますが、来年は特に、積み残している
本や論文からのインプットを増やす、というのをやって、知識の幅と深みをつけていきたいですね。

あと、ちょっと大河ネタに忙しくて城がおざなりでもあったので、
城方面(丸馬出関連)についての追求もわすれずに。

「甲斐武田氏と戦国京都」と「丸馬出の起源と発達、分化」とともに、
高野山にあったと思しき武田信玄甲冑像の行方を追うというのも、自分の中で大事にしたい
テーマとなっていて、自分の関心の持ち方の軸ができてきているのはうれしいですね。

慌てず騒がず、徐々に決まってきたこの3つの「テーマ」に沿った活動を、
10年、15年、20年先を見据えて、知識を蓄積して自分なりに消化・昇華できるようになりたいな。
これもまた、自分の「人生の着地」のひとつ…

本業で行き場を失いかけていた好奇心。ウイスキーに行ったり、城に行ったり…
ですが、再び歴史にもどっぷり…が2014年あたりくらいから、と考えると、
もう10年になりますね。ホント、好奇心を満たすことに伴う充実感は最高だな…

と、来年ももっと城に武田に、充実していきたいと思います。
それでは、みなさま、よいお年をお迎えくださいませ。

2023.09.09

人生の着地をする準備。

前身のWebサイトを始めてから23年。

当時23歳だったということは、ちょうど人生の半分、

何らかの形で、思いの丈を吐き出し続けてきた、わけだ。

 

当時は思った道で、何かをを成そうとしていたことを思うと、

忸怩たる思いも残ってはいるが、その一方で、もはや

「その道で何かを成す」こと自体、今では意味が失われてしまったわけで。

 

つくづく目標の立て方がよくなかったなと思ったりもするが、結果論。

当時はそれ以外になかったかな。

 

それでも様々な好奇心は、時に自重しないといけないほどいくつも持ち続けて、

各々経験と知識をつけて楽しみ、それなりに忙しく過ごせていて、

思い描いた道から逸れた割には、一定のしあわせさを噛みしめられている。

 

先日、終活ノートの話題を目にして、ああ、必要だな…と切実に思えてきた。

人生の幕引きくらいは長い時間をかけて、しっかり準備して

悔いの残らないようにしないと、と。

 

ま、死ねば悔いもないわけだけれど、自己満足の一環として、ね。

 

自分の親の終活の見事さには、本当に頭が下がるのだけど、

それは人生60年を区切りとして、そこから逆に今に向かって目標を立てて、

その軸がブレることなく、変化に対応できる人であり、時代であり、

環境だったからこそ、とも思うわけで。

 

いや、今でもそういう決意の仕方をして、やり遂げる人も

中にはいるのかもしれないけど・・・

 

言い訳じみているが、自分が社会に出てからの

世の中に変化に即応しつつ、そのような計画的な生き方は、

ついぞ、することは叶わなかった…のだけど、

自分が大切に思うに至ったあれこれを手放す、そのあり方くらいは、

うまく着地させてみたいものである。

 

自分自身では、今そこまで年齢を重ねてきたと実感を強く持つような、

具体的な心身の変調はないし、大減量をしてからというもの、

からだへの関心がすごく高まっている。

 

ただ、人生の半ばを過ぎたなという感覚は、おぼろげながらであれ、

人生の着地点を意識することへとつながっていて、

これは両親と死別したことも相俟ってか、これまでにない感覚。

 

終活ノートのツイート投稿者の思いとしては、

老いも若きもいつ死ぬかはわからないということに

備えてのことで、それはそれで意味がある。

 

ただ、それだけでなく、なんというか、心身が明確に変わって老いる前の、

老いる準備として必要だな…と思ってたのはこれかもな、と。

 

人間関係や関心事の棚卸や、自分を形作ってきた結果としての、

「日光氏の文物」の行方だとか…いろんな後始末。

 

いわゆる遺言的なものの標準に加え、親がわたしに遺したときの

過程なんかも参考になるが、一連のツイートは参考になった。

今までから思い返してきたことだけでなく、こういうことも

事前に決めておかないとな…とたくさん気づきがある。

 

そして、これらを明確な、でも遠い先(と思っている)ターゲットを

意識しながら、カタチにしていく作業。

 

独り身で年を重ねるからこそ、特に早めに意識するのだろうだけど、

本当はDINKSでも、お子さんがいる家庭でも、

必要なことなんだろう…楽しんで生きて、じゃっ!あとはお好きに!

という人でない限り(これはこれでいそう)はね…

 

あと、、託す人探しかな。血のつながった家族でも、

人生のパートナーでも必ずしもない、後始末を託せる人。

多様な生き方が併存する今こそ、特に「託す人探し」は大事かも。

その人と関係性を維持し続けられるかも、わからないわけだが…

 

そう思っていても、結局完遂できずに終わってしまうかもしれないけど、

長い目でみて、できることをやってみよう。新たな楽しみでもある。

 

からだが思うようにならず、だるく苦しいながらも、

託せる人にすべて思うように託せられて、

安心した表情をしていた親父を思い出しながら。

2023.06.06

かわいい

唐突ですが、、、わたしにとっては、「かわいい」って解りにくいんですよね。傾向的に男性のほうがそうだったりするかもしれませんが、単純にそうとも思えず、「かわいい」とは何かを科学的に(かつ手軽に)知りたい欲があったりします…ということで、ちょっとザザッと検索してあれこれ考えてみました。行動科学の観点から「かわいい」の研究をされている方がいるんですね。

 

こちらの記事も参考にはなるのですが、海外でも知られる「kawaii」との比較に重点が置かれているので、関心事とのズレがあります。とはいえ『「なんとなく分かるでしょう」で済ませてし』まえない、という意味では、根底では通じる部分はある気がして。「対象に近づいてそばにいたい」という、発言者の感覚を表しており、対象の性質ではない。『ある対象を「かわいい」と感じるかどうかは、その対象と自分との関係性によって変わる。だから、人それぞれであり、状況によっても異なる。』というのに、なるほどなあと一旦は納得。考えてみれば、そもそも「かわいい」に「愛す可し」と漢字が振られていること自体、発言者の心理状態を踏まえた漢字の当て方、といえるのかもしれないな。

 

とはいえ、この「かわいい」に対する分析、ちょっと異論もあります。仮に、対象に近づいてそばにいたいという発言者の感覚だとしても、個人的には、他人の「かわいい」との表現に違和感を持つほかない場合もたくさんあって。例えば、ここの実験で言及されている「女性の方が写真をよりかわいいと評価しましたが、行動成績の上昇に男女差はありませんでした」という結果は、男女間の(と言いきっていいかは慎重になりたいですが)「かわいい」観、「かわいい」と評するものというぼんやりとしたイメージ、「かわいい」という表現の親しみ具合、、、などいろいろな認識差が考えられます。

 

結構、象徴的だと思えるのは、女性は男性を評して「かわいい」ということもありますが、割と受け入れるのにわだかまりを感じる場合ないでしょうか。また受け入れたとしても、解らないけど、ポジティブな評価だからよく受け取っていこうというような、理解を保留にした受容という場合だってありえます。『女性は何でも気軽に「かわいい」と表現し』とあるのですけど、あくまで一般論で「かわいい」ということばを使い慣れている男性もいるはずなので、ここでは「かわいい」という表現のすれ違いは、何に起因するのか?という問いを立ててみたいと思います。

 

「なぜ戸惑うのかというと、かわいいのは赤ちゃんであったりペットであるという思い込みがあるからです。そこで、日本には“キモかわいい(creepy cute)”という言葉があるのだと説明しました」というくだりがありますが、これ結構重要なポイントに思えて。発言を受ける側が想定する「かわいい」範囲から逸脱した、発言者の「かわいい」に対する戸惑いは、「フクラガエルやカエルアンコウのような醜い動物をかわいいと感じるのはなぜか」に似た側面があるように思います。

 

つまり、本来「かわいい」と評する範囲は自由に定義されうるものの、文化的背景や成長過程における人間関係などでおおよそ規定され、そこから逸脱した「かわいい」には違和感を感じるのかなと。そりゃあ、どんな言葉であれ、その言葉が指し示す内容に差があれば、混乱しますよね。「かわいい」だけではないにせよ、結構、「かわいい」と言える範囲(想像できる範囲)には個人差、あるいは属する集団間の差があるにも関わらず、その差があることをあまり明示的に認識されていないのかもしれません。

 

ここからは想像ですけど、より多くの対象を「かわいい」と捉えられると捉えられる人のほうが、そうした異なる「かわいい」観に出くわしたとき、まあそういう「かわいい」もあるか、と柔軟に考えられるのではないかなと思ったりしますし、逆に「かわいい」というのはこういうものだと、なりうる対象の範囲が狭いと、そうした「かわいい」間の認識差に遭遇しても、なかなか受け止めがうまく行かず、自分の「かわいい」範囲を逸脱する「異次元のかわいい」評が、当惑や混乱、最悪不快感になりえることもある気がします。

 

そういう意味では、「かわいい」も暴力的になり得る側面もあって、「何でもかわいいとばかり言う」式の揶揄は、受け取る側に取っては、対象範囲は広すぎる言葉の使い方の圧力に対しての反撃という捉え方もできると思います。もちろん、「かわいい」が発言者の感情表現なので、あれもこれも「かわいい」こと自体は全然いいことで、揶揄するものでも何でもないのですけど。「かわいい」(だけでなく、どんなポジティブな言葉)も万能ではないということなのでしょうねえ。

 

…と考えてきますと、「かわいいとは多様であり、かわいいかどうかを最後に決めるのは自分である」としても(これは同意します)、「かわいい」観のコンフリクトがありうることは、考えに入れておいた方がいい気がします。「何に対してもかわいいと思えるようになったら、それはもう無敵」はちょっと言えないかなあ。「いいんだよ、乗り越えろよ!」も一つの解ではあるとは思いますが、やや乱暴な気もしていて。表現は悪いですが、硬直して「手垢にまみれた」イメージがある「かわいい」よりも、ニュートラルな…「自分に快い感情を生じさせ、近づきたくなり、関わりを持ちたくさせる対象にに抱く感情」を表現する言葉があってもいい気もします。ま、当面「かわいい」というしかないか。

 

尚、当人はこの「かわいい」観、従来よりはそれなりに広がった感覚はありますけれども、やっぱり「かわいい」にはちょっと身構えてしまうのです。

2023.04.10

53歳と45歳

歳を重ねると、なぜだか、その年の差を感じにくくなる。

今日は、わたしにとっての大切な人の誕生日。

まだこの世にいれば、、、53歳。

 

わたしが関わりを持ったとき、若い大学生と27歳のお姉さんだった。

でも…差は同じなのに、今単純に数字だけをみてしまうと、

その時に感じた年齢的な距離感があまりなくなってしまうな。

…それくらいの年月が経ったのだな、と。

 

この四半世紀、ネット空間でいろんな人と関わってきたわけだけど、

ずっと心に残っている人も、珍しいかもしれない。

 

関心でつながるネットでの出会いは、ほんとに楽しいものだけど、

彼我の関心もまた移ろいやすく、社会変貌の影響を

容易に受けもするわけで、そうそう長続きしないもの…ではある。

 

2008年以降のウイスキーつながりの方々はまだつながりがある方で、

それ以前はプラットフォームの盛衰やライフステージの変化、

個々の事情もあって、つながりを持てる人は相当限られている。

 

その意味では、その関係が固まってしまっているからこその、

こうした年1回思い出す…思い出せる…思い出そうと思える人なのかもしれない。

 

やっぱり、価値観に響くところが大きかったんだろうな。

|これからも,お互い「書きたい衝動」を大事にしようよね。
|いつも何かを見て何かを感じられるように。
|無関心・無感動・無神経,にならないように。

とか、代表的に、記憶に残ることばである。

 

どれほど体力や気力にあって、まわりの変化に柔軟に付き合えると

胸を張ったとしても、これまでに通り過ぎてきた過去との

距離感に向き合わねばならない実感が、歳を重ねている現実を突き付けるよね。

 

時間感覚の違い、これはやはり年を重ねないとわからないものかもしれない。

そういうことも土産話にして、向こうへ行きたいものだね。

経験したくても、できなかった人…だからさ。

 

還暦迎えるときには、赤いチューリップでお祝いしよう。

2023.02.01

End of Era"s"

2/1は2004年にblogを、2011年にTwitterをはじめた記念日、ということで
毎年振り返りの機会にしているのだけど、それよりも…
1/13以降のとある事件のことに言及せざるを得ない。

というのも、TwitterがAPIの公開に制限をかけ、非公式のTwitter
クライアントアプリを実質的に締めだしてしまったからだ。

人によっては、公式アプリでも十分その人の用を満たしているのだろうけど、
情報収集にあたって、とかく見逃しを嫌い、設定した範囲(=フォロワー)の情報は
すべて目を通したい欲望の強い人間にとっては、非公式が必須。

かつて、Twiccaが提供終了になったときも大層苦労したものだが、
今回はほぼ行き先がないという苦境。

幸い、Twitpaneの作者様がいろいろ知恵を絞って生きながらえる方策を
探ってくださっているので、当面は致命的には困ってないが、
当たり前だけど、こうした情報収集の重要な術の存立が、
一企業の、それも外国の企業の判断に依存している怖さを思い知る。

かつては、自分でWebsiteをつくって、blogサービスに移り、
そしてmixiからSNSの世界に入り、今やTwitter(とその他各種)と
プラットフォームを変えてきたわけだけど、危うさを孕んでいながらも、
関心事で縁を紡ぐためには、SNSは欠かせず、そして関心事に繋がる情報を
網羅的に触れてしまう欲求が膨れ上がってしまう。

あくまでSNSは「広告媒体」が本質なのだけど、いつしか
インフラ的な側面を帯び始め、しかし経営観点で広告媒体としての価値向上に
軸足を移してしまうと(向上しているか?はさておき)、
そうした関心事で人と繋がるためのインフラは、いとも簡単に危機を迎える。

人と人との縁は、何らかの共通項はあって成り立つ。
血縁、地縁が基本的な縁のでき方で、学ぶという共通項からは学縁、
同じ会社や同じ業界という仕事の縁(社縁?)というように広がっていく。

だけど、ここ四半世紀くらいで、自分の持っている関心事で縁を紡ぐことができて、
いろいろあったにせよ、基本的にはそれをものすごく楽しんできて、
いろいろな知的な刺激や価値観の醸成につながってきたなと思っていたのだけど、
こんな簡単に関心事に従って情報収集する延長にできる、
そんな縁の紡ぎ方に不安を憶えるとは…と、ちょっと愕然とする。

多少大げさではあるのだけど、ある意味では脆い基盤のうえの、
こうした関係性の構築のやり方だけに依存しないように見直さないといけないのかもな、
と、あれ以来思うようになった。関心事で縁を繋ぐことに、ちょっと無邪気に
信を起きすぎていたかもしれないな、と。

改めて思えば、繋がるとの時は関心事という共通項はあったわけだけど、
他人も自分もたまたまその時に、関心が交錯しただけであって、
自分も他人もその向かう先は、いつも確かな方向を向いているわけではない。

関心でつながるということは、彼我の関心の変化で実質的なつながり方が変わらざるを得なくて、
つながっているままの面倒さ、苦しさ、鬱陶しさは、血縁、地縁などとはちょっと質が違うが
でも、やっぱりありはして。お互いをつなぐ「興味」がそれぞれ遠くに行ってしまってなお、
繋がっているその関係は何なのだろうか。

プラットフォームを一企業の判断に委ねざるを得ないという意味での危うさだけではなく、
そもそもの、関心事で繋がること自体の危うさもあるではないか。
人付き合いのあり方にどう向き合っていけばいいのだろう。

Twitterrificの作者が、Twitter非公式アプリの締め出しについて、
ある一つの時代の終わり…End of an Eraと表現したのだけど、
そうしたTwitterの一時代というだけではない、この四半世紀の見直しを突き付ける、
という意味でも、ある種の一時代の終わり…の始まりかもしれない。

自分の中だけのことか、多くの人もそう思うことに今後なるのかは解らないが…

2022.09.09

WAGAMI NO OWARI

物騒なタイトルだが、「そういう欲」にとりつかれたというわけではない。
とりあえず、ご安心いただきたい。

40代も半ば。ちょっと所感が変わってきているな、
という印象があったので、blogの前身となる、
Webサイトに文章をあげはじめた
この、重陽の節句に書き残しておきたい。

年齢というよりは、両親の他界とコロナ禍による生活の変化によるものか…
終活を考えねばな、という気になっている。
そう、「我が身の終わり」を意識して、そこから逆算して
どう歩んでいくのかということだ。

・一旦これまでの価値観は横に措き、今これから何をしたいのか。
・自分の持つもののうち、何を誰に伝え、残していくのか。あるいは残さないのか。

そんなことを大事に考えながら、過ごしていくのがいいのかな、という感覚。

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減量もしたことだし、フィジカル面では、実はあまり老いを感じることはない。
いつもどこかに痛みを抱えていたりもないし、体力の劇的な衰えもない。
血液検査の結果も比較的良好。まだまだ酒やうまいものも、楽しめそうだ。

食べる量が…という話はあるが、それは年齢による代謝の問題で、
感覚的な老化感とは、また別の話である。

白髪は増えたが、特に髪が薄くもならず、なぜか肌つやもいい。
このあたりは、温泉のおかげなのか、よくわからない。

メンタル面はといえば、一時期のメンタルが疲弊し、それがフィジカルの
不調にまでつながって、軽い(?)鬱状態を経験していた頃から比べると、
メンタルの調子も実にいい。まさに、甲府効果といってもいい。

だから、老いたと感じるから、終活せねばと「受動的に」考えるのではない。

跡を濁さずにその日を迎えることを目標に、限られた残り時間を横目に、
自身の欲と正直に、どういう欲も否定せず、向き合ってみる。

そのことで、仕事を通じた成果を励みに生きていく価値観の行き止まりから
脱却して、日々の指針のようなものがつくれるかもしれない
という気になってきた、というわけだ。

…………………………………………………………………………………………

亡くなる数年前から、仕事の悩みやつらさを話したときに、
親父がアドバイスしてくれていた「第二の人生を考えよ」というのを思い出す。

やり手の技術屋として、社内で高い評価を受けていたものの、
自分の意思で仕事を決めきりたいと、脱サラ・自営業に投じたわけだが、
そういう自らの身の振り方を踏まえ、根本的に今までと違った
過ごし方を考えてみてはどうだ、ということだった。

もちろん、それは想定としては、転職を促すものではあったに違いなく、
そういう検討もしてないではない。

しかし、今やもう、仕事を通じて、仕事を起点に、自分の生き方を規定する
ということに対して、もういいかな、という感じで。

「コロナ禍による生活の変化」の最たるものは、甲府への本拠地の移転である。
甲府という地に決められたこと自体、生まれや仕事に依拠しない、
純粋に、楽しく過ごすことの為に決めたわけだ。

テレワーク化という恩恵はあるものの、「今何が本当にしたいのか」に忠実に、
そして迅速に行動に移せた結果でもある。

…………………………………………………………………………………………

とにかく(男性としては)かなりおしゃべりな部類の親父なのだが、
大学生の終わり頃か、社会人になりたての頃か、
60歳にどうなってるかを考えて、今の歩み方を考えろとよく言っていた。

ほんと…「よく」というレベルではない。「耳にたこができる」という表現ですら、
物足りないくらいの頻度と熱量で語っていた。

しかし、1960年前半頃の20歳と、1990年後半~2000年頃の20歳とでは、
あまりにも状況が違いすぎるのである。わたしには結果的にできなかった。

そうして、長期の見通しが立てて、その結果かどうかか、成功できた人も、
わたしの年代でもたくさんいるのだろう。

とはいえ、どういう職に就いて、どういう成果を得たいか、それについての
自分なりの見通しを明確に持っているだけ、わたしは自分でまだマシだと思っていた。

そこから約20年。

この娑婆世界、思うようにいくことなどまずないとはいえ、あまりに予想もしない、
多様なキャリアの積み重ねとスキルアップ、そして年を経るごとに、
おもしろくなくなっていく方向に、悪化していく業界の環境。
自分も世の中も、思い描いた変化の範囲を超えて、
全然違った様相になってしまっている。

60歳時点を思い描いて、軌道修正をしようとしていれば、
その計画通りではないにせよ、うまくいったのだろうか?
その時もそうだし、今でもわからない。

ただ、ようやく45歳から60歳を思い描くということは、できてはいないが
できそうな気にはなってきた、あるいはできる環境になった
という気持ちが芽生えている。
それを、「早めの終活」と表現してもいいのではないか。

…………………………………………………………………………………………

改めて思うのは、その対象には移ろいや揺らぎはあるものの、
何であれ、自分の関心に向き合って生きたい、という気持ちは
ずっと持ち続けてきたなということ。
逆に言えば、関心の無いものは全く手を出す気にならない。

そして、決してその欲をヘルシーに満たせてきたわけではなく、この15年ほど、
ずっとこの向き合おうとして、届かないもどかしさを感じてきて、
5年前ほどにその鬱積が爆発しまい、心が病んでしまったのだろう。

ある時期から、Twitterのプロフを「溢れる好奇心と知識欲で生きるツイ廃」と
変えたのだけど、城や武田信玄、ウイスキー…などなどの個別の案件で、
自分の本質を語れないな、と感じたからだ。

「関心のあることについて、知りたい」

おそらく、これがわたしの本質的な性質だろう。

関心のない/薄い事柄、これまでやらなかったあれやこれやを思い出してみても、
やる機会があれば、避けはしなかっただろうが、ないならないでいい。
自分から求めるくらいなら、もっと自分の関心のあるものに寄り添いたい。

極めて自分勝手ではあるけれども、たぶんどれだけ過去に遡っても、
また何度過去に遡ろうとも、変わらないだろうなという、変な確信がある。

再び、こういう仕事をしたい、働き方をしたいと気持ちがシフトするかもしれない。
それは、そのときの自分の関心にフィットしていさえしていればいい。

たまたま、条件が整って決めた甲府に移ったことが、突破口になって、
ようやくこれからは、自分をだまさず、素直に過ごせるように、
気持ちと想いの整理が付きつつあるのかもしれないな。

※甲府にきたのもあるし(1年以上経つが)富士山にテンプレ変えてみた。

 

2022.04.10

亡き人との過ごし方の、新たな時代に向けて。

年に何回かある節目の日、である4/10…

毎年、この日がくると、、、、

いろいろ起きたことを報告したくなる。

 

特にこの1年、変わったな、いいように変わっていくな、

という感覚があるだけに、より一層姉さんと

共有したい思いが強いことを再認識する。

 

先日、佐倉の国立歴史民俗博物館で

特集展示 亡き人と暮らす」という展示が印象深かった。

実は昔も今も、その世界の広がりに応じた、

故人を偲び方の多様さがあるのだなと思わせられる。

 

この特集展示にはなかったけれど、blogなど

ネットに残るコンテンツが亡き人との過ごし方の

一つのあり方になっている。

 

その先駆けのように感じられるのは、やはり飯島愛さん…

だけど、彼女の後にもそうした思いの寄せ方のかたちが

他にもあるようだ。

 

飯島さんが亡くなったのは2008年。

わたしが振り返る方は、2006年に恐らく亡くなっているので、

有名人ではなくともその頃くらいには、そうしたあり方が

他にも事例としてあったのかもしれない。

 

父母も亡くし、身近な人に先立たれるという経験を重ねるにつれ、

残った人は辛いよね。自分のことは忘れて欲しいけれど、

忘れてくれないならせめて悲しまないで欲しいかな

という姉さんの言葉の、具体的な気持ちの落ち着け方を見つけられた気がする。

 

故人を身近に感じ続け、でもポジティブに生きる方法。

これをちょっとうまく自分の生き様に活かして

いければな、と思っている。

 

それにしても、この世から去る人の言葉として、

「忘れてくれないなら、せめて悲しまないで」

って、すごい言葉だな。

 

名言やで、姉さん。

2022.02.01

ポジティブになれるしあわせ

blogはじめて17年、Twitterはじめて11年…

 

長年、昔を振り返るばかりだった

blogを書くという節目のタイミング。

 

そのことよりもこれから何が起こるのか、

という変化への楽しみと不安が織り混ざる最近。

 

決して楽観的にばかりなれないけれども…

なんかいいように向かう気持ちが続いている。

 

もうわたしも正午を過ぎ、昼下がりである。

でも、日の光が眩しく輝くのもこの頃のはず…

いい兆しがあれば、チャンスを逃さず、

目敏く生きていきたいと思うそんな、旧暦元日。

 

 

2021.12.31

retrospective

さて、恒例となった大晦日blog更新。

 

まー、自分でやって自分で言ってりゃ世話ないですが、

甲府で新しい拠点を得たことは、ただ武田を学ぶ為だけでなく

すごく多面的な変化を、わたしにもたらしました。

普段いる場所を変える効用とはこんなにも…と驚愕。

 

まだまだ先行き不安はありますが、自分で起こした変化で

何となくポジティブになれていると、

そのそこはかとな不安も、軽減される気もいたします。

 

とはいえ、武田信玄という人に関心を持ってなかったら、

今、その関心の盛り上がりが最高潮に達していなかったら、

などなど考えると、御屋形様に感謝であります。

 

本来ならばイベントたくさんあったであろうとはいうものの、

生誕500年ということもあって、比較的多くあった方では

という気もしています。ご尽力された皆さんにも感謝。

 

生涯を紹介するという定番も多かったのですが、

信仰や価値観に迫る内容もままあったように思っていて、

関心持ってるので当たり前っちゃそうですが、

すごーく、わたしの価値観とフィットするのですよね。

 

これ、結果としてフィットしているのではなくって、

ひょっとしたら、わたしの価値観の形成期に出会った結果、

下地になる何かが、実は信玄公からも

少しはつくられていたのでは…という気も。

 

なかなか整理は進まなくて、いつになれば…と

絶望に近い感覚もありますが、小中学生頃のわたしの足跡を

紐解けばヒントになるものが眠っているかもしれない。

 

母が丹念に記録として残してくれた幼い頃の写真を見て

実に幅広いところに出かけ、またいろんな

知的な刺激を貰っていたということを改めて感じています。

 

来年いよいよアラフィフであります。だからなんだというと、

何も劇的には変わらないのですが、40代に入って

人生後半戦だなという思いが強まり、その40代も半ば。

 

これから自分が、環境がどう変化していくかに

気を配るだけでなく、そろそろ自分の、

決してうまくは行かなかった足跡を

「一次史料」で振り返りながら前に歩みを

進めるのもいいかな、と思う日光なのでありました。

 

 

 

 

2021.09.09

甲府時代 - 新たな時代の幕開け…?

頻繁な更新から遠ざかって以来毎年、

2月1日、4月10日、9月9日、12月31日

は数少なくなったblogの更新する日にしている。

 

Blog&Twitterをはじめた2月1日

大切な人の誕生日の4月10日

Webページをはじめた9月9日

そして、大晦日

 

これまで節目としてきた日々なわけだけど、

9月9日で、Webページからは21年。

でも、今年は甲府に遷って約半年という節目でもある。

 

当初はどうしても「武田信玄の生涯」展に行きたくて、

でも東京が緊急事態に…ということと、大学入試の時期で、

今なら物件がある!ということで、えいっ!っと

相当「発作的に」決めた感がある。

 

とはいえ、昨年から予算も決めて、希望物件の地域を絞って

リサーチ続け、物件を見学も何度かしていたし、

ハザードマップ見たり、それなりに準備はしていた。

 

が、諸事情で、東京も引き払うわけにも行かず。

一方で、東京との行き来は最低限にしていることもあり、

東京の整理も付かないまま、また実家である大阪の整理も

つかないまま…中途半端なまま、のコロナ禍2年目。

 

そういう意味では、「発作的な」二拠点生活の始まりだけど、

わたしにとってのニューノーマルの場となった

甲府での日々は、極めて快適そのものなのである。

 

かつて、父が住まいを選ぶときに、景観、例えば、

大阪城が見えるだとか、そういうのはすぐに

日常になってしまうと、詮無いものだ…と言っていた。

 

ここが関心を深く寄せる武田の御城下だ、という意識は

「武田信玄の生涯」展が終わって以降くらいから、

当初に比べれば、そのほとぼりは冷めてはいる。

 

だけど、近くに関心のあるものに溢れているというのは、

やっぱり精神衛生上、いい。図書館も近い。

コロナ禍がなければ実現し得なかったであろう。

 

ただ、それだけで快適とはなかなかいかない。

日常あっての「住」である。

 

ところが、人が多くなくコンパクトな甲府だからこその、

都会過ぎない心地よさが、ちょうど合っているように感じる。

 

食事にも困らないし、移動手段は…普通の人なら

クルマがないと困るのだろうけど、むしろわたしは平日でも

歩くキッカケができて、満足すらしている。

 

通勤するより、テレワーカーでいて、夜な夜な運動する方が

よっぽど健康的。そして何より温泉の身近さ。

これも歩けるからというのもあるけど、いくつかの温泉を

ほぼ毎日楽しめる。家の浴槽の出番がほとんどないくらい。

 

懸念した夏の暑さだって、昼の刺すような暑さはあるけど、

大阪のうだるような蒸し暑さとは、また質が違っていて

夜になれば、むしろ快適なほど。

 

過ごし方を工夫すれば、なんてことはないのである。

 

旬になれば、あちこちで、それも「え?」というところでも

果物が売っていて、いい思いもした。

 

行きつけの飲み屋もできて、ちょっとお話しするのが

楽しみにしているお店もあり(以前から、という店もあるが)

水泳でトレーニングすることもできる。

 

父母が眠る地も、この甲斐国内だから通いやすいし、

甲府以外の関心ある史跡へのアクセスも当然◎

いざとなったときの、東京へのアクセスだってよい。

 

こうして思い返していても、困ったことや後悔することが

ホント思い当たらなくて、関心の深い物事に溢れている

憧れの街が、日々の生活の場としても快適だとは……

こんなにも、わたしに最適化された「恵まれた環境」はない。

 

また、これまで住まいが東京にあっても、平日は職場で

休日はあちこち旅していたわけだから、

住まいとしての「東京」の機能は、実は恩恵に与ってなくて、

それほど常時、必須なものはなかったのかもしれない。

 

そもそも今まだ緊急事態だけど、東京のBARに行きにくい

というのはあるかもな。

それもまぁ、平日はちょっと難しいにせよ、

行こうと思えば行けるしね。

 

当面難しいが、いずれは大阪も東京も引き払う日が来る、

と思っているけど、長く居ると今の所感から変わるかな?

 

日本の歴史の区分けは、政治の中心を冠するコトが多い。

奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、

江戸時代、、、、、以降は元号で表現するけど、

言ってみれば、まるっと東京時代ではある。

 

これに倣ってみると、生まれて約20年が大阪時代。

働き始めて約20年が東京時代(実は千葉も数年あるが)、

そして今、甲府時代は始まったばかりである。

 

2021.04.10

51歳おめでとう、そしてありがとう、でるふぃさん

ねえさん、お誕生日おめでとです。

いかがお過ごしでしょうか。

 

相変わらず、こちらはコロナウイルスに翻弄されています。

でも!だからこそできたこと、甲府に拠点を移しました。

 

この歳になっての新生活!を楽しんでいます。

ね、またネタができましたよ。お楽しみに。

 

ちょっとこの数年塞がってましたけど、

なんだかおもしろくなってきた感じです。

 

「無関心・無感動・無神経」にならないように、

まだまだ楽しまなくちゃ。

 

また、今年も「でるふぃ・たうん」を訪れる。

よかった、あるある。すっかり墓参りですね。

 

そちらに旅だって15年か…

姉さんもそちらの生活、長くなりましたね。

ふふ、ずっとそうか。ははは。

あのとき、にししさんの記事に出会えてよかった。

 

思えば、でる姉さん40代を生きたことがなかったんだな。

もう姉さんの歳をずいぶんと通り越したわけで。

 

誰かの分まで生きる、だなんて

ずいぶんと思い上がったことだと思うけど。

 

辛いことも楽しいことも、知り得なかった新しいことも、

亡き人が見聞きしたら、どう思うだろう、

と考えることは、自分の生きる糧の一つになっていくな、

という気持ちになってきている。

 

そして、こうして思い返すことで故人は生きている

と言いたい自分に改めて気づく。

 

親族の方や所縁のある方が思い出し、弔われて

その人々の心の中で「生きて」いるのだろうけど、

ほんの少しばかりのつながりを持った人間であっても、

その「生きる」断片を担がせてもらえたらうれしいな。

 

改めてありがとう、でるふぃさん。

2021.02.01

17 & 10

さて、2/1である。blog開設・Twiter開始記念日。

そして、まもなく社会人生活満20年を迎えようとしている。

 

2000年にWebサイトを始めて21年、

そしてBlogが17年、Twitterが10年。

 

大学生の時に、何か思いの丈をぶちまけたい、

書きたい衝動のまま、媒体を変えながら、ここまできた。

 

しかし、blogにしても、その後継になった

ツイート+Togetterにしても、何か出かけたり、

本を読んだりという記録が主体になっているな、とふと。

 

本来、書き付けたかったことは、それだけだろうか?

 

そもそもは思ったことを残したい、というのが

表現を残す切っ掛けだった。それがいつしか…

ある種のハレの記録が主体となって。

 

もちろん、そのハレの記録にも何らかの、

それも関心の強い事象についての思いは

残されているのだけど…

もっと、普段考えていることがあるはずで。

 

ということで、3ヶ月くらいを目処にひとくくりにし、

何か思いを語るツイートをTogetterに残していき、

振り返ってみようと思う。

 

結構、重複することもあるだろうけど、それはそれ。

それだけ、関心が深いということで。

 

何かの拍子に振り返ることのできるものを持っておくと、

割と有益なものだ、と無邪気に信じている。

 

世の中一般としては、コロナ禍で閉塞している感があるけど

極私的には、何となく閉塞した時代が終わって、

ほんの少しずつだけど、拓けていくような期待を持てる

心境になっていると思っている。

 

だから、その端境期でこそ何を思うのか、

改めて残しておこうと。

blogのようなまとまったカタチでなくとも、

断片のつなぎ合わせでいいから。

 

出来事ベースの振り返りはこれまで通りできるけど、

特に強く表現した、と実感できることを

年末に改めて読んでみると、どう思うかな。

 

…ささやかな楽しみである。

 

 

 

2020.12.31

少しずつ、少しずつ。

頻繁に更新していた2015年頃までとちがい、blogの更新が

半ば儀式的になってきた昨今。それもまた自分にとっての、

新たなblogの意味かなぁ、と思いつつ大晦日の更新。

 

このような禍々しい状況にあって、2020年が

しあわせな年でした、と振り返ることのできる人は

極めて少数派だろう。

 

わたしも決してかけがえのない、最高の年でした!

というつもりもないのだけれど、かといって

それほど最悪な一年と呪うほどでもなかった、

というのが、率直な感想だったりする。

 

本当に本当に偶々すぎるのだけど、

よくこのコロナ禍がこのタイミングで来たな、

と、妙な安堵と覚えざるを得ない。

 

仕事に行き詰まり、精神を少し病んでいたとき。

両親を支えることが重荷になっていたとき。

 

最悪というなら、2017~19年の厄年の間の方が

よほど厳しかったわけで、この間に、もしも、

COVIDが襲来していたらと考えると、

ほんとうに恐ろしい。ただでは済んでいないだろう。

 

厄が明けた今年は、誰もが苦しい状況にありながら、

まだ、安らかに過ごせたなとしみじみする。

 

とはいえ、誰もが予想しない世の中へと変わっていくなかで、

自分自身の価値観の変化に気づいたり、

関わりのあるいろんな人の、普段は奥底に眠っている

価値観の表出に出くわし、驚いたりもする。

 

ひとつひとつの多様な変化が飛び交って、

これからどうなっていくのかが本当にわかりにくく、

深い霧に包まれたままだ。

 

大げさに言うと、新たな時代が突然始まり、

しかし「その時代とは何か」は徐々にしか見えず、

後になって振り返ってみたときに、はじめてわかるような、

端境期にいるんだなという思いを強くする。

 

昨年の今日に書いたことを改めて読んでみると、

身の回りのごくごく狭い世界で起きていた

激動の日々を過ごすだけで、精一杯だったんだな、

と改めて記憶によみがえっていく。

 

そして早くも、もはや遠い過去になってしまった

と思えてしまうほど、この1年は世界全体が激動の日々で

何が始まったのか具体的には表現しようもないが、

なんだか前に進んでいる、そんな気はする。

 

コロナ禍前には、「来たる変化をちょっと楽しみでいられる」

感覚もあったけれども、そこまで楽観視することはできない。

にしても、何かが前に進んでいる。

もやもやしつつも、言えるのはそんなところだろう。

 

まだまだ変化することに、振り回されるであろう、、、

そんな来たる令和三年。

 

武田信玄に関心がある人間としては、この先かけがえのない

数年が続いていくことを楽しみながら、一定の安定した

何らかの価値観を得られ、令和年間を充実した時代として、

過ごすことができるきっかけがつくれれば、いいな。

 

関わりある皆様方におかれては、本年もお世話になり、

ありがとうございました。来年も引き続きご贔屓

くださいますと幸いでございます。

 

令和三年、よい年になりますよう。

2020.09.09

20年という年月を経て

Webページをはじめて今日で20年。

 

Webページはもう更新していないし、後身のblogだって

もはや節目になるときにしか更新していなくて、

すっかりTwitterがメインになっている…

でも、その日には格別の思いがある。

 

20年前のそれまでとそれ以後では、

自分の何かが違っているということ。

 

そして変わったその日から、今に至る連続性を

感じ続けていること。

 

一方で、あの日思い描いていた未来とは

大きく違っていること。

 

人生、とかく思うようにはならぬもの。

思うようにならないのは、悪い意味でもそうだけど、

よい意味、棚からぼた餅のような意味でも、

思った通りではない、、、

と苦しかった厄年を経て思ったりもする。

 

出口の見えない時を経て、まだ出口を出てはいないけど、

出口はこちらにあるんじゃないか、という光を感じながら、

ままならない日々を生きている。

 

自分事としても、世の中事としても、カオスを経た先の、

陽の差す方へ向かって進んで、新たな安定がみつかるかも…

そろそろ、そんな気になれてきている。

 

「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という。

今は間もなく陽に転じると思い、またいずれ、

陽極まり陰に転ずるときへの備えを思いながら、

それでいて、20年前からの思いを発する習慣は常に忘れず。

 

語り振り返る習慣ができてて、よかったね。

インターネットとわたしのインターネット黎明期を

支えてくれた、20年前にお世話になった皆様に

改めて感謝の思いを深めよう。

2020.04.10

こんなことになると思うでしょうか?

今日は、でる姉さんの50回目の誕生日。

50年ってすごいよね。そんな節目の年が

こんな風になるなんて。

 

そちらからはどう見えるかな。

神戸の地震の時ともまた違うだろうし、

姉さんがいなくなってから、こちらで起きていること、

いちいち感想を聴きたくなって、過ごしてますよ。

 

わたしはわたしなりに、何が大事か、

何をどうバランスを生きていくべきか…

思い悩みながら、このかつてない災害を生きています。

 

ちょっとこんなことはなかなか経験しようとして

できるものではない、そう思えば、

ねえさんへの格好のネタ話になるかもしれないね。

 

あ、去年の今はまだ両親がこちらにいた。

この1年のこんな展開誰が予想する?

ホントいろんなことがありすぎました。

 

でも、まだまだいっぱい、いろんなことを

お話したいから、精一杯生きます。

ねえさん、楽しみにね。

2020.02.01

16周年の夜

危うく寝てしまうところでした…久々のblog。

 

そう、今日2/1はblog開始/Twitter開始の記念日。

blogは満16年、Twitterは満9年。

 

すっかり記念日しか書かなくなってから久しいけれど、

まだblog止めてないから!ということで、恒例の記念日post。

 

2019年が、終わりの年だったという感覚が強いとともに、

2020年になって何かが始まるという感覚はあまりない、

ということを年末に書いた。

 

約1ヶ月経って、何かが変わるか?というとそんなに

変わることもないのだけど、兆しがない…

こともないのである。

 

詳しくは敢えて書かないのだけど、あと半年、

例えば自分の誕生日くらいには、明確な変化として

認識できているくらいになるといいな、と思う。

 

第二の人生の始まり、、とまでいえるかどうか

わからないけど、来たる変化をちょっと楽しみでいられる

というのはここしばらくなかったので新鮮な感覚。

 

さぁ、どうでるか。

 

 

2019.12.31

終焉の年

年にblogを書くのは、すっかり数回止まりとなってしまった。

2017年頃が最後で以降は、普段の記録はTogetterに移行。

そして節目のタイミングで振り返るばかり…

 

その振り返りも、苦しい時期が続いていたから、

ある程度似たようなモノになっていた感がある

と、改めて眺めてみるとそう思う。

 

そんな中で、今年のこの大晦日の振り返りは

格別なモノとなりそうだ。

2019年は、「終わり」の年であるという実感があるからだ。

 

上皇陛下の御叡慮の賜物で、お祝いのムードの中で

令和が始まって平成がいよいよ区切りのある時代として

認識をされる過去になったという「終わり」

 

でも、個人的にはそれだけではなかった。

 

・2017年以来わたしを苦しめていた仕事が終わったこと

・両親の命が尽きてその生涯を終えたこと

・厄年が終わったこと(後厄)

 

厄年なんて迷信に過ぎないということは容易いが、

しかし、ちょうどその間は本当にわたしにとっては

危機的であって、精神を壊しかけ、身体も悪くし、

楽しみを何とか貪ることでどうにか過ごしていた

といってよかった。

 

何のために今ここにいて、何故この苦しみを

甘受せねばならぬのか。

この時期の出来事による精神的な影響は、

たぶん不可逆変化ではないだろうか?

かつてと同じように仕事に向き合う気は、

さらさらなくなってしまった。

 

2016年の大河ドラマ「真田丸」や武田二十四将展から

始まった歴史的な関心やお城への関心への傾倒は、

その反動ともいえるかもしれない。

 

たくさんの歴史講演や少しの本を読むことで、

少しでも知的好奇心を満たしそれまで以上に出かけ続ける。

負の感覚に正の感覚を正面からぶつけて

相殺する、とても穏やかならざる日々。

 

それに加えて、両親の病が見つかったことも

ほぼこの厄年の始まりと同期している。

偶々といえば偶々。

 

そしてその終わりもまた、各々の生命力次第

なのであって、また偶々。

が、それを偶々でかたづけられることは

心情がなかなか許さない。

 

わたしは両親ほど人間ができている

とは思えないので、死生観に常に向き合うこの3年間は、

本当に苦しみが大きかった。

当人たちの病の苦しみに比べれば…ではあるのだけど。

 

月に一回帰る労力よりも、帰るたびに悪化していく様子や

会話できる時が限られているという実感、

それでも気の利いた事なんて大してできない現実。

誰しもやることだろうが、○○してやれなかったという後悔。

 

もう残り少ないとわかったからだろうか、

いろんな事を親父が教えてくれた。

あれだけ毎年帰るたびに長く昔の自分の話をしていたのに、

まだ話すことがあったのだ。

 

それは特に母の生い立ちについてのこと。

 

なぜ母があのような性格でいたのか、

これほど腑に落ちることはなかった。

それなのに、なぜこのような、、、と思うと

なかなか落ち着いていられない。

 

せめて仕事がうまくいっていれば、まだ鷹揚に

構えてもいられたものを。

 

誕生日を迎えてすぐの通院の日、呼吸を補助するマスクを

しながらも、調子がよくていろんな会話をしていた車内。

 

何となくボーッと母の顔を眺めていたわたしに、

「何そんなじっと見てんの」といえる余裕があった。

まだ、もう少し、話たりなかったな。

 

令和になってまもなく、突然の母の身罷り。

そこから後追う父、それらが落ち着くまでは

気が遠くなるほどあまりにも長く、また短いものだった。

 

それにしても、父の終活があまりに素晴らしくて、

それでも随分と助かってはいるのである。

最後まで几帳面すぎる父に救われた。

 

父は身罷る間際、全部ちゃんとしてくれてるから後は安心、

と繰り返し言ってくれていた。

しかしそれはあくまでも周到に根回しされた終活の

素晴らしさの上に成り立つものだった。

 

抗癌剤にもよく耐え、もはや打つ手なしとなるまで

何でこんなに?というくらい本当に元気。

 

楽しみにしていたマイウイスキー余市も、

何とか、、何とか最後楽しんでもらえた。

ウイスキーのうまさを知るきっかけになった恩人に

いいウイスキーを献上するのが間に合った。

 

ただ、そんなもう終活を支える日々も終わろうとしている。

時間の流れが幾分緩やかに思え、目の前が少し拓けたような。

しかし、確固たるカタチは見えない。

 

信玄公の「三カ年の鬱憤」ならぬ、、、

日光の「三カ年の鬱屈」というべき

本当に身に染みてつらいと思った時期を抜けたかもしれない、

と思うだけで、まだその先へ手が伸びない。

 

ずっとわたしは「第二の人生」を歩め、

と口酸っぱく父に言われていた。

慰留され続けた会社を辞め、自身で身を起こしたように。

その第二の人生は、これから切り拓いていけるのだろうか?

2019.09.09

重陽の節句にて

今日は、19回目のWeb記念日…というのに、

すっかり、遠ざかってしまいましたねぇ、blog。

でも、止めてませんからね!

 

2016-07年がお出かけなどの記録が追いつかず、

Twitter…というか、Togetterへ以降したのも、

この頃なんですよね。まぁ、その数年前から、

記事が追いつかずに年末にいつもアップアップしてましたが(笑)

 

最初は、平山先生の「穴山武田氏」と丸島先生の

「郡内小山田氏」の感想ツイートまとめ。

最初の旅ログ?的なのは、3月の上田での平山先生、

千田先生の真田丸トークショーのとき。

 

どっちかというと本の読後感想が多かったのだけど、

イベントレポがその後多くなっていく。

 

ちょうど真田丸の頃ですし、また武田二十四将展もあって、

講演会もすごく豪華だったし、インプットが多すぎて

うれしい悲鳴の結果が止むを得ないTogetter移行。

 

blogが出始めたときには、HTMLのタグを打ってる頃よりも

格段に手軽だったのだけど、どんどんサイクルが増す

出かける頻度、そして受けるインプットの厚み…

 

それに応えて行くには、もはやちょっと

blogの速度では追いつけなくて。

 

blogからTogetterに移行する中で記録に残せなかった

講演会や旅の記録もあって、そこはいつの日か

記録に残せるのか…

 

いやいや目先の新しい楽しみを記録していくので、精一杯で

もはや諦めるしかないのか、と思うと寂しい気はします。

 

という中での、blogの立ち位置をどうするのか。

 

以前から書いている通り、思いの丈をまとまった形に

する場にしたいのですが、なかなかね…

 

19年の間にはそれなりの歴史があるし、

うまくも活かしていきたいのだけれども、、、、

日光八十一としての、一次史料ですしね(笑)

 

Twitterは当初、blogの通知用として考えていたのが、

思いっきり主客逆転しちゃいました。

 

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2019.04.10

今年も巡って参りました。

毎年、振り返っては振り返っては懐かしく思う日。

そんな4月10日。わたしの大切な人は49歳なんだってさ。

でも・・・もう年はとらない。わたしがもうその止まった年を

追い越してしまっているのだ。

 

飯島愛が亡くなったとき、彼女のblogが墓碑のようになって

お参りに来た人のコメントで溢れていたことを思い出す。

 

亡くなった人が残したインターネット上の痕跡は、

遺された者にとっての、ある種の救いになる。

 

そして、墓参りするかのように、決まってこの日に

サイトへアクセスしてみる。

 

ねぇねぇ、次の元号、令和っていうんだよ。

ねえさんはどう思うかな。ねえさんの感想が聞きたい。

 

本当にもう、もっともっとお話がしたかった。

どんどん変わるネット界隈について、

いやいやもっとくだらないこととか、たわいのないことも。

 

そちらに行くのはもう少し後、といったけども、

あまりにたくさんのことがあって、

あまりにたくさんの伝えたいことがあって、

語り尽くせないかもしれないよ。

 

多くの人が誕生日に電話を掛けるねえさんだから、

あちらにわたしが言ってもお話できるのには

だいぶん待たされるのかもしれないね。それもいい。

 

わたしもいつか、この世を卒業するとき、

> 残った人は辛いよね。自分のことは忘れて欲しいけれど、

> 忘れてくれないならせめて悲しまないで欲しいかな

ということを言い残したいね。

 

というか、「近い将来の死を確信している人々のフォーラム

という存在があってよかったよね。インターネットが中心の

人付き合いが多くなる今日だから尚更。

 

ネット上、最近だとSNSでのお付き合いについて、

基本的に性善説でいられるのは、彼女のおかげです。

ホント、何度言ったかわからないけど、ありがとう。

わたしの人生のなかで、最も大切な10人に入る1人です。

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2019.03.03

「北条氏康の家臣団」読了…武田との比較

黒田基樹先生「北条氏康の家臣団」読了。「戦国大名と国衆」よそに、武田クラスタが先に北条かいという感じだけど。先の狭山北条氏を念頭に置きながら、北条の黄金時代の形成について学ぶと関心の質にも範囲にも広がりが出ますな。氏康というと信玄と同年代。信虎、信玄、勝頼という三代に対応する形で、氏綱、氏康、氏政を捉えながら読み進めていったのだが、一門(北条では御一家衆というんだ)の人材の豊かさがもう武田から見てみると、もううらやましいことこの上ない。というのと、氏康段階から氏政段階への家老衆の変容に伴い、郡代(郡司)と中央執行部へ分かれていく変容過程に、この人材の豊富さと配置転換のノウハウが生きている点、勝頼目線で考えると、うらやましさに堪えない。

■武田と北条をどの時系列で比較するか…
権力委譲受ける側から見た比較

武田は信虎段階から晴信初期段階において、信虎を追放こそしたものの、信虎以来の重臣との協調体制。それが板垣・甘利の戦死、小山田の病死、最後まで残った飯富の処刑(義信事件)という形で消えていき、代わって譜代家老に徐々に晴信が育てた家臣が成長していく。こうして信玄は信虎追放以来の重臣から脱し、「自身」の家臣により家中を形成していくようになる。一方の氏康は、氏綱から極めてスムーズに権力移行しているように思え、弟為昌の死去に伴う家臣団の再編成や太田越前の取り立てはあったものの、家老衆の家の顔ぶれは大きくは変わらず、家老衆の相互の結びつきを強めるなど、より安定的に進めていくという人材活用において、氏綱の人事の遺産による恩恵を十二分に生かせている。

「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」という、氏綱の遺言状の出だしは、信虎・信玄の関係と比べるとあまりにも対照的だ。しかし年代観点ではなく、これまで語ったような家臣団の変容過程で捉えると、むしろ氏綱段階は、武田でいうと信玄段階に相当するような気がした。氏綱晩年期はすでに北条領国は数カ国を束ねる規模になっていて、ちょうど信玄晩年の頃に相当するのではないか。氏康に与えられた五箇条の遺言状にあるように、適材適所や勝って兜の緒を締めよで有名な大勝利は油断を招くと注意するあたりは、信玄自身の言葉と非常に重なる点がある。氏綱の人材活用法とある内容は、敢えて違いを指摘するなら、信玄の場合はたとえが多く(渋柿の話だとか)信玄自身の文学趣味が出ているところくらいだろうか。出典を隠して信玄の言葉と聞かされると、思わず納得してしまいそうで、氏康経由で信玄が氏綱の遺言状の内容を知っていたのではないか?とさえ思えるほど。

そういう種蒔きというか、人材の幅を広げていく段階というのは武田でいうと、まさに信玄段階。ということは、戦国大名の発達・変容過程としては、氏綱→氏康の家督継承は、信玄→勝頼に相当するようで、武田は組織の有り様としては、北条に一代遅れている感じさえする(いいか悪いかの問題ではない)。勝頼と氏康のそれぞれの家督継承を相対させて考えても、また悲しいくらい対照的。まさしく北条を継ぐべくして育てられ、また(やや遅めだが)死の数年前に隠居したして家督継承を行っている可能性もあって、スムーズだった氏康と、義信事件からの流れで諏方家から呼び戻され、短期間の間に征服国衆当主から武田宗家継承をいう段階を踏まざるを得なかった勝頼、と考えるとその権力基盤の安定度の差たるや、ものすごい開きがある。

■取次役の人材確保という観点での武田・北条比較
勝頼期のひとつの問題点として、国衆の取次・小指南に相当するパイプ役が信玄期と比べると非常に少なく、結果的に少数(跡部や土屋)に集中してしまい、家中の不満のひとつになったのではという考え方を理解している。信玄子飼いの優秀な近習たちが成長し、領国が拡大していく過程で、各最前線の郡司クラスに出世(山県、春日、秋山、内藤ら、馬場は城将)その次の世代として、武藤(真田昌幸)、土屋らがその位置に収まるはずだった。しかし、長篠合戦というアクシデントにより、郡司クラスを担う重臣はじめ大量の家中構成員や、有力国衆当主が討死、能な若手を郡司として前線に出さねばならなくなったという事態に直面して起きたのだろうと思っている。氏康段階の北条を考えると、御一家衆でもやや格下の玉縄北条家と家老三家でうまく取次を分担できていて、しかも比較的うまく世代交代をしている。その結果、自然と氏康が組織において、家格だけでなく、年齢的にも上位に立って采配を振るう環境ができている。

この点が武田家が組織の安定性という意味でやや一歩譲る点だろうか。武田の場合、取次役・指南役に相当する存在の位置づけが信玄の近習という個人単位であって、北条のように家で構成されていないように思った。もちろん長篠敗戦という事件はあるにしても、取次役・指南役を請け負う存在が組織として確立されていない状態で、一斉に有能な人材がいなくなると、組織として混乱するのは想像にあまりある。しかも絶対的に頼れる「はず」の一門も簡単に委ねるわけにはいかない。こういう人材不足は、キャッシュが回らなくなった黒字倒産のような、タイミングの悪さを感じる。

こうして見ていくと、氏綱段階で質のよい家臣団の取り込みを行った上で、よりシステマチックな組織運営に移行していき、さらに次代への継承できる体制づくりまでもやりきったというのが氏康段階とみることができる。前々から感じていた、同じく人材活用の妙が光る武田家と北条家にあって、ここが大きな違い。もちろん、北条も一門が多かっただけでなく、謀叛を企んだり、極端に無能や組織に害をなす一門がいなかったという幸運と組織風土に救われている部分もあるとは思うけれども。

御一家衆という親族も、北条であっても決して多すぎるほどではないし、時には若くして亡くなり、あるいは討死したりはするけれども、組織を担う重要な人物群として人材供給に事欠かない。武田の場合、信虎兄弟はほぼ族滅しているので、自ずと信玄兄弟か子息ということになるが、これまでの歴史的経緯を考えてか、主に外交関係を担う役割に限られていて、軍団を率いる立場になって目立つ人物は少ない。信玄弟なら、典厩信繁、信豊や逍遙軒信綱、穴山梅雪。信玄子息は原則みな国衆当主に送り込まれている。

古典厩信繁の死は痛いけれども、幼少の長老(信豊)の他に、信玄を支える親族衆を信玄が勝頼に宛てがうという、現当主がつくって次代に引き渡せる関係性をつくるには時間がなさ過ぎたんだよねぇ。況んや、組織の新陳代謝をうまくうやるための仕組みづくりをや・・・・こういうところが武田家の難しいところだな。北条も従属国衆当主に据えられた例(氏照や康元のち氏繁)はあるけれども、それで御一家衆が枯渇することはないんだよなぁ。

また、勝頼が長篠合戦を回避できていたら、こうしたシステマチックな組織づくりに着手できていただろうか、と考えてしまう。

■権力委譲をする側の立場から
そして、氏政との両頭体制へ。氏康→氏政を信玄→勝頼と擬えるか、勝頼→信勝と擬えるか。いずれにしても、この時期、上杉謙信との全面対決を背景として、氏政兄弟である氏照、氏規、氏邦らの台頭。氏政への家督継承は1559年末、実質的に1560年から。氏康死去は1571年。11年間の両頭体制。ちなみに信玄が勝頼の為に将軍義昭から一字拝領を求めたのは1570年。勝頼初陣はもう少し前だけど、永禄末年から元亀に掛けて少なくとも信玄からは後継者とされていたとすると、わずか3年弱。この差はやはり大きいと言わざるを得ない。また信勝元服は1579年。

いずれと比較するにしても、注目するべきかなと思ったのは、新当主に属する家臣やその兄弟衆の存在。氏照が取次役として行動を開始するのがが氏康存命時になされていて、徐々にその取り扱い範囲が広がり、発言力が増していく。このような動きはもちろん氏康の意向があっただろうと推測できる。イメージ的に勝頼にとっての信豊のような存在だと思うのだけど(信豊も国衆取次役は?だけど対上杉外交担当などやってたはず)、氏規の小田原帰還と三浦領継承とともに、氏康の意向でそう仕向けるという点が非常に重要なんだと思う。さらには、永禄後半からは氏邦も取次役として活動をし始める。

武田との比較で言うと、取次役にふさわしい人物が、近臣から時間を掛けて育てなくても、一門に任せられる素地があったこと。そして能力的にも問題なかったこと。次世代の取次という立場を前当主の指図でその立場を確立できたことというのは、ものすごいアドバンテージだろう。もちろん、信玄もその点は見越していて次世代の育成に取り組んだ。残念ながら一門から積極的にはなかなか取り立てられなかったこともあり、信玄は真田源五郎(のちの昌幸)らを氏政にとっての氏照や氏邦のようにしようとしたと思うのだけど、昌幸は信綱討死、真田家当主不在という事態に直面し、勝頼としては真田を継がせて、郡司として前線に遣るほかなかったのだろう、という苦渋の選択を想像する。

さらに重要なのは、国府台合戦かなと思った。具体的な合戦の過程はともかく、里見方に勝利するも、家老衆の討死と離叛という一大事が起きたという点。いや、起きたというだけでなく、氏康・氏政の両頭体制の時期に起きたという点が重要だろうと思う。武田における長篠ほどではないにせよ、太田氏離叛、遠山氏・富永氏の討死という状況は勝敗は別にして、晴信初期の上田原合戦くらいのインパクトはあっただろうと思われる。その采配を、両頭体制の時期に行えたのは氏政にとっては、不幸中の幸いではなかったか。勝頼は長篠敗戦の事後処理として、もっと多くの人事を短期間に、しかも滞りなく、納得感を持たせながらやらねばならなかったはずだ。

こうした下地づくりは、やはり事前に隠居した前当主でないとできない仕事だろうな。氏直の時代で滅亡してしまったけど、氏政もこの引き渡しはうまくやれていたのではないだろうか。

■氏康亡き後の氏政の自律判断

最後、氏康末期の武田との抗争。武田との抗争初期に、今川氏真を氏直(国王丸)を養子とし、北条方の駿河支配権の根拠としている点はなかなか興味深い。これが甲相再同盟で氏真は離叛独立した徳川に身を寄せるのだけれども、宗瑞、氏綱、氏康と北条家成立段階からのツナガリを捨ててでも、氏政にとっては、北条家存立のためには武田を敵に回せないのだろうな。これを家督継承直後でやるのと、ある程度場数を経て判断するのとでは大違いだろう。それにしても、武田にとってもかなりの危機だった駿河領有までの過程、北条にとってもかなりの疲弊だったことがすごくわかる。武蔵と駿河への第二次侵攻での攻勢の強さたるや。武田との再同盟に踏み切った後に、氏政が配置転換をスムーズに行えたのも(氏康が存命だったら武田と再同盟したか怪しいのに)氏政自身の経験と権力委譲がスムーズに行われ、氏政の判断に対する家中の納得感があることの証左かもしれない。余談だが、武田の際もそうだったんだけど、そして上杉クラスタから怒られそうだけど、同盟したときに頼りになると思われながら、結局頼りにならないのではないか・・・という感じがする。謙信にしても景勝にしても。なんか真田丸の、何でも請けちゃうんだけど、やり切れない景勝の姿とダブってくる。

■まとめ
総括すると、北条の、というか氏康の人の動かし方について、家中の「イエ」を確立させるという意識が特に高いように思う。武田の場合、信玄も勝頼も、守護家出身と言うこともあってか、これまでの歴史ある重臣らへも配慮しつつ、より有能な人材を如何に取り込むかに腐心しているが、なかなかそれを家という個人から離れた組織化した取り組みには至っていない。これがいいかどうかは別だし、発達段階という概念で捉えるべきものでもないとは思うけれども。北条は勢力としては新興であって、新たな組織づくりを宗瑞以来できうる環境からスタートしているからこそ、家の確立という方に意識が向くのかもしれない。この武田と北条の差というのは、個人的に両家が滅亡し、安土桃山~江戸と時代が進んで行くにつれての様相とも関係している気がしていて。

武田も北条も組織としては、徳川に取り込まれその血となり、肉になっていく。武田はその人に属したノウハウやスキルや技術、そこから派生する「ブランド」的なものを吸収し、北条はその行政や組織のシステムを吸収したような感覚でいる。武田は「武田遺臣」「武田牢人」などとその武田家とのツナガリをアピールして仕官する者がいたりして、しかし、狭山北条氏を少し知っただけだけど、そのような北条旧家臣団ネットワークというような痕跡をあまり知らない。ここまで北条の組織の有り様を、ざっと概略でレベルで眺めてきて思うのは、武田と北条の組織の特性のと違い、組織変容の段階の違い、そしてその相違点をうまくメリットを活かす形で徳川が取り込む際の取り込まれ方の違いということが、こうした江戸時代において戦国大名家の記憶の存在感の差となって出てくるんだろう、と思う。

もちろん、民衆レベルでは、甲陽軍鑑が大ヒットして、武田家臣団が広く知られることになって、今の我々と同じく、二次創作、三次創作と人々の歴史の楽しみ方の中で幾度となく反芻されてきたということもあるのだと思うのだけど、そうしたシステマチックな組織のあり方は重要でありつつも、記憶に残るのは人の記憶なのかなぁなどとぼんやり考える。もちろんバランスの問題はあるのだけど、また属人化の弊害というのはよく知られたことではあるのだけど、、、わたしの好みとしては、やはり、武田タイプの人のツナガリ方が好きだな、と思うのだよ。

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2019.02.01

丸15年を迎えて考えるポジショニング。

このblog、2004年2月1日に始めて今日で15年。
すっかりTwitterにその日常のアウトプットの場が移行して、
まとまった文章を書くことがほとんどなくなった昨今。

近いうちに、以前のようなスタイルで、かつ
blogというカタチで表現することにもどるのは難しいなかで、
blogをどう位置づけるかをずっと考えています。

当初は、もちろん旅やイベントごとなど、非日常の記録も
ありましたけど、日々のニュースにコメントしたりといった
今だともうそれは、Twitterに完全に代替されていますね。

もともとは、HTMLをタグ打ちしていたところを、
より手軽に、手をかけずに、スピーディに表現できる、
それがblogの始まりだったと思います。

Twitterはマイクロブログのひとつとも捉えられますし、
そのblogが実現した「より手軽に、手をかけずに、スピーディ」を
突き詰めた先にあるものの一つなのかもしれません。

だとすると、より時間をかけて、でもジックリ練ったもの
というのが対極にあってもよく、それが今blogになるんだろうなと。

これも相対的なものであって、本格的なWebサイトと
blogを比較してみても、同様の関係にはあると思います。

とすると、何かまとまった主張や意見表明なんかに適してるかな。
実は江戸城や名古屋城についてなど、時折そうした
タイプの記事を書いていたりもしたんです、これまでにも。

お城関係だと、武田家の丸馬出に目下ドハマリ中で、
あれこれ思案しているところですし、他にもいろいろと
インプットを溜め込んだ結果、こう思ってるんです、
ということがいくつかあって、そういうのの投下場にするか…

と言っても、blog自体を新しくつくりなおしたり、
別に立ち上げるということはしないでおこうと思っています。

内容の連続性という意味では、そうしたほうが
分かりやすいのでしょうけれども、一方でわたし自身の
歴史を記しているという側面もあるんですよね。

なかなかそんな文章を練っている時間もなかったりしますが、
それでも15年来、いやHTMLからはじめた19年前から
「書きたい衝動」というのは、いつも何らかのカタチで
燻ってはいるのですよ。そこは変わらないのですよね。

ということで、まだまだ続けていきます。
ココログ、やめないでね。ホント、頼みますわ。

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2018.12.31

本厄の年を終えて

さて、最近すっかりblogにを付けられていませんが、
大晦日くらいはなんか書いて終えましょうか。

金戒光明寺での除夜の鐘、明けての姫路城から
スタートした2018年。
戻って、武田神社での厄除け祈願、それから
深沢城と御殿場蒸留所、そして
ウイスキーラバーズ名古屋2018。
そして丸子城(1回目)と名古屋城本丸御殿。

2月は続いて厄除け祈願として諏訪大社へ。
御神渡も見られてほくほく。
安中の山本菅助展示、上田の平山先生室賀屋代講演会。
秩父ウイスキー祭り・・・のあと、
精神面から休んだほうがいい、また家庭の事情も
あって、長い休みを。

それでも、平山先生の高天神城ツアー行ったり、
姫路城の折廻櫓を見に行ったり、
ふらっと金沢城行ってみたりだとか。

3月に入ると、長野県千曲市の県立歴史館で
公開された信玄公書状を見て、
翌日は極私的に勝頼公の命日に法泉寺・景徳院を参詣。

それから叔父上(真田信尹)ツアー、
山梨県博の富士山&信玄公展示。
『ドラゴンクエスト』コンサートに、恵林寺講座…
最後を飾るのが、信濃丸馬出ツアー。
皆さんに好評だったようでよかったです。

4月になると、信玄公祭りや柴先生、
平山先生講演。個人的に丸子城の丸馬出周辺を
再探索しながら、翌週には勝頼公まつり。
平山先生が勝頼公で大盛り上がりでした。
続いて上田真田まつり。毎年4月は大忙し。

5月はGWはぼーっと休養して、TIBS2018や
甲府の講演会や蔵出しワインバー、
南アルプスから身延、南部あたりの史跡巡り。

6月はウイスキーフェス大阪、
慈照寺銀閣のスペシャルツアー、
福岡ウイスキートーク。
また土の上の花でもつ鍋食べたい。

BRA★BRA FFではスライムTシャツを着て
リアルでFF外から失礼し(笑)、
初めてのお茶会「戦国茶会」デビュー。

7月は長篠の慰霊祭参加、伊達成実生誕450年記念展示。
相馬に行ったの初めてだったなー。
駿河田中城と香川元太郎城郭原画展と西股先生講演、
大石先生の今川氏滅亡講演。山梨県立科学館忍者展、
韮崎の真田昌幸文書展示。

静岡クラフトビール&ウイスキーフェアで
出会ったウイスキーファインドのボトルがよくて。
年明けに開けます。

8月は城郭研究者セミナー。特に今回は馬出が
テーマと言うことで興味深い発表が多く、
誘ってくださった樋口さんに感謝。

その後は夏休みを鹿児島で過ごして、
津貫蒸溜所行ったりだとか、
当家の先祖調べがなかなか楽しく。
一歩一歩調べてもう少しハッキリとした
戦国くらいまでの系譜関係がわかるといいのだけど。
その直後にとんぼ返りで伊達成実御霊屋御開帳
にも顔を出したなぁ。
最後は甲府の平山先生講演で〆。

9月は、下部温泉での療養。冷泉だとやはり暑い頃!
ということで夏にリベンジ。
また折を見て継続的に行きたいねぇ。
今回はお部屋の名前が「山本勘助」なのもよかった(笑)

そして高野山。持明院蔵の武田晴信寿像、
武田勝頼家族像がガラス越しではなく間近で
見られたのは幸せ。それ以外にも高野山に伝わる
武田家ゆかりの品々を拝見。

持明院は一度泊まっているので勝手がわかるのだけど、
蓮華定院はお初。昌幸のお部屋は必見でした。

ウイスキーも武田も城も絡まない
珍しいところでは忍野八海。水のきれいなところは好き。

9月最後は台風の暴風雨をものともしないアホ
(ほめことば)が集合したカロフェス。
大野さんによる似顔絵や迫田さんタオルなど
なんかすごいもんを頂戴しました。

10月は小山田信茂復権の会から始まり、
「武田信玄の城づくり」講演会、
真田丸と古文書の丸島先生講座、
武川祐さん&平山先生講演会、
甲府ん!横丁はしご酒ウィーク、そして10月に移動した
川中島合戦戦国絵巻。毎週山梨県です・・・
4月だけでなく、10月もになっちゃった(笑)

11月は『江戸城の天守』VR見学、そして…!!
個人的にビッグなイベント、
マイウイスキー10周年完成懇親会!
これはもう感慨深かったですよね…
そしてもう早速どんどん飲んでます!
で、ついでっちゃなんですが、厚岸蒸溜所まで。

23日には敷島書房さんの信虎講演会、
翌日は平山先生の「武田信玄と甲州法度」講演会、
そしてウイスキーフェス東京。

12月。John John Festivalの久しぶりのライヴ、
日比谷で特別展「江戸から東京へ」に再度の札幌、
温泉と歴史講演、シンポジウム「豊臣大坂城研究の最前線」
そして、お城EXPO。という感じ。

武田家関係は講演会を目敏く探して参加、お城関係は
お城そのものと言うより座学関連が多かった1年です。
行ったお城もどちらかというと再訪が多く。
あと、ちょくちょく地方のウイスキーイベントを挟んで。

山城行きなどのといった歩くことが少ないなというのも反省。
痩せないといけないからせめてこういうところで
運動せねば・・講演会情報はTwitterさまさまで、
見てるとどんどん情報が流れてきてありがたいですね。

ちょっとお城も武田関係に寄っていた感じがあるので、
もう少し純粋にお城を楽しむのもやんないと。

昨年来の「つらいことを穴埋めするために
必死になって楽しいことを貪っていた」というのは
相変わらずでして。

4月に状況が変わって、楽になるはずだったのが
夏頃から外部要因でまたつらい時期に逆戻り。

まー関係ないじゃん?と言ってしまえばそうですが、
厄年ここに極まれりという感じです。とりあえず楽しい記憶は
Togetterに残すというのが定着してきましたので、
そっち方面のストレスは割と軽減できたかな。

自分の1年前の記事を見て

2018年の今頃には、そんな苦しみも
遠い過去のことのように話せているように願って。

ってあって、あぁぁぁ…となりました。
遠いどころか目下の現実ですよ、ええ。

つながっているみなさまには、まだまだご心配かけていて
申し訳ない限りですが、そういうつながる存在は有り難く、
またいろんなことに関心を持ってきて、それがきっかけで
人の輪のネットワークが広がったことに救われています。

2019年、後厄。まだ眼前にある闇は
消える兆しは見えません。
やぶれかぶれになってしまいそうになる時も、正直多い。
どんどんできたことができなくなっていく
ように思える感覚もある。

週末の楽しいこともその場で終わってしまい、
体系的に血肉にできないもどかしさ。

本を読もうにも気力が起きない時もあって、
その気力のなさにまたイライラしてしまいます。

それでも…それでも、なんとか生きながらえています。

この後どうなるんだろう。長期的な観点で考えることが
あまりできなくなった感じがします。
日々を、今週を、今月を生き抜く。それで精一杯。

せめて兆しだけでも光が見えますように。

2018年もお世話になりました。
よいお年をお迎えくださいね。


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2018.09.09

長い長い、雌伏の秋。

毎年、どんなことがあってもblogを書いている日、
という日があって、それが年に5日あります。
2/1、4/10、7/23、9/9、12/31。

それぞれ、blog(Twitter)開始記念日、
某女史生誕日、自身の誕生日、blogの前身のWeb開設日、
そして、年末大晦日。

というわけで、2000年9月9日に初めて、
自分で表現する場をつくったという記念日に当たる
9/9は、必ず文章を書く日にしているのです。

18年ですよ、18年。書き始めたときに生まれた赤ん坊が
もう大人の仲間入りを果たそうかという頃。

だいたい、それぞれの節目で振り返ったことを書くのが
ここ最近は通例になっていて、未来を語るよりも
振り返りがちになっているのは、よくないなぁ、
と改めて気づいたり。でも………語れない。

わたしにとって楽しく大切な時間を記録に残しきれないのは、
ものすごくストレス、というのは前回書いた通り。

そこで、とにかく思いの丈を語るといった、
当初のスタンスに戻すのがいい、と思ってはいるものの、
結局こうして節目の時にしか、書いていないという有様。

アウトプットってやっぱりエネルギーのいることなんですね。
たががblogであったにしてもね。

今年は、ニッカウヰスキー余市蒸溜所に
ウイスキーづくりの体験を初めてしに行って10年。

こうした振り返りができるのもblogというツールで
記録に残せていたから…記事中に
「10年もあれば、相当余市に行ってるだろうな…」と
書いてるのをみて、ニヤッとかするわけですよ。
もう数え切れないもんね。

その受け取りを11月にしてくるわけですが、
まぁ、10年前を思い返して…って
その場でもなるんだと思うんです。だからというのもあり、
また振り返りモードに戻っちゃいがち。

今置かれた環境を考えると、あのときに想像していた
10年後とあまりにも違っていて。

そんなうまくなどいくはずもないのだけど、
それにしても…です。四十とは不惑と言いますが、
むしろ、この階段に差し掛かって惑いが多く…
否、多いどころか、惑いに囲まれ
支配されている…そんな気すら。

あまり体力面で衰えを感じることはなかったのですが、
気力が付いてこないという今、取り逃したことが
もはや取り返しが付かないかもしれない、
絶望感に苛まれます。

もともと欲張りで、アレもコレもと手を出すくせに、
完璧主義で納得いくまでやりたがり。
そのままで、もはや人生どこまで行っても手が届かないのでは
という感覚を持ってしまうことは、相当なストレス。

雌伏とは、来る雄飛のためにじっと我慢すること。
雄飛はもう来ないのではないかという、
自己肯定感、自己効力感のすり減りを感じながら、
長い長い雌伏の時を過ごしていくしかないのか…

初めてスランプになった10年前から、一時期脱し、
また不本意な世界に飛ばされ、戻ったと思ったら、
また不本意な世界へ。一度目の時と違うのは、
自分の中での分析で明らかに進んじゃだめだと思ったのに、
自分で進む道を決められなかったこと。

もちろん、自分が自分がで我を張っていくのではなくって、
成功する人は、人が道を拓いてくれるものだ、
というのはあるはずなんだけど、拓けた道に
飛び込むという判断は、やっぱり自分にあるべき。

自律的であることをとても大切にしていたはずなのに、
納得しないまま、開いた穴に飛び込まされて、
結果、想像通り、いや想像以上の不適合が生じているのが今。

納得しないまま進んだ後悔と、他の道に目を遣る暇も
なくなるプライベートでのトラブル続き。どれか一つだけなら
なんとかできたかもしれないのに、納得しないで
進んだツケはいつまでも返せないまま。

どうやったら、前に向けるのだろう。
なんだか前の向き方を忘れてしまったようにすら感じる。
メンタルやると長引くよ、ってのは
こういうことなんでしょうな。

これまでの10年とこれからの10年は全く違って見えます。
壁にぶつかりながらも希望のあった10年前と
希望をどうつくりだすのか藻掻く今。

追い込まれると思考が近視眼的で視野が狭くなります。
そうならないよう、未来のことを考えたいのです。
考えたいのですがね…どうもね…

成功の道は、いつも他人さんがつくってくれた、
という人のように、やることやって後は
他力本願になるしかない気がしてきました。

自分の関心のあることでつながる人がこの18年で、
すごく増えました。そのつながりから何かが起きることを
期待しつつ、自己肯定感を取り戻す旅が続きます。

やり切れなくても、考えがまとまらなくても、
中途半端でも、とにかく生きよう。

 真田安房守
 『生きておればまだまだ楽しいものがみれますぞ』

Masayuki2

よし、そうだな。まだまだ楽しいものはあるはず。

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2018.07.23

ある時代の終焉。

さて、今日わたしの誕生日なんです。

昨年から40代に入り、THE NIKKA 40年を
記念に開けてから1年。1年つらかったですね。
ほんと。大変だった。しみじみと思います。

いろんな人たちに助けられた。自分が一期一会で
持った関心事がつないでくれた人たち。

仕事だけでなく、いろんな関心の枝葉を伸ばし、
時には剪定しながら、なんとか育ててきたことが
思いがけない救いとなったなぁ、という実感があります。

今後上向いていくのか、どうなのかわからないですけど、
まぁそうなることをどこかで期待しながら、
でも期待しすぎず、少しずつ以前のように戻れたら。

・・・・以前のよう。

でも、以前にはもう戻れないことがあります。
2016年に楽しいことがありすぎて、結局Blogに書き切れず、
2017年になっても消化できずに、2018年に至っては
書く回数が本当に減ってしまった。

ただそれを以前のように戻せばいいかというと、
どうもそんなこともなくて。今は楽しかった時間を
記録に残すという意味では、完全にTweetからの
Togetterに移行しちゃっていて、でも自分の中で
楽しかった2016年~17年が記憶の彼方には
消えてはほしくない。それはイヤだ。

ネタはあるはず、それこそ1次史料から歴史を
紐解くが如く、いつかは記録に残したいと思っています。

そしてもうひとつ。PCが本格的にだめになって、
買い換えざるを得なくなったわけですが、
どうしても譲れなかったことがありました。

それは液晶の解像度。Windows 10になるとOS自体が
うまく対応していて、Full HDクラスの解像度でも
文字をきれいにしたりする方向に効いてきて、
一昔前の、だだっ広い作業スペースを確保するだけで、
13型クラスの液晶だと、文字が読めたもんじゃないという
画面ではなくなっているんですよね。

だけど、2004年から書きつないでいるBlogは当時、
なるべくサクサクと画像を表示させたいという思いもあって、
載せる画像は360✖270の小さな画像にするという
マイルールを設けていたんです。

それはHD(1366✖768)ぐらいのPC画面を想定していた
というのも大きくて、画面全体としてはWindows 10で
Full HDのほうがきれいに見えるのに、昔に上げた
blogの画像が小さく、またぼやけて見えるのがイヤで、
なんとかHD解像度のPCを探していたんですけど、
もはやそういう時代じゃないんだな、と観念せざるを得ず。

どうしても何かを生み出す、という行為をするには
PCがいいという感覚があるもので、普段から持ち歩くので、
なるべく軽いものは譲れない。ということで、
HD解像度を捨てたわけです。

Blogを以前のように書き連ねることができなくなったこと。
以前のBlogを同じように振り返ることができなくなったこと。

小さいことと言えば、小さいことなんだけど、
Blogの時間が長いだけに、ある種の「伝統」的なことが
消えていく寂しさともどかしさが残ります。

「環境が変われば、変化をしたものが生き残る」

それは小さな、でも自分の中では長く慣れ親しんだ習慣も
同じことなんだな、と。生き残すべきなのは、わたしが
辿った道筋を残すという衝動なんだから。

とはいえ、Blogをやめてしまうわけではなく、レポート的な、
何か写真を参照したり、資料やお話を聞いて思ったことを
整理してまとめたりという、残す媒体を変えるというだけ。

もっと、わたしは自由に思ったことを文章にして、
書き殴って書き殴って、Blogを書いてきたはず。
そういうスタイルに戻った方がいいのかもしれない。
Blogってそういうものだったよね。

そんなPCの買い換えやBlogとの向き合い方に、
極私的な時代の移り変わりの一端を感じながら、
41回目の誕生日を迎えています。

まだまだ多くの「ある時代」が終焉を迎えていき、
動乱の時代を経て別の安定期に向かっていく、そう信じたい。

日本史に擬すると、応仁の乱は済んで
ちょうど戦国時代になった感じでしょうか。
まだまだ安定的になるようには、ちょっと思えないのだけど、
いつか太平の世が来ると信じて。

新しい時代の相棒となるPC。軽くて、
それでいて20GBメモリに2TB SSDと贅沢な環境。
動作もキビキビ、あとは写真データを移すのみ。
(これがめんどくさい)

Img_20180723_1920452_3

日本語キーボードなんだけど、
「かな」のみのすっきりしたタイプ。

Img_20180723_2006142_2

長くよろしく頼むよ。

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2018.04.10

今こそ・・・・お話がしたい

今日はわたしの大事な人の誕生日です。
毎年こうやって思い返してる。

12年前の今日、命が尽きようとしていることを自覚し、
その後のことを考えてた。そして亡くなるのが6月。
いまだご命日は分からない。

「自分のことは忘れて欲しいけれど、忘れてくれないなら
せめて悲しまないで欲しいかな」 って、
ねえさんならそういうだろうな、ってことばを残して。

・・・だから、お誕生日を祝う。部屋にチューリップ飾ったときもあったね。
もう12年も経ったけど、こうしてお誕生日に思い出すよ。

楽しい記憶がいつしか伝説になっていく。
わたしがSNSで出会う人に、基本的に性善説である理由、
それは、でるふぃその人に出会ったから、といって過言ではない。

そして、ここでいう書きたい衝動は、
後のツイ廃につながるのかもしれないんだよね(笑)

> nikko81さんの このエントリー見てて「ほんと,そだよねぇ」
> って思ったよ。
> それししても わたしたちって,書きたい衝動
> 大きすぎだと思わない?(笑)
> でも,それに見合う時間がお互いなくなってきてるよねー。
> 頭の中で考えたことが,ざらざらーって,文章になって
> アウトプットされちゃったりしたらいいなぁ,
> ―― なんて思ったりもするけど,それはそれで,困るのか(笑)
>
> これからも,お互い「書きたい衝動」を大事にしようよね。
> いつも何かを見て何かを感じられるように。
> 無関心・無感動・無神経,にならないように。
> いろんなことを書き続けていきましょう♪

こうして思い出せるのも、にししさん(@nishishi)がblogにして
くださってるからこそ。ホント感謝です。
これ読んで、ホント夜通し泣いたよね・・・・

今の状況、ねえさんにお話したい。
どう言ってくださるのだろう。ねえさん、戻ってきてほしかったな。
ねえさんだって、もどってきたかったよね。そうだよね。

> 頭の中を ふっと右から左に通り抜けようとする「想い」を
> がっしり掴まなきゃなって思うの。
> チャンスの神様には前髪しかないけれど,
> 思考の神様には しっぽがあるのよ,きっと(笑)

想いを掴まえようとして、でもいろんな風に縛られて、
手から零れ落ちるんだよ。掴みたい、掴みたいのに。。。
それでも、ねえさんが生きたかった未来、しっかり生きないとね。

・・・・ありがとう。ねえさんは大切な方とそちらでしあわせにね。

フィクションとはいえ、体験談が元になっているのであろう
side story」未完のまま、現存。興味ある方はぜひ。

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2018.02.01

blog開始14周年 … 『空白』が示すもの

さて、2017年末に記事を書いて丸々1ヶ月何も書かず、
2018年が過ぎています。

2/1はblogを始めた日、そしてTwitterに初Postをした日。

12月末に2017年を怒涛のように振り返りましたけど、
その時々にかけがえのない体験をしてきているにも関わらず、
振り返ることができない、記録に残せないことが、
大きなストレスとなってのしかかっています。

もちろん、日ごろの仕事のストレスも、家族のことも、
あまりにも何もかもがうまくいかな過ぎて、
ただただ、刹那的に楽しいことを探し、消費しているよう・・・

もっと噛み締めていたいことを、背に腹は代えられず、
使い捨て消費をしているような気がして、それがただただ哀しい。
でも、いつか振り返ってちゃんと暖めなおせると信じて。

blogを書く意味について、折に触れ書いてきたつもりなのですが、
昨年のこの日でもやはり、その再確認をしていました。

そして、自分史のなかの「一次史料」としてのblog、
という位置づけを見出したのでした。

あれから、もうそろそろ地獄に足を踏み入れるであろうと、
怯えながら、それでも前向きにいようとしたあの日から1年経って、
今眼前にあるのは、blogに向き合えていない事実。

もし、blogが「一次史料」なのだとしたら、その一次史料の、
ある時期ごっそりと欠損していることは、あとで振り返ったときに、
意味を持つのだろうなぁ、などと思ってみたりしています。

今はもう、生き延びて行くのがやっと、一次史料の欠片に
なるであろうTweetを残していくことでやっと。
本当に、そのときそのとき楽しいと思える時間をつくるのがやっと。

思ったよりはるかに地獄の底は深く、どこまで深く潜っていくのか
見当もつかないですけど、ある時期までは、出来事や感じた記録を
お休みして、ある意味本来のblogとしての使い方に近い、
ひたすら思いの丈を書きなぐる(実際昨年9月からはそう)ように
してみてもいいのかもしれませんよね。

投稿と投稿の間の空白が示すもの。

やはり、文章を書く、アウトプットを出すにはしんどい。
でも、何か書きたい衝動は吐き出したい。
特に区切りの日には何か書きたい。

今の自分は、余裕ないですが、
将来何かの気づきになればいいな、ということで、
しばらくはこんなスタイルにしようかと思います。
15年目のはじまりを迎えて、のリフレッシュ。

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2017.12.31

激動の果てに。

2004年にblogを初めて以来、こんなに書けなかった年はない…
そんな2017年。まだ2016年のことも書ききっていないのに、
2017年のことなんて、ほとんど残せていないのに・・・

Twitterでさえ(フォロー数が多すぎというハナシもありますが)
遡ることままならず、特にお城関係のツイートを
見きれなかったのが悔やまれます。

とはいえ、リストそれぞれについて、どこから読めていないかは
実は把握していて(え!?と言われますが)その気になれば、
期間を指定して読めるのですけどね・・・

ま、それはさておき。1年を振り返って見ますと・・・

2017年は3月までは真田丸の余韻に浸って、
積翠寺温泉要害の閉館を惜しんだり、
久々の会津絵ろうろく祭りを楽しんだり。

ノビヨ師匠(植松伸夫氏)の講演お聴きしたり、
躑躅ヶ崎館の発掘現場説明会、
そして3/25の俗称(笑)菩薩ツアー、平山先生の
「武田氏滅亡」講演会と景徳院参拝、そして懇親会。

3/25の懇親会は幹事をさせていただきましたが、このときにお会いして
今も関係が長く続いている方が多いのは、その後のわたしにとって
大きな支えとなりましたね・・・関心から人のツナガリが増えていく有難さ。

4月は信玄公祭りに石和の川中島合戦、上田真田まつり、
5月も龍岸寺さんはじめ、フォロワーさんとの甲斐の旅・・・
からの山梨文化教室×2、6月に上田原めぐりに、ホワイト依田信蕃。
さらに、熊本城&福岡ウイスキートーク。この辺はまだよかったな・・・

7月は長篠慰霊祭と待ちに待ったザ・ニッカ40年開封@不惑。
この頃からツラさが加速度的に増してきて・・・
それでも豊橋の平山先生講演や長篠城、名古屋の天下人の城、
Gifu信長展の東美濃の平山先生講演、興味深く・・・

7-8月は、湯村で湯治をよくやったなぁ。こんなにぐったりしないと
もうだめ。。。なんて初めて。それくらいエネルギーを使い果たしていた。
9月にはようやく長い休み。長野の図書館籠もったり、
湯田中から佐渡に渡って春日惣次郎の墓を探したり、
長岡の川中島合戦展を経て、ふたたびの会津へ。

10月には丸馬出の城めぐりで印象深い、大岡城へ。
翌日は岩尾城再訪したかったけど叶わず、
岩村田の龍雲寺と西念寺。西念寺さんの信玄公御位牌に
手を合わせられたのは良かったなぁ。

11月は豊橋丸島先生講演、恵林寺茶会。恵林寺茶会、
場違い感すごかったけど(苦笑)いい経験でした。
そしてまた甲斐の旅をはさみ。向嶽寺さんの朱引図がよかった。
寺領を信玄公、勝頼公同じくらいの年頃に安堵しているのがね・・・

あわただしかったけど、10-11月と仙台にも。
今年は政宗生誕450年ですからね、行っとかないと・・・・
宗泰との関係を見に岩出山へ、そして仙台市博物館で
ジックリ長居をする・・・実に見ごたえのある内容に満足。

ウイスキーフェス東京が終わって、12月にかけては
なんといっても西股先生の丸馬出ツアー。何度も行ってる城も
眼から鱗だったり、新たな気づきがあってアハ体験でリフレッシュ。
そしてお城EXPOで〆。

まぁ、楽しいことも多かったですけれど、つらいことを穴埋めするために
必死になって楽しいことを貪っていた、というのが正しい気がします。
そして記録できない(blogにかけない)ストレスをなんとか
ツイートで残してTogetterに上げておく。
それもすべて残しきったわけではない・・・で、もやもやもや。

いつか、持ち帰った史料や図録、写真やツイートを「一次史料」として
blogに残せたらなぁと思いながら、普段はなんとか睡眠時間を確保し、
休みには楽しいことを糧に生き抜くしかない…!!
そんな感じで走ってきた1年。

これからどうなるのだろう、先は見えないまま闇が広がっています。
でも諦めずに、自分にあるたくさんの関心事を殺さず暖めつつ、
無鉄砲にならず、さりとて流れに身を任せることなく、
仕事にもプライベートにも、なるべく悔いのないように。

2018年の今頃には、そんな苦しみも遠い過去のことのように
話せているように願って。blogも最終的にはプライベートの記録と
振り返りができるように、ってことを目的にしてますが、
もちょっと、ガッツリ記事を書かないまでも、
気軽にポストしてみてもいいかもな。Twitterよりはまとまったカタチで。

この1年いろんな方をご心配させてしまいました。
しかし、辛かったのは事実でして、ご心配いただいたり、
気にかけていただけたことが支えになりました。ありがとうございます。

どんなにつらくてもblogは(Twitterも)やめることは
ないと思いますので、引き続きご贔屓にお付き合い賜れば幸いです。
あと2017年もわずかになりました。
皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。

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2017.09.09

あれから17年、未曾有の危機到来・・・

なんだかんだ忙しくしている間に、最終更新から3ヶ月経過。
毎年恒例のWebデビュー記念日がやってまいりました。

blog自体はもう少し後なのですが(当時blogはまだなかった)、
Webを公開し始めた日(nikko81の81=9×9の語呂合わせ)
には、それまでを振り返る日のひとつにしているのです。

・・・1年以上前のネタを更新できないというだけでも、
ストレスなのに、更新が追いつかないどころではなくって、
まったく更新もままならないとは・・・・今までにないことでありました。

昨年のこの日もこんな書けないなんて・・・と
驚いていたんですが、今年はそれ以上。
平成丙申の乱が1年で終わる兆しがありません。

そうそう昨年は悪いこともいいことも桁外れ・・・だったのが、
悪いことの桁外れ感はそのままに、いいことの大きさがイマイチ。。。
平日がつらい、ひたすらつらい。

まだ昨年の「決断」は実行には移していませんが、
あのときの心持からは変わっていない・・・
むしろ日々決心を新たにするような感じです。

 あの頃に「自己分析」をして、これで生きていこうと決めた…
 そんなあの日の希望を実現させられなそうで、
 本当に申し訳なく思ってしまいます。

これはホントそうだなぁ、言い逃れできない。
そしてもはや後戻りできない環境になってきているのは疑いない。

だからこそ、何か別の世界で希望を持てる日々を
つかまないと、あまりにも過去の自分に申し訳ないのです。

そういえば、今年は不惑になる年でした。
ちょうど不惑になる日に開けたTHE NIKKA 40年。

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もちろん、ものすごくうまくて魅了されるのですけど、
あたりを包むしあわせすぎるミズナラの甘美な香りに反して、
これを味わっていて申し訳ないなぁ、というような感覚が混じっていて。

ただ、年を重ねれば、自動的に成長するわけでもなく、
置いていかれるでもなく、まだ自分次第だと思える部分は残っています。
よく悪くも思ってた以上に、不惑にさしたる限界は感じていない・・・

とても今厳しいですけど、年のせいでどうって気持ちはない、
そう思えるだけでもまだ救いなのかもしれません。

わたしが生きてきた時間、経験、想いを、今後どうつなげて行って、
どんな果実にしていくのか。17年前に思い描いていたこととは
違うけれども、まだ振り絞れば前に向く力が残ってはいる。

わたしが関心を持ってきたウイスキー、城、そして武田家。
これらに対する関心があるからこそ、今のわたしがあります。

いつの日か、わたしの命が途絶えるとき、関心のあることに対して
何らかの影響力をもって、生きてて良かったと思えるよう、
今を何とか乗り切りたいと思い直す夜。

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