「北条氏康の家臣団」読了…武田との比較

黒田基樹先生「北条氏康の家臣団」読了。「戦国大名と国衆」よそに、武田クラスタが先に北条かいという感じだけど。先の狭山北条氏を念頭に置きながら、北条の黄金時代の形成について学ぶと関心の質にも範囲にも広がりが出ますな。氏康というと信玄と同年代。信虎、信玄、勝頼という三代に対応する形で、氏綱、氏康、氏政を捉えながら読み進めていったのだが、一門(北条では御一家衆というんだ)の人材の豊かさがもう武田から見てみると、もううらやましいことこの上ない。というのと、氏康段階から氏政段階への家老衆の変容に伴い、郡代(郡司)と中央執行部へ分かれていく変容過程に、この人材の豊富さと配置転換のノウハウが生きている点、勝頼目線で考えると、うらやましさに堪えない。

■武田と北条をどの時系列で比較するか…
権力委譲受ける側から見た比較

武田は信虎段階から晴信初期段階において、信虎を追放こそしたものの、信虎以来の重臣との協調体制。それが板垣・甘利の戦死、小山田の病死、最後まで残った飯富の処刑(義信事件)という形で消えていき、代わって譜代家老に徐々に晴信が育てた家臣が成長していく。こうして信玄は信虎追放以来の重臣から脱し、「自身」の家臣により家中を形成していくようになる。一方の氏康は、氏綱から極めてスムーズに権力移行しているように思え、弟為昌の死去に伴う家臣団の再編成や太田越前の取り立てはあったものの、家老衆の家の顔ぶれは大きくは変わらず、家老衆の相互の結びつきを強めるなど、より安定的に進めていくという人材活用において、氏綱の人事の遺産による恩恵を十二分に生かせている。

「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」という、氏綱の遺言状の出だしは、信虎・信玄の関係と比べるとあまりにも対照的だ。しかし年代観点ではなく、これまで語ったような家臣団の変容過程で捉えると、むしろ氏綱段階は、武田でいうと信玄段階に相当するような気がした。氏綱晩年期はすでに北条領国は数カ国を束ねる規模になっていて、ちょうど信玄晩年の頃に相当するのではないか。氏康に与えられた五箇条の遺言状にあるように、適材適所や勝って兜の緒を締めよで有名な大勝利は油断を招くと注意するあたりは、信玄自身の言葉と非常に重なる点がある。氏綱の人材活用法とある内容は、敢えて違いを指摘するなら、信玄の場合はたとえが多く(渋柿の話だとか)信玄自身の文学趣味が出ているところくらいだろうか。出典を隠して信玄の言葉と聞かされると、思わず納得してしまいそうで、氏康経由で信玄が氏綱の遺言状の内容を知っていたのではないか?とさえ思えるほど。

そういう種蒔きというか、人材の幅を広げていく段階というのは武田でいうと、まさに信玄段階。ということは、戦国大名の発達・変容過程としては、氏綱→氏康の家督継承は、信玄→勝頼に相当するようで、武田は組織の有り様としては、北条に一代遅れている感じさえする(いいか悪いかの問題ではない)。勝頼と氏康のそれぞれの家督継承を相対させて考えても、また悲しいくらい対照的。まさしく北条を継ぐべくして育てられ、また(やや遅めだが)死の数年前に隠居したして家督継承を行っている可能性もあって、スムーズだった氏康と、義信事件からの流れで諏方家から呼び戻され、短期間の間に征服国衆当主から武田宗家継承をいう段階を踏まざるを得なかった勝頼、と考えるとその権力基盤の安定度の差たるや、ものすごい開きがある。

■取次役の人材確保という観点での武田・北条比較
勝頼期のひとつの問題点として、国衆の取次・小指南に相当するパイプ役が信玄期と比べると非常に少なく、結果的に少数(跡部や土屋)に集中してしまい、家中の不満のひとつになったのではという考え方を理解している。信玄子飼いの優秀な近習たちが成長し、領国が拡大していく過程で、各最前線の郡司クラスに出世(山県、春日、秋山、内藤ら、馬場は城将)その次の世代として、武藤(真田昌幸)、土屋らがその位置に収まるはずだった。しかし、長篠合戦というアクシデントにより、郡司クラスを担う重臣はじめ大量の家中構成員や、有力国衆当主が討死、能な若手を郡司として前線に出さねばならなくなったという事態に直面して起きたのだろうと思っている。氏康段階の北条を考えると、御一家衆でもやや格下の玉縄北条家と家老三家でうまく取次を分担できていて、しかも比較的うまく世代交代をしている。その結果、自然と氏康が組織において、家格だけでなく、年齢的にも上位に立って采配を振るう環境ができている。

この点が武田家が組織の安定性という意味でやや一歩譲る点だろうか。武田の場合、取次役・指南役に相当する存在の位置づけが信玄の近習という個人単位であって、北条のように家で構成されていないように思った。もちろん長篠敗戦という事件はあるにしても、取次役・指南役を請け負う存在が組織として確立されていない状態で、一斉に有能な人材がいなくなると、組織として混乱するのは想像にあまりある。しかも絶対的に頼れる「はず」の一門も簡単に委ねるわけにはいかない。こういう人材不足は、キャッシュが回らなくなった黒字倒産のような、タイミングの悪さを感じる。

こうして見ていくと、氏綱段階で質のよい家臣団の取り込みを行った上で、よりシステマチックな組織運営に移行していき、さらに次代への継承できる体制づくりまでもやりきったというのが氏康段階とみることができる。前々から感じていた、同じく人材活用の妙が光る武田家と北条家にあって、ここが大きな違い。もちろん、北条も一門が多かっただけでなく、謀叛を企んだり、極端に無能や組織に害をなす一門がいなかったという幸運と組織風土に救われている部分もあるとは思うけれども。

御一家衆という親族も、北条であっても決して多すぎるほどではないし、時には若くして亡くなり、あるいは討死したりはするけれども、組織を担う重要な人物群として人材供給に事欠かない。武田の場合、信虎兄弟はほぼ族滅しているので、自ずと信玄兄弟か子息ということになるが、これまでの歴史的経緯を考えてか、主に外交関係を担う役割に限られていて、軍団を率いる立場になって目立つ人物は少ない。信玄弟なら、典厩信繁、信豊や逍遙軒信綱、穴山梅雪。信玄子息は原則みな国衆当主に送り込まれている。

古典厩信繁の死は痛いけれども、幼少の長老(信豊)の他に、信玄を支える親族衆を信玄が勝頼に宛てがうという、現当主がつくって次代に引き渡せる関係性をつくるには時間がなさ過ぎたんだよねぇ。況んや、組織の新陳代謝をうまくうやるための仕組みづくりをや・・・・こういうところが武田家の難しいところだな。北条も従属国衆当主に据えられた例(氏照や康元のち氏繁)はあるけれども、それで御一家衆が枯渇することはないんだよなぁ。

また、勝頼が長篠合戦を回避できていたら、こうしたシステマチックな組織づくりに着手できていただろうか、と考えてしまう。

■権力委譲をする側の立場から
そして、氏政との両頭体制へ。氏康→氏政を信玄→勝頼と擬えるか、勝頼→信勝と擬えるか。いずれにしても、この時期、上杉謙信との全面対決を背景として、氏政兄弟である氏照、氏規、氏邦らの台頭。氏政への家督継承は1559年末、実質的に1560年から。氏康死去は1571年。11年間の両頭体制。ちなみに信玄が勝頼の為に将軍義昭から一字拝領を求めたのは1570年。勝頼初陣はもう少し前だけど、永禄末年から元亀に掛けて少なくとも信玄からは後継者とされていたとすると、わずか3年弱。この差はやはり大きいと言わざるを得ない。また信勝元服は1579年。

いずれと比較するにしても、注目するべきかなと思ったのは、新当主に属する家臣やその兄弟衆の存在。氏照が取次役として行動を開始するのがが氏康存命時になされていて、徐々にその取り扱い範囲が広がり、発言力が増していく。このような動きはもちろん氏康の意向があっただろうと推測できる。イメージ的に勝頼にとっての信豊のような存在だと思うのだけど(信豊も国衆取次役は?だけど対上杉外交担当などやってたはず)、氏規の小田原帰還と三浦領継承とともに、氏康の意向でそう仕向けるという点が非常に重要なんだと思う。さらには、永禄後半からは氏邦も取次役として活動をし始める。

武田との比較で言うと、取次役にふさわしい人物が、近臣から時間を掛けて育てなくても、一門に任せられる素地があったこと。そして能力的にも問題なかったこと。次世代の取次という立場を前当主の指図でその立場を確立できたことというのは、ものすごいアドバンテージだろう。もちろん、信玄もその点は見越していて次世代の育成に取り組んだ。残念ながら一門から積極的にはなかなか取り立てられなかったこともあり、信玄は真田源五郎(のちの昌幸)らを氏政にとっての氏照や氏邦のようにしようとしたと思うのだけど、昌幸は信綱討死、真田家当主不在という事態に直面し、勝頼としては真田を継がせて、郡司として前線に遣るほかなかったのだろう、という苦渋の選択を想像する。

さらに重要なのは、国府台合戦かなと思った。具体的な合戦の過程はともかく、里見方に勝利するも、家老衆の討死と離叛という一大事が起きたという点。いや、起きたというだけでなく、氏康・氏政の両頭体制の時期に起きたという点が重要だろうと思う。武田における長篠ほどではないにせよ、太田氏離叛、遠山氏・富永氏の討死という状況は勝敗は別にして、晴信初期の上田原合戦くらいのインパクトはあっただろうと思われる。その采配を、両頭体制の時期に行えたのは氏政にとっては、不幸中の幸いではなかったか。勝頼は長篠敗戦の事後処理として、もっと多くの人事を短期間に、しかも滞りなく、納得感を持たせながらやらねばならなかったはずだ。

こうした下地づくりは、やはり事前に隠居した前当主でないとできない仕事だろうな。氏直の時代で滅亡してしまったけど、氏政もこの引き渡しはうまくやれていたのではないだろうか。

■氏康亡き後の氏政の自律判断

最後、氏康末期の武田との抗争。武田との抗争初期に、今川氏真を氏直(国王丸)を養子とし、北条方の駿河支配権の根拠としている点はなかなか興味深い。これが甲相再同盟で氏真は離叛独立した徳川に身を寄せるのだけれども、宗瑞、氏綱、氏康と北条家成立段階からのツナガリを捨ててでも、氏政にとっては、北条家存立のためには武田を敵に回せないのだろうな。これを家督継承直後でやるのと、ある程度場数を経て判断するのとでは大違いだろう。それにしても、武田にとってもかなりの危機だった駿河領有までの過程、北条にとってもかなりの疲弊だったことがすごくわかる。武蔵と駿河への第二次侵攻での攻勢の強さたるや。武田との再同盟に踏み切った後に、氏政が配置転換をスムーズに行えたのも(氏康が存命だったら武田と再同盟したか怪しいのに)氏政自身の経験と権力委譲がスムーズに行われ、氏政の判断に対する家中の納得感があることの証左かもしれない。余談だが、武田の際もそうだったんだけど、そして上杉クラスタから怒られそうだけど、同盟したときに頼りになると思われながら、結局頼りにならないのではないか・・・という感じがする。謙信にしても景勝にしても。なんか真田丸の、何でも請けちゃうんだけど、やり切れない景勝の姿とダブってくる。

■まとめ
総括すると、北条の、というか氏康の人の動かし方について、家中の「イエ」を確立させるという意識が特に高いように思う。武田の場合、信玄も勝頼も、守護家出身と言うこともあってか、これまでの歴史ある重臣らへも配慮しつつ、より有能な人材を如何に取り込むかに腐心しているが、なかなかそれを家という個人から離れた組織化した取り組みには至っていない。これがいいかどうかは別だし、発達段階という概念で捉えるべきものでもないとは思うけれども。北条は勢力としては新興であって、新たな組織づくりを宗瑞以来できうる環境からスタートしているからこそ、家の確立という方に意識が向くのかもしれない。この武田と北条の差というのは、個人的に両家が滅亡し、安土桃山~江戸と時代が進んで行くにつれての様相とも関係している気がしていて。

武田も北条も組織としては、徳川に取り込まれその血となり、肉になっていく。武田はその人に属したノウハウやスキルや技術、そこから派生する「ブランド」的なものを吸収し、北条はその行政や組織のシステムを吸収したような感覚でいる。武田は「武田遺臣」「武田牢人」などとその武田家とのツナガリをアピールして仕官する者がいたりして、しかし、狭山北条氏を少し知っただけだけど、そのような北条旧家臣団ネットワークというような痕跡をあまり知らない。ここまで北条の組織の有り様を、ざっと概略でレベルで眺めてきて思うのは、武田と北条の組織の特性のと違い、組織変容の段階の違い、そしてその相違点をうまくメリットを活かす形で徳川が取り込む際の取り込まれ方の違いということが、こうした江戸時代において戦国大名家の記憶の存在感の差となって出てくるんだろう、と思う。

もちろん、民衆レベルでは、甲陽軍鑑が大ヒットして、武田家臣団が広く知られることになって、今の我々と同じく、二次創作、三次創作と人々の歴史の楽しみ方の中で幾度となく反芻されてきたということもあるのだと思うのだけど、そうしたシステマチックな組織のあり方は重要でありつつも、記憶に残るのは人の記憶なのかなぁなどとぼんやり考える。もちろんバランスの問題はあるのだけど、また属人化の弊害というのはよく知られたことではあるのだけど、、、わたしの好みとしては、やはり、武田タイプの人のツナガリ方が好きだな、と思うのだよ。

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丸15年を迎えて考えるポジショニング。

このblog、2004年2月1日に始めて今日で15年。
すっかりTwitterにその日常のアウトプットの場が移行して、
まとまった文章を書くことがほとんどなくなった昨今。

近いうちに、以前のようなスタイルで、かつ
blogというカタチで表現することにもどるのは難しいなかで、
blogをどう位置づけるかをずっと考えています。

当初は、もちろん旅やイベントごとなど、非日常の記録も
ありましたけど、日々のニュースにコメントしたりといった
今だともうそれは、Twitterに完全に代替されていますね。

もともとは、HTMLをタグ打ちしていたところを、
より手軽に、手をかけずに、スピーディに表現できる、
それがblogの始まりだったと思います。

Twitterはマイクロブログのひとつとも捉えられますし、
そのblogが実現した「より手軽に、手をかけずに、スピーディ」を
突き詰めた先にあるものの一つなのかもしれません。

だとすると、より時間をかけて、でもジックリ練ったもの
というのが対極にあってもよく、それが今blogになるんだろうなと。

これも相対的なものであって、本格的なWebサイトと
blogを比較してみても、同様の関係にはあると思います。

とすると、何かまとまった主張や意見表明なんかに適してるかな。
実は江戸城や名古屋城についてなど、時折そうした
タイプの記事を書いていたりもしたんです、これまでにも。

お城関係だと、武田家の丸馬出に目下ドハマリ中で、
あれこれ思案しているところですし、他にもいろいろと
インプットを溜め込んだ結果、こう思ってるんです、
ということがいくつかあって、そういうのの投下場にするか…

と言っても、blog自体を新しくつくりなおしたり、
別に立ち上げるということはしないでおこうと思っています。

内容の連続性という意味では、そうしたほうが
分かりやすいのでしょうけれども、一方でわたし自身の
歴史を記しているという側面もあるんですよね。

なかなかそんな文章を練っている時間もなかったりしますが、
それでも15年来、いやHTMLからはじめた19年前から
「書きたい衝動」というのは、いつも何らかのカタチで
燻ってはいるのですよ。そこは変わらないのですよね。

ということで、まだまだ続けていきます。
ココログ、やめないでね。ホント、頼みますわ。

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本厄の年を終えて

さて、最近すっかりblogにを付けられていませんが、
大晦日くらいはなんか書いて終えましょうか。

金戒光明寺での除夜の鐘、明けての姫路城から
スタートした2018年。
戻って、武田神社での厄除け祈願、それから
深沢城と御殿場蒸留所、そして
ウイスキーラバーズ名古屋2018。
そして丸子城(1回目)と名古屋城本丸御殿。

2月は続いて厄除け祈願として諏訪大社へ。
御神渡も見られてほくほく。
安中の山本菅助展示、上田の平山先生室賀屋代講演会。
秩父ウイスキー祭り・・・のあと、
精神面から休んだほうがいい、また家庭の事情も
あって、長い休みを。

それでも、平山先生の高天神城ツアー行ったり、
姫路城の折廻櫓を見に行ったり、
ふらっと金沢城行ってみたりだとか。

3月に入ると、長野県千曲市の県立歴史館で
公開された信玄公書状を見て、
翌日は極私的に勝頼公の命日に法泉寺・景徳院を参詣。

それから叔父上(真田信尹)ツアー、
山梨県博の富士山&信玄公展示。
『ドラゴンクエスト』コンサートに、恵林寺講座…
最後を飾るのが、信濃丸馬出ツアー。
皆さんに好評だったようでよかったです。

4月になると、信玄公祭りや柴先生、
平山先生講演。個人的に丸子城の丸馬出周辺を
再探索しながら、翌週には勝頼公まつり。
平山先生が勝頼公で大盛り上がりでした。
続いて上田真田まつり。毎年4月は大忙し。

5月はGWはぼーっと休養して、TIBS2018や
甲府の講演会や蔵出しワインバー、
南アルプスから身延、南部あたりの史跡巡り。

6月はウイスキーフェス大阪、
慈照寺銀閣のスペシャルツアー、
福岡ウイスキートーク。
また土の上の花でもつ鍋食べたい。

BRA★BRA FFではスライムTシャツを着て
リアルでFF外から失礼し(笑)、
初めてのお茶会「戦国茶会」デビュー。

7月は長篠の慰霊祭参加、伊達成実生誕450年記念展示。
相馬に行ったの初めてだったなー。
駿河田中城と香川元太郎城郭原画展と西股先生講演、
大石先生の今川氏滅亡講演。山梨県立科学館忍者展、
韮崎の真田昌幸文書展示。

静岡クラフトビール&ウイスキーフェアで
出会ったウイスキーファインドのボトルがよくて。
年明けに開けます。

8月は城郭研究者セミナー。特に今回は馬出が
テーマと言うことで興味深い発表が多く、
誘ってくださった樋口さんに感謝。

その後は夏休みを鹿児島で過ごして、
津貫蒸溜所行ったりだとか、
当家の先祖調べがなかなか楽しく。
一歩一歩調べてもう少しハッキリとした
戦国くらいまでの系譜関係がわかるといいのだけど。
その直後にとんぼ返りで伊達成実御霊屋御開帳
にも顔を出したなぁ。
最後は甲府の平山先生講演で〆。

9月は、下部温泉での療養。冷泉だとやはり暑い頃!
ということで夏にリベンジ。
また折を見て継続的に行きたいねぇ。
今回はお部屋の名前が「山本勘助」なのもよかった(笑)

そして高野山。持明院蔵の武田晴信寿像、
武田勝頼家族像がガラス越しではなく間近で
見られたのは幸せ。それ以外にも高野山に伝わる
武田家ゆかりの品々を拝見。

持明院は一度泊まっているので勝手がわかるのだけど、
蓮華定院はお初。昌幸のお部屋は必見でした。

ウイスキーも武田も城も絡まない
珍しいところでは忍野八海。水のきれいなところは好き。

9月最後は台風の暴風雨をものともしないアホ
(ほめことば)が集合したカロフェス。
大野さんによる似顔絵や迫田さんタオルなど
なんかすごいもんを頂戴しました。

10月は小山田信茂復権の会から始まり、
「武田信玄の城づくり」講演会、
真田丸と古文書の丸島先生講座、
武川祐さん&平山先生講演会、
甲府ん!横丁はしご酒ウィーク、そして10月に移動した
川中島合戦戦国絵巻。毎週山梨県です・・・
4月だけでなく、10月もになっちゃった(笑)

11月は『江戸城の天守』VR見学、そして…!!
個人的にビッグなイベント、
マイウイスキー10周年完成懇親会!
これはもう感慨深かったですよね…
そしてもう早速どんどん飲んでます!
で、ついでっちゃなんですが、厚岸蒸溜所まで。

23日には敷島書房さんの信虎講演会、
翌日は平山先生の「武田信玄と甲州法度」講演会、
そしてウイスキーフェス東京。

12月。John John Festivalの久しぶりのライヴ、
日比谷で特別展「江戸から東京へ」に再度の札幌、
温泉と歴史講演、シンポジウム「豊臣大坂城研究の最前線」
そして、お城EXPO。という感じ。

武田家関係は講演会を目敏く探して参加、お城関係は
お城そのものと言うより座学関連が多かった1年です。
行ったお城もどちらかというと再訪が多く。
あと、ちょくちょく地方のウイスキーイベントを挟んで。

山城行きなどのといった歩くことが少ないなというのも反省。
痩せないといけないからせめてこういうところで
運動せねば・・講演会情報はTwitterさまさまで、
見てるとどんどん情報が流れてきてありがたいですね。

ちょっとお城も武田関係に寄っていた感じがあるので、
もう少し純粋にお城を楽しむのもやんないと。

昨年来の「つらいことを穴埋めするために
必死になって楽しいことを貪っていた」というのは
相変わらずでして。

4月に状況が変わって、楽になるはずだったのが
夏頃から外部要因でまたつらい時期に逆戻り。

まー関係ないじゃん?と言ってしまえばそうですが、
厄年ここに極まれりという感じです。とりあえず楽しい記憶は
Togetterに残すというのが定着してきましたので、
そっち方面のストレスは割と軽減できたかな。

自分の1年前の記事を見て

2018年の今頃には、そんな苦しみも
遠い過去のことのように話せているように願って。

ってあって、あぁぁぁ…となりました。
遠いどころか目下の現実ですよ、ええ。

つながっているみなさまには、まだまだご心配かけていて
申し訳ない限りですが、そういうつながる存在は有り難く、
またいろんなことに関心を持ってきて、それがきっかけで
人の輪のネットワークが広がったことに救われています。

2019年、後厄。まだ眼前にある闇は
消える兆しは見えません。
やぶれかぶれになってしまいそうになる時も、正直多い。
どんどんできたことができなくなっていく
ように思える感覚もある。

週末の楽しいこともその場で終わってしまい、
体系的に血肉にできないもどかしさ。

本を読もうにも気力が起きない時もあって、
その気力のなさにまたイライラしてしまいます。

それでも…それでも、なんとか生きながらえています。

この後どうなるんだろう。長期的な観点で考えることが
あまりできなくなった感じがします。
日々を、今週を、今月を生き抜く。それで精一杯。

せめて兆しだけでも光が見えますように。

2018年もお世話になりました。
よいお年をお迎えくださいね。


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長い長い、雌伏の秋。

毎年、どんなことがあってもblogを書いている日、
という日があって、それが年に5日あります。
2/1、4/10、7/23、9/9、12/31。

それぞれ、blog(Twitter)開始記念日、
某女史生誕日、自身の誕生日、blogの前身のWeb開設日、
そして、年末大晦日。

というわけで、2000年9月9日に初めて、
自分で表現する場をつくったという記念日に当たる
9/9は、必ず文章を書く日にしているのです。

18年ですよ、18年。書き始めたときに生まれた赤ん坊が
もう大人の仲間入りを果たそうかという頃。

だいたい、それぞれの節目で振り返ったことを書くのが
ここ最近は通例になっていて、未来を語るよりも
振り返りがちになっているのは、よくないなぁ、
と改めて気づいたり。でも………語れない。

わたしにとって楽しく大切な時間を記録に残しきれないのは、
ものすごくストレス、というのは前回書いた通り。

そこで、とにかく思いの丈を語るといった、
当初のスタンスに戻すのがいい、と思ってはいるものの、
結局こうして節目の時にしか、書いていないという有様。

アウトプットってやっぱりエネルギーのいることなんですね。
たががblogであったにしてもね。

今年は、ニッカウヰスキー余市蒸溜所に
ウイスキーづくりの体験を初めてしに行って10年。

こうした振り返りができるのもblogというツールで
記録に残せていたから…記事中に
「10年もあれば、相当余市に行ってるだろうな…」と
書いてるのをみて、ニヤッとかするわけですよ。
もう数え切れないもんね。

その受け取りを11月にしてくるわけですが、
まぁ、10年前を思い返して…って
その場でもなるんだと思うんです。だからというのもあり、
また振り返りモードに戻っちゃいがち。

今置かれた環境を考えると、あのときに想像していた
10年後とあまりにも違っていて。

そんなうまくなどいくはずもないのだけど、
それにしても…です。四十とは不惑と言いますが、
むしろ、この階段に差し掛かって惑いが多く…
否、多いどころか、惑いに囲まれ
支配されている…そんな気すら。

あまり体力面で衰えを感じることはなかったのですが、
気力が付いてこないという今、取り逃したことが
もはや取り返しが付かないかもしれない、
絶望感に苛まれます。

もともと欲張りで、アレもコレもと手を出すくせに、
完璧主義で納得いくまでやりたがり。
そのままで、もはや人生どこまで行っても手が届かないのでは
という感覚を持ってしまうことは、相当なストレス。

雌伏とは、来る雄飛のためにじっと我慢すること。
雄飛はもう来ないのではないかという、
自己肯定感、自己効力感のすり減りを感じながら、
長い長い雌伏の時を過ごしていくしかないのか…

初めてスランプになった10年前から、一時期脱し、
また不本意な世界に飛ばされ、戻ったと思ったら、
また不本意な世界へ。一度目の時と違うのは、
自分の中での分析で明らかに進んじゃだめだと思ったのに、
自分で進む道を決められなかったこと。

もちろん、自分が自分がで我を張っていくのではなくって、
成功する人は、人が道を拓いてくれるものだ、
というのはあるはずなんだけど、拓けた道に
飛び込むという判断は、やっぱり自分にあるべき。

自律的であることをとても大切にしていたはずなのに、
納得しないまま、開いた穴に飛び込まされて、
結果、想像通り、いや想像以上の不適合が生じているのが今。

納得しないまま進んだ後悔と、他の道に目を遣る暇も
なくなるプライベートでのトラブル続き。どれか一つだけなら
なんとかできたかもしれないのに、納得しないで
進んだツケはいつまでも返せないまま。

どうやったら、前に向けるのだろう。
なんだか前の向き方を忘れてしまったようにすら感じる。
メンタルやると長引くよ、ってのは
こういうことなんでしょうな。

これまでの10年とこれからの10年は全く違って見えます。
壁にぶつかりながらも希望のあった10年前と
希望をどうつくりだすのか藻掻く今。

追い込まれると思考が近視眼的で視野が狭くなります。
そうならないよう、未来のことを考えたいのです。
考えたいのですがね…どうもね…

成功の道は、いつも他人さんがつくってくれた、
という人のように、やることやって後は
他力本願になるしかない気がしてきました。

自分の関心のあることでつながる人がこの18年で、
すごく増えました。そのつながりから何かが起きることを
期待しつつ、自己肯定感を取り戻す旅が続きます。

やり切れなくても、考えがまとまらなくても、
中途半端でも、とにかく生きよう。

 真田安房守
 『生きておればまだまだ楽しいものがみれますぞ』

Masayuki2

よし、そうだな。まだまだ楽しいものはあるはず。

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ある時代の終焉。

さて、今日わたしの誕生日なんです。

昨年から40代に入り、THE NIKKA 40年を
記念に開けてから1年。1年つらかったですね。
ほんと。大変だった。しみじみと思います。

いろんな人たちに助けられた。自分が一期一会で
持った関心事がつないでくれた人たち。

仕事だけでなく、いろんな関心の枝葉を伸ばし、
時には剪定しながら、なんとか育ててきたことが
思いがけない救いとなったなぁ、という実感があります。

今後上向いていくのか、どうなのかわからないですけど、
まぁそうなることをどこかで期待しながら、
でも期待しすぎず、少しずつ以前のように戻れたら。

・・・・以前のよう。

でも、以前にはもう戻れないことがあります。
2016年に楽しいことがありすぎて、結局Blogに書き切れず、
2017年になっても消化できずに、2018年に至っては
書く回数が本当に減ってしまった。

ただそれを以前のように戻せばいいかというと、
どうもそんなこともなくて。今は楽しかった時間を
記録に残すという意味では、完全にTweetからの
Togetterに移行しちゃっていて、でも自分の中で
楽しかった2016年~17年が記憶の彼方には
消えてはほしくない。それはイヤだ。

ネタはあるはず、それこそ1次史料から歴史を
紐解くが如く、いつかは記録に残したいと思っています。

そしてもうひとつ。PCが本格的にだめになって、
買い換えざるを得なくなったわけですが、
どうしても譲れなかったことがありました。

それは液晶の解像度。Windows 10になるとOS自体が
うまく対応していて、Full HDクラスの解像度でも
文字をきれいにしたりする方向に効いてきて、
一昔前の、だだっ広い作業スペースを確保するだけで、
13型クラスの液晶だと、文字が読めたもんじゃないという
画面ではなくなっているんですよね。

だけど、2004年から書きつないでいるBlogは当時、
なるべくサクサクと画像を表示させたいという思いもあって、
載せる画像は360✖270の小さな画像にするという
マイルールを設けていたんです。

それはHD(1366✖768)ぐらいのPC画面を想定していた
というのも大きくて、画面全体としてはWindows 10で
Full HDのほうがきれいに見えるのに、昔に上げた
blogの画像が小さく、またぼやけて見えるのがイヤで、
なんとかHD解像度のPCを探していたんですけど、
もはやそういう時代じゃないんだな、と観念せざるを得ず。

どうしても何かを生み出す、という行為をするには
PCがいいという感覚があるもので、普段から持ち歩くので、
なるべく軽いものは譲れない。ということで、
HD解像度を捨てたわけです。

Blogを以前のように書き連ねることができなくなったこと。
以前のBlogを同じように振り返ることができなくなったこと。

小さいことと言えば、小さいことなんだけど、
Blogの時間が長いだけに、ある種の「伝統」的なことが
消えていく寂しさともどかしさが残ります。

「環境が変われば、変化をしたものが生き残る」

それは小さな、でも自分の中では長く慣れ親しんだ習慣も
同じことなんだな、と。生き残すべきなのは、わたしが
辿った道筋を残すという衝動なんだから。

とはいえ、Blogをやめてしまうわけではなく、レポート的な、
何か写真を参照したり、資料やお話を聞いて思ったことを
整理してまとめたりという、残す媒体を変えるというだけ。

もっと、わたしは自由に思ったことを文章にして、
書き殴って書き殴って、Blogを書いてきたはず。
そういうスタイルに戻った方がいいのかもしれない。
Blogってそういうものだったよね。

そんなPCの買い換えやBlogとの向き合い方に、
極私的な時代の移り変わりの一端を感じながら、
41回目の誕生日を迎えています。

まだまだ多くの「ある時代」が終焉を迎えていき、
動乱の時代を経て別の安定期に向かっていく、そう信じたい。

日本史に擬すると、応仁の乱は済んで
ちょうど戦国時代になった感じでしょうか。
まだまだ安定的になるようには、ちょっと思えないのだけど、
いつか太平の世が来ると信じて。

新しい時代の相棒となるPC。軽くて、
それでいて20GBメモリに2TB SSDと贅沢な環境。
動作もキビキビ、あとは写真データを移すのみ。
(これがめんどくさい)

Img_20180723_1920452_3

日本語キーボードなんだけど、
「かな」のみのすっきりしたタイプ。

Img_20180723_2006142_2

長くよろしく頼むよ。

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今こそ・・・・お話がしたい

今日はわたしの大事な人の誕生日です。
毎年こうやって思い返してる。

12年前の今日、命が尽きようとしていることを自覚し、
その後のことを考えてた。そして亡くなるのが6月。
いまだご命日は分からない。

「自分のことは忘れて欲しいけれど、忘れてくれないなら
せめて悲しまないで欲しいかな」 って、
ねえさんならそういうだろうな、ってことばを残して。

・・・だから、お誕生日を祝う。部屋にチューリップ飾ったときもあったね。
もう12年も経ったけど、こうしてお誕生日に思い出すよ。

楽しい記憶がいつしか伝説になっていく。
わたしがSNSで出会う人に、基本的に性善説である理由、
それは、でるふぃその人に出会ったから、といって過言ではない。

そして、ここでいう書きたい衝動は、
後のツイ廃につながるのかもしれないんだよね(笑)

> nikko81さんの このエントリー見てて「ほんと,そだよねぇ」
> って思ったよ。
> それししても わたしたちって,書きたい衝動
> 大きすぎだと思わない?(笑)
> でも,それに見合う時間がお互いなくなってきてるよねー。
> 頭の中で考えたことが,ざらざらーって,文章になって
> アウトプットされちゃったりしたらいいなぁ,
> ―― なんて思ったりもするけど,それはそれで,困るのか(笑)
>
> これからも,お互い「書きたい衝動」を大事にしようよね。
> いつも何かを見て何かを感じられるように。
> 無関心・無感動・無神経,にならないように。
> いろんなことを書き続けていきましょう♪

こうして思い出せるのも、にししさん(@nishishi)がblogにして
くださってるからこそ。ホント感謝です。
これ読んで、ホント夜通し泣いたよね・・・・

今の状況、ねえさんにお話したい。
どう言ってくださるのだろう。ねえさん、戻ってきてほしかったな。
ねえさんだって、もどってきたかったよね。そうだよね。

> 頭の中を ふっと右から左に通り抜けようとする「想い」を
> がっしり掴まなきゃなって思うの。
> チャンスの神様には前髪しかないけれど,
> 思考の神様には しっぽがあるのよ,きっと(笑)

想いを掴まえようとして、でもいろんな風に縛られて、
手から零れ落ちるんだよ。掴みたい、掴みたいのに。。。
それでも、ねえさんが生きたかった未来、しっかり生きないとね。

・・・・ありがとう。ねえさんは大切な方とそちらでしあわせにね。

フィクションとはいえ、体験談が元になっているのであろう
side story」未完のまま、現存。興味ある方はぜひ。

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blog開始14周年 … 『空白』が示すもの

さて、2017年末に記事を書いて丸々1ヶ月何も書かず、
2018年が過ぎています。

2/1はblogを始めた日、そしてTwitterに初Postをした日。

12月末に2017年を怒涛のように振り返りましたけど、
その時々にかけがえのない体験をしてきているにも関わらず、
振り返ることができない、記録に残せないことが、
大きなストレスとなってのしかかっています。

もちろん、日ごろの仕事のストレスも、家族のことも、
あまりにも何もかもがうまくいかな過ぎて、
ただただ、刹那的に楽しいことを探し、消費しているよう・・・

もっと噛み締めていたいことを、背に腹は代えられず、
使い捨て消費をしているような気がして、それがただただ哀しい。
でも、いつか振り返ってちゃんと暖めなおせると信じて。

blogを書く意味について、折に触れ書いてきたつもりなのですが、
昨年のこの日でもやはり、その再確認をしていました。

そして、自分史のなかの「一次史料」としてのblog、
という位置づけを見出したのでした。

あれから、もうそろそろ地獄に足を踏み入れるであろうと、
怯えながら、それでも前向きにいようとしたあの日から1年経って、
今眼前にあるのは、blogに向き合えていない事実。

もし、blogが「一次史料」なのだとしたら、その一次史料の、
ある時期ごっそりと欠損していることは、あとで振り返ったときに、
意味を持つのだろうなぁ、などと思ってみたりしています。

今はもう、生き延びて行くのがやっと、一次史料の欠片に
なるであろうTweetを残していくことでやっと。
本当に、そのときそのとき楽しいと思える時間をつくるのがやっと。

思ったよりはるかに地獄の底は深く、どこまで深く潜っていくのか
見当もつかないですけど、ある時期までは、出来事や感じた記録を
お休みして、ある意味本来のblogとしての使い方に近い、
ひたすら思いの丈を書きなぐる(実際昨年9月からはそう)ように
してみてもいいのかもしれませんよね。

投稿と投稿の間の空白が示すもの。

やはり、文章を書く、アウトプットを出すにはしんどい。
でも、何か書きたい衝動は吐き出したい。
特に区切りの日には何か書きたい。

今の自分は、余裕ないですが、
将来何かの気づきになればいいな、ということで、
しばらくはこんなスタイルにしようかと思います。
15年目のはじまりを迎えて、のリフレッシュ。

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激動の果てに。

2004年にblogを初めて以来、こんなに書けなかった年はない…
そんな2017年。まだ2016年のことも書ききっていないのに、
2017年のことなんて、ほとんど残せていないのに・・・

Twitterでさえ(フォロー数が多すぎというハナシもありますが)
遡ることままならず、特にお城関係のツイートを
見きれなかったのが悔やまれます。

とはいえ、リストそれぞれについて、どこから読めていないかは
実は把握していて(え!?と言われますが)その気になれば、
期間を指定して読めるのですけどね・・・

ま、それはさておき。1年を振り返って見ますと・・・

2017年は3月までは真田丸の余韻に浸って、
積翠寺温泉要害の閉館を惜しんだり、
久々の会津絵ろうろく祭りを楽しんだり。

ノビヨ師匠(植松伸夫氏)の講演お聴きしたり、
躑躅ヶ崎館の発掘現場説明会、
そして3/25の俗称(笑)菩薩ツアー、平山先生の
「武田氏滅亡」講演会と景徳院参拝、そして懇親会。

3/25の懇親会は幹事をさせていただきましたが、このときにお会いして
今も関係が長く続いている方が多いのは、その後のわたしにとって
大きな支えとなりましたね・・・関心から人のツナガリが増えていく有難さ。

4月は信玄公祭りに石和の川中島合戦、上田真田まつり、
5月も龍岸寺さんはじめ、フォロワーさんとの甲斐の旅・・・
からの山梨文化教室×2、6月に上田原めぐりに、ホワイト依田信蕃。
さらに、熊本城&福岡ウイスキートーク。この辺はまだよかったな・・・

7月は長篠慰霊祭と待ちに待ったザ・ニッカ40年開封@不惑。
この頃からツラさが加速度的に増してきて・・・
それでも豊橋の平山先生講演や長篠城、名古屋の天下人の城、
Gifu信長展の東美濃の平山先生講演、興味深く・・・

7-8月は、湯村で湯治をよくやったなぁ。こんなにぐったりしないと
もうだめ。。。なんて初めて。それくらいエネルギーを使い果たしていた。
9月にはようやく長い休み。長野の図書館籠もったり、
湯田中から佐渡に渡って春日惣次郎の墓を探したり、
長岡の川中島合戦展を経て、ふたたびの会津へ。

10月には丸馬出の城めぐりで印象深い、大岡城へ。
翌日は岩尾城再訪したかったけど叶わず、
岩村田の龍雲寺と西念寺。西念寺さんの信玄公御位牌に
手を合わせられたのは良かったなぁ。

11月は豊橋丸島先生講演、恵林寺茶会。恵林寺茶会、
場違い感すごかったけど(苦笑)いい経験でした。
そしてまた甲斐の旅をはさみ。向嶽寺さんの朱引図がよかった。
寺領を信玄公、勝頼公同じくらいの年頃に安堵しているのがね・・・

あわただしかったけど、10-11月と仙台にも。
今年は政宗生誕450年ですからね、行っとかないと・・・・
宗泰との関係を見に岩出山へ、そして仙台市博物館で
ジックリ長居をする・・・実に見ごたえのある内容に満足。

ウイスキーフェス東京が終わって、12月にかけては
なんといっても西股先生の丸馬出ツアー。何度も行ってる城も
眼から鱗だったり、新たな気づきがあってアハ体験でリフレッシュ。
そしてお城EXPOで〆。

まぁ、楽しいことも多かったですけれど、つらいことを穴埋めするために
必死になって楽しいことを貪っていた、というのが正しい気がします。
そして記録できない(blogにかけない)ストレスをなんとか
ツイートで残してTogetterに上げておく。
それもすべて残しきったわけではない・・・で、もやもやもや。

いつか、持ち帰った史料や図録、写真やツイートを「一次史料」として
blogに残せたらなぁと思いながら、普段はなんとか睡眠時間を確保し、
休みには楽しいことを糧に生き抜くしかない…!!
そんな感じで走ってきた1年。

これからどうなるのだろう、先は見えないまま闇が広がっています。
でも諦めずに、自分にあるたくさんの関心事を殺さず暖めつつ、
無鉄砲にならず、さりとて流れに身を任せることなく、
仕事にもプライベートにも、なるべく悔いのないように。

2018年の今頃には、そんな苦しみも遠い過去のことのように
話せているように願って。blogも最終的にはプライベートの記録と
振り返りができるように、ってことを目的にしてますが、
もちょっと、ガッツリ記事を書かないまでも、
気軽にポストしてみてもいいかもな。Twitterよりはまとまったカタチで。

この1年いろんな方をご心配させてしまいました。
しかし、辛かったのは事実でして、ご心配いただいたり、
気にかけていただけたことが支えになりました。ありがとうございます。

どんなにつらくてもblogは(Twitterも)やめることは
ないと思いますので、引き続きご贔屓にお付き合い賜れば幸いです。
あと2017年もわずかになりました。
皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。

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あれから17年、未曾有の危機到来・・・

なんだかんだ忙しくしている間に、最終更新から3ヶ月経過。
毎年恒例のWebデビュー記念日がやってまいりました。

blog自体はもう少し後なのですが(当時blogはまだなかった)、
Webを公開し始めた日(nikko81の81=9×9の語呂合わせ)
には、それまでを振り返る日のひとつにしているのです。

・・・1年以上前のネタを更新できないというだけでも、
ストレスなのに、更新が追いつかないどころではなくって、
まったく更新もままならないとは・・・・今までにないことでありました。

昨年のこの日もこんな書けないなんて・・・と
驚いていたんですが、今年はそれ以上。
平成丙申の乱が1年で終わる兆しがありません。

そうそう昨年は悪いこともいいことも桁外れ・・・だったのが、
悪いことの桁外れ感はそのままに、いいことの大きさがイマイチ。。。
平日がつらい、ひたすらつらい。

まだ昨年の「決断」は実行には移していませんが、
あのときの心持からは変わっていない・・・
むしろ日々決心を新たにするような感じです。

 あの頃に「自己分析」をして、これで生きていこうと決めた…
 そんなあの日の希望を実現させられなそうで、
 本当に申し訳なく思ってしまいます。

これはホントそうだなぁ、言い逃れできない。
そしてもはや後戻りできない環境になってきているのは疑いない。

だからこそ、何か別の世界で希望を持てる日々を
つかまないと、あまりにも過去の自分に申し訳ないのです。

そういえば、今年は不惑になる年でした。
ちょうど不惑になる日に開けたTHE NIKKA 40年。

P1320454

もちろん、ものすごくうまくて魅了されるのですけど、
あたりを包むしあわせすぎるミズナラの甘美な香りに反して、
これを味わっていて申し訳ないなぁ、というような感覚が混じっていて。

ただ、年を重ねれば、自動的に成長するわけでもなく、
置いていかれるでもなく、まだ自分次第だと思える部分は残っています。
よく悪くも思ってた以上に、不惑にさしたる限界は感じていない・・・

とても今厳しいですけど、年のせいでどうって気持ちはない、
そう思えるだけでもまだ救いなのかもしれません。

わたしが生きてきた時間、経験、想いを、今後どうつなげて行って、
どんな果実にしていくのか。17年前に思い描いていたこととは
違うけれども、まだ振り絞れば前に向く力が残ってはいる。

わたしが関心を持ってきたウイスキー、城、そして武田家。
これらに対する関心があるからこそ、今のわたしがあります。

いつの日か、わたしの命が途絶えるとき、関心のあることに対して
何らかの影響力をもって、生きてて良かったと思えるよう、
今を何とか乗り切りたいと思い直す夜。

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武田氏館西曲輪発掘調査現地見学会 + 桃と桜と信玄公 3/18

もう話が前後しまくり・・・書きやすいところから書いていくの術。
ということで、2ヶ月ほど前の武田氏館西曲輪の話。

もういつ行ってもブルーシートが掛けられているだけ、
なんですけども、現地説明会の予定が
Twitterで流れてきて、これは行かねばと・・・・!!

◆武田氏館発掘調査現地見学会◆

まずは、梅翁曲輪から。実はこの現説あったのも
知っていたんですけど、武田滅亡遺構の増設だからいいか…
とパスしていたんですよね。

P1280385

梅翁曲輪の南にある大きな堀を松木堀といい、
ここに通路を通して、堀や曲輪の整備を進めていくとのこと。

P1280388

土塁の内側には、土留めのようにも見える石積。
後世の時代のものかもしれません。

P1280393

そして、この赤丸で囲った部分が南側の虎口。

P12803931

真田丸でも話題になった浅野家文書にある
甲州古府中の図でもしっかり描かれてあります。赤丸。

Asa

航空写真だとこんな感じ。同じく赤丸。

Bai

実は青い部分のお土産物屋のかぶとやさんの
真南の広場が集合場所だったんですが、
ちょうどここが東側の虎口の枡形から堀に相当した部分。
浅野家文書、航空写真ともに青で囲ったあたり。

ちょっと今のままでは、史跡としてはわかりにくい感じですけど、
どう2019年に向けて、整備されていくのか楽しみです。

P1280395

こちらが西側の虎口?今は堀底から坂があって虎口になってますが、
実際はなくって、外側へ木橋が架かってあっただろうという推測。
ただ、浅野家文書の縄張りとは合わず、考察が要りそう。

P1280397

P1280398

さて、本題の西曲輪へ。

P1280399

いまはちょっと見づらくなっていますが、
左手には愛宕山、右手には湯村山が見えて、
また扇状地の奥に位置しているため、
南側には非常に開けていて、よく見渡せたはず。

愛宕山方面。

P1280400

湯村山方面。

P1280402

当時はまだ今川からの脅威も去っていない時代ですし、
今川に備えた立地でもあったのでしょうな。

そして南側の虎口の。。。ここ!ここよ!
大きな石の下に石が埋まっていますよ・・・!!

P1280403

P1280404

これ、実は武田氏時代の門の礎石だそうです。
徳川・豊臣時代の石垣の下にあるということは、
武田氏時代の土塁に被さって、石垣が積まれている、
ということがよくわかりますね・・・・

ただ、西側は側溝ができたときに外されたと思われるそうで、
残念ではありますけれども・・・

今回の発掘は西曲輪の中段から下段にかけて。
今回発掘して以降南側は、後世の造成が入っており、
発掘してもあまり成果はなかったようです。

P1300585

拡大。

P13005852

以前、武田神社の講演会でも聴いたように、
扇状地の地形を活かした構造になっていて、本曲輪は
三段のひな壇構造になっていた
ことを知りましたが、
西曲輪も三段になっていたようです。

ただし、上段は極めて狭く居住スペースを
取るには難しいと思われ、倉庫などの利用がなされていて、
中段が義信の住まいだったと想定されているようです。

今回中段近辺で遺構が出てきましたが、下段はどうも
武田神社創建時に外苑として位置づけられ、
何らかの手が入ったのではないか、ということでした。

ただ、写真1と示されているあたりから、
何らかの建物の礎石と思われる遺構、さらには、
細かな石敷きの遺構が発見。

P1280504

P1280508

ハッキリとはわからないものの、西曲輪にも本曲輪同様、
下段には庭園があった可能性があるとのこと。

石敷き遺構の石を拡大。青いきれいな色をしています。
この石は甲府周辺からは取れず、おそらく塩川あたりから採ってきた
と考えられていて、本曲輪の庭園跡からも検出。

P1280513

その奥にも石積み遺構が・・・

P1280514

さて、ちょうど中段から下段にかけてのところに、
モッコリと盛り土がしてあって、土の坂になっている中から
中段と下段を分かつ石積が出てきました。

どうやらこれも、武田神社の神社としての造成時によるもの
ではないかと考えられます。神社をつくるのに、
派手に遺構を破壊か・・・と思うと、ちょっとやるせないですけど、
中段の石垣遺構は土盛して、残されたのはまだよかったですかね。

図面に写真2とある部分。

P1280410

拡大。手前に側溝があり、その上に石積、
さらに通路があって、その奥向かって左手から回り込んで、
中段に入っていくような構造になっているよう。

P1280412

石積み拡大。土留めというよりは、見せる石積、
という感じがすごくしますよね。

P1280414

非常に残りがいいですよね・・・これが幕末明治期まで
残っていたのでしょうね。大正時代の武田神社創建以前の、
館跡の古写真とかないでしょうか・・・嗚呼。

P1280422

側溝部分。

P1280415

P1280453

P1280450

中段の内側のほう、石積と石積の間の築地の痕跡。

P1280419

手前が内側(中段側)奥が外側(下段側)。
盛り土の量の多さもありますが、現在は緩やかな坂であるのが、
往時は、相当な高さの土塁と石積で区切られていたことがわかります。

この土塁の頂上部分には築地塀などあったのでしょうかね。

P1280417

そのお隣の部分。ずっと石積が続いているのが解りますね。

P1280407

P1280423

P1280425

P1280436

もうひとつ東隣の現場。写真左真ん中のチョコケーキ
みたいなカタマリの大きさ・深さの量の土で、
この部分が埋められてしまっていましたわけですね。

P1280427

しかし・・・埋めてしまうよりも、この石積をうまく使った方が
絶対いいのにな・・・わずか100年程度の昔ですが、
価値観は大きく違っているのだな、と思わずにはいられません。

おや、さらに深く掘ってる部分がありますね?

P1280428

どうやらここには、天文24(1555)年に義信居館として、
西曲輪が造成される前、この位置に
堀があった痕跡があるのだそう。信虎期、もしくは晴信期初期に
現在の西曲輪の北側に曲輪があって、その南を守る堀、
という解釈になりましょうか。

P1280467

P1280468

反対側から。そこがなかなかこちらからでは
撮れないのですが、ちょくちょく石が挟まっているのが気になります。
これも遺構を構成していた一部が無造作に埋められているのか・・・

P1280478

一番東側の発掘現場でも、古い時代の堀の検出があるようです。

P1280440

こちら。少し水を含んでいます。まぁ、本曲輪と西曲輪の堀も、
空堀部分でも少し水が滲み出してますから、
掘れば水分は出てくるところなのでしょうけれども。

P1280442

P1280489

このあたりはあまり、石積の遺構の残りはよくなさそうです。

P1280446

資料にもあるように、堀は現曲輪に平行しておらず、
少し北西から南東にかけて斜めになっているようです。ふむ。

P13005852

よく見ると、堀の延長線上に等高線が乱れている部分があって、
ここが堀として、つながっている可能性があるのではとのこと。
特に東側が等高線が少しくぼんでいますね。

ということで、今ではもうブルーシートが被されていて
再び見ることはできないのですが、この成果を
19年にできるという武田氏館の解説がなされるという
資料館で見られるといいですよね・・・

◆山梨県立博物館◆

この後は、山梨県立博物館で「桃と桜と信玄公」展示。
桃と桜は皆目見ず(笑)、信玄公関連の展示ばかりじろじろ。

P1280529

せっかくなんでブータン展も一緒に見てきましたけどね。

P1280522

もともとは、清水寺(せいすいじ)に伝わる勝軍地蔵を見に
行くために、県立博に来たわけですけども。
武田不動尊や円光院蔵勝軍地蔵・刀八毘沙門天像
の作者である康清の作であります。

P1280532

博物館内・・・あれあれ?畠山義続さんがいますよ?
(いぢわるな言い方)

P1280528

しかし、勝軍地蔵よりも気になったのがやはり信玄公御屋形図。
武田神社の現地看板にもありますけど、やはりここから
読み取れることはたくさんありましたね・・・

<信玄公御屋形図>

P1280536

まず、東の大手から進んできて、向かって右手、
つまり北側に「是地形高シ」「此地形高シ」とあるんですね
(赤で囲った部分)

1

ここは信玄公の奥、つまり信玄公の座間・座所や台所、
そして不動堂・毘沙門堂がある上段。
つまり、本曲輪が三段になっていたその中段と上段の高低差
を指しているというわけです。

奥と不動堂・毘沙門堂の行き来ができたか?までは
この図からは読み取れませんが、いずれにしても
西曲輪発掘の様子から考えると、2~3m程度の高さが
あったのではないかと想像します。

さらに黄の丸印には「二階廊下」とあります。てことは、
プライベート空間に行くたび階段上り下り・・・
ということで、狩野文庫蔵「武田信玄甲府之御屋形作之図」
にあるのと同じ内容が描かれてあります。

二階廊下になるくらいだから、やっぱり高さありますよね。
しかし、エライお方が毎度毎度階段を行き来・・・
信玄公は苦にならなかったのでしょうか?

さて、中段。ここはいわゆる表御殿。

2

主殿に入ると、脇に奏者の間、さらに「御香所」という部分
(赤四角)があります。これ・・・香をつけてから、
主殿に入れってことなの?

どうも朝廷や幕府には、「御香所」があったようなので、
これも京を意識する武田ならでは・・・なのかも。

オレンジの四角部分は、右の手前から主殿、
穴焼の間、本主殿とあります。穴焼ってなんだ・・・?
読み違いか・・・(オペラグラスで見たかった)

本主殿には「上様是ニ」とあるので、信玄公の座所なのでしょう。
江戸城で言うところの上段の間。

穴焼の間には格天井、矢天井、皆コシシヤウシとあります。
コシシヤウシはどうも「腰障子」と読むべきでしょう。
障子戸の下部に腰板を据えたもの。
こんなことまで解るんですね・・・御殿の様子が想像しやすい。

本主殿にはフスマシヤウシとあります。襖障子でしょう。
ここでも信玄公の御座所と家臣の間との差別化が
図られていることが読み取れますよね。

表の奥(ややこしいな)には、常御対面所(緑)看経の間(水色)。

3

本主殿を江戸城大広間とするならば、
常御対面所は白書院・黒書院のような位置づけの、
私的な対面所ということになりましょうか。
やはり、こういう間取りからも中央を意識した感じがしますよね。

看経の間は・・・平山先生の「大いなる謎真田一族」で
紹介されていた、あの看経所のはず・・・

信玄公は武田軍の兵卒のために、仁王般若経の一節を
ここで唱えるのが日課だったといい、続いて有能で将来を担う
春日虎綱や若き真田昌幸のために、祈りを捧げ、
不動明王の呪文を繰り返し唱え・・・
その話に差し掛かって、虎綱と昌幸が昔話の途中で
泣いちゃうやつ。その場所だ・・・・

その看経の間を過ぎて庫裏を経た先は、風呂場(青)
西曲輪と接続する通路のすぐ北側。

信玄公=お風呂大好きイメージなだけに、どれだけ使ってた?
とか、お湯はやっぱり志摩の湯(湯村温泉)から
運ばせたりしてたの?とかいろいろと気になりますね!

近くに御旗屋(赤)があります。アケシトミとあります。
蔀戸というのもどこか京風・・・

信玄公御屋形図、江戸時代の成立らしいのですが、
創作するにしてもあまりに細かくて、そう丸々創作できるものでも
ないでしょう・・・なんらかの事情で信玄公時代のことを
知っている人物の知識が受け継がれてきたのかも。

・・・真田昌幸なんかよく知ってるだろうから、
絵図の一枚でも描いて、信幸に伝えてれば、
松代真田家に残っただろうに・・ぶつぶつ(笑)

<柳沢文庫>

壁に印刷してあった、柳沢文庫「甲府城下絵図」も楽しい。
柳澤吉保・吉里が甲府を納めた時代の甲府の絵図なんですが、
甲府城はまったく見ずに古府中をガン見(笑)

今は廃寺になっている永慶寺のそばに、現在信玄公火葬塚
とされているところに「信玄公御火葬場」と記載あり。
当時からちゃんとそう認識されてたのね。

実はこれいろいろカラクリがあります。現在信玄公の墓のひとつ、
とされていますが、そもそものきっかけは、安永八(1779)年、
「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」と書かれた
石棺が見つかったということから始まります。

当時の甲府代官、中井清太夫が再度埋葬し、
幕府に届けたうえで、信玄公の墓と定めたというもの。
このときの石棺の銘の拓本が武田神社にありますけど、
どうもあやしいらしい・・・

一方、柳沢吉保の子、吉里が甲斐を出たのは享保九(1724)のこと。
そして火葬塚から石棺が出てきたのが、安永8年(1779年)ですから、
「石棺」発掘以前は荼毘に付された地であり、墓とは認識されては
いなかったということになりますよね。

<甲州文庫>

他にもおもしろかったのは、甲州文庫から。

古府中絵図は、今の屋敷跡看板の元ネタのひとつと思われる、
字名として残る屋敷跡の位置がわかる絵図。

看板がある皆さんはいいんですが、看板にはなっていない
曾根下野守昌世の屋敷跡や、「長閑畠」なんてのもあり、
二十四将に数えられなくても、全部看板置こうよ!
と一人で興奮していました(笑)

さらに、大泉寺信虎画像、法泉寺勝頼画像の刷物。
勝頼画像は250回忌の際に、信虎画像は大泉寺でも行われた
機山公祭の際に、参詣者向けに刷られたかもとのこと。

正直、原典と比べると精度は落ちるんですけど、
刷って頒布されてるってことがすごいよね。

最後、武田晴信信玄像模本。これなかなか珍しい、
僧の姿をした、そして剃髪後の信玄公。
甲冑姿、直垂姿はありますけど、
袈裟を身につけた信玄公は珍しい気がします。

P1280543

全身を描いたものもあるんですが、いずれにせよ、
武田逍遙軒が描いた原本を安富元実なる人物が
安永4年(1857年)に写し、さらに狩野雅信が模写したとか。

個人的に信玄公のお顔の特徴として、
面長、頬骨が出てる印象があるので、ちょっと目つきは・・・
という気はするのですが、この時代の画風として、
写実性を求めてもアレなんでまぁ・・・と。似てません?

Haru1

Haru2

いずれも髷があるので、入道以前であって、
この甲州文庫のほうは入道後、ひょっとするとかなり晩年かも、
とすると年代がかなり離れていますよね。

全身像のほうは、スケッチ的で簡略的に描かれてはいるんですけど、
これまた今に他では伝わっていない、入道後の姿で、
法衣を身にまとっています。

やはり胸像と同じく眼光鋭く、下唇をかむ不動明王スタイル。
髭は短く、法衣と刀拵に武田菱。法衣の襟の辺りに花菱。
右手に閉じた武田菱入り扇子、左手に数珠。

❖9/10追記❖
実は、この史料(甲州文庫)申し込めば史料の撮影が
できることを後に知って、撮影を申し込みました。
全身像がこちら。

New_shingen

逍遙軒・・・・そんないっぱい御屋形様の像を描いてたのね。
原本伝わってないかなぁ。「あの」諏訪法性兜のヤツばかりじゃなくて、
江戸時代にだって、こういう信玄公像が描かれていた、
と思うと興味深いですよね。

ということで、非常に楽しい3/18のお話でした。

短期展示なので、図録がないのが惜しいところです。
特に信玄公像はもう一度、しっかり見たいです・・・・

また展示してくんないかな。ていうか、収蔵史料の
即日閲覧の対象に甲州文庫入ってるな。
これ、すぐ行けば見せてくれるってことじゃない・・・
今度見てこよう。申請すれば、blog用に掲載できたりする?
とにかく、また山梨県立博物館行かなくちゃ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津⑥ 会津中将・アイヅテラス

さて、この日はあまり予定はないので、久々に旅地で
無計画にぶーらぶら。そいや、末廣さんは行くけど、
会津中将の酒蔵行ったことないな?と思って、
早速向かうことにしました。七日町の鶴の江酒造さん。

P1270706

いくつか試して美味しいと思ったのが、高濃度酒。
最近はフルーティで香りが華やかなのが、
日本酒だと好まれるの傾向にあるようですけれど、
これは昔ながらの酒飲みの酒。

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ということで、飲みながら書いてんですけどね(笑)
末廣さんと違って、見学がないのが残念なところではありますが、
旅をしながら、酒蔵を回るのはやはり醍醐味ですねぇ。

七日町まできたら、阿弥陀寺の御三階みとくよね?
すっごい吹雪いてるけど・・・・

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会津葵。

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へ?歴史を語ると灯籠?

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東軍墓地前の灯籠。破却された東照宮の灯籠なんだ…
こうして灯籠だけでも活かされるの、いいなぁ。

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そして、阿弥陀寺境内で気付いてしまったこと・・・・
曾根家のお墓があることなんです。

比較的新しい墓石でしたが、曾根・・・
まさか、あの曾根昌世の末裔がずっと会津におられる?のか?
とざわざわしました・・・どうなんでしょう・・・

さて、さらにぶらぶら。花菱の窓扉をみつけてひゃっほいしてたり。

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レオ氏郷南蛮館は閉まってた・・・・

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氏郷さんのお墓には参っておこう。
信尹さんと昌世さんを召抱えた経緯とか、
お二人とのエピソードをもっと教えてくださいませ・・・

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そして、また鶴ヶ城方面にふらふら。北出丸近く宮泉さん。
仕込み水が猪苗代湖水系…てことはあちらが高く若松が低い…!!
地形的にも猪苗代方面から、こちらに来やすいわけだ。

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そして、内藤邸のお庭を見ながら一献。
会津藩家老内藤介右衛門屋敷跡、裁判所になってますが、
庭園だけは残ってるんですよ。

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武田四天王内藤修理亮昌秀の養子内藤大和守昌月に始まる、
会津藩内藤家。家老格で仕えられたのは昌月自身が、
槍弾正保科正俊の子、保科正直の弟という血筋だからなんだろな。

泣血氈、もともと内藤家に伝わるものだったんだよね。
赤だけに、武田に由来しないかな・・・・とか
思っちゃう酔っ払いでした。てへ。

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さてさて、あまりに吹雪が強すぎたので、
一時、北出丸カフェに避難。

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前から気になってはいたのですが、とてもいい空間。
時間的にコーヒーを頂いただけになりましたが(寒い)、
次回はごはんも頂きたいところ。

アイヅテラスの点灯式くらいには、吹雪も収まりました。

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ちょっとまだ明るいですねぇ。。。

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藤棚・・・的な。

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麟閣もライトアップしてるんだけど、
ちょっとまだ早い。

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全般的に、ちょっとさびしげというか、
あまりどーんとライトアップした感がないような。

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だんだんと暗くなっていきます。

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やっぱり麟閣のライトアップが一番よかった。

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天守は先日と同じ、淡いピンクのライトアップ。

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雪に映るすがたがぼんやりしてきれい。

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ということで、ここで会津の旅は終了・・・・なんですけど、
このあと磐越東線は止まっていてビックリ!不通終日!!
郡山までバスに切り替えるも、人だかりでさらにビックリ!!!

最後はビックリしましたが・・・・よい会津の旅でした。
また定期的に来たい地であります。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津⑤ 御薬園・会津武家屋敷 with 絵ろうそく

さて、間が開きましたが・・・・日が暮れて、御薬園に戻ります。
ほっほー!こりゃステキだぁ。

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しかし、もはや暖かいから、あっちーになりつつある今日、
雪の画像は見た目には涼しくていいですな(笑)

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基本的にろうそくが織り成す赤い光ってすごく好きで、
それだけでもいい気分になれるのですけど、庭園に雪に
ろうそくライトアップ。最高ですよ!

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陰翳礼讃・・・じゃないですが、白いひかりのもとで
生活する方が何かと便利だったりはするのですけども、
陰翳がもたらす精神的な作用みたいなものが
あるんじゃないかなぁ、って思うんですよね。

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華やかな現代的なライトアップも好きですが、
こういう落ち着きも捨てがたく。
以前は鶴ヶ城だけで終わってましたけども、
周辺も回ってみて大正解でした。

さて、続いては会津武家屋敷。こちらでも
ろうそくのひかりを楽しみます。

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会津まつりでもそうだと思うのですが、
わりと会津にいくと、会津藩や会津戦争ばかり・・・・
というわけでもなく、蘆名から取り上げようという雰囲気があり、
わたしが好感のもてるところだったりします。

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では、ひとしきり、武家屋敷の明かりをご堪能ください。

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そして、飯盛山。これがまぁ・・・かなりのハードルの高さ!
つるっつるで山登るのが大変でしたよ・・・!!

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麓は明るいんですが・・・

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これ。くらっ・・・!!!

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白虎隊の皆様のお墓までこの調子。
暗くてちょっと怖いけども、手を合わせて下山します。

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くだりがさらに怖い。。。

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さて、おそばにこづゆ。

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会津葵発見!

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こづゆはいいですねぇ・・・
酒のあてに常備したいもんですよ。

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で、呑んで食べたらおふろ。
こういう景色を見ながら、お風呂はいるのほんと素敵。
これからできる限り、東山温泉にしよかな。

瀧の湯、とはこゆこと。

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政宗所縁のさいかちの大木があります。

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こんな情景を眺めてお風呂とは、まぁ最高なわけだ。
ふふふー♪

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というわけで、この日は終わり。
翌日は、特に決まった予定もなくまったりと会津徘徊。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津④ 吹雪の会津若松を彷徨う

さて、翌日。やることやったんで、この日は夕方以降の
絵ろうそくまでは特に差し迫った予定もなく、
ゆーるゆると行動。

お宿の朝食、取り皿が保科の並び九曜紋を
模したお皿になっててすっごい素敵。いいよこれ。

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保科家の紋。これね。

Hsn_2

そして甲冑もあったりして。会津藩の侍大将
斎藤碑久右衛門所用の甲冑。色はくすんでるけど、
赤備えだよな・・・赤備えというとすぐ武田にひっつけたがるマン。

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今回、初めて東山温泉にしてみたんですが、
まぁ、いいところでしたホント。

ちょっと交通の便は・・というのはありますけれども、
なんとかはなります。会津の街中をガッツリ観光して、
BARもいってあれこれ・・・というのでなく、
ゆったりしたーいというのがコンセプトだったので、
ちょうど合っていましたね。これからも選択肢に入れてこう。

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寒いけど、寒いのはわりと平気なので、
こういう雪景色を見ながらの露天風呂はホント最高。

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どうしてもつららは見たら撮りたくなる。。。

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この日の午前中は、御薬園。会津藩松平氏の
各種薬草を栽培する薬草園であることがその名の由来。
会津藩保科・松平氏二代、保科正経時代より。

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ですが、もともとは室町中期に蘆名盛久が
この地に別荘を建てたのが発祥なんだそうですね。
割と歴史のある庭園なのですね。しらなんだ。

明かりが灯ったらキレイだろうな。夕方また来ますけど。

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しかし、雪多し。会津ってこんなもんでしょうか?
10年前に雪なし絵ろうそくを経験したからか、
会津ってそんなに降らないイメージでこのときいたもので・・・

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三層の塔。これ蘆名時代からのものなんだって!
鎌倉以来っていうけど。。別荘建てたときに、
もってきたのでしょうかねぇ。

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池までは凍らず。

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石灯籠。ここで騒ぐとあーはいはいと呆れられるやつ。

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どこ撮っても絵になって、カメラ持ってると非常に楽しい。

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真ん中にある御亭は楽寿亭というそうな。
がっつり刀傷跡。

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刀ってよりも、ハンマーか何かでぶっ叩いたような。。。

またもやつらら撮るマン。なんで惹かれるんだろ。

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お昼は会津醤油らーめん・家元こまめやさん。

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吟粋。なかなか好みでした。醤油好きには◎
極撰も気になってはいたので、一通り食べたいですね。

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さて、また雪が吹雪く中、鶴ヶ城にやってまいりました。

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大手北出丸西虎口。

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あれに見ゆるは伏兵曲輪。。。皆殺し丸。。。

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虎口の内側には石垣を置かず、内郭からの
枡形に向けてできるような構造になってるところは、
江戸城との共通性を感じますね。

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石垣上から。丸馬出だったとして、両袖に枡形があれば、
それこそ新府城と同じだよなぁ、とか思いながら。

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こんなに雪積もってるところ、誰も来ませんけどね・・(苦笑)

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北出丸石垣上から。

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あれ、天守がアタマひょっこり。

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石垣上をずんずん。

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しかしずいぶんと堀も広いよな。。。。
土塁のときはどのくらいの規模だったのだろう。。

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武徳殿もまっしろ。

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つららが規則正しすぎて笑うなど(笑)

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北出丸西虎口桝形。
こちらも城内側は石垣なく、城内側から射撃できる構造。

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西出丸の本丸に通じる通路。なんかこれみても、
丸く土塁で形成されている土の城に、
あとから石垣で増築しました!みたいな、
江戸城でいうと、外桜田門的な感じがするよね!?

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逆側から。こう・・・なんか不自然さがあるのよ。

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本丸側はずっと鉢巻石垣が続きます。

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干飯櫓。吹雪いてて前が見えないよ・・・ひぃ!

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ちょっとこれは退散だ・・・てことで、末廣酒造さんへGo!

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ウイスキーラバー的には、この蒸溜(ふかしだめ)に超ウケる(笑)

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昔の住まわれていたお部屋の中に、あるものを発見す。。。

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會津若松名城 鶴ヶ城天守閣落成記念。
皆さん喜んでられたんだろうな。。

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でも、若松城址は国指定史跡。
おそらく現天守がダメになった後、再建は叶わないでしょう。
それまでに内部構造がわかる史料が発見され、
木造で再建できればいいけど。。こここそ、現RC天守を
なんとしてでも持ちこたえてもらわないといけないよね・・・

こちらには松平容保公と徳川慶喜公の書も並んでます。
並んでるとなんだか・・・落ち着かない・・・(苦笑)

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出た!おはらしょうすけさん!
朝寝、朝酒、朝湯大好きです!(ダメフラグ)

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あれ、これ偶然だけど、日光家の家紋と同じ・・・!!

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氏郷公。氏郷推しで会津来たので買ってかえりたいところだけど、
割と値段したので諦めた。。。

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今回も熟成酒を。いいんですこれ。
そんなに高くもないんですよ、こんな年数なのに。

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さて、また鶴ヶ城に戻ります・・・雪もやんできたし。

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なんと。。。。鶴ヶ城に真田父子が!(白雪みみさま @MimiShirayuki )
しかも昇梯子昌幸に、最終形態赤備え幸村!ほっほー!
(お二人をお伺いせんと戻ったわけですが)

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甲冑つくられるのすごいよね・・・尊敬尊敬。
完全に着る専門だもん。。

後もう少し、会津葵シルクロード文明館さんで、
日が落ちるのをゆったり待ちます。

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さて、いよいよ。ろうそくの明かりが
主役になる時間が近づいてきますよ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津③ 鶴ヶ城縄張考察・・・武田と丸馬出を求めて

さてと、会津で買った資料から考えるあれこれ。
普通は幕末あたりが売れるんでしょうけど、
蒲生氏郷推しで資料購入(笑)

それは、真田信尹、曾根昌世の会津での
事跡をもっと知りたいから、というのと丸馬出との関連。
ざっと眼を通して解ったことをメモ書きしておこうと思います。

◆真田信尹&曾根昌世コンビと鶴ヶ城◆

①氏郷が会津拝領にあたり、有能な人材の雇用を
  秀吉に願い出ていること、
②曾根昌世が鶴ヶ城に関わったとする記録の詳細。

①については、『会津旧事雑考』という書物に出てきます。
氏郷の会津移封天正18年8月ですから、
人材登用の話もこの時期といえるでしょうね。

②については、『新編会津風土記』(1809年成立)に記載あり。

文禄元(1592)年に曾根内匠に命じ、甲州流の縄張り等を用いて
内外の郭を築き・・・とあるよう。曾根の登用については、
少なくとも九戸政実の乱の直前になる天正十九(1591)年3月以前に
京都で召抱えられた、ということだそうです。

一方、盛岡藩の記録である信直記によりますと、
曾根昌世と真田信尹両名が、天正18年に召抱えられ、
九戸政実の乱へ氏郷配下として出陣している記録があります。

そうです。ということは、少なくとも九戸政実の乱開始前に

ということは、

①氏郷が会津入府に当たって人材を探していた
②その氏郷に、昌世・信尹が応じて出仕(どちらが持ちかけたか不明)
③九戸政実の乱に出陣した後、少なくとも昌世は
  氏郷から鶴ヶ城増築の命を受けている

という流れになりそうです。武田氏家臣団人名辞典によれば、
曾根昌世は、知行三千石、のち六千石。
加津野昌春こと真田信尹は、このとき真田に復姓し、
知行五千石、のち六千石。

ほぼほぼ同格の扱いということですね。

会津に入府するまで、もちろん真田昌幸との関係から、
互いに既知の間柄だったでしょうが、それ以前、
依田信蕃とともに、加津野昌春に対して、
真田昌幸の徳川内通を成功させた謝意を
伝えているそうですから、かなり見知った仲といえそう。

ということは、行動を共にし、おそらく二人セットで
召抱えられたのかもしれないと思うと、
真田信尹が鶴ヶ城の縄張普請に関わった可能性を
ちょっと想像したくなりますね。

◆北出丸・西出丸の変遷◆

また、馬出についてですが、以前現地看板に、
甲州流の丸馬出・・・とあったのですが、
新しく看板が替えられた際に、その文言が消えています。

個人的には、曾根昌世が普請した鶴ヶ城には
丸馬出があった・・・といいたいところなんですけど、どんなもんか?

実際のところ、蒲生氏郷時代の縄張り図はなくて、
蘆名時代、蒲生忠郷時代(再蒲生時代)以降であって、
氏郷時代がぽっかり抜けていることと、図面に加藤嘉明時代の
馬出の出丸化と混在して描かれてあって、なかなか難しい。

ということで、蒲生忠郷時代の縄張図をば。
文政七年(1824年)に写された蒲生忠郷支配帳より。

170506_1615_001

この頃には、北出丸・西出丸という呼称はなく、
いずれも三の丸の飛び地という扱いになっています。
脇に「馬出」とあるので、そう認識されていたのでしょう。

両者比較してみると、

①北馬出は土塁、西馬出は石垣という明瞭な差がある
②西馬出は、いわゆる左右対称な武田の丸馬出、
  もしくは、佐倉城や篠山城の角馬出とは異なる歪な形をしている

ということがわかります。

北馬出拡大。「土井」という文字が見えます。

170506_1615_0012

西馬出拡大。石垣とあります。

170506_1615_0011

また、西馬出はちょうど北部分が欠けてしまったような
形状をしています。

『新編会津風土記』に、西出丸は小さな郭だったとあり、
蒲生氏郷死後、上杉時代もしくは秀行・忠郷時代、
加藤時代の大改修を待たずに増築された小曲輪であり、
これが加藤明成によって、馬出化する、
というように、考えるのがいいかもしれません。

そういえば、と思うのは西出丸は馬出奥の通路が
中央になくてずれているんですよね。

そう考えると、本来の(氏郷時代に昌世が設計したであろう)
縄張は北出丸の方向に、土の馬出をつくった、
ということになろうかと思います。

馬出が角か、丸かという点については、
武田の築城術で特に角を否定はしていませんで、
甲陽軍鑑(末書下巻下)にも角馬出の例が出てきます。

170108_1809_002

理由はさておき、当初は丸で途中で角に作り変えられたか、
当初から角だったか、これについては決め手がありませんね。

個人的には、全般的に角ばらずに、曲線をつかって
横矢を掛けやすいという構造をしていることを考えても、
やはり、武田が得意とした丸だった、のではないか
と思いたいな、という気持ちにはなります。

さて、「会津若松市史・4 城下町の誕生」に
このようなことが書かれています。

曰く、蒲生時代は天寧寺町口から廊下橋門に到る
方向が大手筋、甲賀町口から北出丸方向を大手とするのは、
加藤嘉明の子、明成の時代。

さあ、なかなかややこしいことになります。
会津若松市史・4城下町の誕生から、
蒲生時代の鶴ヶ城縄張復元を見てみましょう。

Aizu2

非常に不思議です。やはり、大手を東側とするならば、
馬出の位置に違和感があります。というのも、
武田家の丸馬出は大手方向に防御正面を限定させて、
その正面に馬出(通例は丸型)を置く方法を取ります。

セオリー通りなら、三の丸方向に馬出がないと辻褄が合いません。
あるいは、加藤時代ではなく、蒲生時代に北馬出を
増築すると同時に大手として付け替えたと考えるのなら、
自然であるように思われます。

しかし、よくよく蒲生時代図面を見ると、答えが書いてありました。
馬出も含めて「三の丸」という扱いになっていて、
二の丸は、主曲輪の西側に位置するように書かれています。
すなわちこれは、蒲生時代から大手は北馬出方面に
あったのではないか?と思わせる手がかりになります。

従来の連郭式城郭の大手方向を付け替えて、
本曲輪に直接丸馬出をつけて、そちらを
大手としている例としては、小長谷城がそうではないかと。
類例としては、ありますのでね・・・

蘆名時代は西側に大手が合ったようだとということから、
蘆名時代の西から東に延びる連郭式の城に、
氏郷入府後、北側(対伊達)を仮想敵として
北側に丸、または角の土塁による馬出を増築、これを大手に。

西側には、北の大手馬出を補完する曲輪を
氏郷在世時より後の時代に、曲輪として増築され、
加藤氏時代に、北馬出同等の出丸として拡張整備された、
と考えておきたいと思います。

ただ、引っかかるのがこの丸印。ここ伏兵曲輪だと思うのですが、
外部に向けて虎口があるんですよね。

Aizu2

一方、加藤明成時代の大規模改築の際の図面です。
現在と同じように伏兵曲輪は閉じられています。
おそらく加藤時代の改変なのでしょう。

とすると、蒲生時代の伏兵曲輪にあたる部分は
どう理解すればいいのか・・・これはちょっとアイデアが出ないです。
もうしばらく悩んでみようと思います。

上空からの鶴ヶ城の写真。公式ガイドより。
やーっぱり、馬出が有る以上はこの方向が大手・・だよなぁ。

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ということで、どこまで鶴ヶ城が武田氏の丸馬出のセオリーで
築城されているかはもう少し考察が要りそうです。むむ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津② 絵ろうそくまつり@鶴ヶ城~

さて、最近できました八重さん像にご挨拶して、
城内(二の丸)へ入ってまいります。

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廊下橋の堀は全面結氷。

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鶴ヶ城の縄張りは伏兵曲輪から北出丸大手が特に好き。
雪まみれになりながらも、やっぱり行っちゃう。二の丸から。

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伏兵曲輪。

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伏兵曲輪から北出丸の東虎口を背後から
襲う構え。これが凶悪・・・

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こんな風に狙われることになるのです。

1234

まま、この辺のことは後ほど。やってきました天守。
天守は黒!と常々言うわたしも鶴ヶ城は
やっぱりいつ見ても素敵だなぁ、と思うわけです。

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来場者も点灯式後に蝋燭で灯を点せるってことで、
スタンバイ。鶴ヶ城天守の蝋燭は点灯式用。

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式が終わった後に、チャッカマンを頂き、点灯!

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ライトオーン☆

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いくらでもつけていいようなので、いくつか点火。
天守をバックに。

P1270198

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雪まみれになりながらも、夕暮れの天守を。
茶壷櫓跡近くからの眺めが好き。

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しばらくすると妖しくうす紫色にライトアップ。

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赤瓦とこのライトアップの色が非常に合いますねぇ。
ライトアップの色、というかホワイトバランスって
けっこう大事かもしれませんよね。

降りてみて。いい具合の光の当たり具合。
お城を別としても、こういうの好きです。

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P1270226

なんじゃろこれ?って、ちゃんと絵になってるはず。
天守の上から確認してみましょう。

P1270230

あ、いまこっちから入場するのね。

P1270234

ついつい白い牙って思っちゃうFF脳(笑)

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天守内、割と変わっていたんですが、
個人的には、斗南藩の領有地の地図に、
余市が書かれてあったことかな!マッサーン!(笑)

鶴ヶ城外郭ラインの全容を映す床の写真。
内郭が南に置かれて、やはり南からの進軍は困難とし、
猪苗代湖方面から入って北から迫る、というのを想定してそう。

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さっきの灯かりは・・・起き上がり小法師でした。

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北方面に向くと、鉄門。ここが会津戦争で砲撃から
一番安全な場所だったらしいんだよね。

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東側ではいい光の当たり具合で、瓦と木々の共演。

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お土産所では、会津若松市史・近世1会津近世の開幕、
鶴ヶ城公式ガイド、天守再建50周年記念の蒲生氏郷図録をば。
なんで、こんなに蒲生推しなのか・・

それは真田信尹・曾根昌世の事跡の理解につながらないかな?
と思ったからなんですが、割と断片的ではあるものの、
いろいろ解ったような気がします。それは後述ということで。

お土産屋さんの奥には、「八重の桜」での容保公陣羽織、
八重さんの服が飾ってありましたよ。

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容保公の緋の衣の陣羽織に武田菱がぁぁぁ
とかいつもの病気を出してしまったりしましたが(爆)

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八重さんは会津戦争での三郎くんの遺装で。

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城の壁に彫った歌の再現もありました。

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天守を出たら、水玉~

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と思ったらすぐ消えた!?

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しばし、ここから絵ろうそくにデザインされた銅板や竹筒を
組み合わせた灯かりのアートをどうぞ。
こういうの、いつまででも撮ってられる・・・・

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篝火をみて、武田菱だ!とかいつもの病気を
発生させていたら、友人(るるぷぅさん @rurupu_aizu)
からお呼び出し。

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何度もお世話になっている丸忠さんへ。
桜肉の焼肉を頂きに!

P1270291

もっと気軽に食べられるとよいのですけども。
桜肉、焼肉にもすべきだと思うんだよなー!

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ここ、容保公とマッサン…じゃない山川大蔵さんも
撮影のときに来られていたらしいですよ?

人気のお店なので、要予約。

ということで、1日目終わり。
2日目は御薬園などのお城以外のろうそくの様子などなど。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津① 武田遺臣と要略会津藩諸士系譜~

さて、2月の会津話。絵ろうそくまつり狙いで
行ったわけですが、会津藩士のことや鶴ヶ城の縄張りも
再確認しておきたい気持ちもあって。

しかし、調べてみると以前に絵ろうそくまつりに行ったの、
実に10年も前だったんですよこれが。えええ。
しかも、雪がなかったという・・・

会津自体は、仙台と並んでわりと頻繁に来るところなんですが、
そんなに来てなかったとは・・・・今読んでみて、
前回はかなりアッサリした記録だなぁと思う一方、
なんだか年月を重ねるにつれ、記録の密度が高いというか、
いろいろ関心が増えて、記録したいことも増えてきたんだろうなと。

着いてまず、お昼。会津酒楽館。
早速呑む気マンマンです(笑)

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ささまさむね特別純米。

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・・とそば。そば屋ではないですけど、
そばで酒を呑むっていいですよね。

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日本酒の好きな飲み方のひとつ。
そして、そばも酒も抜群にうまかった。

このあと、鶴ヶ城へ。周遊バスに乗って・・・
最近どうも会津は蒲生氏郷を積極的に推しているらしく、
周遊バスもこのような諏訪原寛幸先生のかっこいい
蒲生氏郷と漆黒の七重天守があしらってありました。

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ただ、三浦正幸先生のご説明によれば、
この「七重」とは、「重」を階数で表現してしまったための誤りで、
内部構造が七階建てであって、実際は五重七階の天守
ということらしいのですよね。

時代を考えると、下見板だったでしょうから、
外観のデザインは近いのかもしれませんが、七重ではない・・・
ま、そこは細かいことは目をつぶりましょうか(笑)

せっかく蒲生氏郷を推すのであれば、真田丸にのっかって、
真田信尹、ひいては曾根昌世を推して頂いても・・・
これからに期待であります(笑)

そして、降り立っ「要略 会津藩諸士系譜」を読みふけるなど…

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もともと武田遺臣が多いということで、知ってそうな方いるかな?
というレベルの関心だったんですが、まー出てくる出てくる…

◆赤羽氏◆

最初に注目したのは、赤羽氏。

というのも、「要略会津藩諸士系譜」を知ったきっかけでもあるのです。
2015年にとあるWebニュースに、余市で初めて林檎を実らせた
赤羽源八なる旧会津藩士が、どうやら高遠以来の家臣であること、
それが「要略会津藩諸士系譜」で判明したというくだり。

会津藩と林檎のかかわりは、個人的な関心として
ニッカウヰスキーと武田家を結ぶ重要(笑)な所でありまして、
そこから会津藩士における武田遺臣をちょっと深堀したいなと思い…

いくつか会津藩に赤羽家はあるものの、系譜をたどると伝右衛門俊邦
を祖とする家が古くから保科家と関わりがありそうです。

天正十年、透光様高遠之城御乗取被成候節
軍功有之其後同年八月伊那郡御攻之時茂軍功有之候、

とあります。

この透光様とは・・・建福寺殿天関透光大居士、
つまり保科弾正忠正直。槍弾正として武田にあって
名を馳せた正俊の嫡子であり、武田の四名臣・内藤修理亮昌秀の
養嫡子・内藤大和守昌月の実兄。

実はこれに関しては、おもしろい事実があります。
天正十年高遠城落城に際し、保科正俊・正直は昌月を頼り、
一旦上州に逃れます。武田家滅亡の後、天正壬午の乱にあっては、
北条家に降って、正直が昌月から兵を借り高遠城を奪取。

昌月は武田家の要職(郡司)として強大な動員権限を
持っていたはずで、真田昌幸同様、武田家滅亡直後であっても、
一定の動員ができたでしょう。

おそらく、「透光様高遠之城御乗取被成候節」とは、
このことを指していると思われます。
ということは、赤羽氏、活躍してるじゃないか…!!

源八との関連で見ると、仮名に「源」がつくあたりから
赤羽源次右衛門俊弘という人物が、赤羽源八と関係がありそう?
文政六年(1823)年で53歳。その子として、源八郎俊政。
丸に釘抜紋で、伝右衛門俊邦に始まる家と同じ家紋でした。

元和八年道義様御小姓、とある点に注目。
道義様とは、保科肥後守正光。正直の嫡子ですね。

武兵衛茂礼と伝右衛門俊邦との系譜関係はわかりませんが、
小姓に抜擢されるということは、「高遠之城御乗取被成候節」に
功績のあった源次右衛門俊弘の一族だったのか?などと想像。

なかなか評価された一族だったのでしょうね・・・おもしろい。

◆秋山氏◆

花菱紋。文政六年時点で、万次郎義敬とあります。
本姓源氏、本国甲斐。保科・松平家に出仕はじめ不詳。
秋山良意道味から始まる6代目。

江戸時代のどこか、半ばくらいでで会津藩に仕官したのでしょうか。
秋山伯耆との関係が気になりますが、本来の秋山なら
三階菱のような気もします。

◆土屋氏◆

丸九曜を紋とし、本姓源氏本国甲斐。土屋右衛門尉昌続の子、
五郎右衛門直村の長男次郎兵衛尉清直に始まるとか・・・

直村・・・そんな人知らない・・・と思ったのですが、
八王子にあって代々五郎右衛門を名乗り、
当人は家康からの誘いを固辞し続けたものの、
家康が関東に移った後の天正十九年、関東一円の紺の買い付けを
許される紺屋頭として、転身していた土屋五郎右衛門が
どうもこの、土屋五郎右衛門直村に当たるらしいです。

召出は寛永二十(1643)年、最上御知行二百石とありますから
保科正之が会津に移る直前に仕えたのでしょう。
長男かはさておき、この土屋五郎右衛門の一族が何らかの
経緯で、保科正之に仕えたのでしょうか。

◆内藤氏◆

当時は介右衛門信全、家紋は割り菱。御知行二千石と破格。
さすが家老。仮名は慎次郎、代々内藤家は召抱えられた
源助(昌秀の曾孫)直卓以来、代々「源助」を名乗っていたよう…

信全はどうも違うよう?彼自身も養子のようで
昌月の血脈ではなさそう。会津藩士二代は、武川姓を名乗っており
(武川源助自洪)、この三男が別家を興す(三百石)。

尚、こちらも婿養子を取っている家(武川信福)もあり、
また別系統はそのまま続いているよう?(武川信自)

・・・ということで、よくある徳川/松平や、細川/長岡、
といったような同じ祖先を持ちながら宗家と分家で姓を分ける
ということを、会津藩内藤氏はやっていたようです。

武川衆だった馬場美濃ならともかく、内藤、保科の縁の分家が
なぜ「武川」なんだろうね、という点は気になります。

◆望月氏◆

本氏滋野、本国信濃。

信濃望月布引之城主望月相模守定朝之孫、
望月三清入道安光嫡男新兵衛安勝

から始まるとしてます。滋野三家の本来の望月氏の誰か?

◆有泉氏◆

文政六年には有泉大学勝尹、御知行四百石。
有泉五兵衛重治に始まり、新左衛門忠吉・・と続きます。
召出は慶長十八(1597)年三月、
七歳二而御小姓之御奉公とあります。

年代的に保科正光の小姓でしょうか。「大学」というのが
有泉大学助昌輔を想起させます。梅雪・勝千代に仕えた人。

有泉大学助昌輔は、穴山衆でも地位が高かったようですが、
天正十一年以降、穴山氏からの史料から消すとのことで、
(武田氏家臣団人名辞典)以後、上総で没するほか詳細不明。

ここから・・・・高遠、最上、会津につながるかな?

◆小山田氏◆

本姓平氏、本国甲斐ということは、平姓小山田氏につながる
(ことになっている)郡内小山田氏系でしょうか。

召出は寛文五(1665)年。亀甲内釼花菱紋というのは謎。
小山田多門貞重に始まり、伝四郎盛信、忠左衛門重好、
忠左衛門重友、伝四郎盛陽、多門盛雄、主馬盛知。

縁のありそうな名前がポンポン出てくるのは、ホント楽しいですね・・・
同じ感覚で、彦根藩(山県衆)や尾張藩、米沢藩(川中島四郡関連)
を読んでいくと面白そうです。特に米沢藩はなんと言っても、
信玄七男・武田信清がいますからね。

で、博物館そのものは、藤原泰衝vs源頼朝の阿津賀志防塁模型。
くらいしかちゃんと見てないという・・・(笑)
二重堀の迫力あるジオラマ。

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さて、このあと鶴ヶ城の気になる縄張りを見回りながら、
武田(また武田か!)に思いを馳せていきます。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 1/27-29 要害・積翠寺・要害山城 ~

さて、要害さんの話。要害と言っても温泉旅館のほう。
1月末で閉館してしまう、というニュースにがっかりした方も
多かったのではないでしょうか?

わたしもいてもたってもいられず、特段予定はなかったのですが、
予約を入れて、最後の要害の夜を楽しむことにしました。

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・・・というついでに新府城行って、前記事に書いたとおり、
すっごいよい環境で丸馬出見られたんですけど。

あああ・・・今見る方がなんかしんみりするなぁ。
これを撮ったときには、あまり実感なかったですけれど。

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ロビーや廊下も名残惜しくて、写真に収めちゃいました。

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ニジマスの甘露煮・・・もうお土産はSold Outでした。
ざーんねーん。

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前社長、知事さんだったのね。。。

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多くの人に愛されてきた証ですねぇ。

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「隠し」かどうかは別にして、湯村とともに近いですし、
温泉の活用はしていたんでしょうね、信玄公。

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成分表まで撮っちゃう。笑。

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そして、新府から戻った1日目の夜景。
ちょっと時間があって、贅沢をするお宿ですからね。
信玄公祭りに出演した際の宿として、特に印象深いです。

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そそ、座布団が花菱なんですよ。
武田菱センサーが反応(笑)

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お隣の文様はなんだろう。。。

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さて、要害さんでの最後の晩餐。

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なんといっても甘露煮。これがうまいんだ。
どこかでほかにないものか・・・(あったら要害名物にならんわな)

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もう1日は平山先生と飲みに出かけて、お夕飯はなし(笑)
でも、ゆっくり温泉をなんども入れて・・至福のときでした。

ということで、要害からみる甲府盆地フォトコレクション。

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明るい間は、積翠寺の屋根が見えるんですよね。
武田菱が見えてしあわせ。そしてこの地形の妙がなんとも楽しい。

日が傾き。。。

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空が紅に染まる。

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まちに明かりが灯り始める。

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あのあたりは、熊城の一部になるんだろうか?

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さて、この日は温泉ほかほかで甲府市街地へ。
偶然、平山優先生が甲府におられ、
ありがたくも飲みのお誘いに。まぁ、よっぱツイートですわ。

さて、最後の朝。前日朝に露天風呂入った折、
カメラで露天風呂からの眺めなど撮影されていた方がいたので、
わたしも早起きして、誰もいない間隙を縫ってぱしゃり。

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なかなか贅沢な空間だったのです。湯に浸かりながら、
甲府盆地を見下ろせるわけですから。

この温泉成分のついた中身の刳り貫かれた木、
ずっと現役でいくのでしょうかね。

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やっぱり、熊城っぽい。

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さて・・・最後の朝ごはん。

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のあとは、チェックアウトまで積翠寺へ。
何気に積翠寺お初なんです・・・ボソッ

脇に、要害さんの送迎バス。
百鬼丸さんの切り絵信玄公が光ります!

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歩いてものの数分も歩けば、積翠寺。
ま、露天風呂から見えてますからね。

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基本的に新しいお堂ですし、サラッと見る感じですが…
境内は行ってすぐに、信玄公像が。

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ま・・・あれですね・・・畠山さんですね・・・
甲府でご苦労様です(爆)

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つか、畠山信玄公そのものが観音様扱いでした(驚)

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由緒。わっからんよ。。。新しい看板ぷりーず。

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奥までぐるーっと回って見つけました、信玄公産湯井戸。
車道ができたときに涸れてしまったそうですが。。Oh

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あの蔵には何が入ってるのだろう。。。
とりあえず武田菱付いてるけど。

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さて、チェックアウトして、でも荷物だけはお預かり頂き、
要害山城へ。要害さんという拠点がなくなると、
ここも行きにくくなるなぁ・・・・

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最後は要害さんの送迎バスにて甲府駅まで。
お世話になりました。もうこれにも乗ることはないか。。うう。

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122年もの間、長きにわたる営業お疲れさまでした。
4月から新たな施設として生まれ変わるとのこと、
もう順調に進んでいるものと思います。

新たな事業活動が堅調に事運びますよう、お祈りいたします。
ありがとうございました。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 1/27 新府城 ~

ということで、また甲斐です。また・・・また甲斐か!
と真田丸家康ボイスが再生された方も多いでしょうけども(笑)

今回はもともとは行く予定にはしていなかったんですが、
積翠寺温泉・要害さんが閉館するというのを、
そのリミット1ヶ月くらい前に聞いたもので、すわ一大事!
ということで、何の予定もなく予約をつっこんだのでありました。

まー・・・とりあえず、新府城行っとく?とここ最近、
高まっている丸馬出への関心から、訪れることにしてみました。

とにかく気づいたことは、武田家が好んだ丸馬出を
存分に活かす構造になってるな!と改めて気づいたこと。

あくまで軍鑑ベースになってしまいますが、山本勘助→馬場信春、
と続く武田流城取が長篠以後もきちんと伝わってるんだ、
という気にさせてくれたことですね。

16年12月(まだ起こしてない)の諏訪原城の丸馬出講演会以来、
丸馬出ってこう使うのでは、というのが自分なりに捉えられて
きたように思うことも相まって、このタイミングに来たのがホントによかった。

ということで、じゃーん。丸馬出・三日月堀本体だけでなく、
その堀前の部分もかなりきれいに刈られているんです。

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こうしてみると、堀前の部分が土橋状に見えるほど、
極めて限られたスペースしかないことがわかり、
大手筋から進入しようとすると、長く急な斜面を登りきって、
丸馬出が見えた途端、攻め手は行き場を失うわけです・・・

別角度から。

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前後2列にながーく馬出前に並ぶのがやっと、
ここで馬出から射撃を食らって斜面に転がろうものなら、
後続の兵にもダメージが出てしまいます。

上り切った直後を想定して、少し斜面を下って丸馬出を。
もともとかなりの大きさがありますが、下がってみると、
その存在感がさらに増しますね。。。どどーん!

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測量図に線を加えてみました。

0127

赤い線に沿って急な斜面が展開されていて、
緑色の部分が土橋上に見えた、馬出前のわずかな平地。
ここに降り立ってしまうと、射撃され放題ですので、
左右の虎口を狙う青いルートを直接攻めることになりそう。

ただ、それでも狭まっていますからそう一度には攻めかかれない・・・
東側の斜面からも上ってくることは可能ですが、
いずれにせよ、虎口で渋滞せざるを得ませんね。

逆にどちらかの虎口から逆襲されようものなら、
押し倒された自軍の兵が転がり落ちた下敷きになって、
自滅していきそうな勢いの構造。。。

その斜面について。

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丸馬出下よりも、馬出土塁上から見た方が、
いいかもしれません。敵兵が上ってくるのが一目瞭然。
やもしたら、三日月堀前に上がる前に、
矢や鉄砲で一定数は撃退することができるかもしれません。

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そして、実際に斜面を降りてみました。割と降りれなくもなく
傾斜はキツイですが、上れなくはないです。

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ちょっと途中から大きな段差が。ここは当時からあったのかどうか。

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一番下まで降りるとこんな風に見えます。

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さて、再度上がってきまして、いよいよ丸馬出に侵入。
きれいに刈られていることで、丸馬出の虎口に
据えられた枡形が明瞭に確認できます(①)

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斜めのラインに土塁が見えるあたりの奥が
枡形状になっているんです。これを丸馬出土塁の西端
から撮るとこのような感じに見えます(②)

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その奥、三の丸内からこの枡形を見るとこんな様子(③)
こちらには青で進入経路、赤で土塁を囲っておきました。

Photo

測量図でみると、それぞれの番号の撮影位置はこうなります。

Ppp

おそらく①の土塁には往時は塀など遮蔽物があったと思われ、
実際には③の方角から狙われることになるのでしょう。

丸馬出土塁は今では、かなり削られているのか、
低くなってしまっていますけども・・・

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さて、反対側、東の土塁端から東の虎口をみてみましょう。

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こちらも土塁上から。(①)

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内側(大手枡形土塁上)からの眺め(②)

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こちらも測量図をどうぞ。

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さて・・・丸馬出下をちょっと探索。この地点から、
右(東)に行くと国道と交わるのですが、
逆の西方面へ。七里岩の先端に向かうことになるはず。

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うわ・・・むり。むりむりむり。

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この石積みは・・・後世のものか・・・?

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場所はこの辺り。もう絶壁具合がすごいですね。
こちらは防御考える必要性なさそう。

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ということで、丸馬出の位置とそこに到る傾斜と馬出前の
狭いスペースで撃退する絶妙な構造、両虎口前に
枡形を配備しつつ、最終防衛ラインにさらにもうひとつ
奥に枡形を配備、という徹底振りがわかりました。

ということなら、大手スルーしちゃえば?と思っちゃったんですよね。
だって強固だもん・・・ということでこれ。

大手方面に兵を進めた場合をまず考えますと・・・
あ、赤い点が丸馬出地点。赤く囲った五角形が新府城、
赤い丸はとなりの丸山という丘です。

Mumu

南から進軍してくると、青いエリアに軍が固まると思いますが、
大手丸馬出をスルーしてしまうと、丸山と城の間の道を
抜けて搦め手に回ることになります(①)。
現在の藤武神社参道階段は、もちろん当時はありません。

この道、現在は七里岩ラインとして車道が通っていますが、
けっこうな悪路なんですよね。車道の脇をみるとわかりますが、
湿地帯と小川が流れている間を進むことになり、
なおかつ、狭まっていて城と小高い丘に囲まれるという
非常に危険なルートなんです。

・・・となると、この丸山(どうも付城はなかったっぽい)にも
伏兵を置かれる可能性を考えると、大軍をこの一本道の悪路に
通すというのは、あまり得策ではないのだろうな、と思いました。
②の丸馬出を突破するしかない・・・

あとは、そもそも七里岩を降りずにそのまま新府城の背後に
迫るという手もあります。実際、諏訪方面から進むと、
七里岩と地続きですからね。

ただ、ここに立ちふさがるのが能見城。どこまでが武田のものか、
どこまでが天正壬午の乱のものか、意見は分かれるようですけれど、
何らかの防御施設はあったであろうと思われます。

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ま、いずれにしても、丸馬出という点に絞って考えると、
うまい具合に、丸馬出から攻め寄せざるをえない工夫がされていて、
しかも、丸馬出の逆襲機能をうまく引き出すよう、
地形をうまく使っているんだな・・・と思うわけですよ。

今回斜面のチカラを思い知ったこともあって、
丸馬出を使った城の最高峰のひとつ、と言えるんだろう、
とひとりナットクしていました。

最初に戻って、これ・・・もはや武田にあって、
築城の名手と言われた馬場信春はこの世にない
天正9年に築城が始まっているわけです。
これほどまでに見事に丸馬出を使いこなす
縄張りを誰が設計したのか・・・

従来まで、真田昌幸の縄張りとされていましたが、実は
根拠とされる文書が、西上野郡代として支配下にある地域に
勝頼の上意を受けて、昌幸が動員令を出しているに過ぎない、
ということで、この文書を根拠にした昌幸縄張り説は
現在では否定されています。

ということは???

解らないとしか言いようがないのですけども、
手がかりがあるとすれば、このような城の縄張を設計できるのは
武田軍がどのように戦争をするのかという、軍事機密を
熟知した重臣クラスでないとおそらく無理ではないでしょうか。

とすると、やはり真田昌幸、それに曾根昌世(後述)
あたりが絡んでいた可能性があるのかな、と想像します。
あるいは、馬場信春と姻戚関係にある加津野昌春、
つまり、真田信尹も絡んでいたという想像は、やりすぎでしょうか?

新府城と真田信尹の関係というと、隠岐殿遺跡が挙げられます。
確実に真田信尹の屋敷とはいえないまでも、
かなり蓋然性が高い、と最近言われていますよね。
それはすなわち、勝頼に近い存在だった証でもあります。
(御一門衆の多くは甲府から屋敷を移さなかった)

そして、真田信尹は後に会津に向かい、蒲生氏郷のもとに
仕官していることがわかっています。そして、もうひとり
会津に向かった武田遺臣こそ、曾根昌世。

彼は、蒲生氏郷からその縄張を任されたと新編会津風土記に
出てくるのだそう。真田信尹もその縄張りに関与した可能性、
特に義父、馬場信春からその術の一端でも学んでいたとしたら…?

真田の昌幸・信尹兄弟や昌幸・昌世の信玄公の両眼コンビが
新府城の築城に携わっていたら、と想像は膨らみますね。
いやいや楽しい、楽しい。

という気持ちを胸に、お宿へ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて~1/7 甲府~上田~

さて、翌日早速甲府に出仕(笑)です。

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武田神社、いつも必ず関西で正月を過ごすので、
三が日に来ることは適わないのですけれども
7日の時点でまだこの人だかり。

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甲陽武能殿では人日の節供と白馬節会。

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西曲輪の発掘現場。これは後日発掘現場を
見にまいりました。思わず、真田丸の昌幸みたいに、
『お、やっとるな』とか言ってしまうなど・・苦笑。

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相変わらずの堀の深さに驚嘆してる最中に、

 真田丸・昌幸
 『わしゃそんなもん知らんぞ!御屋形様の御屋敷に
  そんなもんあるはずがない!!』

…脳内昌幸ちょっと黙ってて!

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天守台みえねーかなーと背伸びをしてみたり、

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北虎口枡形や西曲輪南西端の整備の
すばらしさに改めて感動したり。
毎度見るポイントは、決まってきますねぇ。

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新たに行ったところ、というと峰本八幡神社。
これ、石和から信虎が遷した府中八幡社の跡地に、
宮前町へ移転したあとに、祀られた八幡さま。

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峰本自治会館の裏手の、会館の中にひっそりと佇む
小さなお社ですが、甲府城鎮守の八幡宮として
移転したあとも、この地にこだわって古府中村の村人が
八幡様をお祀りしているという事実が興味深くてですね。

ただ、明治になって相川小ができて、校舎の西側に遷り、
戦後すぐ、体育館の建設でまたその体育館の南側へ、
さらに昭和61年、体育館の老朽化のため、増改築がなされた際、
現地に遷ってきたそう。狭い中でもけっこう移転してるんです。

ということで、信玄公時代の府中八幡は相川小の敷地、
ということになりそうですね。

そのあとは、そのまま西に向かって真田源太左衛門尉の屋敷跡へ。
真田丸で出てきたおこうさん(清音院殿)も、
このあたりでお過ごしになったのでしょうねぇ。

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続いて、香坂弾正、真田一徳斎屋敷跡へ。

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P1260134

真田一徳斎屋敷、一徳斎が没し(1574年)、
真田源太左衛門尉が当主となって、長篠で討死(1575年)
して、昌幸が継承とめまぐるしく真田家当主変わる中で、
どのようにつかわれていたんでしょうかね・・・

武藤昌幸としては、武藤家の屋敷が本貫地にはあると思いますが、
甲府詰めの屋敷としては・・・どちらかの屋敷を
拝領していたのでしょうかね。昌幸が元服、初陣して以降、
どこにいたのかは、よくわからないですかね・・・

さて、躑躅ヶ崎。もともと躑躅ヶ崎とは、屋形の東に、
半島状に突き出た端部分を呼びます。

この名称をとって、武田の御屋敷を躑躅ヶ崎館と
呼称させたのは柳澤吉保だともいい、
武田家がいた当時からの呼称ではないんですよね。

P1260136

ちょっと先端が人工池造成で削られているようですが、
かなり屋敷に近いところまで伸びています。

藤井尚夫氏の躑躅が崎館鳥瞰図を見てみますと、これ自体は
徳川入府以降の想定図で、大手も丸馬出が破壊されて
石積になってるんですが、大手と躑躅ヶ崎の
位置関係はわかりやすいかなと思います。

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この大手の部分に丸馬出があったそうで、
その規模と現存する屋敷の土塁の規模を考えて、
おそらく勝頼期、甲斐防衛を意識せざるを得なくなった時期に、
増築されたのではと考えられています。

P1260140

P1260139

躑躅ヶ崎、少し手前までは行くことはできるので、
上ってみました。躑躅ヶ崎そのものは通行止めでしたが・・・

P1260141

躑躅ヶ崎からの屋形大手方面の眺め。
先ほどの鳥瞰図や丸馬出発掘の様子と合わせて脳内合成…

P1260144

あの先に、丸馬出があったとしたら・・・ある程度の広さと
背後から監視、強襲できる躑躅ヶ崎を押さえた点に大手を持ってくる。
左右の虎口から出撃撤退を繰り返して翻弄、
躑躅が崎に伏兵を置いて背後を奇襲とか容易に思い付きます。

家臣屋敷が立ち並ぶ開けた南側には虎口をつくらなかった
意図がちょっとわかった気がしました。

さて、翌日はぶらりと上田。ちょうどドラマ館入館
100万人達成直後、くらいだったでしょうかね(笑)

P1260171

P1260175

P1260186

終わり間際のドラマ館でしたが、秀吉、寧、茶々、
信繁の衣装が並んでる大坂城を模した居室、
釘隠が江戸城、名古屋城、二條城にそっくりで葵紋が
あって爆笑したりだとか・・・

ドラマで使われた上田城見取図を改めてよく見て、
鬼門の切り欠含め今の上田城跡と異なる縄張にちゃんと
してあるんだなぁ・・とか。感慨深く見てました。

大坂城への入城者一覧も、全部ちゃんと見たいよなぁ。
長宗我部土佐守盛親、織田左門頼長、
真田左衛門佐信繁、石川肥後守康勝、仙石豊前守秀範、
長岡与五郎興秋あたりまでは、確認できました。

千葉県で行われた真田丸の戦いのロケ、
堺信繁が上田市民扮する徳川軍に陣中見舞いしていて、
黒々とした徳川勢にただひとり赤備えの信繁が
記念写真撮ってて、これもかなりウケる・・・(笑)

最後に興味深いのが出演者の皆様のサイン。
草刈昌幸と吉田稲、カッチリした正統派の美しい字。
内野家康、わずかに崩しながらも、払いにクセがあるとこが
何とも味がある素敵で・・・

相変わらず黒木梅ちゃんの梅イラストかわゆすだし、
星野秀忠、真田め…(笑) って笑かしにかかってくるし・・・

近藤正信、印象に反したかわゆい字も印象的だし、
藤岡忠勝の奔放さに並ぶ小林全登のカオスサイン。
オフロスキーとか書いちゃてるよ!とか。楽しい。

あ、最後におこうさん。長野こう&吉田稲、
信幸の奥方様はどちらも素敵な字をしてらっしゃる。
信繁の奥方様は梅、春ともかわゆす系の字。
長澤きりはかわゆくもカッチリもしてる…これまた素敵。

字はある種の人柄、人となりを表すものといいますよね。
字を見ているだけで、いろいろ想像が広がります。

ということで、ドラマ館はこのくらいにして、
上田城と藩主屋敷をぶらぶら。
あ、もちろんこの武田菱スポットにも顔出しますよ(笑)

P1260190

城内の真田神社もなかなか盛況。

P1260195

P1260199

この切欠は数少ない真田昌幸時代の遺構・・・とあるけど、
あの天正年間の図面を見ると、違うんじゃ・・と思ってしまうね。

P1260200

こういう解説板があるから余計に。

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堀がかちんこちん。さすがに真冬に攻城戦しないだろうけど、
水堀はこうなったら、むしろ機能殺がれるよなぁ。

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でも、純粋に見て楽しむなら、真冬の凍ってる姿も素敵。

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信之が関が原後に上田に戻って政務を取った藩主屋敷跡。
こちらもかちんこちん。

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P1260225

P1260228

ということで、新年の甲府・上田はこんなところ。
といいつつ、翌々週に塩山で平山先生の講演聴きに来てたり、
さらに次の週は、積翠寺温泉要害さんのラストにきたり・・・
わりと山梨ばっかりです(苦笑)

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2017年・・・・もまた濃すぎて~1/6 日本の城ギャラリー~

さて、2016年が一向に片付かないのですが、
いよいよ2017年分もわりとたまってきた感が出てきて、
追い込まれております・・・ひぃ。

ということで、写真で振り返ることのできるイベントを
中心に振り返っていきたいと思います。
もう今年も4ヶ月以上経ったんですね・・・激動。

お気軽に振り返っておける部分を振り返っておきますか…
安居天神に出かけた正月の後は…

◆1/6 日本の城ギャラリー◆

ギリギリだったんですが、有楽町の東京国際フォーラムの
天守模型展示。まぁ、様子見程度のつもりでしたが、
なかなか精巧、かつ普段ちょっと模型で見ないような天守もあり。

その筆頭が高松城天守。南蛮造りと呼ばれている
現存する天守では類例のない一層目が膨らんだ天守。

P1260062

高松城天守は古写真があるので、確かに模型は
可能なんだろうとは思ってましたが、実際にあるとは…
よく見ると、天守台からもわりと張り出していますね?

P1260063

あと特徴とすると、火灯窓。破風も小さめで、
比翼千鳥破風になってる点がポイント高。

P1260065

なぜか現代の復元天守は、どおーーーんとした
破風がお好みであるようですが、どうもセンスが合わなくて。

P1260086

模型になってるのが珍しい、という意味だと、
新発田城御三階櫓。これも外観は見ることはできますが、
自衛隊の敷地内で、中に入れず悔しい思いのする御三階櫓。

P1260079

L字型の屋根と三つの鯱が特徴。海鼠壁もなかなか
デザインとして素敵ですね。金沢城もそう。

P1260077

もうひとつ珍しいのが萩城天守。こちらも古写真等あって、
外観はわりとハッキリしていますが、模型はお初。
ちょっと破風でかいってのはありますが、割と構造としては、
輝元自身が手がけた広島城天守にも似ていますね。

P1260059

一層目がでっぱってるのは熊本城天守みたいで、
少しでも大きくしたかったのか、一重目から二重目で
イキナリ逓減という点に歪さを感じます。

通例は、一層二層はほぼ逓減なく、二層から三層にかけて逓減。
というやり方なんだそうで、熊本城の場合は
創建時に寸法の急変があったのではないか、と三浦正幸先生が
お話になっていたのを思い出し、萩城天守もそのような、
何か突発的な事件があったのでは・・・と推測したくさせます。

ちなみに大垣城、松本城を見てみると、
この原則がよくわかります。

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また、望楼型であっても、白漆喰仕上げ。
時代の変遷によるものか、広島城の下見板とは
その点は違っていますね。時代の流行か・・・?

P1260057

内部構造がよくわからないので、なかなか実際の
復元は難しいだろうと思いますが、何か史料が出てきてくれればな。

P1260061

あと、わかる人には響く。。というのが名古屋城。
そう、これ慶長期の創建当時の外観なのですよ!
最上層のみが銅瓦葺、二層目以降は本瓦葺というもの。

P1260071

破風も黒漆で塗られた、日光東照宮や江戸城天守の
原型を思わせるような豪華なつくりになっています。

P1260072

ただ、この本瓦の重みもあって北西側に石垣が
沈み込んでしまったのですよね・・・ということで、
江戸時代後期、宝暦年間に石垣の修理がされた際、
比較的軽い銅瓦葺にすべて替えられたのでした。

P1260074

その他、熊本城、岡山城、鶴ヶ城など、
わりと個人的に好みが多めでうれしい限りでありました。

P1260056

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P1260084

P1260080

最後に江戸城天守。賛否両論はありますが、
基本的には(しっかりした発掘調査等要検証ですが)
賛成派でありまして、じっくり時間をかけて再建できればと思っています。

P1260091

P1260092

こちらはある程度時間がたったときの姿の想定で、
屋根が名古屋城の如く、全体的に緑青の銅瓦になってますが、
創建当時は、黒チャンという塗料で黒く塗られ、
それこそ岡山城のような、真っ黒の天守だったとか・・好み・・・

P1260093

でか、ちょっと南面の破風はデカイかな?
破風と破風の間が詰め詰め・・・(苦笑)

P1260094

本丸の全体模型も。江戸城しか撮れてないけど・・・

P1260095

P1260096

ものの30分程度しか居れなかったんですが、
けっこう需要あると思うので、また開催してほしいですねぇ。

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一日遅れもまた、思い出と思って。

昨日の夜、まさに日付が変わろうとする頃。
不満やるかたないまま、追いきれないTwitterのタイムラインを
リストの一つ一つを手繰って、それでも追いきれず、
眠気が強まってきたそのとき。

しまったぁぁぁぁぁぁ

大事な人の思い出記事を書いていないではないか・・・・
あぁ、なんたること・・・・でるふぃさん許して・・・

そんな思いで昨日眠りにつきました。

さて。

お初の方も多いので、改めて解説しておきますと、
今から20年前。インターネットのまだごく初期とも行っていい頃、
パソコン通信を知らないわたしが最初にネットで
人とのつながりができた頃、印象深いお姉さんがいましてね。

毎年、その方の誕生日に思い返しているのです。
・・・それがすっかり忘れてしまったなどとは!

ある意味、供養でもあり、自分の原点を振り返る契機でもあり・・・・

でも、相談したいと思ってももう居ないのだ。

47歳と40歳か・・・もう似たようなものかもしれないけど、
20歳のわたしには27歳のねえさんがまぶしかったな。

10年も経っていくと、自分でも記憶が変容していくのがわかります。
美化なのかなんなのか、繰り返し繰り返し思い出すことで
記憶が強化されていくって、こういうことなんでしょう。

そして、彼女のことはもはや伝説になりつつあります。
思いが深い人のことがそれぞれの人の中で、伝説になる。

ひょっとしたら、武田家の全盛時代を過ごした遺臣たちや、
甲斐の民の中に、武田家のこと、信玄公のこと、勝頼公のことが
伝説化していくのも似たような各人のプロセスが響きあって、
大きな集合体となっていくのかもしれないな、とふと。

いつまでもいつまでも残るWebサイト
無料だったからこそ、でもある意味いつ閉じられても不思議じゃないけど、
まだ残っているんですよね。なんだろうな、墓標というか、
史跡というか、なんかそんな不思議な感じを毎年しています。

読み物いろいろから、ねえさんの人となりがわかると思うんですけど、
こういう残ったものから再構成して、その人となりを感じるのって、
まさに歴史上の人物の接し方と同じなんですよね。
そして、今との断絶や時代感。

そしてもちろんリアルでも知っている・・・と言っても、
実は会ったことがなくて、ホントに近くて遠いのです。
そりゃぁTwitterやってる今でもそんな方はいっぱいいるけど、
絶対的な人数がやっぱり違うから、記憶の密度が濃いような・・・

そうそう、ねえさん(笑)だけじゃなくて、(爆笑)って
よくつかうんだよな。わりと少ないんじゃないか?
とか、さっと文章読んで気づいてなつかしめるのです。

> 文字で伝わる感情が確かにある。
> 文字でしか伝わらない感情が、確かにある。

ほんとそうよね。ライターでもなんでもなくて、
それでも文字を書くこと、文章で、ことばで伝えることを
なにより大事にしていたねえさんらしい。

・・・なんだか、本当に墓参りにしているような気分になってきたぞ。
いろんな岐路に立ったとき、何度相談したいと思ったことか。
そして何より、今が一番そのときだ。

嗚呼、生きていてくれたら・・・・でも。

忘れてくれないならせめて悲しまないで

残された人を縛ってしまうなら、忘れてほしい、
それができないなら、せめて悲しまないでほしい。
10年を過ぎて、ようやくその心境に少し近づけた気がします。

ありがとう。また来ますね。
来年は遅刻しないように、心を落ち着けられるようにするね。

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上司・・・・とは。

明日から、「上司」といわれる立場になります。

自分の関心の移ろいや業界の動向の行く末、
10年以上希望を叶えられぬまま、
あちらこちらをウロウロしながら、
がんばれるだけがんばってしまったのに、
何も聞き入れてもらえなかったことを踏まえると、
これまでのようなモチベーションを維持することが難しい。

いろんな経験が約束の地へとつながっているはず、と信じて
その場その場でやる気をつくりだしてきたものですが、
いい加減、業界を取り巻く状況も変わり、
自分が何をやっているのか、
誇りを持って語れなくなっていました。

その意味では、過去の自分には合わす顔もないほど、
申し訳ない気持ちになります。
もはや、当時に希望を記したメモなどには
向き合う勇気すらありません。

・・・そういう気持ちを確認し、もはやわずかな権限を得たとして、
自分の目指したい未来につながっている
感覚がもてない、そう判断しその立場は辞退しようとしたのですが、
その選択肢はありませんでした。

これまでなぜ高いモチベーションで仕事ができていたのか、
そのモチベーションの源泉はどこにあるのかには、
どうも興味がないようです。あたかも涸れることのない油田のように、
どうもわたしのモチベーションは無限に出てくるようです。

さっさと辞めてしまえば、というのもあったと思います。
これが社会人になったときのモチベーションの
源泉の据え方を間違ったと思うところです。
簡単に言ってしまえばつぶしが利かない。
そういう持ち方をしてしまったのです。

いわゆる就活前の「自己分析」ですね。何が分析なものか・・・・
そういう特定の何かをモチベーションの源泉に
することは、次へとなったときに何を基準に仕事をすれば
いいのかわからなくなるのです。そして、今のまま居つくしかなくなる・・・
違った角度の経験を得ていると誤魔化しながら。

昨日までやる気になっていたことが、明日もまたやる気で取り組める。
いつの時代の話でしょうか。過去の延長線上に現在がなく、
現在の延長線上ともまた違うどこかに
未来がつながっている今、どうしてわたしが人を率いるべしという
判断になるのか理解できません。

明日朝から部下という立場になる年上の皆さんと
どううまくやっていくのか、家族に関しても問題が起こっているなかで、
自分に何ができるのか非常なる不安しかありません。
なまじできるはずという無用の期待があるだけに、
ものすごく重圧感が増してきます。

とはいえ、上司部下の関係で仕事をすることに
なってしまった皆様に、どういうことができるのか。
せめてその皆様に迷惑は最低限かけないようにはしたいと思います。

その人その人のこれまでの歴史、
できること、やりたいこと、何を大切にしているのか、
どうなりたくて、どうなりたくないのか。

そんなことぐらいは的確に把握して、わたしとは違って、
望むように進んでいってほしいなと思います。

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去年の今頃はシリーズ(8-2) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一

さて、後半です。

◆武田四天王について◆
<なぜあの人選?>
武田四天王にしても、二十四将にしても、
後世の人たちが言い始めたものではありますけれども・・・

まずは、諱の話から。武田好きにはもはや当たり前の感はありますが、

馬場信房 → 信春
山県昌景 → ○
内藤昌豊 → 昌秀
高坂昌信 → 春日(香坂)虎綱

ですよね。

ちなみに春日虎綱が養子入りした香坂家とは
元は佐久の国衆、転じて筑摩郡牧ノ島に居を構えました。
現在は、牧ノ島城跡になっています。

ちなみに、「高坂」とあるのは上杉景勝から
北条景広への書状で、当て字として「高坂」とされている
と思われる、ということだそうです。

まぁ、四天王も二十四将も人気投票だったんだ
というのが実際のところなんでしょうね。
その中でもTOP4がこの四名だったんでしょうかね。

石川数正が豊臣方に出奔して後、信玄・勝頼時代の
軍制に関わる資料を提出させて、武田流の編成に
したことなどもあって、甲陽軍鑑が江戸時代通じて刊行が
ずっと認められてきて、ベストセラーになります。

そこで、いろんな人がカタチあるものとして見たいと
絵師に注文をつけ、誰々は入れてほしい・・・のなかで、
必ず登場するのがこの4人、というところから呼ばれたのでしょうね。

<四天王の地位>

さて、この四人、そういった後世の人気投票で
決まったのだとすると、当時の地位・職位とは
まったく関係ないわけです。ふむ。

地位が最も高いのが、山県昌景で
それに次ぐのが内藤昌秀。そして春日虎綱、
最後にくるのが、馬場信春。

譜代家老衆の家であるのは、山県家。
実は(武田家もそうですが)この時代の武田の嫡流は
安芸、継いで若狭だったそうです。

もともと甲斐源氏とはいいながらも、南北朝時代に
武田信武の子の信成と氏信(信頼)がいて、
信成が甲斐を、氏信が安芸を継承しているんですが、
氏信が嫡流というのが、最近の考え方のよう。

このとき以来の譜代に山県氏があり、安芸だけでなく、
若狭、甲斐と山県氏が譜代にいるんですね。
ただ、このときには甲斐山県氏は断絶していて、
その名跡を飯富昌景が継ぐことで、この四人で一番の家格
に位置することになるわけですね。ほうほう。

石和の百姓の子といわれる虎綱。信玄公に非常に目をかけられ、
どんどんと出世していくのですが、やはり当初の地位が低かった
というのは事実。それは、諱に秘密があるそうです。

「信」 … 武田家の通り字、家臣のうち嫡男に与えられる
「昌」 … 武田信昌の「昌」の字、次男以降に与えられる
「虎」 … 武田信虎の「虎」の字、地位のより低い家臣に与えられる

というルールがどうもあったらしいんですね。ということで、
当初(元服時点で)どういう立場だったかというのがわかります。

しかし、そこからこの四人がどういう出世ルートを辿ったかで、
見えてくることもあります。

武田家中のエリートコースといわれるのは、
小姓→近習→御使番→奉行→侍大将→城代・・・
と続いていくわけで、昌景、虎綱、
それに真田昌幸もこのルートで出世をしています。

昌景は江尻城代から駿河郡司、虎綱は海津城代から川中島郡司、
昌幸も西上野郡代になっています。が、信春の場合は
いきなり侍大将に抜擢、牧ノ島城代にまでなっています。

内藤昌秀はちょっと変則的で、小姓・近習時代は確認できない
そうなのですが、奉行からスタートして・・・後は同じ。
最終的には、箕輪城代から西上野郡司になっていますね。

このエリートコースを辿るには、文武両道、正確に言うと、
武勇に秀でるだけでなく、官僚としての能力と経験が求められます。

そこで実績を積んでいくことで、郡代という行政・警察権をもつ存在へと
出世をしていくわけですけれども、信春の場合、
その軍事指揮を買われて侍大将にはなっていますが、
行政経験がありません。したがって、城代止まりなんですよね。
ただ、信春は特定の部門(軍事のスペシャリスト)として、
活躍するタイプの人材だったのでしょう。

身分としてはやや低いわけですが、会社でも
そういうスペシャリストで生きる人もいれば、
エリートコースで出世していく人もいますよね。うんうん。

◆戦国時代の甲斐の経済について◆

朝鮮出兵の話。朝鮮から陶工を連行してきた
のは有名な話ですが、学者も朝鮮から連行してるんですって。
その学者のひとりが、甲斐について記述を残しているそうです。

曰く、田より畑が多く、馬の産地。中の下程度。
ということで、そこまで最貧国とまでは行かなくても、
それでもあまり豊かではなかった、ということになりましょう。

朝鮮出兵後、ということを考えると、武田家が滅びて
20年ほど経った後。ということは、信玄公が家督を継いだ頃は
もっと貧しくて、その中で豊かにしてきてようやく・・なんでしょうね。

甲斐では、吉田を除き二毛作が普及。山林資源が豊富。
これに関する史料も多いそうです。
水害の多いのは、周知の通りではありますね。

「甲陽軍鑑」には、別の観点で甲斐が豊かだった、
と記しているようです・・・それは、敵に
甲斐の地を踏ませなかったから。略奪されないわけです。

そして、どの軍もやっていた(黙認されていた)乱捕りで、
あらゆる動産を分捕ってくるわけですよね。そうして領国が豊か・・・と。
それは生産性を上げるという、長い目で見て成果が上がる
なんて、そんな悠長なことばかりではいかんわけですな。

戦国時代とは、気候不順と飢饉と災害が頻発し、
食うための戦の時代だったという側面があるのだそうですね。

ちょうど大きなタイムスパンで考えると、室町から氷河が発達し、
戦国の終わりごろから、暖かくなり始めて海面が上昇する、
という時期でもあって、これが寒冷期であったんですね。

それによって、作物が取れにくくなるでしょうし、
そんな中で台風がよく来襲したりもしたわけで・・・大変。

領国内生産性を上げながらも、その一方でなりふり構わず
略奪させて兵が豊かになり、さらに他国を侵略して領国を広げる。
そのためには、他国とあるときは手を結び、あるときは手を切り・・・

現代的な感覚で、見誤りますよね。
これが常態化しているということが、「戦国」という、
不安定な時代とも言え、その環境下にあって、
甲斐を豊かにするという自負があったのかもしれません。
そのためには、敵は利用するものだと・・・・そんなように
思いました。まぁ、かなり好意的に解釈して、ですけど(笑)

◆文書の解読◆

元は女性の名前はなかなかわからない、
そして女性の文書(北条夫人願文)の鑑定も、
比較対象が少ないので困難、という話だったんですけれども。

一方で、信玄公や勝頼さんだったらね・・・というところから。
本人はほぼ書状は書かず、花押のみというのがほとんど、
あとは右筆というのは、歴史好きなら知ってることかもしれません。

鑑定するとき、年号が特定できていれば、
その前後の証明済の文書と徹底的に比較して、
その筆跡から、どれか同じもの、つまり右筆の誰かと筆跡が
一致するはずではないか?という比較の仕方をするんですね。

本人書状の場合は、本人のクセ字を押さえておく
というのがポイントになるそう。信玄公の場合は「入」「事」。
後に武田二十四将展を見ると、確かにクセあるなーと思ってました(笑)

あとは墨継ぎね(笑)筆跡を真似ようとしても、
なかなかこれがマネのできない落とし穴。

普通だったら文章のキリのいいところで、
自然と次の文章を考えて筆が止まって墨継ぎするわけですが、
偽物つくってると、筆跡真似るのに精一杯。
墨継ぎが、文章の切れ目と合ってこなくなるんですってね。
信玄公の場合は、けち臭いんでしたよね(笑)
それはまた追って・・・

ということで、ここから怒涛の武田講座の2016年・3月4月5月が
始まったのでした・・・・つづく。

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去年の今頃はシリーズ(8-1) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一

さて、昨年のお話にビューンと戻ります(笑)
昨年の今頃は、初めての恵林寺講座でした。

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品第一、ということで法華経や甲陽軍鑑なども
章構成をこのような表現していますよね。

『今後平山先生には迷惑なんですが、
ずーっと生きてる限りやっていただきたく』

『平山先生、今の拍手聞きました?』

小野正文・信玄公宝物館長のブッコミ具合に苦笑。
というのも、山梨県埋蔵文化財センター時代の、
平山先生の元上司であられるそうで…ナルホド(笑)

平山先生がアタマが上がらない小野館長との
やりとりおもしろかった・・・

って、本題。このような恵林寺の中で、
講座をやっていただけるのは素敵ですよね・・・・

P1170959

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今回は、事前に参加者から質問を集め、
その中からピックアップして、平山先生が話を広げてくださる、
という新しいスタイルでした。講師側としては、シンドイだろうな…

◆信玄公の若い頃の話◆

信玄公の生まれた頃や若い頃の話、というのは
一次史料では「高白斎記」に出てくるようで、
蟇目役(ひきめやく)の話から始まりました。

蟇目役、とは貴人の出産や病気のときに、
邪気をはらうために蟇目を射る役

とあります。

このお役目、曾根三河守という重臣が仰せつかったそう。
当時は曾根三河守昌長。後代信玄期の偏諱ではなくって、
まさしく武田刑部大輔信昌の「昌」ですね。

曾根氏は、甲府の南、曽根丘陵のあたりを領した一族。
一説に、昌長は武田信重の曾孫ともいい、
書状では、姓を省いて単に「三河守」と記され、
武田の名乗りと待遇を許されていたようです。

そして縄長、虎長・・・と宗家当主の偏諱が続き、
虎長の子が勝長、すなわち内匠助、のち下野守昌世。
後に信玄公にわが目と称されたもうひとりですね。

同じく、「下」曾根家も姓を省かれるようなので、
武田一族待遇だったのでしょう。
乳母は不明、守り役は板垣駿河ですね。
でも、甲陽軍鑑を見る限り、という状況推測に過ぎず、
甲陽軍鑑に明示的に「守り役」とは書いてないんですって!
最初に「守り役」と記したのは、実は「甲斐国志」。

エピソードは甲陽軍鑑でしかわからないのですが、
駿河から届いた貝を数えさせ、過大評価
しちゃいがちと勝千代君の話や、ウツケを演じた話など。

そのウツケが晴信の作為によるもの、と見抜いたのは
わずか四人だったと伝わります。

板垣駿河、甘利備前、小山田備中、飯富兵部。
板垣、甘利、飯富はよく知られていますが、
小山田備中はイマイチ?かもしれません。

後に、小県~川中島戦線の責任者として、
真田弾正らを率いて活躍する小山田備中守虎満。
信玄からの全面的な信頼を受けているのも、
この頃からの信頼があったのでしょうか。

さて、勝千代、太郎、晴信は、慎重かつ冷静沈着。
こうした子供時代の性格は、天下に聞こえる大大名に
躍進してからも、変わらずにいたような気はしますね。

そんな幼き太郎がいかなる教育を受けたのか?
ということについて、直接的に解る史料はないのだそうですが、
信繁家訓九十九箇条に、ものすごい中国古典から
その論拠・典拠を示していることが知られていて、
現代に伝わらない古典からも、典籍からも幅広い引用。

信繁ですらそうなのですから、況や信玄をやであります。
信玄公のご兄弟だけでなく、武田家の一族、
特に信玄公母方の大井氏は、文化人を輩出しており、
甲斐国守護の家として、高い文化水準の教育を
受ける環境があり、信玄公ご本人の漢籍への興味関心も
あいまって、ものすごく吸収され消化されていったんでしょう。

ここからはわたしの推測ですが、信虎自身は14歳で
家督を継いで戦いに明け暮れる半生でしたが、
京との関係を非常に重視してましたから、
守護家たる武田家の教育とは、どうあるべきか関心が
あったのでしょうか。

性格面では反りが合わなかったであろう太郎ですが、
本人にその素養があるかはさておき、結果的に
その教育への関心が、後の武田信玄をつくった…のかも。

こう考えると、義信・勝頼両氏のことへ関心が向いてしまいます。
おそらく信玄公のことですから、義信さんへの教育は
手厚くされたんでしょうと想像できることと、
早くから諏訪家入りが決まっていた勝頼さんが、
そのような中国や日本の歴史から、大将かくあるべき…
ということを学ぶ機会がなかったのかもしれません。

ホントに遠い遠い遠すぎる遠因かもしれませんが、
勝頼さんのそういう教育環境も後の結果に
つながったのかな・・・などと想像。
確か勝頼さんも和歌の会は催していたように思いますが…

さて、話を戻します。信玄公の受けた教育、
という観点には、臨済宗との関係は切っても切れません。
臨済宗は当時の天下の教養人を相当輩出。

信玄公のバックボーンには、そんな臨済宗の思想が
深く刻まれているわけですね。

「信玄」という法名もまた、師であった岐秀元伯から、
臨済宗にあって高名な関山慧玄の関山派の高僧、
関山慧玄の「玄」の字を頂いたわけで。

ここから信玄公のバランス感覚の話に進みます。

余談ですが、このバランス感覚、ひいては、
物事の全体を見て、局所的に重きを置かないというのは、
わたしも非常に大事にしていることだったりします。

その一端として、一向宗の保護が話に上がりました。
隣国である北条、上杉では浄土真宗を堅く禁じましたが、
信玄公は領国に宗徒を迎え入れ、保護しました。

実はこの保護が遠い先、武田家の命脈が保たれる重要な鍵に
なるとは、信玄公も思ってもみなかったでしょう。
信玄公が保護し、一向宗の寺長延寺(現光沢寺)を開いた
実了師慶は、次男武田竜宝の子を弟子にしています。

そして、武田滅亡の折、この実了が信濃飯山に
弟子にしていた武田竜宝の子、すなわち還俗して
武田信道を匿って、命脈を保つことになるのです・・・・

すべての宗派を受け入れ、保護し、自由な布教を許した
信玄公ですが、法論だけは堅く禁じました。

法論とは、仏教各派の教義の解釈についての議論のことなんですが、
往々にして、各宗派の主張の押し付けと相手の主張を無視し、
相手を論破するだけでなく、法論に破れた者に改宗を迫るというような、
揉め事の原因となることが多かったようです。

これ・・・領国内の秩序が乱れる原因になるわけですね。
法論とは僧同士の決闘のみならず、各派につく信者も巻き込んだ
争いになるわけでして・・・互いの宗派は
おのおの互いを尊重すべし、これが信玄公の考え方です。

この禁を破ったのが、あの鬼美濃こと原美濃守虎胤。
日蓮宗信者なんですが、法論に首をつっこんで、
北条に追放されていました(後に呼び戻されて帰参)

ここからわかることとして、信玄公が仏教をどう捉えていたか、
の一端がわかるとともに、信玄公の基本的な考え方が
現れているようにも思います。

◆信玄公の肖像画の話◆

まぁ、よく知られた話ではあります。
いわゆる成慶院の伝・武田信玄像が畠山義続と思われること、
真像といえば、持明院蔵や浄真寺蔵の吉良義康像
ではないの?ってことですよね。

信玄公じゃないのでは、というのは20年前くらいから
言われているそうですね。でも、成慶院蔵がなぜ違うのか???
について、しっかりと振り返ってみるのもよさそうです。

(1) 家紋の違い … 花菱ではなく二引両紋
通常の人物像とは違い、烏帽子を被らず、
素襖で寛いだ格好ですが、素襖には家紋が一切ない
刀と脇差の柄の部分に二引両紋が・・・

(2) 等伯の落款

長谷川等伯の落款があるので、彼の筆によるのは確かなのですが、
彼が故郷の七尾にいた頃のものであって、信玄公が亡くなる
少し前、信玄公の西上作戦があった、元亀三年(1572年)に上洛。
ということは、元亀三年以前でないと辻褄が合いませんね。

一方、この伝・武田信玄像を見ると、髷があるのがわかります。
ということは、描かれた人物は出家していないことになってしまいます。
信玄公が出家したのは、第四次川中島合戦の少し前の
永禄元年(1558年)。永禄年間の初期・・・だと、
長谷川等伯の事実と矛盾してしまいます。

また、信玄公が出家した時期とその年齢を考えると、
ちょっと描かれる人物が老けて見えるというのも気になる点。

これらを総合すると、信玄公ではなくって、二引両紋を使える身分で、
等伯がいた元亀三年以前に能登七尾に居る人物・・・
ということで、畠山義続ということになるわけです。

さて、武田家の遺品が納められた、高野山成慶院・持明院。
勝頼が自分とともに武田家の遺品が滅びるのは
惜しいと甲州慈眼寺の尊長に託し、それらが高野聖の手によって、
高野山に伝わることになるわけですけれども。

現在、高野山成慶院には、ここで信玄像ではないとされた
伝・武田信玄像のほか、勝頼・信勝・北条夫人三人の像、
持明院には、信玄公が若い頃、出家前の、
武田晴信寿像が伝わっています。

高野山の記録には、他にも信玄公寿像があったとされていますが、
実はこの寿像、現代には伝わっていません。

信玄公の本葬は、武田氏館で長篠合戦の翌年、
天正四年(1576年)に執り行われた後、
信玄公の遺品を勝頼さんが高野山に送ったことがわかっています。

この中に信玄公寿像(=生前描かれた像)が含まれていた
というわけですね。つまり、勝頼らの三人の像や晴信画像が
高野山に伝わったのとは、別の経緯で高野山に伝わったわけです。
描いたのは、武田逍遙軒信綱。

この模本と思われる像が四点あります。

(1) 山梨県立博物館蔵
(2) 浄真寺蔵
(3) 東京大学史料編纂所模写
(4) 個人蔵(長浜市長浜城歴史博物館寄託)

このうち(4)は当日紹介されていなかったのですが、
少し前に東京で行われていた、そして現在京都で行われている
戦国時代展で展示されていて、おそらく(3)と同一なのでは
という気がしますが、寛政年間の写しだそうです。

以下、Wikipediaリンクと戦国時代展図録から転載。

(1) 山梨県立博物館蔵

(2) 浄真寺蔵

(4) 個人蔵(長浜市長浜城歴史博物館寄託)

170122_1518_002

おそらく髷があることから、出家直前の三十代前半くらいでは
ということですね。山梨県立博物館蔵、
浄真寺蔵については、写された時期は判明していませんが、
浄真寺蔵はかなり古い段階で、原本に近いとされているようです。

しかし、個人的には、東京大学史料編纂所模写の個人蔵の
信玄公像が一番丁寧な仕事をしている気がしていて、
その信玄公の甲冑姿を一番よく伝えているのではないか、と思います。

というのも、晴信画像を見る限り割と面長であるように思え、
浄真寺蔵では頭が丸く描かれているのに違和感がありましてね。

そもそも頭の形はそう変わらないでしょうが、年代比定も
出家直前と考えるならば、晴信画像が描かれてから、
10年は経っていないくらいなわけで、ちょっと晴信画像とは
異質な気がするんですよね。。。というわけで、
個人的には、(3)(4)推しです、はい(笑)

◆武田家中の酔っ払い・穴山蟠龍斎◆

さて、続いて食べ物・飲み物の話。残念ながら、
信玄公には、食べ物や飲み物のエピソードはないらしく、
どういう好みだったかはよくわからないようなのです。

その代わりっちゃなんですが、酔っ払いエピのあるのが、
穴山伊豆守信友、号して蟠龍斎。

・・・と言ってもなかなかわかりませんが、息子が信君(梅雪)
というとあぁ、とわかる人も多いでしょう。梅雪の父ちゃん。

村上との和睦交渉でも、酒飲んでおじゃんにしてしまい
晴信公曰く「いつものことだけどしょうがない」・・・

しかも、冷泉家への信玄公からの歌の会のお誘いには、
先般の非礼をお詫びしたいと穴山が言っているとし、
今、禁酒をしているともあるそうです。相当やっちゃったんだな・・・

これを聴いてから、わたしもこれから酒の席で失敗して、
蟠龍斎と呼ばれないように、気をつけたいと思います(笑)

◆信玄公の後継策と勝頼評◆

これは気になる、信玄公が後継者育成をどう考えていたかって質問。
また、勝頼さんの評価について。

まずご指摘されたのは、隠居をしないことによる権力移譲・分掌をし、
スムーズに移行することができなかった。。。

壮年期にあって、隠居せずに死ぬまで当主の座にいたのは、
信玄公と謙信公。そして、両者とも権力移譲に
失敗しているわけですね。

義信事件も最も直接的な原因は、対今川家の考え方の相違
ということなんでしょうが、信玄公がなかなか義信さんに
家督を譲らなかったこと、そして勝頼さんが高遠諏訪家を相続し、
しっかり領国経営をやってたとしたら、自分は何も任されず・・・
という焦りや不満があった、とするのは自然なことだと思いますね。

北条、今川、織田、それぞれの例を見ても、やはりきちんと
隠居していて、特に北条の世代交代のスムーズさは
特筆すべきものがあります。

ではなぜ、家督を譲らなかったのか。遠因として内紛続きの
武田家にあってなかなか踏ん切りがつかないのもあるかもですが…

鶏と卵の関係になっちゃいますが、今川家問題で意見を異にし
この状態では家督は譲れないという状況、あるいは、
もっと根本的に、当主としてあるべき心構えがなっていない、
というように、信玄公が義信さんを見ていた可能性もあるかな、
と個人的には感じているところがあります。

義信事件の前に、今川家にべったりで困っているというような
心情を信玄公は吐露していますが、後に本格的に
今川家を追い落とす際に、信玄公は氏真がいかに当主不適格か
をあげつらっている文書があったかと思います。

もちろん、武田が駿河を領有する正当性を主張する目的が
強いとは思われますが、氏真もまた信玄公からすると、
あるべき当主・大将像に適わぬ人物である認識があったような感じ。

つまり、信玄公が当主としてかくあるべしという理想像が強すぎた
という側面もあるように思います。まずは家督を譲ったうえで、
方向付けをするということもできたかもしれないのに。。。

実際、信玄公自身が当主のあるべき像をすごい意識していて、
そうなるように修養を重ねようとお考えだった節は、
すごく感じていますので・・・個人的には理想が強すぎた、
という点も問題点だったのではないか、と思っています。

さて、勝頼さん。もちろん勝頼さんだって、同じように
なかなか家督を譲ってくれない問題に直面します。
重臣が列する軍議にも参加できていないですし・・・

信玄公は勝頼さんを「おっちょこちょいだ」と評しています。
例の蒲原城を落とした際の書状なのですけども、
一軍の大将が前線に出て行って、戦いに出てしまって、
しかもそれを「例式」としていて、それでも自慢げに語ってる。

それは、大将としてというよりは、一部将としての活躍、
と捉えた上でのことのようにも思えます。

そうそう、勝頼さんが高遠から甲府に呼び戻されたのは、
元亀に入ってから、ということは1570年。
義信さんが没して3年後。そして、そのさらに3年後に
信玄公は亡くなるわけです。

それまで長く諏訪勝頼として、高遠を治め、
突如甲府に呼び戻されて「武田」勝頼となって、
わずか3年の時間しか残されていなかったのですね・・・

自身の死期について、予想し得なかったのかもしれませんが、
もしそうだとしても、また勝頼さんを公式的に後嗣と
言いにくい事情があったにせよ、リスクヘッジが甘いとは
言わざるを得ないでしょう・・とは思います。

◆信玄公の死因とご遺骨について◆

これも長らく語られてきたことですが、結核説というのが
あったかと思います。この根拠は、御宿監物友綱の
小山田信茂宛書状によるもの。

御宿監物は、葛山氏元の甥で氏元養子となった
信玄公六男・信貞の後見を務めた人物。
医者でもあり、信玄公の治療にも当たったとされます。

そこには、「肺肝」をその死の原因としています。
この「肺肝」を結核と解釈したのが、結核説。
しかし、これは内臓の病の総称。

しかも、御宿監物文書は偽文書だということらしく、
これを根拠に信玄公の死を語ることができなくなる・・・
となると、甲陽軍鑑しか手がかりがありません。

甲陽軍鑑には、「膈」とされていて、その病に冒された
様子が記述されています。曰く、心身くたびれ果てていて、
神経をすり減らしていた、よくなったり悪くなったりを繰り返す、
亡くなる直前は、口臭がひどく歯が抜けたと・・・

これをとある番組の一環で、医学史に詳しい
順天堂大学名誉教授、酒井シヅ博士に鑑定を依頼したそう。
そうすると・・・ストレス性食道がん、もしくは胃がんとのこと。

口臭が内臓が冒され腐敗臭がし、歯槽膿漏で歯にできものが
できたのではないか、ということなんだそうです。

信玄公が人を育て、その才覚を見抜くということは、
それだけ我慢強く、気を遣いすぎる人でもありました。

さらに信玄公が置かれた環境は、ある種自分で招いたところも
ありはしますが、義信との対立と死に追いやってしまったこと、
北条を敵に回して窮地に立たされたこと、
織田との全面対決に突入していくこと・・・ストレスの連続。

ご遺骨ですが、おそらく長岳寺から遺骨が出てきた?
というのは伝承であり、しばらく甕に入れられて保存された後、
甲府で荼毘に付されたのは、天正玄公仏事法語からも確実。

で、まだ蓋然性があるとされていたのは、龍雲寺の遺骨。
北高全祝は信玄公はもとより、信虎の葬儀にも参列していて、
後でわかった(武田二十四将展)ことですが、
逍遙軒信綱の逆修供養(生前供養)も行っていますし、
真田昌幸は信綱寺に信玄公廟を造るにあたって、
佐久龍雲寺領を信綱寺に寄進するといっています。

信濃のお寺ではあるのですが、何かと武田家の
仏事には深く関わっているんですよね。

龍雲寺には北高禅師が信玄公を荼毘に付して
埋葬したという内容の記録もあるそう
ですが、
さすがにそれは、天正玄公仏事法語から否定されるとしても、
参列した北高禅師が分骨された遺骨を持ち帰り、
龍雲寺に埋葬したというのは、十分にありえることではあります。

DNA鑑定でもすればいいんでしょうが、何を以って
信玄公のご遺骨かを判定・照合すればいいかがないわけで・・・
恵林寺には埋葬されたのでしょうが、百回忌の際に建てたれた
現在ある信玄公墓より以前、どうなっていたかまるでわからず。

織田の兵が墓を暴いていても、おかしくはないわけですよね・・・
ただ、墓石のみを倒して破壊しただけという可能性もあり、
そこのところは闇に包まれたまま、ということでしょうか。

ということで、前半終了です。盛りだくさん過ぎる・・・(笑)

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講演:第86期「歴史文化教室」 武田勝頼の滅亡と景徳院 … 景徳院 武田勝頼・信勝・北条夫人供養塔の研究成果

景徳院といえば、武田勝頼の墓(供養塔)があり、
家康が勝頼の菩提を弔うよう、建てさせた寺院。
勝頼が自刃したとその命日に、景徳院についての講演を
聴いてまいりました。

勝頼親子の供養塔の調査ができたのも、
と関係があるというところから。
景徳院から修理の申し出があったところ、合併を待って、
合併した甲州市の予算で行えたとか・・・・

大和村のままでは調査されることなく、傾いた塔も
そのままだったかもと考えると、市町村合併の影響が
こういうところにも出るんだな、と実感。

・・・てことは置いといて本題。

◆文書の残らぬ景徳院◆

この供養塔、勝頼宝篋印塔に

「二百年遠忌 安永四年 十一世要導」

とあり、二百年遠忌に際し、当時の住職要導により
建立されたことがわかると。

ただし、弘化二年(1845年)・明治二十七年(1894年)と
二度の火災で諸堂焼失、このの火災で勝頼ほか供養塔も塔身が焼損。
現地に行った際にも確かに法号など読めなかったのだけど、
こういうことなんですね・・・おいたわしい・・・

恵林寺の信玄供養塔と霊屋が百回遠忌に建てられていて、
その際に遺臣に寄付を求めたことが奉加帳の記録から解るんだけど、
この火災の際に史料が焼けちゃったのでしょうか・・・

しかし、塩山の向嶽寺の記録(向嶽寺史)に供養塔が
建立された安永四年(1775年)に近い、
天明四年(1784年)の景徳院の様子をうかがう記述があるそうです。

曰く、向嶽寺の開山抜隊得勝の四百年遠忌の際、
経を読む僧が多数来山し、恵林寺から57人、
景徳院から55人の僧が訪れていると。

ここから、今の規模からは想像つかない、
恵林寺にも匹敵する大寺院だった可能性もあるようです。
そしてその寺を支える寺領を安堵されていたわけですね。

それくらいの規模だとしたら、同じように武田遺臣の浄財を
募ることはできそうですが、江戸時代後期に入っても
まだ武田遺臣ネットワークがあったのかなかったのか、こ
の時期における勝頼に対する捉え方などがわかったかもしれません・・・

景徳院創建には、小幡勘兵衛、つまりあの甲陽軍鑑の再編した
小幡景憲も関わっているから、その縁起など
詳しく解ったらよかったのに・・・

ということで、供養塔が建てられた時期は大寺院
だったかもしれないのですが、その後廃れ住職も居ない時代もあって、
今の住職さんもお父上の代からだそうですが、まだ短いんですね。

◆発掘成果 … 供養塔と経石から◆

さて、発掘が開始されたのが平成18年(2006年)。
ここから平成21年にかけて丹念に石の洗浄、
経文解読、整理や周辺の発掘調査が行われました。

昨年の武田二十四将展でもあった経のかかれた石が
大量に発見されたのがこのときですね。
野球のホームベースのような石に勝頼・信勝・北条夫人の戒名が
書かれた経石は三人の供養塔の左右にある
「殉難者供養塔」から発見されました。

これを皮切りに勝頼・信勝・北条夫人の供養塔の下からも
大量に見つかり、すべてあわせて5,000点を超える経石。
興味深い点は、左右の「殉難者供養塔」下と
中央の「勝頼・信勝・北条夫人供養塔下」とで
明らかな相違があるんですよね。ふむ。

①経石を収めるスペースの広さと構造。
  左右のほうは三段になっている基壇の上段にのみ
  経石が入る構造である一方、中央のほうは下段から
  中段までの広いスペースに経石がぎっしり。

  底がの盛土の厚さの違いから、向かって左側から右側にかけて、
  経石の入るスペースが異なっている。
  さらに重層的に経石が敷き詰められ、その層の厚さ16層。

②中央の経石には安永三年(1774年)八月銘、
  左右の経石には安永九年(1780年)銘。

③中央からはほぼ書かれているのが法華経である一方、
左右の経石は四種の異なる経文が記載。筆跡も異なる。

これらから考えを進めると、わかること・・・

まず第一に、勝頼・信勝・北条夫人の供養塔と
殉難者供養塔の創建年代について。
中央経石への経文と左右経石への経文記述の年代が違う、
という点から、「殉難者供養塔」も勝頼二百年遠忌後の安永九年に
建てられたかどうか?という話。

講師の飯島氏は、中央・左右の基壇は同時期に造成され、
左右の基壇には経石だけ後に入れられたのではないかと推定。
というのも、左右基壇のほうには、後から経石を入れられるよう、
左右基壇三段目の裏側の石が抜けるようになってるんだとか・・・!!

第二に、中央基壇上の各供養塔の並びの考察。
興味深いのは、勝頼・信勝・北条夫人の各供養塔の今の並びと
その下に収められている経石埋納数の比較。

現在、供養塔向かって左から、

殉難者供養塔(左)
武田信勝供養塔(五輪塔)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)

の順で並んでいるのですが、同じ順で経石数を並べると、

殉難者供養塔(左) …224点
武田信勝供養塔(五輪塔) …2,498点
武田勝頼供養塔(宝篋印塔) …1,451点
北条夫人供養塔(五輪塔) …761点
殉難者供養塔(右) …321点

と、信勝が圧倒的に多いんですね。
これは経石が入るスペースの広さにも関係していて、
向かって中央基壇の左が一番広く取られているんですよ。

しかし、供養塔が勝頼がひときわ大きく、
北条夫人・信勝が同程度の高さ(しかも勝頼は宝篋印塔、
北条夫人・信勝は五輪塔)と考えると違和感が残ります。

もうひとつは、供養塔の焼損具合。
これを焼損のひどい順に並べていくとこうなります。

殉難者供養塔(左)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
武田信勝供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)

・・・・あれっ!そうなんです。焼損のひどい
殉難者供養塔(左)と勝頼供養塔に挟まれた、
信勝供養塔だけが、ほぼ無傷の状態なんです。

てことは?もとは

殉難者供養塔(左)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
武田信勝供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)

の並びだったと考えると、経石の埋納数や
焼損具合とも矛盾なく考えることができますよね。
ある時期(明治の焼損後?)に並び替えられたのでしょうか…

第三に、勝頼二百年遠忌の執り行った記録と比較して
わかることもあるみたいです。

さらに、塩山の旧家に伝わる「保坂家文書」「勝沼古事記」に、
勝頼二百年遠忌についての記録があって、
安永八年(1779年)に執り行われてることが確認できるそう。
「保坂家文書」にはさらに詳しく、

一 武田公様田野御法事弐百年御忌、
   三月八日より十四日迄と被仰出候所、御停止ニ付延引、
   十五日より廿一日迄御法要有之候事、
   西の丸様御遠行十四日迄御停止二候事

一 御焼香ニ罷出候、去年秋為知之御使僧来ル事、
   市兵衛殿御道候

   三月十六日参詣、はさみ箱ぞうり取候事、上下ニ而御焼香候、
   はかま羽折ニ而玄関迄参ル事、自分当日帰り、
   市兵衛殿詰居詰番勤被申、喜三郎殿も被参、
   市兵衛殿替被申廿一日迄詰居被申候事・・・
   □々敷御佛事御物入御用沙汰ニ候事

・・・とあります。

これらを時系列に並べると、

安永三年八月 中央経石への経文記述
安永四年三月 勝頼・信勝・北条夫人供養塔落成
安永八年三月 勝頼二百年遠忌
安永九年 左右経石への経文記述

という流れになります。遠忌前に中央経石を納めたあと、
遠忌を執り行った後、翌年に経石を納めています。

飯島氏の説のように、そもそも最初から左右経石は
後から入れることになっていた、ということや、
左右経石からは、経だけではなくって、
仏事で僧が唱える文言に三氏の戒名があるってことは、
遠忌で唱えられた内容・経が書かれてあるのかもしれませんね。

さらに、「保坂家文書」において、
個人的にここで気になるのが、「西の丸様」。

本来勝頼命日の前後の8日~14日で
二百年遠忌を執り行うところ、「御停止ニ付延引」、
とりやめで延期になって、15日から21日になってるんですね。

延期をさせる原因となった「西の丸様」が誰なのか・・・
人物比定されていませんが、西の丸というと、江戸城西の丸。

将軍の世継もしくは隠居した大御所の居所。
しかも、西の丸老中という世継付の老中という御役目があるそう。

安永八年当時、将軍徳川家治の時代。世
嗣として徳川家基がいましたが、有能で将来を嘱望されながら、
同年2月24日急死、享年18(満16歳没)。

そして、この時期西の丸老中をしているのは、阿部正允。
明和六年(1769年)8月18日から
安永八年(1779年)4月16日まで。(以上、Wikipediaから)

本来、「西の丸様」と場所で呼ばれるのは
直前に亡くなった家基でしょうが、あるいは西の丸老中をしていた
阿部正允の可能性もあります。
あるいは江戸城ではない別の「西の丸」なのか・・・

なんとなく、家基急死により西丸老中・阿部正允の都合が
つかなくなり、延期されたのかもしれません。
しかし、阿部正允あるいは徳川家基との
勝頼の関係はわかりませんが・・・・謎。

いずれにしても、「様」付けされる人物が、勝頼二百年遠忌に
参加している、あるいはその都合で日程を命日からズラしている
という点で、並々ならぬ関係性を伺わせます。

当時の勝頼の位置づけや捉え方を考える上で、
この「西の丸様」の人物比定は、重要かもしれません。

もうひとつ重要なことは、「はかま羽折ニ而玄関迄参ル事」とあり、
正装をもって参列しているということがわかりますね。

◆発掘成果 … 甲将殿周辺◆

その後、平成20年度には、景徳院(田野寺)創建時から
あるという、甲将殿周辺の発掘調査。

そもそも、今ある勝頼供養塔が二百回御忌による創建だとしたら、
それまでの景徳院はどうだったのでしょう。

当時甲府城主だった柳澤吉保の命で、荻生徂徠が
宝永三年(1706年)に甲州に赴いており、その際の記録、
「峡中紀行」に記述があるようです。

これに依りますと、後主(=勝頼)の廟に謁し、
そこには後主、郎君(=信勝)夫人の影像があり、
皆、新しく造ったものだったようです。

徂徠が墓の所在を尋ねると、景徳院の僧が言うには、
勝頼が亡くなった後、勝頼滅亡を聞きつけた
石和の広厳院七世拈橋が当地に駆けつけたそうです。

自刃から七日過ぎ、遺体には血が滴っており、
誰が君(勝頼)か臣かわからぬ有様であったため、
穴を掘って、一様に葬ったその場所に廟を建てたとあります。
これこそが、今甲将殿と呼ばれる御霊屋になるわけ。

しかし、この甲将殿のまわりを発掘すると、意外なことが
わかってきたのです。

甲将殿の中央付近は一様な土の層がある一方で、
甲将殿南北からは、表層の土から下に厚い砂礫層を発見。
甲将殿から離れるほど、深く落ち込んでいることが解りました。

おそらく、甲将殿の中央付近を頂点として東西に落ち込んだ
尾根上の地形をしていたところに、砂礫と土砂を埋めて
平坦な場所を造成しているというわけです。

そして、現在の甲将殿(明治に再建)の規模からすると、
明らかに平坦地が足りません。仮に二百年遠忌が行われた時の
甲将殿も同一の規模だとするならば、それ以前、
荻生徂徠が見たときの廟はもっと小さなものであったかもしれません。

二百年遠忌に当たって、土地造成を大規模に行って、
甲将殿を大規模に建て替え、さらに経を記した石を埋納して
供養塔を建立という大事業を行ったのかもしれません。

荻生徂徠がみたときの甲将殿は、尊像を安置した、
三人の墓そのものだったといえるのでしょう。

個人的には、この規模の大事業と「西の丸様」の都合伺い、
というのはすごく自然なことと思えました。

甲将殿の近くも発掘したらしいのですが、甲将殿そのものの
柱が危なくなりそうでやめたそうなのですが、
ひょっとしたら、そのまま掘り進めると、数十人単位の
遺骨が眠っているのかもしれませんね・・・

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講演:日本の木造建築技術の至高・江戸城天守復元

土曜日ですが、また性懲りもなく江戸城天守のお話を
聴いてまいりました。三浦先生のお話は好きですからね・・・
建築講座「火鉢を囲んで建築の歴史」の第4回。

調査報告書出版記念とやや重なるところもありますが
その点、ご容赦ください。

◆「重」と「階」

直接江戸城は関係ないのですが、興味深かったので。
よく天守を「○重○階」という言い方しますが、
○層○階とかも言ったりもするし・・・

実は現代の学術用語として使われる言い方と、
創建当時の言い方では微妙に異なる点に注意が必要みたい。

学術用語としては、屋根の数を「重」、
階数を「階」で表現する決まりだそう。
つまり、「層」は使わないってことなんですね。ほうほう。

ただ、この「重」「階」の使い方について、屋根の数なのか、
階数なのか混同されている例もあるそう。
つまり、屋根の数を「階」と表現したりもして、けっこう曖昧。

その例として挙げられるのが、関東以北に多い「御三階櫓」。
あれ、実際は三重櫓なんですよね。三重櫓だからといって、
三階とは限らないわけですね・・・鶴ヶ城御三階も確かにそうだ!

「階」を屋根の数として表現する例の逆、
「重」を階数で表現してしまったと思われるのは、
蒲生氏郷時代の鶴ヶ城の記述。一般に七重天守といわれていますが、
内部構造が七階建てであって、実際は五重七階の天守?とのこと。
会津若松でいっぱい見たあの黒天守のイラストあかんやん・・・

ちなみに・・・天守の高さと「重」「階」は無関係。
姫路城天守は六階建てだけど、江戸城天守の五階建てのほうが
高いわけですよね。つまり階高が違うわけですね。

◆天守の起源論◆

(岐阜城)
天守の起源をどこに見出すか割りと意見が分かれるところですが、
三浦先生の今回の講演では、まずは岐阜城天主でした。

ルイスフロイスの記録によると、三重四階の御殿を「天主」としたそうで、
一階が信長の御殿、二階が帰蝶と侍女の御殿、三階が屋根裏、
四階が物見なんだそうです。

現代の感覚だと最上階に信長・・・?と思うんですけど、
そうじゃないんですね。基本的に日本は二階以上の
山門などの建物はなく(例外有)、天皇や貴族を見下ろす
不敬を避けてきたという歴史がある。
しかし、信長はその考え方を変えてしまったと・・・

(安土城)
続いて安土城天主。五重六階地下一階で
これが先例となり、五重以上の、つまり屋根の重なりが
五つ以上の天主(天守)は一例を除き、ありません。

その一例とは本当に五重を超えたのは駿府城天守とか。
ソースは明かされませんでしたが、六重七階の天守だったとのこと。
実際三浦研究室のページを確認しますと、七重になっていますね。

(大坂城)

続いて天下人の天守として挙げられるのが豊臣大坂城天守。
五層は間違いないだろうとしつつも、内部構造は不明。
おそらく六階地下一階ではないか?
規模としては安土城天主とほぼ同じ。

ここまで見てきた岐阜城天主、安土城天主、大坂城天守は
皆御殿造りという点が特徴。秀吉は信長同様
(坂本城、姫路城、北ノ庄城など)家臣の豊臣大名にも
天守を築かせますが、どれも内部構造は御殿造りではなく、
内部は簡素化されたものになっていきます。

(織豊期の天下人天守のあり方)
ここまでで解ることは、御殿が重層化して天守(天主)が生まれ、
それが家臣に伝播していく過程で御殿性が失われていく
という流れがあるわけですね。現存はしていませんが、岡山城天守や
広島城天守などの構造は確かに御殿ではなく、
櫓化しているように思えます。

ここでの三浦先生の考え方の肝は、軍事的な大櫓から
天守へ移行していくのではなく、まず御殿があって
それが櫓化していくという流れで捉えられていることですね。
つまり、そもそもが非軍事的な存在。

そう考えると講演では触れられていませんでしたが、
金森長近の飛騨高山城天守は興味深い存在かもしれません。
天守曲輪をもつ連立天守ですが、御殿の一部が重層化して
天守になる過程を古い形態の天守を伝えている例、
といえるかもしれません。

(関が原以降の天守)
これが関が原以降に建てられた天守が二つの道をたどります。
ひとつは対豊臣を意識した軍事化した天守。もうひとつは
当初と同じ非軍事的な政治的な圧力を加える天守。

ただ後者の場合も利用のされ方は信長・秀吉と同じですが、
もはや内部構造が御殿のようにつくられることは次第になくなっていき、
大きさと外観で圧倒していくことになります。

が、後述のように慶長天守は御殿造りだったと三浦先生は
考えられており、秀忠、家光の江戸城天守や
駿府城天守と比較すると、ある意味過渡期というか、
織豊期といえるのかもしれません。

(慶長期江戸城天守)
家康は豊臣時代には天守を立てず、
関が原以降に初めて天守を建造。豊臣時代においては
大坂城を超える天守は建てられず、また大阪城以下の規模の天守は
天下に豊臣に下った象徴となることで、天守そのもののをつくらない
という選択肢を選んだのではないかとのこと。

そこで関が原後に建てられた慶長天守。三浦先生の推測だと
名古屋城天守と同規模程度ではないか?とのこと。
雪山のようということで、鉛瓦だったとされているのは
よく知られていますよね。このときまでは御殿造りだったということで、
三浦先生が説明される天下人の天守の系譜を
受け継いでいるというわけですね。

昨今松江で発見された「江戸始図」については、それまで
知られていた「慶長江戸絵図」についての言及のようにも思え、
しっかり質問しておくべきでした。。。。

おもしろかったのは、名古屋城天守が
一階・二階が重箱櫓状になっていることを
「家康の好み」と伝わっている点との関連。

このことから、家康の慶長天守もそうだったのでは?という推測。
三浦研究室の復元案もそうなってますね!

(元和期江戸城天守)
元和になって秀忠が建てた天守。
ほとんど寛永の家光天守と同じなんですが、
四層部分が唐破風ではなく千鳥破風になっている点が相違。
ただ指図は簡略的で正確な再現は困難。

(寛永期江戸城天守)
寛永天守は外観を変えて建てますが、あまりに工期(4ヶ月)が
短いため、構造はそのままで外装だけをかえたと推測。
関わった大工延べ281,763.5人(手伝いは0.5人換算)
今建てようとシミュレーションをすると4年・・・・その差・・・

江戸城天守は壁も屋根も銅板で
防火対策はされているはず・・・なんですが、
ソースは明かされませんでしたが、とある記録によると
本丸御殿が類焼するなかで竜巻が発生(火災旋風)して、
跳ね上げ式の銅板の扉が開いてしまって、
火の粉が入り炎上したということなんですね。

留め金がしてあったかどうかわかりませんが、
竜巻状の強さの風に耐え切れたか?
という問題はあるかもしれません。

焼失後、前田綱紀によって万治年間に
天守台が再建されるわけですが、
よく指摘される高さの低さ。

そもそもの話として、天守台まわりの本丸の高さが
少し盛ってあり低くなっているようですが、
それ以外にも明確な理由があります。

実は何度か講演を聞く中で知ってはいたんですが、
このたびソースを知ることができました。加賀藩にあって
天守再建を指揮した奥村家に伝わった日記
「江府天守台修築日記」がそれ。

ここに、家光が寛永天守を見たときに、石垣が多門櫓の上に
少し見えるのがよろしくないと嘆いたことを受け、
(当時家光はもう亡くなってますが)家光好みに一間低くした
という故事によるものなんですね。
これは江戸城再建にあたっての調査報告にも詳しく記述があります。

さらにもう一点、寛永期と万治期で天守台を比較すると、
三尺一寸(93cm)天守台が外側に広いのだそう(犬走り)。

他の天守から20~30cm、彦根城天守で50cm程度、
宇和島城天守で1m程度ということで、天守に対して寸法上
余裕のある天守台というのは実例はあるようで、
ぴっちりに建てられた元和・寛永よりも余裕のある
天守台にしようとしたようです。

ということで、天守台寛永天守を再建しつつ、
もっと理想どおりに建てるための天守台だったのかもしれません。

◆寛永度天守を伝える図面◆

(図面検証:江府御天守図)
さて、図面の検証の概略。東京都立中央図書館に
寄託されている江府御天守図
(江戸城御本丸御天守百分之一建地割)
大棟梁甲良豊前控とあり、正本ではなく副本であることがわかります。

甲良家は作事方のトップ御大工頭(中井家など)に次ぐ
大棟梁の地位にありました。

甲良豊前とは、甲良豊前守宗賀でしょうか。
江戸城寛永度天守は、戦国から江戸時代に活躍した
初代甲良豊後守宗広の孫で、宗広の子宗次が早世後
甲良家を継ぎます。

江戸城寛永度天守や日光東照宮は
宗広の最晩期の作品に当たるので、
まだ若年だった宗賀が今後のために
副本をとったのでしょうか。

これが寛永期と断定する根拠になるのが、
天守台高さが七間とあること。
また立柱の年号に寛永十五年とあります。
わりと知られていて、展示にも割と出ている史料なのですが、
あまり詳しく検証されてこなかったとのこと。

ポイントとしては実測図ではなく設計図であること、
方眼の縮尺が記述と違うこと。

天守の総高がわからないというのが設計図ってこと。
一重目では「軒高サ石場ヨリ桁上場迄弐条八尺六寸」とあり、
さらにそこから屋根の勾配が「高配五寸四分」とあります。

この繰り返しで各重の高さと屋根の勾配から総高が
やっとわかるという仕組み。
ちょうど計算すると144尺(43.63m)。

縮尺の違いについては、そもそも百分の一なんて書き方を
江戸時代にはしないのだそう。筆跡鑑定をするとどうも
図面のほかの文字と違っている・・・

図面をよく見ると、柱と柱の間を「七尺」と描いてあるんですが、
実際は「六分五厘」。普通描きやすくするには、
七尺の1/100とするならば方眼を「七分」にするはずなんですが、
どうも「六分五厘」の方眼に「七分」方眼に描かれた原図を
書き写したのでは???

七尺を六分五厘でかく・・・ということは1/107.69という
中途半端な縮尺。六分五厘の方眼が
甲良家にたくさんあったのでしょうか。
通常は、一間を六尺五寸とする場合が多い・・
と考えると、わかるような気がします。

この前提で書かれている寸法を見直して、
ようやく正確な高さがわかったとか・・・
じゃぁ、縮尺違うんだったら柱の太さって
正しいの?どうなの?という話。

でも、割と書き分けられているみたい。ということはここに
描かれていない材の太さの寸法は実測図から
比例計算してもよさそうだと判断されています。

(図面検証:江戸城御本丸御天守閣外面之図)

もうひとつの図面。こちらも東京都中央図書館蔵

天守台が七間とあるので、寛永の図といわれています。
これ江戸城本丸の売店に掲げられてある図ですね。
寸法としては甲良家文書の江府御天守図とぴったり合致。

ただいくつかおかしいと思われる点・・・

1)犬走りの存在
天守台に犬走りが見られるということ。先ほどあったように、
犬走りは万治年間に再建した現天守台に
寛永期天守を載せると犬走りができるのであって、
寛永期の作図であれば犬走りはないはず。

犬走りができる万治年間の現天守台の高さは
六間ですので、矛盾します。

2)入り口にひさしがあること
先の江府御天守図にも、この後出てくる江戸城
御天守絵図にもありません。名古屋城にもちなみにありません。

3)斜めから書く図法
江戸時代には製図された図面としてはほぼないとか?

4)タイトルが「江戸城御本丸御天守閣外面之図」。
筆跡としては他の文字と同じ。しかし江戸時代に
幕府や藩の公式記録として、天守「閣」とは書かないハズ。

以上の指摘から、甲良家の誰かが明治期になって、
家に伝わる江府御天守図を元に西洋画法で
江戸城天守の図面を起こしたもの、というように推測されています。

(図面検証:江戸城御天守絵図)

続いて、概観がわかる二つの図。東京都立図書館蔵の
江戸御城御殿守正面之図」と
国立公文書館蔵の「江戸城御天守絵図

両方とも正徳年間とされているそうです。
(国立公文書館蔵のほうは万治説もあり)

東京都立図書館蔵は建築図面としては
ちょっと使えない絵師が書いたもののようですが、
国立公文書館蔵は割と正確。「石垣高六間」とあり、
現天守台であることがわかります。

先ほどの「江戸城御本丸御天守閣外面之図」において、
指摘された犬走りが描かれていないという点はありますが、
名古屋城天守との共通性として、各層の屋根端や最上重の
入母屋破風端の反りの強さが挙げられます。

個人的に気になったのは破風の反り。
絵師のほうはやや強いように思え、ちょっと違和感がありますね。

国立公文書館に残されている史料は他にもあり、
内部構造がわかるものもあるそうで、江府御天守図にないものとしては、
階段の位置があります。入り口入って左側と右側に階段。
復元図面にも以下のように反映されています。

151115_00dfef
(調査報告書出版記念講演史料再掲)

同じ高さでも右側が段数が多く、勾配も低く
将軍用の御成階段と思われます。これも名古屋城と同じかな?

さらに名古屋城や姫路城など、
大型の天守の場合階段がL字型になることがありますが、
各階の高さがあまりに高い江戸城の場合、
コの字型に折れ曲がっているというのも興味深い点。

これらの史料からできた復元図面を眺めてみると、
おもしろい特徴がわかります。

◆復元図面から◆

まず、通し柱の話。二階から三階(十字)、
三階から四階(ロの字)、四階から五階(十字)にあります。

一方名古屋城の場合、一階と二階ということで、
通し柱の使い方が異なってるそう。
江戸城の場合は、強風対策で上層部に
揺れ止めをしていたのではないか、とのことで・・・
そもそも通し柱は使わないほうが、
耐震性能は強いらしいんですけどね。

もうひとつ、江戸城の特徴として挙げられることは、
非常にシンメトリー(左右対称)で
整然とした美しさがあること。

まず、柱は最上階から一階まで柱の位置が
縦方向に整然と合致していること。

151115_0004_002
(調査報告書出版記念講演史料再掲)

必ず各階の各面の中心に柱が来るようにし、
その柱を中心に左右に半間の窓をつけ、
一間の壁、半間×2+柱、一間の壁・・・が続いていきます。
確かに言われると、すっごいキレイな構造をしています。
理系的な美しさですよね。

Edo1

Edo2
(調査報告書出版記念講演史料再掲)

色が黒くて見難いですが、よく窓の位置と
その対称性をご確認ください・・・

これ、床面積が偶数間という点も関係しています。
江戸城寛永天守の一階は18間×16間。
上記のような、左右対称に窓をつけようとすると
偶数であることが必要なんですね。

18間×16間って、大きさばかりに目が行きますが、
そんな美しさの由来にもなってるのか・・・

こういった整然さ、一旦望楼型天守で
きれいに揃うようになった(姫路城)らしいのですが、
層塔型に進化する過程でまたズレてしまい、
また揃った(揃える余裕があった?)のが
江戸城天守なんだそうですね。

細かいですが、長押形が各階付いている、
というのも、江戸城の特徴のようです。

また、各階の階高が五階から四階まで
一定の割合で低くなっていきます。
普通は高くなったり、低くなったりするものだそうで。

・・・こうなってくると、いわゆる城好きとしてよりも
建物好きとしての好奇心をそそられますね。
こういう余裕がまた平時の天守としての魅力なのかも。

今回も貴重で楽しいお話でありました・・・
三浦先生、ありがとうございました。

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「作曲家 植松伸夫の創作の軌跡」

昨日、聴いてきたNHKカルチャーの「作曲家 植松伸夫の創作の軌跡」。

いわずと知れたFFの多くの楽曲の生みの親である
植松伸夫さん(以下ノビヨ師匠)の物語。

単純にノビヨ師匠だからというだけでなく、人が人生を振り返って
自伝的に語るというおもしろさを改めて感じた次第。

個人的にはFF時代よりも、FFができるまでの前史としての
幼稚園から冬の時代(プータロー)までがおもしろかったかなぁ。
FF好きと歴史好きの遺伝子が同時に反応しましたね(笑)

想像(妄想)力が豊かで、好奇心が旺盛。
想像力と好奇心って、いわゆるオトナになる過程で磨耗していくのだけど、
いい感じで残ってられるのが素敵。

そして大きなものを動かすより、ゼロからイチを、
着実につくってく方が好きというのが、
バック宙をできるようになってく過程に現れてて、
すごくコドモからオトナへ断裂がないなーという印象でした。

そうか、ノビヨ師匠はシンプルで美しいもの、がお好きなんだ。
すっごいわかるな、そういうところがずっとFFの音楽を
好きでいられる根っこにあるのかも、とも感じたり。

あと、すっごいわかるー!ってのが「文系なのに機械が好き」ってやつね。
まさにこれわたしです。文系のガジェット好きに通じる感覚よね。
ゲルマニウムラジオは知らなかったけど・・・(笑)

あと、中学生、高校生、大学生とその時々に影響を受けた、
気になる楽曲を流してくださるのだけど・・・

なんとなーく、なんとなーくなんですけど、FFにつながる要素が、
それもカタマリとしてではなく、元素レベルであるような
そんな感覚(伝わるかなぁ)

ノビヨ師匠が上げてられた楽曲名を挙げておきます。
なんでしょうね、逆説的だけど、すごくRPG的に聴こえるんですよね。
オーケストラも楽曲が物語的ではあるんだけど・・・

◆中学生◆
ホット・バター ”ポップコーン”
エマーソンレイク・パーマー ”タルカス”

◆大学生・冬の時代◆
マウロ・パガーニ”ヨーロッパの曙” 原題”Europa Minor”
喜多郎「シルクロードのテーマ」

そして、どれも割りと好きな曲なんだわ・・・
ポップコーンは聴いたことはあったけど、
タイトルは知らなかったし、その他は初めて聴いたんだけど、
「わ、これ好きだわ」という感覚で。
FFを通じて植松チックな音楽感覚があるからでしょうか、
どうもそう思えてならなかったんですよね。

大学生からバイト時代のノビヨ師匠、
バンドを止めた理由やCM音楽が自分のやることじゃないな、
と思われた経過もおもしろいんですよね。

バンドに音楽だけでなく、パフォーマーの要素を嗅ぎ取り、
俺は音楽を作りたいんだ、ちょっと違うなと。

CM音楽は、ちょっと尖がった感性がいる、
要はインパクトがいるってコトなんでしょうけど、
ジックリ聞かせて感動させる方向性とが違うな、とか。

このジックリ・・というのは、すぎやまこういち先生がよくおっしゃる
繰り返し聴いて聴き飽きない音楽こそ、RPGに必要
というのとすこし似たような印象を持ちました。

実は、すぎやま先生ってCM曲もたくさん
作曲されてきたはず。そんなご経歴をお持ちなのに、
RPGに向きあったときに、どのような楽曲が適するかを考えて、
ズバッと「繰り返し聴いて聴き飽きない曲=クラシック」
にいきつかれるのは、さすが・・・ですよね。

ポスト・スクウェア時代のお話では、ミーティングばっかりで、
他の人の給料の話とかしないといけない管理職になっちゃって、
作曲ができないから辞めちゃったってトコで、ドキッとしたわけですが(笑)
本をお書きになりたいとおっしゃってられたのが、また楽しみですね。

また原稿を出版社を渡り歩いて・・・・って、
バック宙のようにゼロからひとつひとつ積み重ねていく
楽しみがいいなと。FFは誇りでありうれしいことだけども、
今やあまりに広く、あまりに大きくなってしまった。
もはや受け止められない・・・とも。

ご自分でもおっしゃってましたが、この言葉に
ノビヨ師匠の子供時代からの変わらなさだけでなくて、
ご自分の関心の向く方向に敏感なんだなと思いましたね。

わたしも好奇心を強くするだけでなく、
好奇心そのものを見つめていたい気持ちを持っています。

最後の質問のやりたいことのなかで出たコメントから。
ちょっと走り書きのメモからなので、文言違ったらすみません。

自分が好きなものに嘘はつかないようにしている
流行ってるから学ばねばならない、
皆が知ってるから知らなければならない、
そんなことは一切ない、好きなことだけ追いかけ行けばいい。

自分で歯止めをかけないように、「~でなければならない」
「~すべきだ」とか、他人が思っていることに過ぎない。
何を好きか、美しいと思うか、何に涙を流したか。
自分の中にある絶対的指針が糧になる

・・・すごーくいい時間になりました。
ノビヨ師匠ありがとうございました。
BRA★BRA、楽しみにしておりますぞー!

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クロネコヤマトの宅配量抑制のニュースをきっかけに考えていたこと。

わたし、買い物の中心はかなりネットになってきました。
特にニッチな買い物、ウイスキーや本がこれに該当することが多いですね。

というところで、こんなニュース。

クロネコヤマトの宅配量、抑制検討へ ネット通販拡大でドライバー不足

ヤマト運輸、昼の配達を見直しへ ネット通販拡大で運転手不足

以前から、現場のヤマトのドライバーが悲鳴を上げている
というのはニュースになってましたし、Twitterのタイムラインでも
経験者の方がおられ、やむをえないよね、という話になっていました。

とはいえ・・・・平日仕事している人間としては、単純に
サービス縮小されても困るなぁ、
Webで買い物できないなぁと思っちゃったんですね。

このジレンマ、環境が激変しているときに、従来の延長線上で
何とかしようとして歪みが出てるってことなんだろうと思います。

割と批判が出ていたように思いますが、Amazonは独自の物流網を
構築して、「お急ぎ便」というサービスを始めました
よね。
ビジネスとしては、ラストワンマイルを手に入れたと成長を
謳歌しているようにも捉えられていますが・・・

でも、それはあくまで物流拠点を持っているだけに過ぎず、
本当の顧客へのお届けという、泥臭いところには手をかけていなさそう。

そして、そのサービスってホントに求められているのだろうか?というのは
ちょっと疑問に思うところです。そもそも宅配いるの?

Web通販って、モノを探すということだけでなく、
店を探すことが格段にラク。
これに加えて、「持ち帰る」ってのがないわけですから
(ないというよりやってもらっている)
この持ち帰るがない=物流業者に代行している、
という点が膨張してるんですよね。

特に課題がある思うのが、各世帯への配達(個別配達)のうち、
単身世帯の配達。まさに自分がいい例なんですけど、
平日日中は仕事で家にいないし、残業や飲み会あると夜間に合わない。

休日も旅で家空けていたら・・非効率極まりない。
荷物が増えているなかで何度配達しても不在。
運送業者としてもそんなに荷物を長く保管できるわけではなく、
でも1週間というのは割りと受け取る側としては短い・・・・

という事情を考えると、オーダーしてから納品までのリードタイムを短くする
というAmazonの「お急ぎ便」「プライムナウ」って、
ぜんぜん響かないんですよ。
急いでもらっても、オーダー時に家にいるとは限らない。

そして、急がされて、効率の悪い戸別配送を大量にやらされる、
これでは現場はたまったものではないでしょう。
挙句の果てには不在に次ぐ不在。
長期不在による返品。素人でもその怨嗟は想像できます。

ということで、採るべき解決策は、いかに早く届けるかではなくって、
いかに受取人が受け取りやすくするか?
受取人がどのような受取環境にあるのか?
をしっかり知った上で、事業者も無理なく継続できる
サービスを考えてほしいってことなんですよね。

物流効率を考えると、まとめて輸送するのが鉄則。
そして再配達や不着返品を最小化する。
こうすることで、物流現場の負担を減らすことができますよね。

つまり、配送のための一時保管を主とする物流の中継地点=
ストックポイントを設けるしかないように思うわけです。

これをターミナル駅に設置し24時間引き出し可能な
個人向け物流倉庫とする。大規模な倉庫だから、
そこまでの物流は一気に運べる。そしてそこから先は、
最終的な受取人が自分で運ぶ。できれば無人が理想的。

・・・・これ、もうあるんです。
楽天BOXとかクロネコメンバーズロッカー受取とか。

でもこれ、いろいろ制約ありそうなんですよね。
まずサービスと紐付きになってること。
楽天市場というECサイトだったり(Amazonにはつかえない)
クロネコメンバーズってヤマト運輸しばりとか。

更に設置場所を見てみるとわりと小規模だったり、
駅から遠かったり・・・・ストックポイントとしての
価値がまだまだ足りないように思いますね。

そもそも、今ある施設(郵便局やリアル店舗)に
付随させるとどうしても分散、輸送効率が落ちますし、
施設の営業時間の制約も受けます。

そうではなく、大規模かつ専用に敷地を確保して、
効率的に輸送する。場所はそう多くなくていいと思うのです。

首都圏なら北は大宮・池袋、東に東京、西は新宿、
南は川崎・横浜・品川あたり。
つまり、通勤経路の要衝になっているところに
大規模に設置するというのが肝になるのではないかと。

イメージとしては貸しトランクルームや私書箱を
エキナカ・エキチカに持っとくような感じ。

こちらの記事によると、切り札になる可能性はあるけど
一気に拡張できていないという点が指摘されています。

ECサイトにせよ、物流業者にせよ、本業ではないところで
なかなか手が出しにくいのでしょうか・・・と思ったら。

「今年の1月28日にヤマト運輸がネオポストと共に、
オープン型宅配ロッカー事業の展開を目指し、
合弁会社設立を発表」ということで、
個人向けストックポイントのビジネスが広がる兆しはあるようです。

先般の宅配サービスを縮小することと同期して、
オープン型宅配ロッカー事業が、事業者にとっても効率的に、
利用者にとっても有意義になれば、少しは宅配のブラックさが
解消されるのでしょうかね。どうでしょう。

わたしだったら、(値段や利用形態にもよりますが)職場近くと
自宅近くのほか、いくつか持っておきたいですね。
これと旅先でのコンビニ受取の併用・・・かな。

無理なくサービスが提供でき、多様なニーズにもジャストミート。
ビジネスの永遠の課題でありますね・・・

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去年の今頃はシリーズ(7) 山梨文化学園第84期『武田氏と真田氏』

さて、去年の今頃はシリーズ。
このテーマ、平山先生のお話として、
先日(2017年)もこの武田と真田の話を聴いてきた訳で、
さらに去年だって、武田神社でも聞いているわけですけども・・・・

ま、なんつーか骨格は同じ話なんですけども、
言及される点が少しずつ違ったりなんかして、何度聴いても
なかなかおもしろいものです。

このときは2時間あったので、お話の幅も広かったように
思いますね。3時間でも4時間でもお話聴いていたいですけど(笑)

ということで、気になった点だけ記録に残しておきましょうか。

◆真田嫡流について◆

良泉寺とは、矢沢城に程近い矢沢氏の菩提寺。
矢沢氏とはもちろん、矢沢綱頼・頼幸親子のあの矢沢氏。
真田幸綱の系統を探る上で、ここに残された
「矢沢氏系図」が非常に大きな価値があるようです。

つまり、真田幸綱が海野棟綱の子、あるいは男系の孫ではなく、
真田右馬助頼昌の子であって海野棟綱の娘婿であった
可能性を示す根拠のひとつということ。

どうもこの系図には、幸綱本人のことが書かれているわけではなく、
綱頼の事跡が書かれてあるんですね。

右馬佐頼昌三男の真田源之助が、諏訪氏の系統であった
矢沢氏を相続することで、真田氏との関係ができるようになったと。
そもそも、諏訪は海野平の合戦で、滋野一族を追いやった
武田・村上の同盟軍であって、本来対立構造にあったのでしょうけどね。

矢沢綱頼が真田幸綱の弟であることは明確ですから、
間接的に、真田頼昌こそ幸綱の父でもあるってことになりますな。
しかし・・・松代藩はこの頼昌の存在は、幸綱から以降、
近世松代の記録まで、消されていたわけです。

そして、もうひとつ。頼昌嫡男の存在。これも後に丸島和洋先生の
「真田一族と家臣団」ですとか、長野県立博「川中島合戦と真田」の
展示でも確認ができて、すごく興味深いのですけど。

2013年・・・ですからわずか4年前に、上田の生島足島神社で、
義信事件後の起請文群をみたときに、海野衆の中にいる
「真田綱吉」って誰やねんこいつ・・・と思っていたら、
その人物こそ、本来の真田の嫡流の人だったんですねぇ。

てことは、幸綱は次男ってことになりますよね。
これは先ほどの矢澤系図に「右馬助頼昌三男真田源之助=綱頼」
ということとも、合致してきます。その推測の根拠のひとつとして、
この綱吉の官途名が「右馬助」であること。
官途名を嫡流が受け継いでいくというのはありますものねぇ。

この右馬助綱吉、真田を離れて佐久郡北方衆として分離。
真田惣領の地位は、幸綱が継いだようです。
右馬助を綱吉が名乗っていたとすると、そもそもは綱吉が
真田嫡流だったものが、その知略を信玄に買われて、
どんどんと出世していく中で、実権が奪われていったのでしょうか。

しかし、日向畑遺跡の真田氏墓を復元せずに、
系図の改竄を進めてきた幸綱系統の真田氏・・・も、
矢沢の系図までは、チェックが漏れていたのですかねぇ(笑)
さてこの綱吉の系統もおもしろいんですが、それはまた今度にして。

佐久郡の統括は、元上原氏の小山田備中(虎満)。
甲府の上石田あたりを本貫地としていました。
幸綱もこの小山田の相備衆として重きをなしていくわけですが、
有力な相備衆として、信玄に重用されていく弟を
綱吉はどうみていたんでしょうねぇ。

ちなみに、この小山田備中守虎満。子の備中守昌成は
高遠城の仁科信盛救援に駆けつけ、そのまま族滅していますが、
ある伝承によると、武田の滅亡後に郡内小山田氏、
いわゆる越前守信茂系統と混同されることを嫌い、
「小」の字を削って、「山田」と称してこの上石田に住まうように
なったんだとか・・・・

そして、郡内小山田氏の分流であり、松代真田の家老として
存続した境小山田氏(茂誠・之知)の系統も、
この備中守虎満の系統だと主張している点がおもしろいですよね。

◆昌幸の人質に出された時期◆

幸綱が、一説に村上方に着いていた矢沢綱頼を調略に使い、
砥石城を乗っ取ってまもなく旧領を回復したのが、
天文22(1553)年。

この年に、幼い昌幸(満6歳)を人質に出したことを信玄が賞し、
上田秋和の地350貫文を与えたということですが・・・・
ということは?昌幸の生まれた天文16(1547)年は、
幸綱が武田に着く決心をした頃でしょうか。

と考えると、伝え聞いていたにせよ、武田と真田が敵対していた
頃のことはまったく知らず、生まれながらにして恩ある武田・・
だったのが、昌幸の幼い頃だと思うと感慨深いものがあります。

◆甲府・二十四将屋敷跡設置の経緯◆

今となっては、甲府駅北口の武田通り沿いから武田神社の周辺、
二十四将の屋敷跡の看板があって、われわれさも当然のように
眺めているわけですけれども・・・これ、大河「風林火山」の頃に
平山先生が、看板立てようぜ~って嗾けたそうで(笑)

ちょうど大河「風林火山」が決まった頃、講演会に
市の助役、市議会議長や議員さんが来てられていて・・・
平山先生はおっしゃいました。

みんな武田神社に行って帰っちゃう、でも二十四将と
謳われた人たちがどこに屋敷を構えていたのか、
誰も教えてくれないし、わからない・・・と思っていませんか?と。

・・・わかるんです!(川平慈英調)

今ではわかりにくくなっていますが、その昔はどこの地名にも
「字名」がありましたね。そう・・・典厩信繁の屋敷跡は「字典厩」、
横田備中の屋敷跡は「字横田」、土屋昌続屋敷は「字土屋敷」
逍遙軒信綱は「字遙軒屋敷」。

さらに、江戸時代初期の貞享年間(1684~1687)に
作成された、武田遺臣の屋敷跡を記した古府中村の絵図。
これらを元に・・・・石碑など仰々しいものはなくていい、
看板立てればいいじゃん!とご提案されたんだそうです。
動かせるし、古くなればとっかえればいい。

ホントね・・・平山先生こういうところがすばらしいのですよね。
そりゃぁ、ファン増えるわと。

もちろん研究の世界では、批判上等掛かってきやがれなんですけども、
歴史が好きという一般人に何を発信するかをすごく考えてられて、
また、手持ちのどんな史料・史実をどんなコンテンツとして
発信すれば、心をつかめるのかをすごく熟知されている・・・

さてさて。真田との関係で言うと、いい位置にあるよね、
両真田の屋敷跡ってことなんですけども。

◆第四次川中島以後の上杉防備◆

上杉を撃退して後、武田方は海津城の北に
元島津氏の長沼城を修築し、対上杉の防衛最前線としたそう…
なんですが、ちょっと調べてみますと縄張図が、
上田の岡城とそっくりでして、川の断崖を背景に、
丸馬出で防ぐという典型的な武田の城の構造をしているんですね。

あと、個人的に謎な丸馬出を三方向につくっている
という点も岡城と共通した構造。三方向に丸馬出をつくる、
というのが武田のセオリーにあったのかどうか?
ものすごく興味をそそられるお城ですね・・・

また時期的にも、香坂氏館を増築してつくられた
牧ノ島城とも重なる点が気になります。
やはり、駿河侵攻以降の南西に戦線が広がっていく時代、
対上杉防備の防衛ラインを海津城を中心に、
東の牧ノ島城、北の長沼城だったのかな・・などと・・・・ううむ。

◆長谷寺の昌幸墓◆

九度山に流され亡くなった昌幸はそこで荼毘に付された
ようなのですが、遺骨の一部はどうも上田に戻されたらしく、
そう考えると、幸綱の墓の横にある昌幸供養塔にも、
ご遺骨があるのかもしれない・・・という話。

墓自体が動いているいう話もあるらしいので、
なかなか実態把握は難しいのでしょうけども・・・ううむ。

◆織田方の長篠合戦首帳にある信綱◆

長篠合戦で真田源太左衛門こと真田信綱は
討死するのですけど、織田方の首帳に真田源太左衛門って
出てくるらしいのですね。

しかし・・・よく知られている通り、信綱の首は白川兄弟が
青江の大太刀とともに持ち帰って、信綱寺に埋葬されているはず?
ということは、これは誰だ・・・という話。

首がこれは誰だ?というのは、捕虜として生け捕った
一般兵卒に確認して首帳として記録していくそうなんですが、
これがけっこう人間違いがあるそうで。

もちろん、織田・徳川方が具に武田家中の面々の顔を
知っているはずもなく・・・ってことで、どうやらこれ、
真田兵部丞昌輝(の誤り)ではないか?とのこと。にゃるほど。

◆高天神城の生き残り◆

勝頼滅亡の直接的な契機となった高天神上落城。
この中で数少ない生き残った者として、横田備中守高松の孫、
横田甚五郎尹松(ただとし)は自分の中では有名なのですが、
それ以外に、西尾仁左衛門宗次がいたそうな。

・・・それだけだと、ふーんなんですが、この西尾氏、
なんと後年、真田信繁を討ち取ったあの西尾なんですよ。
武田滅亡後は牢人の末、結城秀康に仕えていました。

信繁の最期は、武田VS武田だった・・・ということなんですけども、
なんとも因縁深いものだと思いますね・・・
しかも、西尾は直接信繁の顔を知らず、討ち取った後
結局その人が真田左衛門佐とわからなかったそうなのですが、
とある人が、西尾の元に陣中見舞いに来たそうです。

花形市左衛門と縫殿之丞。彼らは武田の遺臣であり、
さらに一時期真田家にも仕えていたのだそうで、
だからこそ彼らは、信繁を知っていた・・・だからわかったのですね。

真田信綱と弟・昌輝の首の混同と同じく、
大将首の認識のされ方っていうのが、なんとも興味深い。

◆新府城の屋敷のありなし◆

新府共選場の裏側の字名が「隠岐殿」という名前だそう。
ここを発掘した結果、焦土が出てきて・・・という流れ。
つまり、ここが加津野隠岐こと、真田信尹屋敷跡と比定されてるアレ。

武田二十四将展でも出ていた陶磁器などがここから出たわけですね。
今は、農道になっていて遺構は埋設保存中。

信尹が屋敷を持ってるんだとすると、昌幸だって屋敷あったでしょうね…
昌幸の屋敷だってあるとわかるといいんですけども。

おもしろいのが、甲府から屋敷を移したのとそうでない差。
真田丸では、我らが本拠地・・などと穴山梅雪が言ってましたが(汗)
穴山梅雪だって、武田逍遙軒だって移してないんですね。

新府に居を移したのは、勝頼に近しい面々のみ。
そう考えれば、昌幸もあったと思いたいですね・・・

武田信虎の石和から甲府への移転よろしく、
伝統ある武田にあって、本拠移転はなかなか難しいわけです。
決定的に武田家中が分裂しちゃったんですね・・・新府城築城。

◆顕了道快の逃避行◆

これ、「大いなる謎真田一族」にも記載があるのですけど、
後に第一次上田合戦後、更なる対徳川対策として、
信玄の子たる武田竜芳が生きていて、上杉に匿われている、
と偽情報を流し、徳川配下の武田遺臣の動揺を狙うのですが…

このとき、本当に生き延びていたのは竜芳の子、顕了道快。
後に還俗して、武田信道となります。今に続く武田宗家の祖。
武田竜芳墓所のある入明寺には、犬飼村に逃げたと記録があり
ずっと信濃国安曇郡犬飼村に匿われていたとされていました。

が、実はどうも安曇ではなく、飯山の犬飼村らしく、
浄土真宗の牙城だったところだとか。
飯山の犬飼村というと、信濃国高井郡。
相当な上杉領に近いところであります。

浄土真宗は武田とも縁が深く、三条夫人を通じて、
信玄と顕如は義兄弟に当たる間柄ですし、
武田滅亡後は上杉に通じ、織田方に一向一揆が起こり、
また三河一向一揆や石山戦争の生き残りを匿うなど、
反織田の機運が高い地域。

この匿われた顕了道快、甲府長延寺
(現東本願寺甲府別院光澤寺)で信玄の御伽衆の
一人であった実了師慶の下で出家するわけですが、
この犬飼村は長延寺の知行地だったとか。

信玄と浄土真宗のつながり、そして顕了道快が
出家した経緯とそのつながり、かの地の気風と長延寺のつながり。
なぜ顕了道快が逃げ遂せたのかがわかるような気がしますよね。

・・・というわけで、興味深いお話いっぱいの2時間。
やー、ちゃんと振り返るに値する深い内容。

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blog開始13周年 - 「古記録」たるblogから再構成する、わたしの歩んできた道

さて、2/1はこのblogはじめて丸13年になります。
まぁ・・・毎日書くことに特に意味を見出してはいないので、
けっこう更新間隔、開いてはいますけども。

基本的な目的は今も変わらず、考えたことや
体験したこと、見聞きしたことをしっかり記録して、
後で振り返られるようにすること。

興味の移り変わりを振り返って、ちょっと一歩引いて、
わたしという人間の好奇心の移ろうさまが
また興味を引くものであるし、今後の自分に向けて、
フィードバックさせたい、という思いも持っています。

そして、それを小出しにして切り出して、
誰かにおススメしたり、こういうのに興味があるという
ことをお伝えしたり。blogの全体からも、
nikko81って、こういう人間ですって、自己紹介になればと。
そういう意味で、誰かの役に立ったらいいな、は副産物。

なんですけど、昨年2016年に今までなかったことが・・・
それは2016年にほとんど2016年の話が書けなかったこと(爆)
そんなだから、ちょうど今去年の今頃シリーズなる
謎の記事シリーズをはじめているわけですが(笑)

だいたい年末に押し込んで、できなくても1月には
終わらせて、blog開始記念日の2月1日を
迎えるときには、書き終えてるものだったのですけど。

こんな年もあるんだなぁ・・と思いつつ、
歴史を研究する専門家の方のインタビューで、
ちょっと「あ!」と思うことがありましてね。

真田丸の歴史考証をされた中のお一人、
丸島和洋先生のインタビューから。

曰く、同時代人が日常生活・業務のなかで作成した、
古文書や古記録、つまり日記などから、客観的に
事実を再発見・再構成することが、歴史学の目的だと。

このインタビュー自体、一般の歴史に興味のある者にとって、
ある歴史上の人物が好きだったり、関心をもったとき、
どう対峙すべきか、対峙しようと心がけるべきか?
といった意味で、非常に参考になるわけですけども。

しかし、別の関心を持って捉えると、四百年どころか、
わずか十数年、あるいは数年前だけれども、過去の自分が、
当時記録した「古記録」から、事実を再発見・再構成する
というのは、わたしが感じるblogの醍醐味と重なるなと。

この2016年の間に、2016年の出来事が掛けなかったくらい、
本当に楽しいことも、つらいことも、何もかも、
怒涛のように起きていたという、後から振り返ったときに
感じる2016年の捉え直し、というのがなにやらおもしろいなと思えて。

史料からわかる史実、史料と史料の間隙から炙り出される史実
それらをつなぎ合わせていくことでわかる、歴史のおもしろさ。

それを自分の記録たるblogに当てはめると、
2016年に当年のことが書けなかったという「古記録」と
また別の何か、それとも今後起こる何かを合わせて考えると、
自分にとっての2016年って、そういうことだったのか・・・
というようなことがわかるかもしれないのかな、なんて。

ある意味、わたしはわたし自身を活きた「歴史」として、
捉えることに意味を見出していたのかな、と思ったりしたのです。

本当に凝りだしたら、それこそインタビューであるように
レシートひとつとっても、自分にとっての「史料」になるわけで、
実際、とあるウイスキー(今年開封予定)のレシートは
今でもとってあるんですけど、まさに史料だなぁと。

やりきれないくせに、やけに完璧主義の残り滓だけが
燻っていたりするので、思った密度の記録を
思ったタイミングで残せないと、いらいらしたりもするんですが・・・

記録に残したいという思いはあるものの、
記録が追いつかないくらい激動だったということが窺い知れること
というのもまた、残すべき「史実」なのかもしれないなー。

ということで、書ききれないということにも、
なんだかポジティブになれるような気がした、blog14年目。

わがココログを担うニフティがノジマに譲渡される、
というニュースを目にしました。

ホント、ココログストップだけはやめてね。
ココログ出版もなくなっちゃってるし、
14年もの間書いてきたのを、どこかに移すのとかって、
めっちゃ大変なんだから。おねがいしますよ、マジで。

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