去年の今頃はシリーズ(7) 山梨文化学園第84期『武田氏と真田氏』

さて、去年の今頃はシリーズ。
このテーマ、平山先生のお話として、
先日(2017年)もこの武田と真田の話を聴いてきた訳で、
さらに去年だって、武田神社でも聞いているわけですけども・・・・

ま、なんつーか骨格は同じ話なんですけども、
言及される点が少しずつ違ったりなんかして、何度聴いても
なかなかおもしろいものです。

このときは2時間あったので、お話の幅も広かったように
思いますね。3時間でも4時間でもお話聴いていたいですけど(笑)

ということで、気になった点だけ記録に残しておきましょうか。

◆真田嫡流について◆

良泉寺とは、矢沢城に程近い矢沢氏の菩提寺。
矢沢氏とはもちろん、矢沢綱頼・頼幸親子のあの矢沢氏。
真田幸綱の系統を探る上で、ここに残された
「矢沢氏系図」が非常に大きな価値があるようです。

つまり、真田幸綱が海野棟綱の子、あるいは男系の孫ではなく、
真田右馬助頼昌の子であって海野棟綱の娘婿であった
可能性を示す根拠のひとつということ。

どうもこの系図には、幸綱本人のことが書かれているわけではなく、
綱頼の事跡が書かれてあるんですね。

右馬佐頼昌三男の真田源之助が、諏訪氏の系統であった
矢沢氏を相続することで、真田氏との関係ができるようになったと。
そもそも、諏訪は海野平の合戦で、滋野一族を追いやった
武田・村上の同盟軍であって、本来対立構造にあったのでしょうけどね。

矢沢綱頼が真田幸綱の弟であることは明確ですから、
間接的に、真田頼昌こそ幸綱の父でもあるってことになりますな。
しかし・・・松代藩はこの頼昌の存在は、幸綱から以降、
近世松代の記録まで、消されていたわけです。

そして、もうひとつ。頼昌嫡男の存在。これも後に丸島和洋先生の
「真田一族と家臣団」ですとか、長野県立博「川中島合戦と真田」の
展示でも確認ができて、すごく興味深いのですけど。

2013年・・・ですからわずか4年前に、上田の生島足島神社で、
義信事件後の起請文群をみたときに、海野衆の中にいる
「真田綱吉」って誰やねんこいつ・・・と思っていたら、
その人物こそ、本来の真田の嫡流の人だったんですねぇ。

てことは、幸綱は次男ってことになりますよね。
これは先ほどの矢澤系図に「右馬助頼昌三男真田源之助=綱頼」
ということとも、合致してきます。その推測の根拠のひとつとして、
この綱吉の官途名が「右馬助」であること。
官途名を嫡流が受け継いでいくというのはありますものねぇ。

この右馬助綱吉、真田を離れて佐久郡北方衆として分離。
真田惣領の地位は、幸綱が継いだようです。
右馬助を綱吉が名乗っていたとすると、そもそもは綱吉が
真田嫡流だったものが、その知略を信玄に買われて、
どんどんと出世していく中で、実権が奪われていったのでしょうか。

しかし、日向畑遺跡の真田氏墓を復元せずに、
系図の改竄を進めてきた幸綱系統の真田氏・・・も、
矢沢の系図までは、チェックが漏れていたのですかねぇ(笑)
さてこの綱吉の系統もおもしろいんですが、それはまた今度にして。

佐久郡の統括は、元上原氏の小山田備中(虎満)。
甲府の上石田あたりを本貫地としていました。
幸綱もこの小山田の相備衆として重きをなしていくわけですが、
有力な相備衆として、信玄に重用されていく弟を
綱吉はどうみていたんでしょうねぇ。

ちなみに、この小山田備中守虎満。子の備中守昌成は
高遠城の仁科信盛救援に駆けつけ、そのまま族滅していますが、
ある伝承によると、武田の滅亡後に郡内小山田氏、
いわゆる越前守信茂系統と混同されることを嫌い、
「小」の字を削って、「山田」と称してこの上石田に住まうように
なったんだとか・・・・

そして、郡内小山田氏の分流であり、松代真田の家老として
存続した境小山田氏(茂誠・之知)の系統も、
この備中守虎満の系統だと主張している点がおもしろいですよね。

◆昌幸の人質に出された時期◆

幸綱が、一説に村上方に着いていた矢沢綱頼を調略に使い、
砥石城を乗っ取ってまもなく旧領を回復したのが、
天文22(1553)年。

この年に、幼い昌幸(満6歳)を人質に出したことを信玄が賞し、
上田秋和の地350貫文を与えたということですが・・・・
ということは?昌幸の生まれた天文16(1547)年は、
幸綱が武田に着く決心をした頃でしょうか。

と考えると、伝え聞いていたにせよ、武田と真田が敵対していた
頃のことはまったく知らず、生まれながらにして恩ある武田・・
だったのが、昌幸の幼い頃だと思うと感慨深いものがあります。

◆甲府・二十四将屋敷跡設置の経緯◆

今となっては、甲府駅北口の武田通り沿いから武田神社の周辺、
二十四将の屋敷跡の看板があって、われわれさも当然のように
眺めているわけですけれども・・・これ、大河「風林火山」の頃に
平山先生が、看板立てようぜ~って嗾けたそうで(笑)

ちょうど大河「風林火山」が決まった頃、講演会に
市の助役、市議会議長や議員さんが来てられていて・・・
平山先生はおっしゃいました。

みんな武田神社に行って帰っちゃう、でも二十四将と
謳われた人たちがどこに屋敷を構えていたのか、
誰も教えてくれないし、わからない・・・と思っていませんか?と。

・・・わかるんです!(川平慈英調)

今ではわかりにくくなっていますが、その昔はどこの地名にも
「字名」がありましたね。そう・・・典厩信繁の屋敷跡は「字典厩」、
横田備中の屋敷跡は「字横田」、土屋昌続屋敷は「字土屋敷」
逍遙軒信綱は「字遙軒屋敷」。

さらに、江戸時代初期の貞享年間(1684~1687)に
作成された、武田遺臣の屋敷跡を記した古府中村の絵図。
これらを元に・・・・石碑など仰々しいものはなくていい、
看板立てればいいじゃん!とご提案されたんだそうです。
動かせるし、古くなればとっかえればいい。

ホントね・・・平山先生こういうところがすばらしいのですよね。
そりゃぁ、ファン増えるわと。

もちろん研究の世界では、批判上等掛かってきやがれなんですけども、
歴史が好きという一般人に何を発信するかをすごく考えてられて、
また、手持ちのどんな史料・史実をどんなコンテンツとして
発信すれば、心をつかめるのかをすごく熟知されている・・・

さてさて。真田との関係で言うと、いい位置にあるよね、
両真田の屋敷跡ってことなんですけども。

◆第四次川中島以後の上杉防備◆

上杉を撃退して後、武田方は海津城の北に
元島津氏の長沼城を修築し、対上杉の防衛最前線としたそう…
なんですが、ちょっと調べてみますと縄張図が、
上田の岡城とそっくりでして、川の断崖を背景に、
丸馬出で防ぐという典型的な武田の城の構造をしているんですね。

あと、個人的に謎な丸馬出を三方向につくっている
という点も岡城と共通した構造。三方向に丸馬出をつくる、
というのが武田のセオリーにあったのかどうか?
ものすごく興味をそそられるお城ですね・・・

また時期的にも、香坂氏館を増築してつくられた
牧ノ島城とも重なる点が気になります。
やはり、駿河侵攻以降の南西に戦線が広がっていく時代、
対上杉防備の防衛ラインを海津城を中心に、
東の牧ノ島城、北の長沼城だったのかな・・などと・・・・ううむ。

◆長谷寺の昌幸墓◆

九度山に流され亡くなった昌幸はそこで荼毘に付された
ようなのですが、遺骨の一部はどうも上田に戻されたらしく、
そう考えると、幸綱の墓の横にある昌幸供養塔にも、
ご遺骨があるのかもしれない・・・という話。

墓自体が動いているいう話もあるらしいので、
なかなか実態把握は難しいのでしょうけども・・・ううむ。

◆織田方の長篠合戦首帳にある信綱◆

長篠合戦で真田源太左衛門こと真田信綱は
討死するのですけど、織田方の首帳に真田源太左衛門って
出てくるらしいのですね。

しかし・・・よく知られている通り、信綱の首は白川兄弟が
青江の大太刀とともに持ち帰って、信綱寺に埋葬されているはず?
ということは、これは誰だ・・・という話。

首がこれは誰だ?というのは、捕虜として生け捕った
一般兵卒に確認して首帳として記録していくそうなんですが、
これがけっこう人間違いがあるそうで。

もちろん、織田・徳川方が具に武田家中の面々の顔を
知っているはずもなく・・・ってことで、どうやらこれ、
真田兵部丞昌輝(の誤り)ではないか?とのこと。にゃるほど。

◆高天神城の生き残り◆

勝頼滅亡の直接的な契機となった高天神上落城。
この中で数少ない生き残った者として、横田備中守高松の孫、
横田甚五郎尹松(ただとし)は自分の中では有名なのですが、
それ以外に、西尾仁左衛門宗次がいたそうな。

・・・それだけだと、ふーんなんですが、この西尾氏、
なんと後年、真田信繁を討ち取ったあの西尾なんですよ。
武田滅亡後は牢人の末、結城秀康に仕えていました。

信繁の最期は、武田VS武田だった・・・ということなんですけども、
なんとも因縁深いものだと思いますね・・・
しかも、西尾は直接信繁の顔を知らず、討ち取った後
結局その人が真田左衛門佐とわからなかったそうなのですが、
とある人が、西尾の元に陣中見舞いに来たそうです。

花形市左衛門と縫殿之丞。彼らは武田の遺臣であり、
さらに一時期真田家にも仕えていたのだそうで、
だからこそ彼らは、信繁を知っていた・・・だからわかったのですね。

真田信綱と弟・昌輝の首の混同と同じく、
大将首の認識のされ方っていうのが、なんとも興味深い。

◆新府城の屋敷のありなし◆

新府共選場の裏側の字名が「隠岐殿」という名前だそう。
ここを発掘した結果、焦土が出てきて・・・という流れ。
つまり、ここが加津野隠岐こと、真田信尹屋敷跡と比定されてるアレ。

武田二十四将展でも出ていた陶磁器などがここから出たわけですね。
今は、農道になっていて遺構は埋設保存中。

信尹が屋敷を持ってるんだとすると、昌幸だって屋敷あったでしょうね…
昌幸の屋敷だってあるとわかるといいんですけども。

おもしろいのが、甲府から屋敷を移したのとそうでない差。
真田丸では、我らが本拠地・・などと穴山梅雪が言ってましたが(汗)
穴山梅雪だって、武田逍遙軒だって移してないんですね。

新府に居を移したのは、勝頼に近しい面々のみ。
そう考えれば、昌幸もあったと思いたいですね・・・

武田信虎の石和から甲府への移転よろしく、
伝統ある武田にあって、本拠移転はなかなか難しいわけです。
決定的に武田家中が分裂しちゃったんですね・・・新府城築城。

◆顕了道快の逃避行◆

これ、「大いなる謎真田一族」にも記載があるのですけど、
後に第一次上田合戦後、更なる対徳川対策として、
信玄の子たる武田竜芳が生きていて、上杉に匿われている、
と偽情報を流し、徳川配下の武田遺臣の動揺を狙うのですが…

このとき、本当に生き延びていたのは竜芳の子、顕了道快。
後に還俗して、武田信道となります。今に続く武田宗家の祖。
武田竜芳墓所のある入明寺には、犬飼村に逃げたと記録があり
ずっと信濃国安曇郡犬飼村に匿われていたとされていました。

が、実はどうも安曇ではなく、飯山の犬飼村らしく、
浄土真宗の牙城だったところだとか。
飯山の犬飼村というと、信濃国高井郡。
相当な上杉領に近いところであります。

浄土真宗は武田とも縁が深く、三条夫人を通じて、
信玄と顕如は義兄弟に当たる間柄ですし、
武田滅亡後は上杉に通じ、織田方に一向一揆が起こり、
また三河一向一揆や石山戦争の生き残りを匿うなど、
反織田の機運が高い地域。

この匿われた顕了道快、甲府長延寺
(現東本願寺甲府別院光澤寺)で信玄の御伽衆の
一人であった実了師慶の下で出家するわけですが、
この犬飼村は長延寺の知行地だったとか。

信玄と浄土真宗のつながり、そして顕了道快が
出家した経緯とそのつながり、かの地の気風と長延寺のつながり。
なぜ顕了道快が逃げ遂せたのかがわかるような気がしますよね。

・・・というわけで、興味深いお話いっぱいの2時間。
やー、ちゃんと振り返るに値する深い内容。

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blog開始13周年 - 「古記録」たるblogから再構成する、わたしの歩んできた道

さて、2/1はこのblogはじめて丸13年になります。
まぁ・・・毎日書くことに特に意味を見出してはいないので、
けっこう更新間隔、開いてはいますけども。

基本的な目的は今も変わらず、考えたことや
体験したこと、見聞きしたことをしっかり記録して、
後で振り返られるようにすること。

興味の移り変わりを振り返って、ちょっと一歩引いて、
わたしという人間の好奇心の移ろうさまが
また興味を引くものであるし、今後の自分に向けて、
フィードバックさせたい、という思いも持っています。

そして、それを小出しにして切り出して、
誰かにおススメしたり、こういうのに興味があるという
ことをお伝えしたり。blogの全体からも、
nikko81って、こういう人間ですって、自己紹介になればと。
そういう意味で、誰かの役に立ったらいいな、は副産物。

なんですけど、昨年2016年に今までなかったことが・・・
それは2016年にほとんど2016年の話が書けなかったこと(爆)
そんなだから、ちょうど今去年の今頃シリーズなる
謎の記事シリーズをはじめているわけですが(笑)

だいたい年末に押し込んで、できなくても1月には
終わらせて、blog開始記念日の2月1日を
迎えるときには、書き終えてるものだったのですけど。

こんな年もあるんだなぁ・・と思いつつ、
歴史を研究する専門家の方のインタビューで、
ちょっと「あ!」と思うことがありましてね。

真田丸の歴史考証をされた中のお一人、
丸島和洋先生のインタビューから。

曰く、同時代人が日常生活・業務のなかで作成した、
古文書や古記録、つまり日記などから、客観的に
事実を再発見・再構成することが、歴史学の目的だと。

このインタビュー自体、一般の歴史に興味のある者にとって、
ある歴史上の人物が好きだったり、関心をもったとき、
どう対峙すべきか、対峙しようと心がけるべきか?
といった意味で、非常に参考になるわけですけども。

しかし、別の関心を持って捉えると、四百年どころか、
わずか十数年、あるいは数年前だけれども、過去の自分が、
当時記録した「古記録」から、事実を再発見・再構成する
というのは、わたしが感じるblogの醍醐味と重なるなと。

この2016年の間に、2016年の出来事が掛けなかったくらい、
本当に楽しいことも、つらいことも、何もかも、
怒涛のように起きていたという、後から振り返ったときに
感じる2016年の捉え直し、というのがなにやらおもしろいなと思えて。

史料からわかる史実、史料と史料の間隙から炙り出される史実
それらをつなぎ合わせていくことでわかる、歴史のおもしろさ。

それを自分の記録たるblogに当てはめると、
2016年に当年のことが書けなかったという「古記録」と
また別の何か、それとも今後起こる何かを合わせて考えると、
自分にとっての2016年って、そういうことだったのか・・・
というようなことがわかるかもしれないのかな、なんて。

ある意味、わたしはわたし自身を活きた「歴史」として、
捉えることに意味を見出していたのかな、と思ったりしたのです。

本当に凝りだしたら、それこそインタビューであるように
レシートひとつとっても、自分にとっての「史料」になるわけで、
実際、とあるウイスキー(今年開封予定)のレシートは
今でもとってあるんですけど、まさに史料だなぁと。

やりきれないくせに、やけに完璧主義の残り滓だけが
燻っていたりするので、思った密度の記録を
思ったタイミングで残せないと、いらいらしたりもするんですが・・・

記録に残したいという思いはあるものの、
記録が追いつかないくらい激動だったということが窺い知れること
というのもまた、残すべき「史実」なのかもしれないなー。

ということで、書ききれないということにも、
なんだかポジティブになれるような気がした、blog14年目。

わがココログを担うニフティがノジマに譲渡される、
というニュースを目にしました。

ホント、ココログストップだけはやめてね。
ココログ出版もなくなっちゃってるし、
14年もの間書いてきたのを、どこかに移すのとかって、
めっちゃ大変なんだから。おねがいしますよ、マジで。

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去年の今頃はシリーズ(6) 名古屋城現場見学会2016

さて、ちょっと変わって名古屋城。ちょうど年明けすぐに、
名古屋城の見学会募集をやっていたので、参加してきました。
併せて、タウンミーティングもあったんですけども・・・

2017年になって今のゴタゴタ具合を考えると、
どれだけ汲んでもらえているのか?ということを考えると、
正直やって尾張・・・じゃない終わり、という感じは拭えません。

ということで、タウンミーティングは割愛して、前日の見学会を
記録に残しておこうかと思います。

P1170478

◆天守の現状◆

ポイントとして、56年経って老朽化した部分として、
挙げられるのは・・・

電気設備など
コンクリートそのもの(後40年)
被熱した石の脆弱化
石垣の孕み
天守の耐震性能

ということ。石垣に関しては、ケーソン基礎4本が別にあるため、
石垣そのものの保護とは別に天守は考えてよさそうということですが、
やはり、コンクリートの劣化とそれに起因する耐震性能。

ここでちょっと調べてみたのですが、コンクリートの劣化、
と一口に言ってみても、それがどうして起こるのか?ということ。
この現場見学会前の解説では、中性化と言われていました。

鉄筋コンクリートは、コンクリートは実はアルカリ性で、
セメントに含まれる水酸化カルシウムが高いアルカリ状態に保ち、
内部の鉄筋に不導体被膜という薄い酸化化合物の皮膜を
つくらせるのだそう。これで、酸化つまり錆を防止しているわけ。

ところが、空気中の二酸化炭素に反応して
炭酸カルシウムになってしまうことで、PHが中性に傾き、
防錆効果が無くなってしまう・・・というのが、「劣化」なんですな。
(参考:テクノクリート施工研究会Web

あと40年は持つだろうということでしたが、
名古屋城の現天守の非破壊再生は不可能なくらいに
進んでいるのでしょうか?改めてメモを振り返っていて、
その点、気になるところです。

あと気になった点と言えば、DVD上映では、
史実に忠実な再建が可能な、「唯一」のという表現が。
まぁ、名古屋城に適う天守は他にはないのだけども、実際。

また改めて振り返っておきたい文化庁の見解。
地元の自治体がどのような整備をするのかを決めるのが第一、
復元する場合は、材料等は同時代のものを使うなどが原則。
ただし、それ以外の可能性を排除するものではない、と。

名古屋城の場合は、史料が豊富なため、史実に忠実な
再建を目指すべきという見解が復元検討委員会で
総意となる可能性が極めて高い、とも。

ここで読み取れるのは、

・文化庁は復元に当たってイニシアチブは取らない
・原則は木造再建、ただし価値が認められる場合はその他の選択肢も
・木造再建以外の可能性を最初から排除はしない

ということ。何度か書いていますが、この文化庁が
イニチアチブを取らないという点は、非常に引っかかる点なのです。
この点については、後述。

ちなみに、インターネットで募集した意見(H25年)では、
500人の公募による名古屋市民の意見。

70%以上が現状維持、つまり現天守の維持を求める
意見が多かったとのこと。これはこれで意見として、
受け止めるべきでしょうが、

・文化庁の許可がないと、RC天守再建は不可
・解体せずに現RC天守を存続できる方法があるのか?

について、どれだけ理解されてるのでしょうかね?
当時から4年経ったわけですが、このアンケートに対して、
ちゃんと上記のフィードバックを名古屋市は市民にしたのでしょうか?
市議会でのどんな議論もあまり詳しくは説明されず・・・

40年もつといわれる現天守の耐震補強ですが、
そもそもどういう仕組みで補強するのか?
それによって、40年後はどうするのか?という点について、
議論が進んでいるとはいえず、結局市のごり押しが目立つだけ
といわざるを得ない、というのが改めて振り返った感想。

耐震補強後、40年後に木造建て替えよりも、
今やるべきだという調査結果ももっと議論されるべきだと思うんですが…

耐震改修しても40年程度はもつらしいけど、
それって問題の先送りでしかないんですよね。
木造再建を諦めるなら、名古屋城天守はいつなくなっても
もう諦めるくらいの覚悟を持ってるんでしょうか??

以前より、城郭建築の再建が日本各地で起こっていることにつき、
各地がバラバラに再建運動を進める危険性を考えています。

つまり、単独でみれば数百億単位の財源があれば
再建可能ではあるものの、江戸城、名古屋城、小田原城はじめ、
図面や雛形など再建に足る史料が揃っている天守が
同時に再建が進むと、大径木の材が不足するのではないか?

そもそも、長い年月を経た大径木の材は数が限られ、
また当然ながら百年程度では、材はそこまで成長しません。
このジレンマをどう解決するか?は、中央の所轄官庁である
文化庁がイニシアチブを取るべきではないかと思うのです。

もう少し強い調子で言うならば、名古屋市民の判断だけで、
名古屋城の再建にGoを出していいのか、ということ。
それは、他の天守やその他歴史的建造物の木造再建を
妨げるかもしれないわけです。

わたしが最後に質問をさせていただきましたが、
他城でも再建計画が持ち上がっているが、
材料調達可能か?という質問に対し、40年先ではなく、
今やるべきだというのは、まさに今材料を確保しないと
材がなくなってしまうという、いわば早い者勝ちだということ。
極論すると、こういった材の先物取引も起こりかねないのでは…

外国材にするか、あるいはヒノキから材を変更するか?
という検討も他城郭と連係して考えるべきだろうと思うのです…

今やるべきでないだろう、まずが櫓からだ、
大手馬出の復元からだという意見もありますが、
やはり、早い者勝ちの材のために、天守からやるべき
というようにも聞こえました。

かえすがえすも、議論が深まっていない1年だったと思うと
残念でならないですね・・・・

◆現地見学・天守編◆

さ、気を取り直して、現地見学。
そういえば、あまり気にしてこなかったこの部分。

P1170485

これ、明かり取りなんですね。明かり取りというと、
江戸城寛永度天守にも、同様の部分が描かれていますが、
これくらいのビッグな天守になると、必要になってくるみたいで。

てっきり、江戸城天守がその戦闘性を失っていく中での
明かり取りなのかと思っていたのですが、ぜんぜん戦う気の
名古屋城であっても、明かり取りは必要なんだと。
明かり取りとはいえ、狭間としてつかえるもんねぇ。

天守台北側。ここの部分ってちょうど熱田台地の北端で
その先にある御深井丸は沼地だったんですって。
ということで、どうも北側の地盤が緩みがち…てことで、
宝暦年間に修理されてるんだけど、また石垣が孕んでる。

P1170490

そういえば、宝暦修理の際も石垣が落ち込み、
天守がこちら側に傾いてたわけで…
天守再建するにもこの石垣を積み直すのかどうか、
後記にも影響あって、議論の分かれるところかも。

ただ、ケーソン基礎があるとはいえ、石垣のためには
(全荷重を掛けるべきではないにせよ)天守の荷重
をある程度かけた方がいいんですよね。本来。

そんな崩れやすいからかどうか・・・天守台北側には、
この孕んだ石垣には危機を察知するある仕組みがあるとか!

P1170492

正解はこれ!瓶が石垣の間に挟まってます!

P1170493

割れやすい瓶を挟んでおくことで、わずかな石垣の動きを
察知しようとする仕組みなんだそうです。
アナログですが、効果ありそうですね。

ひとつじゃなく、いくつかありました。

P1170546

P1170547

手前の樋の上部がかつては企画されていた天守入口跡。

P1170495

わかります?拡大してみると・・・
そういやちょっと石垣の積み方が違うような・・・??

P1170496

名古屋城は築城過程で縄張図がけっこう変わるのですが、
初期の縄張図には、空堀内に櫓を建てて、
そこから大天守内に入るプラン
だったことがわかります。

1370978

さて、大天守台と小天守台をつなぐ橋台。
ここに汚れたようにみえる茶色の部分は、
焼夷弾(ナパーム弾)の跡ではないかといわれてるそう。

P1170500

小天守があるあたり。鵜の首からみた感じ。
どうもこのあたり、濃尾地震で石垣が崩れていて、
その際に積み直しをした跡。

P1170505

一方で大天守は濃尾地震で崩れていない・・・
ということを考えると、やはり上から(ある程度の)重石が
あったほうが、耐震には有利に働くのだなと感じますね。

本丸枡形の鏡石。大きな石の回りに小さい石を
並べるのを「笑い積み」というそうだが・・

P1170507

・・・ということで、天守はここまで。
続いて、御殿編。割と行かないことが多いんですが(汗)
今回はジックリと見学。

P1170509

奥が公開されたばかり?ということで、
新たに公開された部分と車寄部分とで
杮葺の屋根の色が違いますな。

P1170513

そういや、名古屋城の本丸御殿、奥がないんですって。
というのも、名古屋城ができて、すぐ大坂の陣に出陣、
そして勝った・・・ということで、将軍の上洛殿に
なってしまったので奥がないと。

まぁ、ずっと本丸そのものは尾張藩主は普段使わず、
わずかな藩主の見回りのときくらいにしか、
入らなかったといいますからね・・・

車寄からすぐの天井。そういえばここが一番略式・・・
すぐ格天井のほうに目が行くけども、天井にも格の差が
あると思うと、ここも興味深く見えますな。

P1170516

釘隠しマニア(笑)としては、かならず撮りますね。

P1170520

どうしても御殿のほうは、こう・・・
美術品鑑賞の感覚になりますね。

P1170523

そういや、柱が四角いのが当たり前に思えますが、
襖で部屋を仕切るようになってはじめて、
柱が四角くなるんですってね。

P1170525

そういや室町~戦国あたりの屋敷って、仕切られてなくて
円かった気がしないでもない・・・

名古屋城本丸御殿の復元で、けっこうポイント高いのは
襖絵がわからないところは、無理に描かないという点。

P1170528

一面、ただの金箔押というところも。

P1170529

むしろここまで来ると清清しいですが、
わからないものは勝手な想定で復元しないという
意思の表れと思え、好感持てますね。

上段の間。松の木がバックにあるところは、
江戸城、二条城と共通。ってことは、やはり将軍の居所
ということなんでしょうかねぇ。

P1170537

帳台構や違い棚も瓜二つ。やっぱし二条城が
ベースなんだろうなぁ。

P1170542

格天井からの折上格天井。天井にも格式が、
のわかりやすいところ。折上格天井は上段の間。
・・・ちなみに、江戸城には二重折上格天井がありました。

P1170544

ということで、わりとさっくりと御殿見学終了。
退出する頃には日も落ちかかり。

P1170550

昨年夏にもう対面所の公開されてるんですよね~
まだ行ってないけども(笑)このときはまだ1月だから・・・

P1170569

個人的に好きな西南隅櫓。なかなか公開しないんだよな…
ものすごく天守的な要素があって、興味深いのです。

P1170571

割と公開されてる東南隅櫓。御殿が完全公開になったら
ここからの天守+御殿の眺めはすばらしいだろうねぇ。

P1170581

夕陽を浴びる大天守が素敵。

P1170578

名古屋城正門前の門松。これ何気ないように見えて、
名古屋城の記録「金城温古録」を参考に
作られた名古屋城式門松だとさ!細かい!

P1170582

・・・また今年も、何かイベントありますかね?
耐震不安から入城を控えさせるような話もあったりと、
なんだかいいように向かってはいないようにも・・・

名古屋城大天守は、史料が最も豊富で
最も史実に近づける天守。
だからこそ、皆に歓迎されて木造再建ができるように、
機運を醸成する丁寧な運営手腕が求められると思うのです。

誰かのごり押しで精巧で忠実な天守が建っても、
そのごり押しが歴史にちゃんと残るのです。
せっかくすばらしい天守に、そんな汚点を残してどうするのか。
天守が再建と成るプロセスもまた歴史なのですよ?

名古屋市民でなくとも、その価値に深く感じ入る
城好きとして、いいように向かうことを祈念するばかりです。

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VR作品「江戸城の天守」

凸版印刷のVRがまた江戸城を取り上げたということで、
早速行ってまいりました、「江戸城の天守」

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結論から言って、すごくよくできた内容です!
ナビゲーターの女性があれこれ説明してくださるのですけど、
江戸城天守をいくつかの切り口でわかりやすく説明。

以前「江戸城~本丸御殿と天守」というVRもありましたが、
どちらかというと本丸御殿中心だったこともあり、今回は
かなりマニアックに天守のほうに力が入ってましたね。

1) 徳川家光
2) 石垣
3) 骨組み
4) 銅板葺
5) 金物
6) 鯱

の6点から解説されています。

1) 徳川家光

そもそも徳川家光って知ってますか?というところから
忠長を偏愛する江に愛されずに、廃嫡されようと
されていたのを家康が処断し、跡継ぎの宣言をしたことで、
家光に家康への尊敬が生まれたというくだり。

直接江戸城とは関係はありませんけど、とにかく荘厳に
華麗に・・という家光の好みは日光東照宮の壮観さにも現れ、
それが家康への敬念の表れとするなら、天守にも
その意向がある程度反映されているという理解もでき、
その意味で、悪くない説明かなという感じ。

2)石垣

すごいなーと思ったのは、ちゃんと現天守台との違いの解説をするとこ。
伊豆石をつかった当時の天守台の再現、その伊豆石を切り出す
石丁場から江戸城への持ち込みの解説まで。

さらには中雀門などに江戸城寛永度天守台の石垣が
転用されてる話なども盛り込まれていて、そうそれそれそれそれ!
とニヤニヤしながら聴いておりました(笑)

そしてVRでも天守台は真っ黒の天守台。瓦は後述するように、
黒チャンが剥がれた後想定の緑色なんだけれども、
石垣から壁と瓦の銅板+黒チャンの黒が映えると、
ホントに真っ黒の天守でかっこいいなーと実感できます☆

3) 骨組み

ここもしっかり史料に基づいた解説。
東京都立図書館蔵「江戸城御本丸御天守百分之一建地割
をベースに、柱をずらーっと据えつけていくさまをVRで実験。

こうやって柱が立っていくのね、という実感ができ、
また三浦先生が復元調査報告書で解説されていた、
御天守百分之一建地割の正確さを改めて感じた次第。

4) 銅板葺

ここでは、日光東照宮陽明門や寛永寺五重塔などを例に、
その作り方や仕組みなどを詳しく解説。
実際の日光東照宮の銅板をお持ちいただいて、触ったりできる
というのも新しかったかも。薄いのに頑丈ということで耐久性中心の説明。

個人的には、本瓦葺よりも総重量が軽量化できる点、
また江戸城クラスの大天守ならばこその軽量化の必要性、
という点にも言及いただけたらよかったかなぁ。

5) 金物

二条城はじめ、多くの歴史建造物の金物を手がけている工房
からその打ち出しの技法を解説。意匠参照としては
やはり二条城二の丸御殿が参考にされていましたね。

ただ、国立公文書館蔵の「江戸城御天守絵図」はかなり
正確な意匠を反映しているので、ここへの言及はほしかった…

しかし、意匠自体はこちらとも矛盾のないよくできたもの。
どアップで千鳥破風が映って、細かい意匠がハッキリ見えるのは圧巻。

6) 鯱

こちらもどアップ。参考は名古屋城天守とのことで、
まぁ妥当なところでしょう。

そして、シアター前にその金物や鯱のVRを起こしたときの
設計図面の一部や金物のサンプルがあって、萌え萌え(笑)

銅板葺の鬼瓦がこんなに緻密な仕事でできてんだぜ・・・

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鯱。

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釘隠しには花菱だぁぁぁぁぁと頭の悪いコメントが
頭を渦巻いていました(笑)

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・・・これ、前作のように、DVDないしBlu-rayになったら
間違いなく買いですね・・・つくってくれないかなぁ。

3月31日まで上映なので、気になる方はぜひ!
城郭建築好きさんはもちろんのこと、広く和建築が好きな人にも
楽しめる内容なんじゃないかと思いました。

わたしもあと数回通いたいと思います!

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去年の今頃はシリーズ(5) 西宮鷲林寺・信玄公墓

さて、その勢いで神戸まで。串カツ日光なるお店を
見つけたらそりゃ行きたくなりますわな(笑)

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日光が神戸串カツ日光でチーズミルフィーユカツ。
串カツ屋さんらしい。安くて美味い。アリアリ。

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さて、目的は・・・鷲林寺。絶対うそやん!と思うのですが、
「信玄公墓」なる石塔があるということで・・・
西宮駅から阪神バス乗車、「鷲林寺」下車 徒歩20分という、
わりと行くのに面倒なところなのですが(笑)

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割と山手で山城でもありそうなところをずんずんと進んでいくと。

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小さなお堂。往時は伽藍があったようですが、
織田の兵火で焼失して以降、再建されることなく
長く放置され、最近になって再興され始めたとか・・・

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そしてその向かって右手に石塔群。

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ひときわ目立つ七重石塔が信玄公墓・・?

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どうも創建年代は鎌倉時代に比定されているらしく、
その点からも信玄公の生きた時代との関連は考えにくいですね。

鷲林寺は淳和天皇の天長10(833)年、
弘法大師が開基の寺。荒木村重の叛乱とその討伐に
来襲した織田軍の兵火で本尊などを除き、伽藍など焼失。
・・・ということも、あまり武田との関連を考えにくい。

しかし、地元には、

鷲林寺近くに住む人の話によると、七重塔の下には信玄の遺髪や爪が納められていると子どもの頃に祖父から聞いていたそうです。その大昔からの言い伝えが現在まで伝わり「武田信玄の墓」と言われている

という伝承が残されているらしく、また鷲林寺にある
お墓には、花菱紋のお家や武田姓の方までいらっしゃいました。

住職のお作りになっているWebの解説によると、

当山麓の鷲林寺村には甲斐姓が多い。これについて、戦国時代、信玄公の末もしくは家来が当地に逃げ延びて寺の周りに集落を構えた。そして鷲林寺境内にあった七重石塔を信玄公墓として崇拝したという説。

というものがあるそうなのですね。得度をこの寺で得た・・・
というのはさすがにないでしょうけど、尼崎の善念寺のように、
武田勝親が逃れてきた
ような話もあるわけです。

東にだけでなく、西のほうにも遺臣が逃れてきて、
この一体に集落を構え、精神的支柱として元ある石塔を
信玄公墓として、祈りをささげた・・・とは理解のできる話。

いずれにしても、西宮で『信玄公』なる敬称が
見られるのは興味深いと思うんですよね。うん。

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さて、お寺さんのお参りもせねば。
かわゆすぎる「ようおまいり」。

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現拝殿は昭和5年落慶とのこと。わりと最近ってホント。

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「鷲」林寺だけに・・・??

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この塔は立派だーすごいな!
ちょっと小さなお寺には、違和感のあるくらい。

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このお不動さん、織田の兵火から逃れた像なのかな。
どうだろうか・・・・にしても、不動明王が安置されてるだけで、
どうしても武田的な何かを連想したくなる(笑)

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ということで、まぁわざわざなかなか行かんだろう、
という武田史跡のご紹介でした(笑)

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去年の今頃はシリーズ(4) 徳川家霊台・奥の院信玄公・勝頼公・馬場美濃守供養塔

さて、徳川家霊台にも。てか、高野山にあるんだ、
というくらいのうっすい印象でごめんなさい・・・

入ってすぐ枡形虎口でびっくり。そいや、日光東照宮や、
久能山東照宮でもこういう枡形の部分があったかなぁ・・・・

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家康廟。瑞鳳殿や大鋒寺の信之廟に割りと近い、
江戸時代初期の霊廟建築の標準的なスタイルに思えます。

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色は褪せるがままの状態というのも廟としては
けっこう珍しかったりしませんかね。

葵紋も初期の葉の茎が長いタイプ。
高野山ですから、一度も焼失することなく、
また部材が交換されることもなく、ずっとあるのでしょう。

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隣は秀忠廟。江戸は空襲で焼失したし、
日光には家光つくってくれないし(笑)・・・
何気に貴重かも秀忠廟。

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戻り道で差し掛かって、「井」の字を発見。
井伊家縁なのでしょうね、福智院。

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そして、お昼。あんまり実は食べるところがないんだな、
と知ったわけですが、こんな暖簾見ると、
入らないといけないですよね?ね?ね?

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が、天皇陛下がご参詣される際にお食事を供される
ほどの高級店でびっくり!バッテラでやっとでした・・・
おいしいですけどね!武田菱ありますけどね(違)

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さて、奥の院までの道。いろんな歴史上有名な武将たち、
江戸時代の藩主などの墓が立ち並びます。

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立花宗茂供養塔。 形式は先の真田信幸と同じですね。

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拡大。割と読みやすい宗茂さんです。

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筑之後州柳川城主前飛州太守
従四位源宗茂公追□也
奉爲大圓院殿松隠宗茂大居士
成三菩提也
嗣子立花左近将監従四位下
源忠茂朝臣建立之

だいたい文言はみな共通の形式をとるもんなんでしょうね。
しかし、このペースで見ていると、いつまで経っても
先に進めないではないかぁ!ということでペースアップ。

最上家親供養塔。最上氏は彼だけだったような。
やはり大名格でないと、供養塔建立は難しいのか・・・

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家信造立之、とあって家信って誰よ?と思ったら、
義俊の初名が家信だったそうで。「家」を避けたのかなぁ。

島津家供養塔。このあたりは江戸時代半ばから幕末あたり。

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島津重年。「薩隅日三國主兼領琉球國」にビビる。
「領琉球國」って堂々と書いちゃうんだと・・・

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小田原北條氏。どれどれ・・・

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弘化というと幕末の元号。ということはこれは、
大阪狭山の狭山北條氏・・・
河州狭山舘北條相模守氏久 爲父氏喬建立之とあります。

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拡大。

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しかし、氏喬は最終的には遠江守になっていて、
氏喬も、これを建てた氏久も最初の任官が相模守、
ということになにやら感慨深く思ったりするわけです。

そして、狭山北條氏とは書かず、あくまで小田原北條氏。
「小田原」北條氏と敢えて書いた意図はわかりませんけども、
プライドみたいなものを感じたりしますよね。勝手ですけど。

そして・・・久方ぶりの、わが御屋形様と勝頼公。
まずは御屋形様。恵林寺殿俗名武田信玄とハッキリ読めます。

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天正元癸酉年四月十二日逝去
天正乙亥年三月六日建立

とあります。

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乙亥年とは天正三年、長篠合戦の直前ということになりますが、
実は、これ成慶院の『武田家過去帳』における建立日が合致。
この日、『武田家過去帳』によれば、山縣昌景が高野山を
訪れていることがわかっているんですよね!
まさしく当時に建てられた供養塔なんでしょうね・・・

さらに、高野山にも分骨されているということから考えると、
実際に、この供養塔に御骨が埋葬されていて、
いわゆる墓といってもいいのかもしれませんね・・・・

そして、妙心寺供養塔と同様、天正元年四月十二日であり
ここでも「未来年号」がつかわれている点にも注目。

続いて勝頼公。こちらも俗名勝頼、
法泉院殿、としっかり判読することが可能。

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残念ながら、建立日と没年の確認は失念・・・・
妙心寺の首塚から分骨されたりしているのか、
そもそも建立の経緯は・・というのも気になります。

ま、このときは御屋形様のことが知れたことで
いっぱいいっぱいだったのですがね(笑)
また宿坊にも泊まりたいので、そのときもう一度確認します(汗)

さて、まだ重要なお方が残っております・・・
信翁乾忠大居士、さてだーれだ!

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馬場美濃守なんです!信翁乾忠大居士、
信州真木嶋城主 馬場美濃守信房とあります。
これも、甲州日牌帳と戒名が一致。

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甲州真木嶋城主 馬場美濃守源信房
天正三乙亥・・・後は読めないです。
しかし、真木嶋城は牧ノ島城で信州だと思うのですが、
どうしても甲州と読めるんですよね・・・

左右には、子息と思われる人物。
右手には、蓮華院照山慈源大居士、
馬場民部少輔信忠とあります。信州於深師死、
という部分はよくわかりません・・・深志城にて討死、
と伝えているのかもしれません。

左手には、知門院紹勇躰生居士、
馬場左近房義とあります。民部少輔の弟でしょうか。

丸島和洋先生の「甲陽雑記 ー ○高野山調査・冬の陣(1)
では、この両名はまだよく誰だか判明していない様子。

その他、榊原康政・本多忠勝・島津家久(忠恒)らの
供養塔を見て回りました。

興味深かったのが、遠州掛川北條家・・・どこそれ?

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どうも、これ北条氏重といい、北条綱成の子氏勝に
保科正直の四男だった氏重が養子入りして、
玉縄北條氏を継いでいたのだそうです・・・

碑文。

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遠州懸川城主北條出羽守
平朝臣氏重公後室造立之
證心院殿自安□
妙體大□逆修
杦原耆伯守息女
寄萬治二己亥夭七月□日

どうも万治元(1658)年に氏重が没しているので、
時期的にはいいのですが、「逆修」の意味するところと、
「氏重公後室造立之」という関係がちょっと不明。
逆修であるならば、生前供養なので時期的に合わないので…

ということで、高野山はこれにて終了。
なかなか得がたい経験と情報をたっぷりいただけましたな。

おまけ。なんばまで戻ってくると、階段が真田丸。
けっこう早くに無くなってしまったようなので、
撮っといたのは貴重かも。ふふふ。

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