2023.04.10

53歳と45歳

歳を重ねると、なぜだか、その年の差を感じにくくなる。

今日は、わたしにとっての大切な人の誕生日。

まだこの世にいれば、、、53歳。

 

わたしが関わりを持ったとき、若い大学生と27歳のお姉さんだった。

でも…差は同じなのに、今単純に数字だけをみてしまうと、

その時に感じた年齢的な距離感があまりなくなってしまうな。

…それくらいの年月が経ったのだな、と。

 

この四半世紀、ネット空間でいろんな人と関わってきたわけだけど、

ずっと心に残っている人も、珍しいかもしれない。

 

関心でつながるネットでの出会いは、ほんとに楽しいものだけど、

彼我の関心もまた移ろいやすく、社会変貌の影響を

容易に受けもするわけで、そうそう長続きしないもの…ではある。

 

2008年以降のウイスキーつながりの方々はまだつながりがある方で、

それ以前はプラットフォームの盛衰やライフステージの変化、

個々の事情もあって、つながりを持てる人は相当限られている。

 

その意味では、その関係が固まってしまっているからこその、

こうした年1回思い出す…思い出せる…思い出そうと思える人なのかもしれない。

 

やっぱり、価値観に響くところが大きかったんだろうな。

|これからも,お互い「書きたい衝動」を大事にしようよね。
|いつも何かを見て何かを感じられるように。
|無関心・無感動・無神経,にならないように。

とか、代表的に、記憶に残ることばである。

 

どれほど体力や気力にあって、まわりの変化に柔軟に付き合えると

胸を張ったとしても、これまでに通り過ぎてきた過去との

距離感に向き合わねばならない実感が、歳を重ねている現実を突き付けるよね。

 

時間感覚の違い、これはやはり年を重ねないとわからないものかもしれない。

そういうことも土産話にして、向こうへ行きたいものだね。

経験したくても、できなかった人…だからさ。

 

還暦迎えるときには、赤いチューリップでお祝いしよう。

2023.02.01

End of Era"s"

2/1は2004年にblogを、2011年にTwitterをはじめた記念日、ということで
毎年振り返りの機会にしているのだけど、それよりも…
1/13以降のとある事件のことに言及せざるを得ない。

というのも、TwitterがAPIの公開に制限をかけ、非公式のTwitter
クライアントアプリを実質的に締めだしてしまったからだ。

人によっては、公式アプリでも十分その人の用を満たしているのだろうけど、
情報収集にあたって、とかく見逃しを嫌い、設定した範囲(=フォロワー)の情報は
すべて目を通したい欲望の強い人間にとっては、非公式が必須。

かつて、Twiccaが提供終了になったときも大層苦労したものだが、
今回はほぼ行き先がないという苦境。

幸い、Twitpaneの作者様がいろいろ知恵を絞って生きながらえる方策を
探ってくださっているので、当面は致命的には困ってないが、
当たり前だけど、こうした情報収集の重要な術の存立が、
一企業の、それも外国の企業の判断に依存している怖さを思い知る。

かつては、自分でWebsiteをつくって、blogサービスに移り、
そしてmixiからSNSの世界に入り、今やTwitter(とその他各種)と
プラットフォームを変えてきたわけだけど、危うさを孕んでいながらも、
関心事で縁を紡ぐためには、SNSは欠かせず、そして関心事に繋がる情報を
網羅的に触れてしまう欲求が膨れ上がってしまう。

あくまでSNSは「広告媒体」が本質なのだけど、いつしか
インフラ的な側面を帯び始め、しかし経営観点で広告媒体としての価値向上に
軸足を移してしまうと(向上しているか?はさておき)、
そうした関心事で人と繋がるためのインフラは、いとも簡単に危機を迎える。

人と人との縁は、何らかの共通項はあって成り立つ。
血縁、地縁が基本的な縁のでき方で、学ぶという共通項からは学縁、
同じ会社や同じ業界という仕事の縁(社縁?)というように広がっていく。

だけど、ここ四半世紀くらいで、自分の持っている関心事で縁を紡ぐことができて、
いろいろあったにせよ、基本的にはそれをものすごく楽しんできて、
いろいろな知的な刺激や価値観の醸成につながってきたなと思っていたのだけど、
こんな簡単に関心事に従って情報収集する延長にできる、
そんな縁の紡ぎ方に不安を憶えるとは…と、ちょっと愕然とする。

多少大げさではあるのだけど、ある意味では脆い基盤のうえの、
こうした関係性の構築のやり方だけに依存しないように見直さないといけないのかもな、
と、あれ以来思うようになった。関心事で縁を繋ぐことに、ちょっと無邪気に
信を起きすぎていたかもしれないな、と。

改めて思えば、繋がるとの時は関心事という共通項はあったわけだけど、
他人も自分もたまたまその時に、関心が交錯しただけであって、
自分も他人もその向かう先は、いつも確かな方向を向いているわけではない。

関心でつながるということは、彼我の関心の変化で実質的なつながり方が変わらざるを得なくて、
つながっているままの面倒さ、苦しさ、鬱陶しさは、血縁、地縁などとはちょっと質が違うが
でも、やっぱりありはして。お互いをつなぐ「興味」がそれぞれ遠くに行ってしまってなお、
繋がっているその関係は何なのだろうか。

プラットフォームを一企業の判断に委ねざるを得ないという意味での危うさだけではなく、
そもそもの、関心事で繋がること自体の危うさもあるではないか。
人付き合いのあり方にどう向き合っていけばいいのだろう。

Twitterrificの作者が、Twitter非公式アプリの締め出しについて、
ある一つの時代の終わり…End of an Eraと表現したのだけど、
そうしたTwitterの一時代というだけではない、この四半世紀の見直しを突き付ける、
という意味でも、ある種の一時代の終わり…の始まりかもしれない。

自分の中だけのことか、多くの人もそう思うことに今後なるのかは解らないが…

2022.09.09

WAGAMI NO OWARI

物騒なタイトルだが、「そういう欲」にとりつかれたというわけではない。
とりあえず、ご安心いただきたい。

40代も半ば。ちょっと所感が変わってきているな、
という印象があったので、blogの前身となる、
Webサイトに文章をあげはじめた
この、重陽の節句に書き残しておきたい。

年齢というよりは、両親の他界とコロナ禍による生活の変化によるものか…
終活を考えねばな、という気になっている。
そう、「我が身の終わり」を意識して、そこから逆算して
どう歩んでいくのかということだ。

・一旦これまでの価値観は横に措き、今これから何をしたいのか。
・自分の持つもののうち、何を誰に伝え、残していくのか。あるいは残さないのか。

そんなことを大事に考えながら、過ごしていくのがいいのかな、という感覚。

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減量もしたことだし、フィジカル面では、実はあまり老いを感じることはない。
いつもどこかに痛みを抱えていたりもないし、体力の劇的な衰えもない。
血液検査の結果も比較的良好。まだまだ酒やうまいものも、楽しめそうだ。

食べる量が…という話はあるが、それは年齢による代謝の問題で、
感覚的な老化感とは、また別の話である。

白髪は増えたが、特に髪が薄くもならず、なぜか肌つやもいい。
このあたりは、温泉のおかげなのか、よくわからない。

メンタル面はといえば、一時期のメンタルが疲弊し、それがフィジカルの
不調にまでつながって、軽い(?)鬱状態を経験していた頃から比べると、
メンタルの調子も実にいい。まさに、甲府効果といってもいい。

だから、老いたと感じるから、終活せねばと「受動的に」考えるのではない。

跡を濁さずにその日を迎えることを目標に、限られた残り時間を横目に、
自身の欲と正直に、どういう欲も否定せず、向き合ってみる。

そのことで、仕事を通じた成果を励みに生きていく価値観の行き止まりから
脱却して、日々の指針のようなものがつくれるかもしれない
という気になってきた、というわけだ。

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亡くなる数年前から、仕事の悩みやつらさを話したときに、
親父がアドバイスしてくれていた「第二の人生を考えよ」というのを思い出す。

やり手の技術屋として、社内で高い評価を受けていたものの、
自分の意思で仕事を決めきりたいと、脱サラ・自営業に投じたわけだが、
そういう自らの身の振り方を踏まえ、根本的に今までと違った
過ごし方を考えてみてはどうだ、ということだった。

もちろん、それは想定としては、転職を促すものではあったに違いなく、
そういう検討もしてないではない。

しかし、今やもう、仕事を通じて、仕事を起点に、自分の生き方を規定する
ということに対して、もういいかな、という感じで。

「コロナ禍による生活の変化」の最たるものは、甲府への本拠地の移転である。
甲府という地に決められたこと自体、生まれや仕事に依拠しない、
純粋に、楽しく過ごすことの為に決めたわけだ。

テレワーク化という恩恵はあるものの、「今何が本当にしたいのか」に忠実に、
そして迅速に行動に移せた結果でもある。

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とにかく(男性としては)かなりおしゃべりな部類の親父なのだが、
大学生の終わり頃か、社会人になりたての頃か、
60歳にどうなってるかを考えて、今の歩み方を考えろとよく言っていた。

ほんと…「よく」というレベルではない。「耳にたこができる」という表現ですら、
物足りないくらいの頻度と熱量で語っていた。

しかし、1960年前半頃の20歳と、1990年後半~2000年頃の20歳とでは、
あまりにも状況が違いすぎるのである。わたしには結果的にできなかった。

そうして、長期の見通しが立てて、その結果かどうかか、成功できた人も、
わたしの年代でもたくさんいるのだろう。

とはいえ、どういう職に就いて、どういう成果を得たいか、それについての
自分なりの見通しを明確に持っているだけ、わたしは自分でまだマシだと思っていた。

そこから約20年。

この娑婆世界、思うようにいくことなどまずないとはいえ、あまりに予想もしない、
多様なキャリアの積み重ねとスキルアップ、そして年を経るごとに、
おもしろくなくなっていく方向に、悪化していく業界の環境。
自分も世の中も、思い描いた変化の範囲を超えて、
全然違った様相になってしまっている。

60歳時点を思い描いて、軌道修正をしようとしていれば、
その計画通りではないにせよ、うまくいったのだろうか?
その時もそうだし、今でもわからない。

ただ、ようやく45歳から60歳を思い描くということは、できてはいないが
できそうな気にはなってきた、あるいはできる環境になった
という気持ちが芽生えている。
それを、「早めの終活」と表現してもいいのではないか。

…………………………………………………………………………………………

改めて思うのは、その対象には移ろいや揺らぎはあるものの、
何であれ、自分の関心に向き合って生きたい、という気持ちは
ずっと持ち続けてきたなということ。
逆に言えば、関心の無いものは全く手を出す気にならない。

そして、決してその欲をヘルシーに満たせてきたわけではなく、この15年ほど、
ずっとこの向き合おうとして、届かないもどかしさを感じてきて、
5年前ほどにその鬱積が爆発しまい、心が病んでしまったのだろう。

ある時期から、Twitterのプロフを「溢れる好奇心と知識欲で生きるツイ廃」と
変えたのだけど、城や武田信玄、ウイスキー…などなどの個別の案件で、
自分の本質を語れないな、と感じたからだ。

「関心のあることについて、知りたい」

おそらく、これがわたしの本質的な性質だろう。

関心のない/薄い事柄、これまでやらなかったあれやこれやを思い出してみても、
やる機会があれば、避けはしなかっただろうが、ないならないでいい。
自分から求めるくらいなら、もっと自分の関心のあるものに寄り添いたい。

極めて自分勝手ではあるけれども、たぶんどれだけ過去に遡っても、
また何度過去に遡ろうとも、変わらないだろうなという、変な確信がある。

再び、こういう仕事をしたい、働き方をしたいと気持ちがシフトするかもしれない。
それは、そのときの自分の関心にフィットしていさえしていればいい。

たまたま、条件が整って決めた甲府に移ったことが、突破口になって、
ようやくこれからは、自分をだまさず、素直に過ごせるように、
気持ちと想いの整理が付きつつあるのかもしれないな。

※甲府にきたのもあるし(1年以上経つが)富士山にテンプレ変えてみた。

 

2022.04.10

亡き人との過ごし方の、新たな時代に向けて。

年に何回かある節目の日、である4/10…

毎年、この日がくると、、、、

いろいろ起きたことを報告したくなる。

 

特にこの1年、変わったな、いいように変わっていくな、

という感覚があるだけに、より一層姉さんと

共有したい思いが強いことを再認識する。

 

先日、佐倉の国立歴史民俗博物館で

特集展示 亡き人と暮らす」という展示が印象深かった。

実は昔も今も、その世界の広がりに応じた、

故人を偲び方の多様さがあるのだなと思わせられる。

 

この特集展示にはなかったけれど、blogなど

ネットに残るコンテンツが亡き人との過ごし方の

一つのあり方になっている。

 

その先駆けのように感じられるのは、やはり飯島愛さん…

だけど、彼女の後にもそうした思いの寄せ方のかたちが

他にもあるようだ。

 

飯島さんが亡くなったのは2008年。

わたしが振り返る方は、2006年に恐らく亡くなっているので、

有名人ではなくともその頃くらいには、そうしたあり方が

他にも事例としてあったのかもしれない。

 

父母も亡くし、身近な人に先立たれるという経験を重ねるにつれ、

残った人は辛いよね。自分のことは忘れて欲しいけれど、

忘れてくれないならせめて悲しまないで欲しいかな

という姉さんの言葉の、具体的な気持ちの落ち着け方を見つけられた気がする。

 

故人を身近に感じ続け、でもポジティブに生きる方法。

これをちょっとうまく自分の生き様に活かして

いければな、と思っている。

 

それにしても、この世から去る人の言葉として、

「忘れてくれないなら、せめて悲しまないで」

って、すごい言葉だな。

 

名言やで、姉さん。

2022.02.01

ポジティブになれるしあわせ

blogはじめて17年、Twitterはじめて11年…

 

長年、昔を振り返るばかりだった

blogを書くという節目のタイミング。

 

そのことよりもこれから何が起こるのか、

という変化への楽しみと不安が織り混ざる最近。

 

決して楽観的にばかりなれないけれども…

なんかいいように向かう気持ちが続いている。

 

もうわたしも正午を過ぎ、昼下がりである。

でも、日の光が眩しく輝くのもこの頃のはず…

いい兆しがあれば、チャンスを逃さず、

目敏く生きていきたいと思うそんな、旧暦元日。

 

 

2021.12.31

retrospective

さて、恒例となった大晦日blog更新。

 

まー、自分でやって自分で言ってりゃ世話ないですが、

甲府で新しい拠点を得たことは、ただ武田を学ぶ為だけでなく

すごく多面的な変化を、わたしにもたらしました。

普段いる場所を変える効用とはこんなにも…と驚愕。

 

まだまだ先行き不安はありますが、自分で起こした変化で

何となくポジティブになれていると、

そのそこはかとな不安も、軽減される気もいたします。

 

とはいえ、武田信玄という人に関心を持ってなかったら、

今、その関心の盛り上がりが最高潮に達していなかったら、

などなど考えると、御屋形様に感謝であります。

 

本来ならばイベントたくさんあったであろうとはいうものの、

生誕500年ということもあって、比較的多くあった方では

という気もしています。ご尽力された皆さんにも感謝。

 

生涯を紹介するという定番も多かったのですが、

信仰や価値観に迫る内容もままあったように思っていて、

関心持ってるので当たり前っちゃそうですが、

すごーく、わたしの価値観とフィットするのですよね。

 

これ、結果としてフィットしているのではなくって、

ひょっとしたら、わたしの価値観の形成期に出会った結果、

下地になる何かが、実は信玄公からも

少しはつくられていたのでは…という気も。

 

なかなか整理は進まなくて、いつになれば…と

絶望に近い感覚もありますが、小中学生頃のわたしの足跡を

紐解けばヒントになるものが眠っているかもしれない。

 

母が丹念に記録として残してくれた幼い頃の写真を見て

実に幅広いところに出かけ、またいろんな

知的な刺激を貰っていたということを改めて感じています。

 

来年いよいよアラフィフであります。だからなんだというと、

何も劇的には変わらないのですが、40代に入って

人生後半戦だなという思いが強まり、その40代も半ば。

 

これから自分が、環境がどう変化していくかに

気を配るだけでなく、そろそろ自分の、

決してうまくは行かなかった足跡を

「一次史料」で振り返りながら前に歩みを

進めるのもいいかな、と思う日光なのでありました。

 

 

 

 

2021.09.09

甲府時代 - 新たな時代の幕開け…?

頻繁な更新から遠ざかって以来毎年、

2月1日、4月10日、9月9日、12月31日

は数少なくなったblogの更新する日にしている。

 

Blog&Twitterをはじめた2月1日

大切な人の誕生日の4月10日

Webページをはじめた9月9日

そして、大晦日

 

これまで節目としてきた日々なわけだけど、

9月9日で、Webページからは21年。

でも、今年は甲府に遷って約半年という節目でもある。

 

当初はどうしても「武田信玄の生涯」展に行きたくて、

でも東京が緊急事態に…ということと、大学入試の時期で、

今なら物件がある!ということで、えいっ!っと

相当「発作的に」決めた感がある。

 

とはいえ、昨年から予算も決めて、希望物件の地域を絞って

リサーチ続け、物件を見学も何度かしていたし、

ハザードマップ見たり、それなりに準備はしていた。

 

が、諸事情で、東京も引き払うわけにも行かず。

一方で、東京との行き来は最低限にしていることもあり、

東京の整理も付かないまま、また実家である大阪の整理も

つかないまま…中途半端なまま、のコロナ禍2年目。

 

そういう意味では、「発作的な」二拠点生活の始まりだけど、

わたしにとってのニューノーマルの場となった

甲府での日々は、極めて快適そのものなのである。

 

かつて、父が住まいを選ぶときに、景観、例えば、

大阪城が見えるだとか、そういうのはすぐに

日常になってしまうと、詮無いものだ…と言っていた。

 

ここが関心を深く寄せる武田の御城下だ、という意識は

「武田信玄の生涯」展が終わって以降くらいから、

当初に比べれば、そのほとぼりは冷めてはいる。

 

だけど、近くに関心のあるものに溢れているというのは、

やっぱり精神衛生上、いい。図書館も近い。

コロナ禍がなければ実現し得なかったであろう。

 

ただ、それだけで快適とはなかなかいかない。

日常あっての「住」である。

 

ところが、人が多くなくコンパクトな甲府だからこその、

都会過ぎない心地よさが、ちょうど合っているように感じる。

 

食事にも困らないし、移動手段は…普通の人なら

クルマがないと困るのだろうけど、むしろわたしは平日でも

歩くキッカケができて、満足すらしている。

 

通勤するより、テレワーカーでいて、夜な夜な運動する方が

よっぽど健康的。そして何より温泉の身近さ。

これも歩けるからというのもあるけど、いくつかの温泉を

ほぼ毎日楽しめる。家の浴槽の出番がほとんどないくらい。

 

懸念した夏の暑さだって、昼の刺すような暑さはあるけど、

大阪のうだるような蒸し暑さとは、また質が違っていて

夜になれば、むしろ快適なほど。

 

過ごし方を工夫すれば、なんてことはないのである。

 

旬になれば、あちこちで、それも「え?」というところでも

果物が売っていて、いい思いもした。

 

行きつけの飲み屋もできて、ちょっとお話しするのが

楽しみにしているお店もあり(以前から、という店もあるが)

水泳でトレーニングすることもできる。

 

父母が眠る地も、この甲斐国内だから通いやすいし、

甲府以外の関心ある史跡へのアクセスも当然◎

いざとなったときの、東京へのアクセスだってよい。

 

こうして思い返していても、困ったことや後悔することが

ホント思い当たらなくて、関心の深い物事に溢れている

憧れの街が、日々の生活の場としても快適だとは……

こんなにも、わたしに最適化された「恵まれた環境」はない。

 

また、これまで住まいが東京にあっても、平日は職場で

休日はあちこち旅していたわけだから、

住まいとしての「東京」の機能は、実は恩恵に与ってなくて、

それほど常時、必須なものはなかったのかもしれない。

 

そもそも今まだ緊急事態だけど、東京のBARに行きにくい

というのはあるかもな。

それもまぁ、平日はちょっと難しいにせよ、

行こうと思えば行けるしね。

 

当面難しいが、いずれは大阪も東京も引き払う日が来る、

と思っているけど、長く居ると今の所感から変わるかな?

 

日本の歴史の区分けは、政治の中心を冠するコトが多い。

奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、

江戸時代、、、、、以降は元号で表現するけど、

言ってみれば、まるっと東京時代ではある。

 

これに倣ってみると、生まれて約20年が大阪時代。

働き始めて約20年が東京時代(実は千葉も数年あるが)、

そして今、甲府時代は始まったばかりである。

 

2021.04.10

51歳おめでとう、そしてありがとう、でるふぃさん

ねえさん、お誕生日おめでとです。

いかがお過ごしでしょうか。

 

相変わらず、こちらはコロナウイルスに翻弄されています。

でも!だからこそできたこと、甲府に拠点を移しました。

 

この歳になっての新生活!を楽しんでいます。

ね、またネタができましたよ。お楽しみに。

 

ちょっとこの数年塞がってましたけど、

なんだかおもしろくなってきた感じです。

 

「無関心・無感動・無神経」にならないように、

まだまだ楽しまなくちゃ。

 

また、今年も「でるふぃ・たうん」を訪れる。

よかった、あるある。すっかり墓参りですね。

 

そちらに旅だって15年か…

姉さんもそちらの生活、長くなりましたね。

ふふ、ずっとそうか。ははは。

あのとき、にししさんの記事に出会えてよかった。

 

思えば、でる姉さん40代を生きたことがなかったんだな。

もう姉さんの歳をずいぶんと通り越したわけで。

 

誰かの分まで生きる、だなんて

ずいぶんと思い上がったことだと思うけど。

 

辛いことも楽しいことも、知り得なかった新しいことも、

亡き人が見聞きしたら、どう思うだろう、

と考えることは、自分の生きる糧の一つになっていくな、

という気持ちになってきている。

 

そして、こうして思い返すことで故人は生きている

と言いたい自分に改めて気づく。

 

親族の方や所縁のある方が思い出し、弔われて

その人々の心の中で「生きて」いるのだろうけど、

ほんの少しばかりのつながりを持った人間であっても、

その「生きる」断片を担がせてもらえたらうれしいな。

 

改めてありがとう、でるふぃさん。

2021.02.01

17 & 10

さて、2/1である。blog開設・Twiter開始記念日。

そして、まもなく社会人生活満20年を迎えようとしている。

 

2000年にWebサイトを始めて21年、

そしてBlogが17年、Twitterが10年。

 

大学生の時に、何か思いの丈をぶちまけたい、

書きたい衝動のまま、媒体を変えながら、ここまできた。

 

しかし、blogにしても、その後継になった

ツイート+Togetterにしても、何か出かけたり、

本を読んだりという記録が主体になっているな、とふと。

 

本来、書き付けたかったことは、それだけだろうか?

 

そもそもは思ったことを残したい、というのが

表現を残す切っ掛けだった。それがいつしか…

ある種のハレの記録が主体となって。

 

もちろん、そのハレの記録にも何らかの、

それも関心の強い事象についての思いは

残されているのだけど…

もっと、普段考えていることがあるはずで。

 

ということで、3ヶ月くらいを目処にひとくくりにし、

何か思いを語るツイートをTogetterに残していき、

振り返ってみようと思う。

 

結構、重複することもあるだろうけど、それはそれ。

それだけ、関心が深いということで。

 

何かの拍子に振り返ることのできるものを持っておくと、

割と有益なものだ、と無邪気に信じている。

 

世の中一般としては、コロナ禍で閉塞している感があるけど

極私的には、何となく閉塞した時代が終わって、

ほんの少しずつだけど、拓けていくような期待を持てる

心境になっていると思っている。

 

だから、その端境期でこそ何を思うのか、

改めて残しておこうと。

blogのようなまとまったカタチでなくとも、

断片のつなぎ合わせでいいから。

 

出来事ベースの振り返りはこれまで通りできるけど、

特に強く表現した、と実感できることを

年末に改めて読んでみると、どう思うかな。

 

…ささやかな楽しみである。

 

 

 

2020.12.31

少しずつ、少しずつ。

頻繁に更新していた2015年頃までとちがい、blogの更新が

半ば儀式的になってきた昨今。それもまた自分にとっての、

新たなblogの意味かなぁ、と思いつつ大晦日の更新。

 

このような禍々しい状況にあって、2020年が

しあわせな年でした、と振り返ることのできる人は

極めて少数派だろう。

 

わたしも決してかけがえのない、最高の年でした!

というつもりもないのだけれど、かといって

それほど最悪な一年と呪うほどでもなかった、

というのが、率直な感想だったりする。

 

本当に本当に偶々すぎるのだけど、

よくこのコロナ禍がこのタイミングで来たな、

と、妙な安堵と覚えざるを得ない。

 

仕事に行き詰まり、精神を少し病んでいたとき。

両親を支えることが重荷になっていたとき。

 

最悪というなら、2017~19年の厄年の間の方が

よほど厳しかったわけで、この間に、もしも、

COVIDが襲来していたらと考えると、

ほんとうに恐ろしい。ただでは済んでいないだろう。

 

厄が明けた今年は、誰もが苦しい状況にありながら、

まだ、安らかに過ごせたなとしみじみする。

 

とはいえ、誰もが予想しない世の中へと変わっていくなかで、

自分自身の価値観の変化に気づいたり、

関わりのあるいろんな人の、普段は奥底に眠っている

価値観の表出に出くわし、驚いたりもする。

 

ひとつひとつの多様な変化が飛び交って、

これからどうなっていくのかが本当にわかりにくく、

深い霧に包まれたままだ。

 

大げさに言うと、新たな時代が突然始まり、

しかし「その時代とは何か」は徐々にしか見えず、

後になって振り返ってみたときに、はじめてわかるような、

端境期にいるんだなという思いを強くする。

 

昨年の今日に書いたことを改めて読んでみると、

身の回りのごくごく狭い世界で起きていた

激動の日々を過ごすだけで、精一杯だったんだな、

と改めて記憶によみがえっていく。

 

そして早くも、もはや遠い過去になってしまった

と思えてしまうほど、この1年は世界全体が激動の日々で

何が始まったのか具体的には表現しようもないが、

なんだか前に進んでいる、そんな気はする。

 

コロナ禍前には、「来たる変化をちょっと楽しみでいられる」

感覚もあったけれども、そこまで楽観視することはできない。

にしても、何かが前に進んでいる。

もやもやしつつも、言えるのはそんなところだろう。

 

まだまだ変化することに、振り回されるであろう、、、

そんな来たる令和三年。

 

武田信玄に関心がある人間としては、この先かけがえのない

数年が続いていくことを楽しみながら、一定の安定した

何らかの価値観を得られ、令和年間を充実した時代として、

過ごすことができるきっかけがつくれれば、いいな。

 

関わりある皆様方におかれては、本年もお世話になり、

ありがとうございました。来年も引き続きご贔屓

くださいますと幸いでございます。

 

令和三年、よい年になりますよう。

2020.09.09

20年という年月を経て

Webページをはじめて今日で20年。

 

Webページはもう更新していないし、後身のblogだって

もはや節目になるときにしか更新していなくて、

すっかりTwitterがメインになっている…

でも、その日には格別の思いがある。

 

20年前のそれまでとそれ以後では、

自分の何かが違っているということ。

 

そして変わったその日から、今に至る連続性を

感じ続けていること。

 

一方で、あの日思い描いていた未来とは

大きく違っていること。

 

人生、とかく思うようにはならぬもの。

思うようにならないのは、悪い意味でもそうだけど、

よい意味、棚からぼた餅のような意味でも、

思った通りではない、、、

と苦しかった厄年を経て思ったりもする。

 

出口の見えない時を経て、まだ出口を出てはいないけど、

出口はこちらにあるんじゃないか、という光を感じながら、

ままならない日々を生きている。

 

自分事としても、世の中事としても、カオスを経た先の、

陽の差す方へ向かって進んで、新たな安定がみつかるかも…

そろそろ、そんな気になれてきている。

 

「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という。

今は間もなく陽に転じると思い、またいずれ、

陽極まり陰に転ずるときへの備えを思いながら、

それでいて、20年前からの思いを発する習慣は常に忘れず。

 

語り振り返る習慣ができてて、よかったね。

インターネットとわたしのインターネット黎明期を

支えてくれた、20年前にお世話になった皆様に

改めて感謝の思いを深めよう。

2020.04.10

こんなことになると思うでしょうか?

今日は、でる姉さんの50回目の誕生日。

50年ってすごいよね。そんな節目の年が

こんな風になるなんて。

 

そちらからはどう見えるかな。

神戸の地震の時ともまた違うだろうし、

姉さんがいなくなってから、こちらで起きていること、

いちいち感想を聴きたくなって、過ごしてますよ。

 

わたしはわたしなりに、何が大事か、

何をどうバランスを生きていくべきか…

思い悩みながら、このかつてない災害を生きています。

 

ちょっとこんなことはなかなか経験しようとして

できるものではない、そう思えば、

ねえさんへの格好のネタ話になるかもしれないね。

 

あ、去年の今はまだ両親がこちらにいた。

この1年のこんな展開誰が予想する?

ホントいろんなことがありすぎました。

 

でも、まだまだいっぱい、いろんなことを

お話したいから、精一杯生きます。

ねえさん、楽しみにね。

2020.02.01

16周年の夜

危うく寝てしまうところでした…久々のblog。

 

そう、今日2/1はblog開始/Twitter開始の記念日。

blogは満16年、Twitterは満9年。

 

すっかり記念日しか書かなくなってから久しいけれど、

まだblog止めてないから!ということで、恒例の記念日post。

 

2019年が、終わりの年だったという感覚が強いとともに、

2020年になって何かが始まるという感覚はあまりない、

ということを年末に書いた。

 

約1ヶ月経って、何かが変わるか?というとそんなに

変わることもないのだけど、兆しがない…

こともないのである。

 

詳しくは敢えて書かないのだけど、あと半年、

例えば自分の誕生日くらいには、明確な変化として

認識できているくらいになるといいな、と思う。

 

第二の人生の始まり、、とまでいえるかどうか

わからないけど、来たる変化をちょっと楽しみでいられる

というのはここしばらくなかったので新鮮な感覚。

 

さぁ、どうでるか。

 

 

2019.12.31

終焉の年

年にblogを書くのは、すっかり数回止まりとなってしまった。

2017年頃が最後で以降は、普段の記録はTogetterに移行。

そして節目のタイミングで振り返るばかり…

 

その振り返りも、苦しい時期が続いていたから、

ある程度似たようなモノになっていた感がある

と、改めて眺めてみるとそう思う。

 

そんな中で、今年のこの大晦日の振り返りは

格別なモノとなりそうだ。

2019年は、「終わり」の年であるという実感があるからだ。

 

上皇陛下の御叡慮の賜物で、お祝いのムードの中で

令和が始まって平成がいよいよ区切りのある時代として

認識をされる過去になったという「終わり」

 

でも、個人的にはそれだけではなかった。

 

・2017年以来わたしを苦しめていた仕事が終わったこと

・両親の命が尽きてその生涯を終えたこと

・厄年が終わったこと(後厄)

 

厄年なんて迷信に過ぎないということは容易いが、

しかし、ちょうどその間は本当にわたしにとっては

危機的であって、精神を壊しかけ、身体も悪くし、

楽しみを何とか貪ることでどうにか過ごしていた

といってよかった。

 

何のために今ここにいて、何故この苦しみを

甘受せねばならぬのか。

この時期の出来事による精神的な影響は、

たぶん不可逆変化ではないだろうか?

かつてと同じように仕事に向き合う気は、

さらさらなくなってしまった。

 

2016年の大河ドラマ「真田丸」や武田二十四将展から

始まった歴史的な関心やお城への関心への傾倒は、

その反動ともいえるかもしれない。

 

たくさんの歴史講演や少しの本を読むことで、

少しでも知的好奇心を満たしそれまで以上に出かけ続ける。

負の感覚に正の感覚を正面からぶつけて

相殺する、とても穏やかならざる日々。

 

それに加えて、両親の病が見つかったことも

ほぼこの厄年の始まりと同期している。

偶々といえば偶々。

 

そしてその終わりもまた、各々の生命力次第

なのであって、また偶々。

が、それを偶々でかたづけられることは

心情がなかなか許さない。

 

わたしは両親ほど人間ができている

とは思えないので、死生観に常に向き合うこの3年間は、

本当に苦しみが大きかった。

当人たちの病の苦しみに比べれば…ではあるのだけど。

 

月に一回帰る労力よりも、帰るたびに悪化していく様子や

会話できる時が限られているという実感、

それでも気の利いた事なんて大してできない現実。

誰しもやることだろうが、○○してやれなかったという後悔。

 

もう残り少ないとわかったからだろうか、

いろんな事を親父が教えてくれた。

あれだけ毎年帰るたびに長く昔の自分の話をしていたのに、

まだ話すことがあったのだ。

 

それは特に母の生い立ちについてのこと。

 

なぜ母があのような性格でいたのか、

これほど腑に落ちることはなかった。

それなのに、なぜこのような、、、と思うと

なかなか落ち着いていられない。

 

せめて仕事がうまくいっていれば、まだ鷹揚に

構えてもいられたものを。

 

誕生日を迎えてすぐの通院の日、呼吸を補助するマスクを

しながらも、調子がよくていろんな会話をしていた車内。

 

何となくボーッと母の顔を眺めていたわたしに、

「何そんなじっと見てんの」といえる余裕があった。

まだ、もう少し、話たりなかったな。

 

令和になってまもなく、突然の母の身罷り。

そこから後追う父、それらが落ち着くまでは

気が遠くなるほどあまりにも長く、また短いものだった。

 

それにしても、父の終活があまりに素晴らしくて、

それでも随分と助かってはいるのである。

最後まで几帳面すぎる父に救われた。

 

父は身罷る間際、全部ちゃんとしてくれてるから後は安心、

と繰り返し言ってくれていた。

しかしそれはあくまでも周到に根回しされた終活の

素晴らしさの上に成り立つものだった。

 

抗癌剤にもよく耐え、もはや打つ手なしとなるまで

何でこんなに?というくらい本当に元気。

 

楽しみにしていたマイウイスキー余市も、

何とか、、何とか最後楽しんでもらえた。

ウイスキーのうまさを知るきっかけになった恩人に

いいウイスキーを献上するのが間に合った。

 

ただ、そんなもう終活を支える日々も終わろうとしている。

時間の流れが幾分緩やかに思え、目の前が少し拓けたような。

しかし、確固たるカタチは見えない。

 

信玄公の「三カ年の鬱憤」ならぬ、、、

日光の「三カ年の鬱屈」というべき

本当に身に染みてつらいと思った時期を抜けたかもしれない、

と思うだけで、まだその先へ手が伸びない。

 

ずっとわたしは「第二の人生」を歩め、

と口酸っぱく父に言われていた。

慰留され続けた会社を辞め、自身で身を起こしたように。

その第二の人生は、これから切り拓いていけるのだろうか?

2019.09.09

重陽の節句にて

今日は、19回目のWeb記念日…というのに、

すっかり、遠ざかってしまいましたねぇ、blog。

でも、止めてませんからね!

 

2016-07年がお出かけなどの記録が追いつかず、

Twitter…というか、Togetterへ以降したのも、

この頃なんですよね。まぁ、その数年前から、

記事が追いつかずに年末にいつもアップアップしてましたが(笑)

 

最初は、平山先生の「穴山武田氏」と丸島先生の

「郡内小山田氏」の感想ツイートまとめ。

最初の旅ログ?的なのは、3月の上田での平山先生、

千田先生の真田丸トークショーのとき。

 

どっちかというと本の読後感想が多かったのだけど、

イベントレポがその後多くなっていく。

 

ちょうど真田丸の頃ですし、また武田二十四将展もあって、

講演会もすごく豪華だったし、インプットが多すぎて

うれしい悲鳴の結果が止むを得ないTogetter移行。

 

blogが出始めたときには、HTMLのタグを打ってる頃よりも

格段に手軽だったのだけど、どんどんサイクルが増す

出かける頻度、そして受けるインプットの厚み…

 

それに応えて行くには、もはやちょっと

blogの速度では追いつけなくて。

 

blogからTogetterに移行する中で記録に残せなかった

講演会や旅の記録もあって、そこはいつの日か

記録に残せるのか…

 

いやいや目先の新しい楽しみを記録していくので、精一杯で

もはや諦めるしかないのか、と思うと寂しい気はします。

 

という中での、blogの立ち位置をどうするのか。

 

以前から書いている通り、思いの丈をまとまった形に

する場にしたいのですが、なかなかね…

 

19年の間にはそれなりの歴史があるし、

うまくも活かしていきたいのだけれども、、、、

日光八十一としての、一次史料ですしね(笑)

 

Twitterは当初、blogの通知用として考えていたのが、

思いっきり主客逆転しちゃいました。

 

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2019.04.10

今年も巡って参りました。

毎年、振り返っては振り返っては懐かしく思う日。

そんな4月10日。わたしの大切な人は49歳なんだってさ。

でも・・・もう年はとらない。わたしがもうその止まった年を

追い越してしまっているのだ。

 

飯島愛が亡くなったとき、彼女のblogが墓碑のようになって

お参りに来た人のコメントで溢れていたことを思い出す。

 

亡くなった人が残したインターネット上の痕跡は、

遺された者にとっての、ある種の救いになる。

 

そして、墓参りするかのように、決まってこの日に

サイトへアクセスしてみる。

 

ねぇねぇ、次の元号、令和っていうんだよ。

ねえさんはどう思うかな。ねえさんの感想が聞きたい。

 

本当にもう、もっともっとお話がしたかった。

どんどん変わるネット界隈について、

いやいやもっとくだらないこととか、たわいのないことも。

 

そちらに行くのはもう少し後、といったけども、

あまりにたくさんのことがあって、

あまりにたくさんの伝えたいことがあって、

語り尽くせないかもしれないよ。

 

多くの人が誕生日に電話を掛けるねえさんだから、

あちらにわたしが言ってもお話できるのには

だいぶん待たされるのかもしれないね。それもいい。

 

わたしもいつか、この世を卒業するとき、

> 残った人は辛いよね。自分のことは忘れて欲しいけれど、

> 忘れてくれないならせめて悲しまないで欲しいかな

ということを言い残したいね。

 

というか、「近い将来の死を確信している人々のフォーラム

という存在があってよかったよね。インターネットが中心の

人付き合いが多くなる今日だから尚更。

 

ネット上、最近だとSNSでのお付き合いについて、

基本的に性善説でいられるのは、彼女のおかげです。

ホント、何度言ったかわからないけど、ありがとう。

わたしの人生のなかで、最も大切な10人に入る1人です。

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2019.03.03

「北条氏康の家臣団」読了…武田との比較

黒田基樹先生「北条氏康の家臣団」読了。「戦国大名と国衆」よそに、武田クラスタが先に北条かいという感じだけど。先の狭山北条氏を念頭に置きながら、北条の黄金時代の形成について学ぶと関心の質にも範囲にも広がりが出ますな。氏康というと信玄と同年代。信虎、信玄、勝頼という三代に対応する形で、氏綱、氏康、氏政を捉えながら読み進めていったのだが、一門(北条では御一家衆というんだ)の人材の豊かさがもう武田から見てみると、もううらやましいことこの上ない。というのと、氏康段階から氏政段階への家老衆の変容に伴い、郡代(郡司)と中央執行部へ分かれていく変容過程に、この人材の豊富さと配置転換のノウハウが生きている点、勝頼目線で考えると、うらやましさに堪えない。

■武田と北条をどの時系列で比較するか…
権力委譲受ける側から見た比較

武田は信虎段階から晴信初期段階において、信虎を追放こそしたものの、信虎以来の重臣との協調体制。それが板垣・甘利の戦死、小山田の病死、最後まで残った飯富の処刑(義信事件)という形で消えていき、代わって譜代家老に徐々に晴信が育てた家臣が成長していく。こうして信玄は信虎追放以来の重臣から脱し、「自身」の家臣により家中を形成していくようになる。一方の氏康は、氏綱から極めてスムーズに権力移行しているように思え、弟為昌の死去に伴う家臣団の再編成や太田越前の取り立てはあったものの、家老衆の家の顔ぶれは大きくは変わらず、家老衆の相互の結びつきを強めるなど、より安定的に進めていくという人材活用において、氏綱の人事の遺産による恩恵を十二分に生かせている。

「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」という、氏綱の遺言状の出だしは、信虎・信玄の関係と比べるとあまりにも対照的だ。しかし年代観点ではなく、これまで語ったような家臣団の変容過程で捉えると、むしろ氏綱段階は、武田でいうと信玄段階に相当するような気がした。氏綱晩年期はすでに北条領国は数カ国を束ねる規模になっていて、ちょうど信玄晩年の頃に相当するのではないか。氏康に与えられた五箇条の遺言状にあるように、適材適所や勝って兜の緒を締めよで有名な大勝利は油断を招くと注意するあたりは、信玄自身の言葉と非常に重なる点がある。氏綱の人材活用法とある内容は、敢えて違いを指摘するなら、信玄の場合はたとえが多く(渋柿の話だとか)信玄自身の文学趣味が出ているところくらいだろうか。出典を隠して信玄の言葉と聞かされると、思わず納得してしまいそうで、氏康経由で信玄が氏綱の遺言状の内容を知っていたのではないか?とさえ思えるほど。

そういう種蒔きというか、人材の幅を広げていく段階というのは武田でいうと、まさに信玄段階。ということは、戦国大名の発達・変容過程としては、氏綱→氏康の家督継承は、信玄→勝頼に相当するようで、武田は組織の有り様としては、北条に一代遅れている感じさえする(いいか悪いかの問題ではない)。勝頼と氏康のそれぞれの家督継承を相対させて考えても、また悲しいくらい対照的。まさしく北条を継ぐべくして育てられ、また(やや遅めだが)死の数年前に隠居したして家督継承を行っている可能性もあって、スムーズだった氏康と、義信事件からの流れで諏方家から呼び戻され、短期間の間に征服国衆当主から武田宗家継承をいう段階を踏まざるを得なかった勝頼、と考えるとその権力基盤の安定度の差たるや、ものすごい開きがある。

■取次役の人材確保という観点での武田・北条比較
勝頼期のひとつの問題点として、国衆の取次・小指南に相当するパイプ役が信玄期と比べると非常に少なく、結果的に少数(跡部や土屋)に集中してしまい、家中の不満のひとつになったのではという考え方を理解している。信玄子飼いの優秀な近習たちが成長し、領国が拡大していく過程で、各最前線の郡司クラスに出世(山県、春日、秋山、内藤ら、馬場は城将)その次の世代として、武藤(真田昌幸)、土屋らがその位置に収まるはずだった。しかし、長篠合戦というアクシデントにより、郡司クラスを担う重臣はじめ大量の家中構成員や、有力国衆当主が討死、能な若手を郡司として前線に出さねばならなくなったという事態に直面して起きたのだろうと思っている。氏康段階の北条を考えると、御一家衆でもやや格下の玉縄北条家と家老三家でうまく取次を分担できていて、しかも比較的うまく世代交代をしている。その結果、自然と氏康が組織において、家格だけでなく、年齢的にも上位に立って采配を振るう環境ができている。

この点が武田家が組織の安定性という意味でやや一歩譲る点だろうか。武田の場合、取次役・指南役に相当する存在の位置づけが信玄の近習という個人単位であって、北条のように家で構成されていないように思った。もちろん長篠敗戦という事件はあるにしても、取次役・指南役を請け負う存在が組織として確立されていない状態で、一斉に有能な人材がいなくなると、組織として混乱するのは想像にあまりある。しかも絶対的に頼れる「はず」の一門も簡単に委ねるわけにはいかない。こういう人材不足は、キャッシュが回らなくなった黒字倒産のような、タイミングの悪さを感じる。

こうして見ていくと、氏綱段階で質のよい家臣団の取り込みを行った上で、よりシステマチックな組織運営に移行していき、さらに次代への継承できる体制づくりまでもやりきったというのが氏康段階とみることができる。前々から感じていた、同じく人材活用の妙が光る武田家と北条家にあって、ここが大きな違い。もちろん、北条も一門が多かっただけでなく、謀叛を企んだり、極端に無能や組織に害をなす一門がいなかったという幸運と組織風土に救われている部分もあるとは思うけれども。

御一家衆という親族も、北条であっても決して多すぎるほどではないし、時には若くして亡くなり、あるいは討死したりはするけれども、組織を担う重要な人物群として人材供給に事欠かない。武田の場合、信虎兄弟はほぼ族滅しているので、自ずと信玄兄弟か子息ということになるが、これまでの歴史的経緯を考えてか、主に外交関係を担う役割に限られていて、軍団を率いる立場になって目立つ人物は少ない。信玄弟なら、典厩信繁、信豊や逍遙軒信綱、穴山梅雪。信玄子息は原則みな国衆当主に送り込まれている。

古典厩信繁の死は痛いけれども、幼少の長老(信豊)の他に、信玄を支える親族衆を信玄が勝頼に宛てがうという、現当主がつくって次代に引き渡せる関係性をつくるには時間がなさ過ぎたんだよねぇ。況んや、組織の新陳代謝をうまくうやるための仕組みづくりをや・・・・こういうところが武田家の難しいところだな。北条も従属国衆当主に据えられた例(氏照や康元のち氏繁)はあるけれども、それで御一家衆が枯渇することはないんだよなぁ。

また、勝頼が長篠合戦を回避できていたら、こうしたシステマチックな組織づくりに着手できていただろうか、と考えてしまう。

■権力委譲をする側の立場から
そして、氏政との両頭体制へ。氏康→氏政を信玄→勝頼と擬えるか、勝頼→信勝と擬えるか。いずれにしても、この時期、上杉謙信との全面対決を背景として、氏政兄弟である氏照、氏規、氏邦らの台頭。氏政への家督継承は1559年末、実質的に1560年から。氏康死去は1571年。11年間の両頭体制。ちなみに信玄が勝頼の為に将軍義昭から一字拝領を求めたのは1570年。勝頼初陣はもう少し前だけど、永禄末年から元亀に掛けて少なくとも信玄からは後継者とされていたとすると、わずか3年弱。この差はやはり大きいと言わざるを得ない。また信勝元服は1579年。

いずれと比較するにしても、注目するべきかなと思ったのは、新当主に属する家臣やその兄弟衆の存在。氏照が取次役として行動を開始するのがが氏康存命時になされていて、徐々にその取り扱い範囲が広がり、発言力が増していく。このような動きはもちろん氏康の意向があっただろうと推測できる。イメージ的に勝頼にとっての信豊のような存在だと思うのだけど(信豊も国衆取次役は?だけど対上杉外交担当などやってたはず)、氏規の小田原帰還と三浦領継承とともに、氏康の意向でそう仕向けるという点が非常に重要なんだと思う。さらには、永禄後半からは氏邦も取次役として活動をし始める。

武田との比較で言うと、取次役にふさわしい人物が、近臣から時間を掛けて育てなくても、一門に任せられる素地があったこと。そして能力的にも問題なかったこと。次世代の取次という立場を前当主の指図でその立場を確立できたことというのは、ものすごいアドバンテージだろう。もちろん、信玄もその点は見越していて次世代の育成に取り組んだ。残念ながら一門から積極的にはなかなか取り立てられなかったこともあり、信玄は真田源五郎(のちの昌幸)らを氏政にとっての氏照や氏邦のようにしようとしたと思うのだけど、昌幸は信綱討死、真田家当主不在という事態に直面し、勝頼としては真田を継がせて、郡司として前線に遣るほかなかったのだろう、という苦渋の選択を想像する。

さらに重要なのは、国府台合戦かなと思った。具体的な合戦の過程はともかく、里見方に勝利するも、家老衆の討死と離叛という一大事が起きたという点。いや、起きたというだけでなく、氏康・氏政の両頭体制の時期に起きたという点が重要だろうと思う。武田における長篠ほどではないにせよ、太田氏離叛、遠山氏・富永氏の討死という状況は勝敗は別にして、晴信初期の上田原合戦くらいのインパクトはあっただろうと思われる。その采配を、両頭体制の時期に行えたのは氏政にとっては、不幸中の幸いではなかったか。勝頼は長篠敗戦の事後処理として、もっと多くの人事を短期間に、しかも滞りなく、納得感を持たせながらやらねばならなかったはずだ。

こうした下地づくりは、やはり事前に隠居した前当主でないとできない仕事だろうな。氏直の時代で滅亡してしまったけど、氏政もこの引き渡しはうまくやれていたのではないだろうか。

■氏康亡き後の氏政の自律判断

最後、氏康末期の武田との抗争。武田との抗争初期に、今川氏真を氏直(国王丸)を養子とし、北条方の駿河支配権の根拠としている点はなかなか興味深い。これが甲相再同盟で氏真は離叛独立した徳川に身を寄せるのだけれども、宗瑞、氏綱、氏康と北条家成立段階からのツナガリを捨ててでも、氏政にとっては、北条家存立のためには武田を敵に回せないのだろうな。これを家督継承直後でやるのと、ある程度場数を経て判断するのとでは大違いだろう。それにしても、武田にとってもかなりの危機だった駿河領有までの過程、北条にとってもかなりの疲弊だったことがすごくわかる。武蔵と駿河への第二次侵攻での攻勢の強さたるや。武田との再同盟に踏み切った後に、氏政が配置転換をスムーズに行えたのも(氏康が存命だったら武田と再同盟したか怪しいのに)氏政自身の経験と権力委譲がスムーズに行われ、氏政の判断に対する家中の納得感があることの証左かもしれない。余談だが、武田の際もそうだったんだけど、そして上杉クラスタから怒られそうだけど、同盟したときに頼りになると思われながら、結局頼りにならないのではないか・・・という感じがする。謙信にしても景勝にしても。なんか真田丸の、何でも請けちゃうんだけど、やり切れない景勝の姿とダブってくる。

■まとめ
総括すると、北条の、というか氏康の人の動かし方について、家中の「イエ」を確立させるという意識が特に高いように思う。武田の場合、信玄も勝頼も、守護家出身と言うこともあってか、これまでの歴史ある重臣らへも配慮しつつ、より有能な人材を如何に取り込むかに腐心しているが、なかなかそれを家という個人から離れた組織化した取り組みには至っていない。これがいいかどうかは別だし、発達段階という概念で捉えるべきものでもないとは思うけれども。北条は勢力としては新興であって、新たな組織づくりを宗瑞以来できうる環境からスタートしているからこそ、家の確立という方に意識が向くのかもしれない。この武田と北条の差というのは、個人的に両家が滅亡し、安土桃山~江戸と時代が進んで行くにつれての様相とも関係している気がしていて。

武田も北条も組織としては、徳川に取り込まれその血となり、肉になっていく。武田はその人に属したノウハウやスキルや技術、そこから派生する「ブランド」的なものを吸収し、北条はその行政や組織のシステムを吸収したような感覚でいる。武田は「武田遺臣」「武田牢人」などとその武田家とのツナガリをアピールして仕官する者がいたりして、しかし、狭山北条氏を少し知っただけだけど、そのような北条旧家臣団ネットワークというような痕跡をあまり知らない。ここまで北条の組織の有り様を、ざっと概略でレベルで眺めてきて思うのは、武田と北条の組織の特性のと違い、組織変容の段階の違い、そしてその相違点をうまくメリットを活かす形で徳川が取り込む際の取り込まれ方の違いということが、こうした江戸時代において戦国大名家の記憶の存在感の差となって出てくるんだろう、と思う。

もちろん、民衆レベルでは、甲陽軍鑑が大ヒットして、武田家臣団が広く知られることになって、今の我々と同じく、二次創作、三次創作と人々の歴史の楽しみ方の中で幾度となく反芻されてきたということもあるのだと思うのだけど、そうしたシステマチックな組織のあり方は重要でありつつも、記憶に残るのは人の記憶なのかなぁなどとぼんやり考える。もちろんバランスの問題はあるのだけど、また属人化の弊害というのはよく知られたことではあるのだけど、、、わたしの好みとしては、やはり、武田タイプの人のツナガリ方が好きだな、と思うのだよ。

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2019.02.01

丸15年を迎えて考えるポジショニング。

このblog、2004年2月1日に始めて今日で15年。
すっかりTwitterにその日常のアウトプットの場が移行して、
まとまった文章を書くことがほとんどなくなった昨今。

近いうちに、以前のようなスタイルで、かつ
blogというカタチで表現することにもどるのは難しいなかで、
blogをどう位置づけるかをずっと考えています。

当初は、もちろん旅やイベントごとなど、非日常の記録も
ありましたけど、日々のニュースにコメントしたりといった
今だともうそれは、Twitterに完全に代替されていますね。

もともとは、HTMLをタグ打ちしていたところを、
より手軽に、手をかけずに、スピーディに表現できる、
それがblogの始まりだったと思います。

Twitterはマイクロブログのひとつとも捉えられますし、
そのblogが実現した「より手軽に、手をかけずに、スピーディ」を
突き詰めた先にあるものの一つなのかもしれません。

だとすると、より時間をかけて、でもジックリ練ったもの
というのが対極にあってもよく、それが今blogになるんだろうなと。

これも相対的なものであって、本格的なWebサイトと
blogを比較してみても、同様の関係にはあると思います。

とすると、何かまとまった主張や意見表明なんかに適してるかな。
実は江戸城や名古屋城についてなど、時折そうした
タイプの記事を書いていたりもしたんです、これまでにも。

お城関係だと、武田家の丸馬出に目下ドハマリ中で、
あれこれ思案しているところですし、他にもいろいろと
インプットを溜め込んだ結果、こう思ってるんです、
ということがいくつかあって、そういうのの投下場にするか…

と言っても、blog自体を新しくつくりなおしたり、
別に立ち上げるということはしないでおこうと思っています。

内容の連続性という意味では、そうしたほうが
分かりやすいのでしょうけれども、一方でわたし自身の
歴史を記しているという側面もあるんですよね。

なかなかそんな文章を練っている時間もなかったりしますが、
それでも15年来、いやHTMLからはじめた19年前から
「書きたい衝動」というのは、いつも何らかのカタチで
燻ってはいるのですよ。そこは変わらないのですよね。

ということで、まだまだ続けていきます。
ココログ、やめないでね。ホント、頼みますわ。

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2018.12.31

本厄の年を終えて

さて、最近すっかりblogにを付けられていませんが、
大晦日くらいはなんか書いて終えましょうか。

金戒光明寺での除夜の鐘、明けての姫路城から
スタートした2018年。
戻って、武田神社での厄除け祈願、それから
深沢城と御殿場蒸留所、そして
ウイスキーラバーズ名古屋2018。
そして丸子城(1回目)と名古屋城本丸御殿。

2月は続いて厄除け祈願として諏訪大社へ。
御神渡も見られてほくほく。
安中の山本菅助展示、上田の平山先生室賀屋代講演会。
秩父ウイスキー祭り・・・のあと、
精神面から休んだほうがいい、また家庭の事情も
あって、長い休みを。

それでも、平山先生の高天神城ツアー行ったり、
姫路城の折廻櫓を見に行ったり、
ふらっと金沢城行ってみたりだとか。

3月に入ると、長野県千曲市の県立歴史館で
公開された信玄公書状を見て、
翌日は極私的に勝頼公の命日に法泉寺・景徳院を参詣。

それから叔父上(真田信尹)ツアー、
山梨県博の富士山&信玄公展示。
『ドラゴンクエスト』コンサートに、恵林寺講座…
最後を飾るのが、信濃丸馬出ツアー。
皆さんに好評だったようでよかったです。

4月になると、信玄公祭りや柴先生、
平山先生講演。個人的に丸子城の丸馬出周辺を
再探索しながら、翌週には勝頼公まつり。
平山先生が勝頼公で大盛り上がりでした。
続いて上田真田まつり。毎年4月は大忙し。

5月はGWはぼーっと休養して、TIBS2018や
甲府の講演会や蔵出しワインバー、
南アルプスから身延、南部あたりの史跡巡り。

6月はウイスキーフェス大阪、
慈照寺銀閣のスペシャルツアー、
福岡ウイスキートーク。
また土の上の花でもつ鍋食べたい。

BRA★BRA FFではスライムTシャツを着て
リアルでFF外から失礼し(笑)、
初めてのお茶会「戦国茶会」デビュー。

7月は長篠の慰霊祭参加、伊達成実生誕450年記念展示。
相馬に行ったの初めてだったなー。
駿河田中城と香川元太郎城郭原画展と西股先生講演、
大石先生の今川氏滅亡講演。山梨県立科学館忍者展、
韮崎の真田昌幸文書展示。

静岡クラフトビール&ウイスキーフェアで
出会ったウイスキーファインドのボトルがよくて。
年明けに開けます。

8月は城郭研究者セミナー。特に今回は馬出が
テーマと言うことで興味深い発表が多く、
誘ってくださった樋口さんに感謝。

その後は夏休みを鹿児島で過ごして、
津貫蒸溜所行ったりだとか、
当家の先祖調べがなかなか楽しく。
一歩一歩調べてもう少しハッキリとした
戦国くらいまでの系譜関係がわかるといいのだけど。
その直後にとんぼ返りで伊達成実御霊屋御開帳
にも顔を出したなぁ。
最後は甲府の平山先生講演で〆。

9月は、下部温泉での療養。冷泉だとやはり暑い頃!
ということで夏にリベンジ。
また折を見て継続的に行きたいねぇ。
今回はお部屋の名前が「山本勘助」なのもよかった(笑)

そして高野山。持明院蔵の武田晴信寿像、
武田勝頼家族像がガラス越しではなく間近で
見られたのは幸せ。それ以外にも高野山に伝わる
武田家ゆかりの品々を拝見。

持明院は一度泊まっているので勝手がわかるのだけど、
蓮華定院はお初。昌幸のお部屋は必見でした。

ウイスキーも武田も城も絡まない
珍しいところでは忍野八海。水のきれいなところは好き。

9月最後は台風の暴風雨をものともしないアホ
(ほめことば)が集合したカロフェス。
大野さんによる似顔絵や迫田さんタオルなど
なんかすごいもんを頂戴しました。

10月は小山田信茂復権の会から始まり、
「武田信玄の城づくり」講演会、
真田丸と古文書の丸島先生講座、
武川祐さん&平山先生講演会、
甲府ん!横丁はしご酒ウィーク、そして10月に移動した
川中島合戦戦国絵巻。毎週山梨県です・・・
4月だけでなく、10月もになっちゃった(笑)

11月は『江戸城の天守』VR見学、そして…!!
個人的にビッグなイベント、
マイウイスキー10周年完成懇親会!
これはもう感慨深かったですよね…
そしてもう早速どんどん飲んでます!
で、ついでっちゃなんですが、厚岸蒸溜所まで。

23日には敷島書房さんの信虎講演会、
翌日は平山先生の「武田信玄と甲州法度」講演会、
そしてウイスキーフェス東京。

12月。John John Festivalの久しぶりのライヴ、
日比谷で特別展「江戸から東京へ」に再度の札幌、
温泉と歴史講演、シンポジウム「豊臣大坂城研究の最前線」
そして、お城EXPO。という感じ。

武田家関係は講演会を目敏く探して参加、お城関係は
お城そのものと言うより座学関連が多かった1年です。
行ったお城もどちらかというと再訪が多く。
あと、ちょくちょく地方のウイスキーイベントを挟んで。

山城行きなどのといった歩くことが少ないなというのも反省。
痩せないといけないからせめてこういうところで
運動せねば・・講演会情報はTwitterさまさまで、
見てるとどんどん情報が流れてきてありがたいですね。

ちょっとお城も武田関係に寄っていた感じがあるので、
もう少し純粋にお城を楽しむのもやんないと。

昨年来の「つらいことを穴埋めするために
必死になって楽しいことを貪っていた」というのは
相変わらずでして。

4月に状況が変わって、楽になるはずだったのが
夏頃から外部要因でまたつらい時期に逆戻り。

まー関係ないじゃん?と言ってしまえばそうですが、
厄年ここに極まれりという感じです。とりあえず楽しい記憶は
Togetterに残すというのが定着してきましたので、
そっち方面のストレスは割と軽減できたかな。

自分の1年前の記事を見て

2018年の今頃には、そんな苦しみも
遠い過去のことのように話せているように願って。

ってあって、あぁぁぁ…となりました。
遠いどころか目下の現実ですよ、ええ。

つながっているみなさまには、まだまだご心配かけていて
申し訳ない限りですが、そういうつながる存在は有り難く、
またいろんなことに関心を持ってきて、それがきっかけで
人の輪のネットワークが広がったことに救われています。

2019年、後厄。まだ眼前にある闇は
消える兆しは見えません。
やぶれかぶれになってしまいそうになる時も、正直多い。
どんどんできたことができなくなっていく
ように思える感覚もある。

週末の楽しいこともその場で終わってしまい、
体系的に血肉にできないもどかしさ。

本を読もうにも気力が起きない時もあって、
その気力のなさにまたイライラしてしまいます。

それでも…それでも、なんとか生きながらえています。

この後どうなるんだろう。長期的な観点で考えることが
あまりできなくなった感じがします。
日々を、今週を、今月を生き抜く。それで精一杯。

せめて兆しだけでも光が見えますように。

2018年もお世話になりました。
よいお年をお迎えくださいね。


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2018.09.09

長い長い、雌伏の秋。

毎年、どんなことがあってもblogを書いている日、
という日があって、それが年に5日あります。
2/1、4/10、7/23、9/9、12/31。

それぞれ、blog(Twitter)開始記念日、
某女史生誕日、自身の誕生日、blogの前身のWeb開設日、
そして、年末大晦日。

というわけで、2000年9月9日に初めて、
自分で表現する場をつくったという記念日に当たる
9/9は、必ず文章を書く日にしているのです。

18年ですよ、18年。書き始めたときに生まれた赤ん坊が
もう大人の仲間入りを果たそうかという頃。

だいたい、それぞれの節目で振り返ったことを書くのが
ここ最近は通例になっていて、未来を語るよりも
振り返りがちになっているのは、よくないなぁ、
と改めて気づいたり。でも………語れない。

わたしにとって楽しく大切な時間を記録に残しきれないのは、
ものすごくストレス、というのは前回書いた通り。

そこで、とにかく思いの丈を語るといった、
当初のスタンスに戻すのがいい、と思ってはいるものの、
結局こうして節目の時にしか、書いていないという有様。

アウトプットってやっぱりエネルギーのいることなんですね。
たががblogであったにしてもね。

今年は、ニッカウヰスキー余市蒸溜所に
ウイスキーづくりの体験を初めてしに行って10年。

こうした振り返りができるのもblogというツールで
記録に残せていたから…記事中に
「10年もあれば、相当余市に行ってるだろうな…」と
書いてるのをみて、ニヤッとかするわけですよ。
もう数え切れないもんね。

その受け取りを11月にしてくるわけですが、
まぁ、10年前を思い返して…って
その場でもなるんだと思うんです。だからというのもあり、
また振り返りモードに戻っちゃいがち。

今置かれた環境を考えると、あのときに想像していた
10年後とあまりにも違っていて。

そんなうまくなどいくはずもないのだけど、
それにしても…です。四十とは不惑と言いますが、
むしろ、この階段に差し掛かって惑いが多く…
否、多いどころか、惑いに囲まれ
支配されている…そんな気すら。

あまり体力面で衰えを感じることはなかったのですが、
気力が付いてこないという今、取り逃したことが
もはや取り返しが付かないかもしれない、
絶望感に苛まれます。

もともと欲張りで、アレもコレもと手を出すくせに、
完璧主義で納得いくまでやりたがり。
そのままで、もはや人生どこまで行っても手が届かないのでは
という感覚を持ってしまうことは、相当なストレス。

雌伏とは、来る雄飛のためにじっと我慢すること。
雄飛はもう来ないのではないかという、
自己肯定感、自己効力感のすり減りを感じながら、
長い長い雌伏の時を過ごしていくしかないのか…

初めてスランプになった10年前から、一時期脱し、
また不本意な世界に飛ばされ、戻ったと思ったら、
また不本意な世界へ。一度目の時と違うのは、
自分の中での分析で明らかに進んじゃだめだと思ったのに、
自分で進む道を決められなかったこと。

もちろん、自分が自分がで我を張っていくのではなくって、
成功する人は、人が道を拓いてくれるものだ、
というのはあるはずなんだけど、拓けた道に
飛び込むという判断は、やっぱり自分にあるべき。

自律的であることをとても大切にしていたはずなのに、
納得しないまま、開いた穴に飛び込まされて、
結果、想像通り、いや想像以上の不適合が生じているのが今。

納得しないまま進んだ後悔と、他の道に目を遣る暇も
なくなるプライベートでのトラブル続き。どれか一つだけなら
なんとかできたかもしれないのに、納得しないで
進んだツケはいつまでも返せないまま。

どうやったら、前に向けるのだろう。
なんだか前の向き方を忘れてしまったようにすら感じる。
メンタルやると長引くよ、ってのは
こういうことなんでしょうな。

これまでの10年とこれからの10年は全く違って見えます。
壁にぶつかりながらも希望のあった10年前と
希望をどうつくりだすのか藻掻く今。

追い込まれると思考が近視眼的で視野が狭くなります。
そうならないよう、未来のことを考えたいのです。
考えたいのですがね…どうもね…

成功の道は、いつも他人さんがつくってくれた、
という人のように、やることやって後は
他力本願になるしかない気がしてきました。

自分の関心のあることでつながる人がこの18年で、
すごく増えました。そのつながりから何かが起きることを
期待しつつ、自己肯定感を取り戻す旅が続きます。

やり切れなくても、考えがまとまらなくても、
中途半端でも、とにかく生きよう。

 真田安房守
 『生きておればまだまだ楽しいものがみれますぞ』

Masayuki2

よし、そうだな。まだまだ楽しいものはあるはず。

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2018.07.23

ある時代の終焉。

さて、今日わたしの誕生日なんです。

昨年から40代に入り、THE NIKKA 40年を
記念に開けてから1年。1年つらかったですね。
ほんと。大変だった。しみじみと思います。

いろんな人たちに助けられた。自分が一期一会で
持った関心事がつないでくれた人たち。

仕事だけでなく、いろんな関心の枝葉を伸ばし、
時には剪定しながら、なんとか育ててきたことが
思いがけない救いとなったなぁ、という実感があります。

今後上向いていくのか、どうなのかわからないですけど、
まぁそうなることをどこかで期待しながら、
でも期待しすぎず、少しずつ以前のように戻れたら。

・・・・以前のよう。

でも、以前にはもう戻れないことがあります。
2016年に楽しいことがありすぎて、結局Blogに書き切れず、
2017年になっても消化できずに、2018年に至っては
書く回数が本当に減ってしまった。

ただそれを以前のように戻せばいいかというと、
どうもそんなこともなくて。今は楽しかった時間を
記録に残すという意味では、完全にTweetからの
Togetterに移行しちゃっていて、でも自分の中で
楽しかった2016年~17年が記憶の彼方には
消えてはほしくない。それはイヤだ。

ネタはあるはず、それこそ1次史料から歴史を
紐解くが如く、いつかは記録に残したいと思っています。

そしてもうひとつ。PCが本格的にだめになって、
買い換えざるを得なくなったわけですが、
どうしても譲れなかったことがありました。

それは液晶の解像度。Windows 10になるとOS自体が
うまく対応していて、Full HDクラスの解像度でも
文字をきれいにしたりする方向に効いてきて、
一昔前の、だだっ広い作業スペースを確保するだけで、
13型クラスの液晶だと、文字が読めたもんじゃないという
画面ではなくなっているんですよね。

だけど、2004年から書きつないでいるBlogは当時、
なるべくサクサクと画像を表示させたいという思いもあって、
載せる画像は360✖270の小さな画像にするという
マイルールを設けていたんです。

それはHD(1366✖768)ぐらいのPC画面を想定していた
というのも大きくて、画面全体としてはWindows 10で
Full HDのほうがきれいに見えるのに、昔に上げた
blogの画像が小さく、またぼやけて見えるのがイヤで、
なんとかHD解像度のPCを探していたんですけど、
もはやそういう時代じゃないんだな、と観念せざるを得ず。

どうしても何かを生み出す、という行為をするには
PCがいいという感覚があるもので、普段から持ち歩くので、
なるべく軽いものは譲れない。ということで、
HD解像度を捨てたわけです。

Blogを以前のように書き連ねることができなくなったこと。
以前のBlogを同じように振り返ることができなくなったこと。

小さいことと言えば、小さいことなんだけど、
Blogの時間が長いだけに、ある種の「伝統」的なことが
消えていく寂しさともどかしさが残ります。

「環境が変われば、変化をしたものが生き残る」

それは小さな、でも自分の中では長く慣れ親しんだ習慣も
同じことなんだな、と。生き残すべきなのは、わたしが
辿った道筋を残すという衝動なんだから。

とはいえ、Blogをやめてしまうわけではなく、レポート的な、
何か写真を参照したり、資料やお話を聞いて思ったことを
整理してまとめたりという、残す媒体を変えるというだけ。

もっと、わたしは自由に思ったことを文章にして、
書き殴って書き殴って、Blogを書いてきたはず。
そういうスタイルに戻った方がいいのかもしれない。
Blogってそういうものだったよね。

そんなPCの買い換えやBlogとの向き合い方に、
極私的な時代の移り変わりの一端を感じながら、
41回目の誕生日を迎えています。

まだまだ多くの「ある時代」が終焉を迎えていき、
動乱の時代を経て別の安定期に向かっていく、そう信じたい。

日本史に擬すると、応仁の乱は済んで
ちょうど戦国時代になった感じでしょうか。
まだまだ安定的になるようには、ちょっと思えないのだけど、
いつか太平の世が来ると信じて。

新しい時代の相棒となるPC。軽くて、
それでいて20GBメモリに2TB SSDと贅沢な環境。
動作もキビキビ、あとは写真データを移すのみ。
(これがめんどくさい)

Img_20180723_1920452_3

日本語キーボードなんだけど、
「かな」のみのすっきりしたタイプ。

Img_20180723_2006142_2

長くよろしく頼むよ。

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2018.04.10

今こそ・・・・お話がしたい

今日はわたしの大事な人の誕生日です。
毎年こうやって思い返してる。

12年前の今日、命が尽きようとしていることを自覚し、
その後のことを考えてた。そして亡くなるのが6月。
いまだご命日は分からない。

「自分のことは忘れて欲しいけれど、忘れてくれないなら
せめて悲しまないで欲しいかな」 って、
ねえさんならそういうだろうな、ってことばを残して。

・・・だから、お誕生日を祝う。部屋にチューリップ飾ったときもあったね。
もう12年も経ったけど、こうしてお誕生日に思い出すよ。

楽しい記憶がいつしか伝説になっていく。
わたしがSNSで出会う人に、基本的に性善説である理由、
それは、でるふぃその人に出会ったから、といって過言ではない。

そして、ここでいう書きたい衝動は、
後のツイ廃につながるのかもしれないんだよね(笑)

> nikko81さんの このエントリー見てて「ほんと,そだよねぇ」
> って思ったよ。
> それししても わたしたちって,書きたい衝動
> 大きすぎだと思わない?(笑)
> でも,それに見合う時間がお互いなくなってきてるよねー。
> 頭の中で考えたことが,ざらざらーって,文章になって
> アウトプットされちゃったりしたらいいなぁ,
> ―― なんて思ったりもするけど,それはそれで,困るのか(笑)
>
> これからも,お互い「書きたい衝動」を大事にしようよね。
> いつも何かを見て何かを感じられるように。
> 無関心・無感動・無神経,にならないように。
> いろんなことを書き続けていきましょう♪

こうして思い出せるのも、にししさん(@nishishi)がblogにして
くださってるからこそ。ホント感謝です。
これ読んで、ホント夜通し泣いたよね・・・・

今の状況、ねえさんにお話したい。
どう言ってくださるのだろう。ねえさん、戻ってきてほしかったな。
ねえさんだって、もどってきたかったよね。そうだよね。

> 頭の中を ふっと右から左に通り抜けようとする「想い」を
> がっしり掴まなきゃなって思うの。
> チャンスの神様には前髪しかないけれど,
> 思考の神様には しっぽがあるのよ,きっと(笑)

想いを掴まえようとして、でもいろんな風に縛られて、
手から零れ落ちるんだよ。掴みたい、掴みたいのに。。。
それでも、ねえさんが生きたかった未来、しっかり生きないとね。

・・・・ありがとう。ねえさんは大切な方とそちらでしあわせにね。

フィクションとはいえ、体験談が元になっているのであろう
side story」未完のまま、現存。興味ある方はぜひ。

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2018.02.01

blog開始14周年 … 『空白』が示すもの

さて、2017年末に記事を書いて丸々1ヶ月何も書かず、
2018年が過ぎています。

2/1はblogを始めた日、そしてTwitterに初Postをした日。

12月末に2017年を怒涛のように振り返りましたけど、
その時々にかけがえのない体験をしてきているにも関わらず、
振り返ることができない、記録に残せないことが、
大きなストレスとなってのしかかっています。

もちろん、日ごろの仕事のストレスも、家族のことも、
あまりにも何もかもがうまくいかな過ぎて、
ただただ、刹那的に楽しいことを探し、消費しているよう・・・

もっと噛み締めていたいことを、背に腹は代えられず、
使い捨て消費をしているような気がして、それがただただ哀しい。
でも、いつか振り返ってちゃんと暖めなおせると信じて。

blogを書く意味について、折に触れ書いてきたつもりなのですが、
昨年のこの日でもやはり、その再確認をしていました。

そして、自分史のなかの「一次史料」としてのblog、
という位置づけを見出したのでした。

あれから、もうそろそろ地獄に足を踏み入れるであろうと、
怯えながら、それでも前向きにいようとしたあの日から1年経って、
今眼前にあるのは、blogに向き合えていない事実。

もし、blogが「一次史料」なのだとしたら、その一次史料の、
ある時期ごっそりと欠損していることは、あとで振り返ったときに、
意味を持つのだろうなぁ、などと思ってみたりしています。

今はもう、生き延びて行くのがやっと、一次史料の欠片に
なるであろうTweetを残していくことでやっと。
本当に、そのときそのとき楽しいと思える時間をつくるのがやっと。

思ったよりはるかに地獄の底は深く、どこまで深く潜っていくのか
見当もつかないですけど、ある時期までは、出来事や感じた記録を
お休みして、ある意味本来のblogとしての使い方に近い、
ひたすら思いの丈を書きなぐる(実際昨年9月からはそう)ように
してみてもいいのかもしれませんよね。

投稿と投稿の間の空白が示すもの。

やはり、文章を書く、アウトプットを出すにはしんどい。
でも、何か書きたい衝動は吐き出したい。
特に区切りの日には何か書きたい。

今の自分は、余裕ないですが、
将来何かの気づきになればいいな、ということで、
しばらくはこんなスタイルにしようかと思います。
15年目のはじまりを迎えて、のリフレッシュ。

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2017.12.31

激動の果てに。

2004年にblogを初めて以来、こんなに書けなかった年はない…
そんな2017年。まだ2016年のことも書ききっていないのに、
2017年のことなんて、ほとんど残せていないのに・・・

Twitterでさえ(フォロー数が多すぎというハナシもありますが)
遡ることままならず、特にお城関係のツイートを
見きれなかったのが悔やまれます。

とはいえ、リストそれぞれについて、どこから読めていないかは
実は把握していて(え!?と言われますが)その気になれば、
期間を指定して読めるのですけどね・・・

ま、それはさておき。1年を振り返って見ますと・・・

2017年は3月までは真田丸の余韻に浸って、
積翠寺温泉要害の閉館を惜しんだり、
久々の会津絵ろうろく祭りを楽しんだり。

ノビヨ師匠(植松伸夫氏)の講演お聴きしたり、
躑躅ヶ崎館の発掘現場説明会、
そして3/25の俗称(笑)菩薩ツアー、平山先生の
「武田氏滅亡」講演会と景徳院参拝、そして懇親会。

3/25の懇親会は幹事をさせていただきましたが、このときにお会いして
今も関係が長く続いている方が多いのは、その後のわたしにとって
大きな支えとなりましたね・・・関心から人のツナガリが増えていく有難さ。

4月は信玄公祭りに石和の川中島合戦、上田真田まつり、
5月も龍岸寺さんはじめ、フォロワーさんとの甲斐の旅・・・
からの山梨文化教室×2、6月に上田原めぐりに、ホワイト依田信蕃。
さらに、熊本城&福岡ウイスキートーク。この辺はまだよかったな・・・

7月は長篠慰霊祭と待ちに待ったザ・ニッカ40年開封@不惑。
この頃からツラさが加速度的に増してきて・・・
それでも豊橋の平山先生講演や長篠城、名古屋の天下人の城、
Gifu信長展の東美濃の平山先生講演、興味深く・・・

7-8月は、湯村で湯治をよくやったなぁ。こんなにぐったりしないと
もうだめ。。。なんて初めて。それくらいエネルギーを使い果たしていた。
9月にはようやく長い休み。長野の図書館籠もったり、
湯田中から佐渡に渡って春日惣次郎の墓を探したり、
長岡の川中島合戦展を経て、ふたたびの会津へ。

10月には丸馬出の城めぐりで印象深い、大岡城へ。
翌日は岩尾城再訪したかったけど叶わず、
岩村田の龍雲寺と西念寺。西念寺さんの信玄公御位牌に
手を合わせられたのは良かったなぁ。

11月は豊橋丸島先生講演、恵林寺茶会。恵林寺茶会、
場違い感すごかったけど(苦笑)いい経験でした。
そしてまた甲斐の旅をはさみ。向嶽寺さんの朱引図がよかった。
寺領を信玄公、勝頼公同じくらいの年頃に安堵しているのがね・・・

あわただしかったけど、10-11月と仙台にも。
今年は政宗生誕450年ですからね、行っとかないと・・・・
宗泰との関係を見に岩出山へ、そして仙台市博物館で
ジックリ長居をする・・・実に見ごたえのある内容に満足。

ウイスキーフェス東京が終わって、12月にかけては
なんといっても西股先生の丸馬出ツアー。何度も行ってる城も
眼から鱗だったり、新たな気づきがあってアハ体験でリフレッシュ。
そしてお城EXPOで〆。

まぁ、楽しいことも多かったですけれど、つらいことを穴埋めするために
必死になって楽しいことを貪っていた、というのが正しい気がします。
そして記録できない(blogにかけない)ストレスをなんとか
ツイートで残してTogetterに上げておく。
それもすべて残しきったわけではない・・・で、もやもやもや。

いつか、持ち帰った史料や図録、写真やツイートを「一次史料」として
blogに残せたらなぁと思いながら、普段はなんとか睡眠時間を確保し、
休みには楽しいことを糧に生き抜くしかない…!!
そんな感じで走ってきた1年。

これからどうなるのだろう、先は見えないまま闇が広がっています。
でも諦めずに、自分にあるたくさんの関心事を殺さず暖めつつ、
無鉄砲にならず、さりとて流れに身を任せることなく、
仕事にもプライベートにも、なるべく悔いのないように。

2018年の今頃には、そんな苦しみも遠い過去のことのように
話せているように願って。blogも最終的にはプライベートの記録と
振り返りができるように、ってことを目的にしてますが、
もちょっと、ガッツリ記事を書かないまでも、
気軽にポストしてみてもいいかもな。Twitterよりはまとまったカタチで。

この1年いろんな方をご心配させてしまいました。
しかし、辛かったのは事実でして、ご心配いただいたり、
気にかけていただけたことが支えになりました。ありがとうございます。

どんなにつらくてもblogは(Twitterも)やめることは
ないと思いますので、引き続きご贔屓にお付き合い賜れば幸いです。
あと2017年もわずかになりました。
皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。

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2017.09.09

あれから17年、未曾有の危機到来・・・

なんだかんだ忙しくしている間に、最終更新から3ヶ月経過。
毎年恒例のWebデビュー記念日がやってまいりました。

blog自体はもう少し後なのですが(当時blogはまだなかった)、
Webを公開し始めた日(nikko81の81=9×9の語呂合わせ)
には、それまでを振り返る日のひとつにしているのです。

・・・1年以上前のネタを更新できないというだけでも、
ストレスなのに、更新が追いつかないどころではなくって、
まったく更新もままならないとは・・・・今までにないことでありました。

昨年のこの日もこんな書けないなんて・・・と
驚いていたんですが、今年はそれ以上。
平成丙申の乱が1年で終わる兆しがありません。

そうそう昨年は悪いこともいいことも桁外れ・・・だったのが、
悪いことの桁外れ感はそのままに、いいことの大きさがイマイチ。。。
平日がつらい、ひたすらつらい。

まだ昨年の「決断」は実行には移していませんが、
あのときの心持からは変わっていない・・・
むしろ日々決心を新たにするような感じです。

 あの頃に「自己分析」をして、これで生きていこうと決めた…
 そんなあの日の希望を実現させられなそうで、
 本当に申し訳なく思ってしまいます。

これはホントそうだなぁ、言い逃れできない。
そしてもはや後戻りできない環境になってきているのは疑いない。

だからこそ、何か別の世界で希望を持てる日々を
つかまないと、あまりにも過去の自分に申し訳ないのです。

そういえば、今年は不惑になる年でした。
ちょうど不惑になる日に開けたTHE NIKKA 40年。

P1320454

もちろん、ものすごくうまくて魅了されるのですけど、
あたりを包むしあわせすぎるミズナラの甘美な香りに反して、
これを味わっていて申し訳ないなぁ、というような感覚が混じっていて。

ただ、年を重ねれば、自動的に成長するわけでもなく、
置いていかれるでもなく、まだ自分次第だと思える部分は残っています。
よく悪くも思ってた以上に、不惑にさしたる限界は感じていない・・・

とても今厳しいですけど、年のせいでどうって気持ちはない、
そう思えるだけでもまだ救いなのかもしれません。

わたしが生きてきた時間、経験、想いを、今後どうつなげて行って、
どんな果実にしていくのか。17年前に思い描いていたこととは
違うけれども、まだ振り絞れば前に向く力が残ってはいる。

わたしが関心を持ってきたウイスキー、城、そして武田家。
これらに対する関心があるからこそ、今のわたしがあります。

いつの日か、わたしの命が途絶えるとき、関心のあることに対して
何らかの影響力をもって、生きてて良かったと思えるよう、
今を何とか乗り切りたいと思い直す夜。

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2017.06.03

武田氏館西曲輪発掘調査現地見学会 + 桃と桜と信玄公 3/18

もう話が前後しまくり・・・書きやすいところから書いていくの術。
ということで、2ヶ月ほど前の武田氏館西曲輪の話。

もういつ行ってもブルーシートが掛けられているだけ、
なんですけども、現地説明会の予定が
Twitterで流れてきて、これは行かねばと・・・・!!

◆武田氏館発掘調査現地見学会◆

まずは、梅翁曲輪から。実はこの現説あったのも
知っていたんですけど、武田滅亡遺構の増設だからいいか…
とパスしていたんですよね。

P1280385

梅翁曲輪の南にある大きな堀を松木堀といい、
ここに通路を通して、堀や曲輪の整備を進めていくとのこと。

P1280388

土塁の内側には、土留めのようにも見える石積。
後世の時代のものかもしれません。

P1280393

そして、この赤丸で囲った部分が南側の虎口。

P12803931

真田丸でも話題になった浅野家文書にある
甲州古府中の図でもしっかり描かれてあります。赤丸。

Asa

航空写真だとこんな感じ。同じく赤丸。

Bai

実は青い部分のお土産物屋のかぶとやさんの
真南の広場が集合場所だったんですが、
ちょうどここが東側の虎口の枡形から堀に相当した部分。
浅野家文書、航空写真ともに青で囲ったあたり。

ちょっと今のままでは、史跡としてはわかりにくい感じですけど、
どう2019年に向けて、整備されていくのか楽しみです。

P1280395

こちらが西側の虎口?今は堀底から坂があって虎口になってますが、
実際はなくって、外側へ木橋が架かってあっただろうという推測。
ただ、浅野家文書の縄張りとは合わず、考察が要りそう。

P1280397

P1280398

さて、本題の西曲輪へ。

P1280399

いまはちょっと見づらくなっていますが、
左手には愛宕山、右手には湯村山が見えて、
また扇状地の奥に位置しているため、
南側には非常に開けていて、よく見渡せたはず。

愛宕山方面。

P1280400

湯村山方面。

P1280402

当時はまだ今川からの脅威も去っていない時代ですし、
今川に備えた立地でもあったのでしょうな。

そして南側の虎口の。。。ここ!ここよ!
大きな石の下に石が埋まっていますよ・・・!!

P1280403

P1280404

これ、実は武田氏時代の門の礎石だそうです。
徳川・豊臣時代の石垣の下にあるということは、
武田氏時代の土塁に被さって、石垣が積まれている、
ということがよくわかりますね・・・・

ただ、西側は側溝ができたときに外されたと思われるそうで、
残念ではありますけれども・・・

今回の発掘は西曲輪の中段から下段にかけて。
今回発掘して以降南側は、後世の造成が入っており、
発掘してもあまり成果はなかったようです。

P1300585

拡大。

P13005852

以前、武田神社の講演会でも聴いたように、
扇状地の地形を活かした構造になっていて、本曲輪は
三段のひな壇構造になっていた
ことを知りましたが、
西曲輪も三段になっていたようです。

ただし、上段は極めて狭く居住スペースを
取るには難しいと思われ、倉庫などの利用がなされていて、
中段が義信の住まいだったと想定されているようです。

今回中段近辺で遺構が出てきましたが、下段はどうも
武田神社創建時に外苑として位置づけられ、
何らかの手が入ったのではないか、ということでした。

ただ、写真1と示されているあたりから、
何らかの建物の礎石と思われる遺構、さらには、
細かな石敷きの遺構が発見。

P1280504

P1280508

ハッキリとはわからないものの、西曲輪にも本曲輪同様、
下段には庭園があった可能性があるとのこと。

石敷き遺構の石を拡大。青いきれいな色をしています。
この石は甲府周辺からは取れず、おそらく塩川あたりから採ってきた
と考えられていて、本曲輪の庭園跡からも検出。

P1280513

その奥にも石積み遺構が・・・

P1280514

さて、ちょうど中段から下段にかけてのところに、
モッコリと盛り土がしてあって、土の坂になっている中から
中段と下段を分かつ石積が出てきました。

どうやらこれも、武田神社の神社としての造成時によるもの
ではないかと考えられます。神社をつくるのに、
派手に遺構を破壊か・・・と思うと、ちょっとやるせないですけど、
中段の石垣遺構は土盛して、残されたのはまだよかったですかね。

図面に写真2とある部分。

P1280410

拡大。手前に側溝があり、その上に石積、
さらに通路があって、その奥向かって左手から回り込んで、
中段に入っていくような構造になっているよう。

P1280412

石積み拡大。土留めというよりは、見せる石積、
という感じがすごくしますよね。

P1280414

非常に残りがいいですよね・・・これが幕末明治期まで
残っていたのでしょうね。大正時代の武田神社創建以前の、
館跡の古写真とかないでしょうか・・・嗚呼。

P1280422

側溝部分。

P1280415

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P1280450

中段の内側のほう、石積と石積の間の築地の痕跡。

P1280419

手前が内側(中段側)奥が外側(下段側)。
盛り土の量の多さもありますが、現在は緩やかな坂であるのが、
往時は、相当な高さの土塁と石積で区切られていたことがわかります。

この土塁の頂上部分には築地塀などあったのでしょうかね。

P1280417

そのお隣の部分。ずっと石積が続いているのが解りますね。

P1280407

P1280423

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P1280436

もうひとつ東隣の現場。写真左真ん中のチョコケーキ
みたいなカタマリの大きさ・深さの量の土で、
この部分が埋められてしまっていましたわけですね。

P1280427

しかし・・・埋めてしまうよりも、この石積をうまく使った方が
絶対いいのにな・・・わずか100年程度の昔ですが、
価値観は大きく違っているのだな、と思わずにはいられません。

おや、さらに深く掘ってる部分がありますね?

P1280428

どうやらここには、天文24(1555)年に義信居館として、
西曲輪が造成される前、この位置に
堀があった痕跡があるのだそう。信虎期、もしくは晴信期初期に
現在の西曲輪の北側に曲輪があって、その南を守る堀、
という解釈になりましょうか。

P1280467

P1280468

反対側から。そこがなかなかこちらからでは
撮れないのですが、ちょくちょく石が挟まっているのが気になります。
これも遺構を構成していた一部が無造作に埋められているのか・・・

P1280478

一番東側の発掘現場でも、古い時代の堀の検出があるようです。

P1280440

こちら。少し水を含んでいます。まぁ、本曲輪と西曲輪の堀も、
空堀部分でも少し水が滲み出してますから、
掘れば水分は出てくるところなのでしょうけれども。

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このあたりはあまり、石積の遺構の残りはよくなさそうです。

P1280446

資料にもあるように、堀は現曲輪に平行しておらず、
少し北西から南東にかけて斜めになっているようです。ふむ。

P13005852

よく見ると、堀の延長線上に等高線が乱れている部分があって、
ここが堀として、つながっている可能性があるのではとのこと。
特に東側が等高線が少しくぼんでいますね。

ということで、今ではもうブルーシートが被されていて
再び見ることはできないのですが、この成果を
19年にできるという武田氏館の解説がなされるという
資料館で見られるといいですよね・・・

◆山梨県立博物館◆

この後は、山梨県立博物館で「桃と桜と信玄公」展示。
桃と桜は皆目見ず(笑)、信玄公関連の展示ばかりじろじろ。

P1280529

せっかくなんでブータン展も一緒に見てきましたけどね。

P1280522

もともとは、清水寺(せいすいじ)に伝わる勝軍地蔵を見に
行くために、県立博に来たわけですけども。
武田不動尊や円光院蔵勝軍地蔵・刀八毘沙門天像
の作者である康清の作であります。

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博物館内・・・あれあれ?畠山義続さんがいますよ?
(いぢわるな言い方)

P1280528

しかし、勝軍地蔵よりも気になったのがやはり信玄公御屋形図。
武田神社の現地看板にもありますけど、やはりここから
読み取れることはたくさんありましたね・・・

<信玄公御屋形図>

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まず、東の大手から進んできて、向かって右手、
つまり北側に「是地形高シ」「此地形高シ」とあるんですね
(赤で囲った部分)

1

ここは信玄公の奥、つまり信玄公の座間・座所や台所、
そして不動堂・毘沙門堂がある上段。
つまり、本曲輪が三段になっていたその中段と上段の高低差
を指しているというわけです。

奥と不動堂・毘沙門堂の行き来ができたか?までは
この図からは読み取れませんが、いずれにしても
西曲輪発掘の様子から考えると、2~3m程度の高さが
あったのではないかと想像します。

さらに黄の丸印には「二階廊下」とあります。てことは、
プライベート空間に行くたび階段上り下り・・・
ということで、狩野文庫蔵「武田信玄甲府之御屋形作之図」
にあるのと同じ内容が描かれてあります。

二階廊下になるくらいだから、やっぱり高さありますよね。
しかし、エライお方が毎度毎度階段を行き来・・・
信玄公は苦にならなかったのでしょうか?

さて、中段。ここはいわゆる表御殿。

2

主殿に入ると、脇に奏者の間、さらに「御香所」という部分
(赤四角)があります。これ・・・香をつけてから、
主殿に入れってことなの?

どうも朝廷や幕府には、「御香所」があったようなので、
これも京を意識する武田ならでは・・・なのかも。

オレンジの四角部分は、右の手前から主殿、
穴焼の間、本主殿とあります。穴焼ってなんだ・・・?
読み違いか・・・(オペラグラスで見たかった)

本主殿には「上様是ニ」とあるので、信玄公の座所なのでしょう。
江戸城で言うところの上段の間。

穴焼の間には格天井、矢天井、皆コシシヤウシとあります。
コシシヤウシはどうも「腰障子」と読むべきでしょう。
障子戸の下部に腰板を据えたもの。
こんなことまで解るんですね・・・御殿の様子が想像しやすい。

本主殿にはフスマシヤウシとあります。襖障子でしょう。
ここでも信玄公の御座所と家臣の間との差別化が
図られていることが読み取れますよね。

表の奥(ややこしいな)には、常御対面所(緑)看経の間(水色)。

3

本主殿を江戸城大広間とするならば、
常御対面所は白書院・黒書院のような位置づけの、
私的な対面所ということになりましょうか。
やはり、こういう間取りからも中央を意識した感じがしますよね。

看経の間は・・・平山先生の「大いなる謎真田一族」で
紹介されていた、あの看経所のはず・・・

信玄公は武田軍の兵卒のために、仁王般若経の一節を
ここで唱えるのが日課だったといい、続いて有能で将来を担う
春日虎綱や若き真田昌幸のために、祈りを捧げ、
不動明王の呪文を繰り返し唱え・・・
その話に差し掛かって、虎綱と昌幸が昔話の途中で
泣いちゃうやつ。その場所だ・・・・

その看経の間を過ぎて庫裏を経た先は、風呂場(青)
西曲輪と接続する通路のすぐ北側。

信玄公=お風呂大好きイメージなだけに、どれだけ使ってた?
とか、お湯はやっぱり志摩の湯(湯村温泉)から
運ばせたりしてたの?とかいろいろと気になりますね!

近くに御旗屋(赤)があります。アケシトミとあります。
蔀戸というのもどこか京風・・・

信玄公御屋形図、江戸時代の成立らしいのですが、
創作するにしてもあまりに細かくて、そう丸々創作できるものでも
ないでしょう・・・なんらかの事情で信玄公時代のことを
知っている人物の知識が受け継がれてきたのかも。

・・・真田昌幸なんかよく知ってるだろうから、
絵図の一枚でも描いて、信幸に伝えてれば、
松代真田家に残っただろうに・・ぶつぶつ(笑)

<柳沢文庫>

壁に印刷してあった、柳沢文庫「甲府城下絵図」も楽しい。
柳澤吉保・吉里が甲府を納めた時代の甲府の絵図なんですが、
甲府城はまったく見ずに古府中をガン見(笑)

今は廃寺になっている永慶寺のそばに、現在信玄公火葬塚
とされているところに「信玄公御火葬場」と記載あり。
当時からちゃんとそう認識されてたのね。

実はこれいろいろカラクリがあります。現在信玄公の墓のひとつ、
とされていますが、そもそものきっかけは、安永八(1779)年、
「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」と書かれた
石棺が見つかったということから始まります。

当時の甲府代官、中井清太夫が再度埋葬し、
幕府に届けたうえで、信玄公の墓と定めたというもの。
このときの石棺の銘の拓本が武田神社にありますけど、
どうもあやしいらしい・・・

一方、柳沢吉保の子、吉里が甲斐を出たのは享保九(1724)のこと。
そして火葬塚から石棺が出てきたのが、安永8年(1779年)ですから、
「石棺」発掘以前は荼毘に付された地であり、墓とは認識されては
いなかったということになりますよね。

<甲州文庫>

他にもおもしろかったのは、甲州文庫から。

古府中絵図は、今の屋敷跡看板の元ネタのひとつと思われる、
字名として残る屋敷跡の位置がわかる絵図。

看板がある皆さんはいいんですが、看板にはなっていない
曾根下野守昌世の屋敷跡や、「長閑畠」なんてのもあり、
二十四将に数えられなくても、全部看板置こうよ!
と一人で興奮していました(笑)

さらに、大泉寺信虎画像、法泉寺勝頼画像の刷物。
勝頼画像は250回忌の際に、信虎画像は大泉寺でも行われた
機山公祭の際に、参詣者向けに刷られたかもとのこと。

正直、原典と比べると精度は落ちるんですけど、
刷って頒布されてるってことがすごいよね。

最後、武田晴信信玄像模本。これなかなか珍しい、
僧の姿をした、そして剃髪後の信玄公。
甲冑姿、直垂姿はありますけど、
袈裟を身につけた信玄公は珍しい気がします。

P1280543

全身を描いたものもあるんですが、いずれにせよ、
武田逍遙軒が描いた原本を安富元実なる人物が
安永4年(1857年)に写し、さらに狩野雅信が模写したとか。

個人的に信玄公のお顔の特徴として、
面長、頬骨が出てる印象があるので、ちょっと目つきは・・・
という気はするのですが、この時代の画風として、
写実性を求めてもアレなんでまぁ・・・と。似てません?

Haru1

Haru2

いずれも髷があるので、入道以前であって、
この甲州文庫のほうは入道後、ひょっとするとかなり晩年かも、
とすると年代がかなり離れていますよね。

全身像のほうは、スケッチ的で簡略的に描かれてはいるんですけど、
これまた今に他では伝わっていない、入道後の姿で、
法衣を身にまとっています。

やはり胸像と同じく眼光鋭く、下唇をかむ不動明王スタイル。
髭は短く、法衣と刀拵に武田菱。法衣の襟の辺りに花菱。
右手に閉じた武田菱入り扇子、左手に数珠。

❖9/10追記❖
実は、この史料(甲州文庫)申し込めば史料の撮影が
できることを後に知って、撮影を申し込みました。
全身像がこちら。

New_shingen

逍遙軒・・・・そんないっぱい御屋形様の像を描いてたのね。
原本伝わってないかなぁ。「あの」諏訪法性兜のヤツばかりじゃなくて、
江戸時代にだって、こういう信玄公像が描かれていた、
と思うと興味深いですよね。

ということで、非常に楽しい3/18のお話でした。

短期展示なので、図録がないのが惜しいところです。
特に信玄公像はもう一度、しっかり見たいです・・・・

また展示してくんないかな。ていうか、収蔵史料の
即日閲覧の対象に甲州文庫入ってるな。
これ、すぐ行けば見せてくれるってことじゃない・・・
今度見てこよう。申請すれば、blog用に掲載できたりする?
とにかく、また山梨県立博物館行かなくちゃ。

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2017.05.21

2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津⑥ 会津中将・アイヅテラス

さて、この日はあまり予定はないので、久々に旅地で
無計画にぶーらぶら。そいや、末廣さんは行くけど、
会津中将の酒蔵行ったことないな?と思って、
早速向かうことにしました。七日町の鶴の江酒造さん。

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いくつか試して美味しいと思ったのが、高濃度酒。
最近はフルーティで香りが華やかなのが、
日本酒だと好まれるの傾向にあるようですけれど、
これは昔ながらの酒飲みの酒。

P1300584

ということで、飲みながら書いてんですけどね(笑)
末廣さんと違って、見学がないのが残念なところではありますが、
旅をしながら、酒蔵を回るのはやはり醍醐味ですねぇ。

七日町まできたら、阿弥陀寺の御三階みとくよね?
すっごい吹雪いてるけど・・・・

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会津葵。

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へ?歴史を語ると灯籠?

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東軍墓地前の灯籠。破却された東照宮の灯籠なんだ…
こうして灯籠だけでも活かされるの、いいなぁ。

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そして、阿弥陀寺境内で気付いてしまったこと・・・・
曾根家のお墓があることなんです。

比較的新しい墓石でしたが、曾根・・・
まさか、あの曾根昌世の末裔がずっと会津におられる?のか?
とざわざわしました・・・どうなんでしょう・・・

さて、さらにぶらぶら。花菱の窓扉をみつけてひゃっほいしてたり。

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レオ氏郷南蛮館は閉まってた・・・・

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氏郷さんのお墓には参っておこう。
信尹さんと昌世さんを召抱えた経緯とか、
お二人とのエピソードをもっと教えてくださいませ・・・

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そして、また鶴ヶ城方面にふらふら。北出丸近く宮泉さん。
仕込み水が猪苗代湖水系…てことはあちらが高く若松が低い…!!
地形的にも猪苗代方面から、こちらに来やすいわけだ。

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そして、内藤邸のお庭を見ながら一献。
会津藩家老内藤介右衛門屋敷跡、裁判所になってますが、
庭園だけは残ってるんですよ。

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武田四天王内藤修理亮昌秀の養子内藤大和守昌月に始まる、
会津藩内藤家。家老格で仕えられたのは昌月自身が、
槍弾正保科正俊の子、保科正直の弟という血筋だからなんだろな。

泣血氈、もともと内藤家に伝わるものだったんだよね。
赤だけに、武田に由来しないかな・・・・とか
思っちゃう酔っ払いでした。てへ。

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さてさて、あまりに吹雪が強すぎたので、
一時、北出丸カフェに避難。

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前から気になってはいたのですが、とてもいい空間。
時間的にコーヒーを頂いただけになりましたが(寒い)、
次回はごはんも頂きたいところ。

アイヅテラスの点灯式くらいには、吹雪も収まりました。

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ちょっとまだ明るいですねぇ。。。

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藤棚・・・的な。

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麟閣もライトアップしてるんだけど、
ちょっとまだ早い。

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全般的に、ちょっとさびしげというか、
あまりどーんとライトアップした感がないような。

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だんだんと暗くなっていきます。

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やっぱり麟閣のライトアップが一番よかった。

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天守は先日と同じ、淡いピンクのライトアップ。

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雪に映るすがたがぼんやりしてきれい。

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ということで、ここで会津の旅は終了・・・・なんですけど、
このあと磐越東線は止まっていてビックリ!不通終日!!
郡山までバスに切り替えるも、人だかりでさらにビックリ!!!

最後はビックリしましたが・・・・よい会津の旅でした。
また定期的に来たい地であります。

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2017.05.20

2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津⑤ 御薬園・会津武家屋敷 with 絵ろうそく

さて、間が開きましたが・・・・日が暮れて、御薬園に戻ります。
ほっほー!こりゃステキだぁ。

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しかし、もはや暖かいから、あっちーになりつつある今日、
雪の画像は見た目には涼しくていいですな(笑)

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基本的にろうそくが織り成す赤い光ってすごく好きで、
それだけでもいい気分になれるのですけど、庭園に雪に
ろうそくライトアップ。最高ですよ!

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陰翳礼讃・・・じゃないですが、白いひかりのもとで
生活する方が何かと便利だったりはするのですけども、
陰翳がもたらす精神的な作用みたいなものが
あるんじゃないかなぁ、って思うんですよね。

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華やかな現代的なライトアップも好きですが、
こういう落ち着きも捨てがたく。
以前は鶴ヶ城だけで終わってましたけども、
周辺も回ってみて大正解でした。

さて、続いては会津武家屋敷。こちらでも
ろうそくのひかりを楽しみます。

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会津まつりでもそうだと思うのですが、
わりと会津にいくと、会津藩や会津戦争ばかり・・・・
というわけでもなく、蘆名から取り上げようという雰囲気があり、
わたしが好感のもてるところだったりします。

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では、ひとしきり、武家屋敷の明かりをご堪能ください。

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そして、飯盛山。これがまぁ・・・かなりのハードルの高さ!
つるっつるで山登るのが大変でしたよ・・・!!

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麓は明るいんですが・・・

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これ。くらっ・・・!!!

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白虎隊の皆様のお墓までこの調子。
暗くてちょっと怖いけども、手を合わせて下山します。

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くだりがさらに怖い。。。

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さて、おそばにこづゆ。

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会津葵発見!

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こづゆはいいですねぇ・・・
酒のあてに常備したいもんですよ。

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で、呑んで食べたらおふろ。
こういう景色を見ながら、お風呂はいるのほんと素敵。
これからできる限り、東山温泉にしよかな。

瀧の湯、とはこゆこと。

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政宗所縁のさいかちの大木があります。

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こんな情景を眺めてお風呂とは、まぁ最高なわけだ。
ふふふー♪

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というわけで、この日は終わり。
翌日は、特に決まった予定もなくまったりと会津徘徊。

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2017.05.06

2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津④ 吹雪の会津若松を彷徨う

さて、翌日。やることやったんで、この日は夕方以降の
絵ろうそくまでは特に差し迫った予定もなく、
ゆーるゆると行動。

お宿の朝食、取り皿が保科の並び九曜紋を
模したお皿になっててすっごい素敵。いいよこれ。

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保科家の紋。これね。

Hsn_2

そして甲冑もあったりして。会津藩の侍大将
斎藤碑久右衛門所用の甲冑。色はくすんでるけど、
赤備えだよな・・・赤備えというとすぐ武田にひっつけたがるマン。

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今回、初めて東山温泉にしてみたんですが、
まぁ、いいところでしたホント。

ちょっと交通の便は・・というのはありますけれども、
なんとかはなります。会津の街中をガッツリ観光して、
BARもいってあれこれ・・・というのでなく、
ゆったりしたーいというのがコンセプトだったので、
ちょうど合っていましたね。これからも選択肢に入れてこう。

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寒いけど、寒いのはわりと平気なので、
こういう雪景色を見ながらの露天風呂はホント最高。

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どうしてもつららは見たら撮りたくなる。。。

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この日の午前中は、御薬園。会津藩松平氏の
各種薬草を栽培する薬草園であることがその名の由来。
会津藩保科・松平氏二代、保科正経時代より。

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ですが、もともとは室町中期に蘆名盛久が
この地に別荘を建てたのが発祥なんだそうですね。
割と歴史のある庭園なのですね。しらなんだ。

明かりが灯ったらキレイだろうな。夕方また来ますけど。

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しかし、雪多し。会津ってこんなもんでしょうか?
10年前に雪なし絵ろうそくを経験したからか、
会津ってそんなに降らないイメージでこのときいたもので・・・

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三層の塔。これ蘆名時代からのものなんだって!
鎌倉以来っていうけど。。別荘建てたときに、
もってきたのでしょうかねぇ。

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池までは凍らず。

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石灯籠。ここで騒ぐとあーはいはいと呆れられるやつ。

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どこ撮っても絵になって、カメラ持ってると非常に楽しい。

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真ん中にある御亭は楽寿亭というそうな。
がっつり刀傷跡。

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刀ってよりも、ハンマーか何かでぶっ叩いたような。。。

またもやつらら撮るマン。なんで惹かれるんだろ。

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お昼は会津醤油らーめん・家元こまめやさん。

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吟粋。なかなか好みでした。醤油好きには◎
極撰も気になってはいたので、一通り食べたいですね。

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さて、また雪が吹雪く中、鶴ヶ城にやってまいりました。

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大手北出丸西虎口。

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あれに見ゆるは伏兵曲輪。。。皆殺し丸。。。

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虎口の内側には石垣を置かず、内郭からの
枡形に向けてできるような構造になってるところは、
江戸城との共通性を感じますね。

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石垣上から。丸馬出だったとして、両袖に枡形があれば、
それこそ新府城と同じだよなぁ、とか思いながら。

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こんなに雪積もってるところ、誰も来ませんけどね・・(苦笑)

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北出丸石垣上から。

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あれ、天守がアタマひょっこり。

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石垣上をずんずん。

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しかしずいぶんと堀も広いよな。。。。
土塁のときはどのくらいの規模だったのだろう。。

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武徳殿もまっしろ。

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つららが規則正しすぎて笑うなど(笑)

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北出丸西虎口桝形。
こちらも城内側は石垣なく、城内側から射撃できる構造。

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西出丸の本丸に通じる通路。なんかこれみても、
丸く土塁で形成されている土の城に、
あとから石垣で増築しました!みたいな、
江戸城でいうと、外桜田門的な感じがするよね!?

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逆側から。こう・・・なんか不自然さがあるのよ。

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本丸側はずっと鉢巻石垣が続きます。

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干飯櫓。吹雪いてて前が見えないよ・・・ひぃ!

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ちょっとこれは退散だ・・・てことで、末廣酒造さんへGo!

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ウイスキーラバー的には、この蒸溜(ふかしだめ)に超ウケる(笑)

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昔の住まわれていたお部屋の中に、あるものを発見す。。。

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會津若松名城 鶴ヶ城天守閣落成記念。
皆さん喜んでられたんだろうな。。

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でも、若松城址は国指定史跡。
おそらく現天守がダメになった後、再建は叶わないでしょう。
それまでに内部構造がわかる史料が発見され、
木造で再建できればいいけど。。こここそ、現RC天守を
なんとしてでも持ちこたえてもらわないといけないよね・・・

こちらには松平容保公と徳川慶喜公の書も並んでます。
並んでるとなんだか・・・落ち着かない・・・(苦笑)

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出た!おはらしょうすけさん!
朝寝、朝酒、朝湯大好きです!(ダメフラグ)

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あれ、これ偶然だけど、日光家の家紋と同じ・・・!!

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氏郷公。氏郷推しで会津来たので買ってかえりたいところだけど、
割と値段したので諦めた。。。

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今回も熟成酒を。いいんですこれ。
そんなに高くもないんですよ、こんな年数なのに。

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さて、また鶴ヶ城に戻ります・・・雪もやんできたし。

P1270435

なんと。。。。鶴ヶ城に真田父子が!(白雪みみさま @MimiShirayuki )
しかも昇梯子昌幸に、最終形態赤備え幸村!ほっほー!
(お二人をお伺いせんと戻ったわけですが)

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P1270443

甲冑つくられるのすごいよね・・・尊敬尊敬。
完全に着る専門だもん。。

後もう少し、会津葵シルクロード文明館さんで、
日が落ちるのをゆったり待ちます。

P1270467

P1270464

P1270462

さて、いよいよ。ろうそくの明かりが
主役になる時間が近づいてきますよ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津③ 鶴ヶ城縄張考察・・・武田と丸馬出を求めて

さてと、会津で買った資料から考えるあれこれ。
普通は幕末あたりが売れるんでしょうけど、
蒲生氏郷推しで資料購入(笑)

それは、真田信尹、曾根昌世の会津での
事跡をもっと知りたいから、というのと丸馬出との関連。
ざっと眼を通して解ったことをメモ書きしておこうと思います。

◆真田信尹&曾根昌世コンビと鶴ヶ城◆

①氏郷が会津拝領にあたり、有能な人材の雇用を
  秀吉に願い出ていること、
②曾根昌世が鶴ヶ城に関わったとする記録の詳細。

①については、『会津旧事雑考』という書物に出てきます。
氏郷の会津移封天正18年8月ですから、
人材登用の話もこの時期といえるでしょうね。

②については、『新編会津風土記』(1809年成立)に記載あり。

文禄元(1592)年に曾根内匠に命じ、甲州流の縄張り等を用いて
内外の郭を築き・・・とあるよう。曾根の登用については、
少なくとも九戸政実の乱の直前になる天正十九(1591)年3月以前に
京都で召抱えられた、ということだそうです。

一方、盛岡藩の記録である信直記によりますと、
曾根昌世と真田信尹両名が、天正18年に召抱えられ、
九戸政実の乱へ氏郷配下として出陣している記録があります。

そうです。ということは、少なくとも九戸政実の乱開始前に

ということは、

①氏郷が会津入府に当たって人材を探していた
②その氏郷に、昌世・信尹が応じて出仕(どちらが持ちかけたか不明)
③九戸政実の乱に出陣した後、少なくとも昌世は
  氏郷から鶴ヶ城増築の命を受けている

という流れになりそうです。武田氏家臣団人名辞典によれば、
曾根昌世は、知行三千石、のち六千石。
加津野昌春こと真田信尹は、このとき真田に復姓し、
知行五千石、のち六千石。

ほぼほぼ同格の扱いということですね。

会津に入府するまで、もちろん真田昌幸との関係から、
互いに既知の間柄だったでしょうが、それ以前、
依田信蕃とともに、加津野昌春に対して、
真田昌幸の徳川内通を成功させた謝意を
伝えているそうですから、かなり見知った仲といえそう。

ということは、行動を共にし、おそらく二人セットで
召抱えられたのかもしれないと思うと、
真田信尹が鶴ヶ城の縄張普請に関わった可能性を
ちょっと想像したくなりますね。

◆北出丸・西出丸の変遷◆

また、馬出についてですが、以前現地看板に、
甲州流の丸馬出・・・とあったのですが、
新しく看板が替えられた際に、その文言が消えています。

個人的には、曾根昌世が普請した鶴ヶ城には
丸馬出があった・・・といいたいところなんですけど、どんなもんか?

実際のところ、蒲生氏郷時代の縄張り図はなくて、
蘆名時代、蒲生忠郷時代(再蒲生時代)以降であって、
氏郷時代がぽっかり抜けていることと、図面に加藤嘉明時代の
馬出の出丸化と混在して描かれてあって、なかなか難しい。

ということで、蒲生忠郷時代の縄張図をば。
文政七年(1824年)に写された蒲生忠郷支配帳より。

170506_1615_001

この頃には、北出丸・西出丸という呼称はなく、
いずれも三の丸の飛び地という扱いになっています。
脇に「馬出」とあるので、そう認識されていたのでしょう。

両者比較してみると、

①北馬出は土塁、西馬出は石垣という明瞭な差がある
②西馬出は、いわゆる左右対称な武田の丸馬出、
  もしくは、佐倉城や篠山城の角馬出とは異なる歪な形をしている

ということがわかります。

北馬出拡大。「土井」という文字が見えます。

170506_1615_0012

西馬出拡大。石垣とあります。

170506_1615_0011

また、西馬出はちょうど北部分が欠けてしまったような
形状をしています。

『新編会津風土記』に、西出丸は小さな郭だったとあり、
蒲生氏郷死後、上杉時代もしくは秀行・忠郷時代、
加藤時代の大改修を待たずに増築された小曲輪であり、
これが加藤明成によって、馬出化する、
というように、考えるのがいいかもしれません。

そういえば、と思うのは西出丸は馬出奥の通路が
中央になくてずれているんですよね。

そう考えると、本来の(氏郷時代に昌世が設計したであろう)
縄張は北出丸の方向に、土の馬出をつくった、
ということになろうかと思います。

馬出が角か、丸かという点については、
武田の築城術で特に角を否定はしていませんで、
甲陽軍鑑(末書下巻下)にも角馬出の例が出てきます。

170108_1809_002

理由はさておき、当初は丸で途中で角に作り変えられたか、
当初から角だったか、これについては決め手がありませんね。

個人的には、全般的に角ばらずに、曲線をつかって
横矢を掛けやすいという構造をしていることを考えても、
やはり、武田が得意とした丸だった、のではないか
と思いたいな、という気持ちにはなります。

さて、「会津若松市史・4 城下町の誕生」に
このようなことが書かれています。

曰く、蒲生時代は天寧寺町口から廊下橋門に到る
方向が大手筋、甲賀町口から北出丸方向を大手とするのは、
加藤嘉明の子、明成の時代。

さあ、なかなかややこしいことになります。
会津若松市史・4城下町の誕生から、
蒲生時代の鶴ヶ城縄張復元を見てみましょう。

Aizu2

非常に不思議です。やはり、大手を東側とするならば、
馬出の位置に違和感があります。というのも、
武田家の丸馬出は大手方向に防御正面を限定させて、
その正面に馬出(通例は丸型)を置く方法を取ります。

セオリー通りなら、三の丸方向に馬出がないと辻褄が合いません。
あるいは、加藤時代ではなく、蒲生時代に北馬出を
増築すると同時に大手として付け替えたと考えるのなら、
自然であるように思われます。

しかし、よくよく蒲生時代図面を見ると、答えが書いてありました。
馬出も含めて「三の丸」という扱いになっていて、
二の丸は、主曲輪の西側に位置するように書かれています。
すなわちこれは、蒲生時代から大手は北馬出方面に
あったのではないか?と思わせる手がかりになります。

従来の連郭式城郭の大手方向を付け替えて、
本曲輪に直接丸馬出をつけて、そちらを
大手としている例としては、小長谷城がそうではないかと。
類例としては、ありますのでね・・・

蘆名時代は西側に大手が合ったようだとということから、
蘆名時代の西から東に延びる連郭式の城に、
氏郷入府後、北側(対伊達)を仮想敵として
北側に丸、または角の土塁による馬出を増築、これを大手に。

西側には、北の大手馬出を補完する曲輪を
氏郷在世時より後の時代に、曲輪として増築され、
加藤氏時代に、北馬出同等の出丸として拡張整備された、
と考えておきたいと思います。

ただ、引っかかるのがこの丸印。ここ伏兵曲輪だと思うのですが、
外部に向けて虎口があるんですよね。

Aizu2

一方、加藤明成時代の大規模改築の際の図面です。
現在と同じように伏兵曲輪は閉じられています。
おそらく加藤時代の改変なのでしょう。

とすると、蒲生時代の伏兵曲輪にあたる部分は
どう理解すればいいのか・・・これはちょっとアイデアが出ないです。
もうしばらく悩んでみようと思います。

上空からの鶴ヶ城の写真。公式ガイドより。
やーっぱり、馬出が有る以上はこの方向が大手・・だよなぁ。

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ということで、どこまで鶴ヶ城が武田氏の丸馬出のセオリーで
築城されているかはもう少し考察が要りそうです。むむ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津② 絵ろうそくまつり@鶴ヶ城~

さて、最近できました八重さん像にご挨拶して、
城内(二の丸)へ入ってまいります。

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廊下橋の堀は全面結氷。

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鶴ヶ城の縄張りは伏兵曲輪から北出丸大手が特に好き。
雪まみれになりながらも、やっぱり行っちゃう。二の丸から。

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伏兵曲輪。

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伏兵曲輪から北出丸の東虎口を背後から
襲う構え。これが凶悪・・・

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こんな風に狙われることになるのです。

1234

まま、この辺のことは後ほど。やってきました天守。
天守は黒!と常々言うわたしも鶴ヶ城は
やっぱりいつ見ても素敵だなぁ、と思うわけです。

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来場者も点灯式後に蝋燭で灯を点せるってことで、
スタンバイ。鶴ヶ城天守の蝋燭は点灯式用。

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式が終わった後に、チャッカマンを頂き、点灯!

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ライトオーン☆

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いくらでもつけていいようなので、いくつか点火。
天守をバックに。

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雪まみれになりながらも、夕暮れの天守を。
茶壷櫓跡近くからの眺めが好き。

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しばらくすると妖しくうす紫色にライトアップ。

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赤瓦とこのライトアップの色が非常に合いますねぇ。
ライトアップの色、というかホワイトバランスって
けっこう大事かもしれませんよね。

降りてみて。いい具合の光の当たり具合。
お城を別としても、こういうの好きです。

P1270222

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なんじゃろこれ?って、ちゃんと絵になってるはず。
天守の上から確認してみましょう。

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あ、いまこっちから入場するのね。

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ついつい白い牙って思っちゃうFF脳(笑)

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天守内、割と変わっていたんですが、
個人的には、斗南藩の領有地の地図に、
余市が書かれてあったことかな!マッサーン!(笑)

鶴ヶ城外郭ラインの全容を映す床の写真。
内郭が南に置かれて、やはり南からの進軍は困難とし、
猪苗代湖方面から入って北から迫る、というのを想定してそう。

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さっきの灯かりは・・・起き上がり小法師でした。

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北方面に向くと、鉄門。ここが会津戦争で砲撃から
一番安全な場所だったらしいんだよね。

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東側ではいい光の当たり具合で、瓦と木々の共演。

P1270252

お土産所では、会津若松市史・近世1会津近世の開幕、
鶴ヶ城公式ガイド、天守再建50周年記念の蒲生氏郷図録をば。
なんで、こんなに蒲生推しなのか・・

それは真田信尹・曾根昌世の事跡の理解につながらないかな?
と思ったからなんですが、割と断片的ではあるものの、
いろいろ解ったような気がします。それは後述ということで。

お土産屋さんの奥には、「八重の桜」での容保公陣羽織、
八重さんの服が飾ってありましたよ。

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容保公の緋の衣の陣羽織に武田菱がぁぁぁ
とかいつもの病気を出してしまったりしましたが(爆)

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八重さんは会津戦争での三郎くんの遺装で。

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城の壁に彫った歌の再現もありました。

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天守を出たら、水玉~

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と思ったらすぐ消えた!?

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しばし、ここから絵ろうそくにデザインされた銅板や竹筒を
組み合わせた灯かりのアートをどうぞ。
こういうの、いつまででも撮ってられる・・・・

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篝火をみて、武田菱だ!とかいつもの病気を
発生させていたら、友人(るるぷぅさん @rurupu_aizu)
からお呼び出し。

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何度もお世話になっている丸忠さんへ。
桜肉の焼肉を頂きに!

P1270291

もっと気軽に食べられるとよいのですけども。
桜肉、焼肉にもすべきだと思うんだよなー!

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ここ、容保公とマッサン…じゃない山川大蔵さんも
撮影のときに来られていたらしいですよ?

人気のお店なので、要予約。

ということで、1日目終わり。
2日目は御薬園などのお城以外のろうそくの様子などなど。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津① 武田遺臣と要略会津藩諸士系譜~

さて、2月の会津話。絵ろうそくまつり狙いで
行ったわけですが、会津藩士のことや鶴ヶ城の縄張りも
再確認しておきたい気持ちもあって。

しかし、調べてみると以前に絵ろうそくまつりに行ったの、
実に10年も前だったんですよこれが。えええ。
しかも、雪がなかったという・・・

会津自体は、仙台と並んでわりと頻繁に来るところなんですが、
そんなに来てなかったとは・・・・今読んでみて、
前回はかなりアッサリした記録だなぁと思う一方、
なんだか年月を重ねるにつれ、記録の密度が高いというか、
いろいろ関心が増えて、記録したいことも増えてきたんだろうなと。

着いてまず、お昼。会津酒楽館。
早速呑む気マンマンです(笑)

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ささまさむね特別純米。

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・・とそば。そば屋ではないですけど、
そばで酒を呑むっていいですよね。

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日本酒の好きな飲み方のひとつ。
そして、そばも酒も抜群にうまかった。

このあと、鶴ヶ城へ。周遊バスに乗って・・・
最近どうも会津は蒲生氏郷を積極的に推しているらしく、
周遊バスもこのような諏訪原寛幸先生のかっこいい
蒲生氏郷と漆黒の七重天守があしらってありました。

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ただ、三浦正幸先生のご説明によれば、
この「七重」とは、「重」を階数で表現してしまったための誤りで、
内部構造が七階建てであって、実際は五重七階の天守
ということらしいのですよね。

時代を考えると、下見板だったでしょうから、
外観のデザインは近いのかもしれませんが、七重ではない・・・
ま、そこは細かいことは目をつぶりましょうか(笑)

せっかく蒲生氏郷を推すのであれば、真田丸にのっかって、
真田信尹、ひいては曾根昌世を推して頂いても・・・
これからに期待であります(笑)

そして、降り立っ「要略 会津藩諸士系譜」を読みふけるなど…

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もともと武田遺臣が多いということで、知ってそうな方いるかな?
というレベルの関心だったんですが、まー出てくる出てくる…

◆赤羽氏◆

最初に注目したのは、赤羽氏。

というのも、「要略会津藩諸士系譜」を知ったきっかけでもあるのです。
2015年にとあるWebニュースに、余市で初めて林檎を実らせた
赤羽源八なる旧会津藩士が、どうやら高遠以来の家臣であること、
それが「要略会津藩諸士系譜」で判明したというくだり。

会津藩と林檎のかかわりは、個人的な関心として
ニッカウヰスキーと武田家を結ぶ重要(笑)な所でありまして、
そこから会津藩士における武田遺臣をちょっと深堀したいなと思い…

いくつか会津藩に赤羽家はあるものの、系譜をたどると伝右衛門俊邦
を祖とする家が古くから保科家と関わりがありそうです。

天正十年、透光様高遠之城御乗取被成候節
軍功有之其後同年八月伊那郡御攻之時茂軍功有之候、

とあります。

この透光様とは・・・建福寺殿天関透光大居士、
つまり保科弾正忠正直。槍弾正として武田にあって
名を馳せた正俊の嫡子であり、武田の四名臣・内藤修理亮昌秀の
養嫡子・内藤大和守昌月の実兄。

実はこれに関しては、おもしろい事実があります。
天正十年高遠城落城に際し、保科正俊・正直は昌月を頼り、
一旦上州に逃れます。武田家滅亡の後、天正壬午の乱にあっては、
北条家に降って、正直が昌月から兵を借り高遠城を奪取。

昌月は武田家の要職(郡司)として強大な動員権限を
持っていたはずで、真田昌幸同様、武田家滅亡直後であっても、
一定の動員ができたでしょう。

おそらく、「透光様高遠之城御乗取被成候節」とは、
このことを指していると思われます。
ということは、赤羽氏、活躍してるじゃないか…!!

源八との関連で見ると、仮名に「源」がつくあたりから
赤羽源次右衛門俊弘という人物が、赤羽源八と関係がありそう?
文政六年(1823)年で53歳。その子として、源八郎俊政。
丸に釘抜紋で、伝右衛門俊邦に始まる家と同じ家紋でした。

元和八年道義様御小姓、とある点に注目。
道義様とは、保科肥後守正光。正直の嫡子ですね。

武兵衛茂礼と伝右衛門俊邦との系譜関係はわかりませんが、
小姓に抜擢されるということは、「高遠之城御乗取被成候節」に
功績のあった源次右衛門俊弘の一族だったのか?などと想像。

なかなか評価された一族だったのでしょうね・・・おもしろい。

◆秋山氏◆

花菱紋。文政六年時点で、万次郎義敬とあります。
本姓源氏、本国甲斐。保科・松平家に出仕はじめ不詳。
秋山良意道味から始まる6代目。

江戸時代のどこか、半ばくらいでで会津藩に仕官したのでしょうか。
秋山伯耆との関係が気になりますが、本来の秋山なら
三階菱のような気もします。

◆土屋氏◆

丸九曜を紋とし、本姓源氏本国甲斐。土屋右衛門尉昌続の子、
五郎右衛門直村の長男次郎兵衛尉清直に始まるとか・・・

直村・・・そんな人知らない・・・と思ったのですが、
八王子にあって代々五郎右衛門を名乗り、
当人は家康からの誘いを固辞し続けたものの、
家康が関東に移った後の天正十九年、関東一円の紺の買い付けを
許される紺屋頭として、転身していた土屋五郎右衛門が
どうもこの、土屋五郎右衛門直村に当たるらしいです。

召出は寛永二十(1643)年、最上御知行二百石とありますから
保科正之が会津に移る直前に仕えたのでしょう。
長男かはさておき、この土屋五郎右衛門の一族が何らかの
経緯で、保科正之に仕えたのでしょうか。

◆内藤氏◆

当時は介右衛門信全、家紋は割り菱。御知行二千石と破格。
さすが家老。仮名は慎次郎、代々内藤家は召抱えられた
源助(昌秀の曾孫)直卓以来、代々「源助」を名乗っていたよう…

信全はどうも違うよう?彼自身も養子のようで
昌月の血脈ではなさそう。会津藩士二代は、武川姓を名乗っており
(武川源助自洪)、この三男が別家を興す(三百石)。

尚、こちらも婿養子を取っている家(武川信福)もあり、
また別系統はそのまま続いているよう?(武川信自)

・・・ということで、よくある徳川/松平や、細川/長岡、
といったような同じ祖先を持ちながら宗家と分家で姓を分ける
ということを、会津藩内藤氏はやっていたようです。

武川衆だった馬場美濃ならともかく、内藤、保科の縁の分家が
なぜ「武川」なんだろうね、という点は気になります。

◆望月氏◆

本氏滋野、本国信濃。

信濃望月布引之城主望月相模守定朝之孫、
望月三清入道安光嫡男新兵衛安勝

から始まるとしてます。滋野三家の本来の望月氏の誰か?

◆有泉氏◆

文政六年には有泉大学勝尹、御知行四百石。
有泉五兵衛重治に始まり、新左衛門忠吉・・と続きます。
召出は慶長十八(1597)年三月、
七歳二而御小姓之御奉公とあります。

年代的に保科正光の小姓でしょうか。「大学」というのが
有泉大学助昌輔を想起させます。梅雪・勝千代に仕えた人。

有泉大学助昌輔は、穴山衆でも地位が高かったようですが、
天正十一年以降、穴山氏からの史料から消すとのことで、
(武田氏家臣団人名辞典)以後、上総で没するほか詳細不明。

ここから・・・・高遠、最上、会津につながるかな?

◆小山田氏◆

本姓平氏、本国甲斐ということは、平姓小山田氏につながる
(ことになっている)郡内小山田氏系でしょうか。

召出は寛文五(1665)年。亀甲内釼花菱紋というのは謎。
小山田多門貞重に始まり、伝四郎盛信、忠左衛門重好、
忠左衛門重友、伝四郎盛陽、多門盛雄、主馬盛知。

縁のありそうな名前がポンポン出てくるのは、ホント楽しいですね・・・
同じ感覚で、彦根藩(山県衆)や尾張藩、米沢藩(川中島四郡関連)
を読んでいくと面白そうです。特に米沢藩はなんと言っても、
信玄七男・武田信清がいますからね。

で、博物館そのものは、藤原泰衝vs源頼朝の阿津賀志防塁模型。
くらいしかちゃんと見てないという・・・(笑)
二重堀の迫力あるジオラマ。

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さて、このあと鶴ヶ城の気になる縄張りを見回りながら、
武田(また武田か!)に思いを馳せていきます。

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2017.05.05

2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 1/27-29 要害・積翠寺・要害山城 ~

さて、要害さんの話。要害と言っても温泉旅館のほう。
1月末で閉館してしまう、というニュースにがっかりした方も
多かったのではないでしょうか?

わたしもいてもたってもいられず、特段予定はなかったのですが、
予約を入れて、最後の要害の夜を楽しむことにしました。

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・・・というついでに新府城行って、前記事に書いたとおり、
すっごいよい環境で丸馬出見られたんですけど。

あああ・・・今見る方がなんかしんみりするなぁ。
これを撮ったときには、あまり実感なかったですけれど。

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ロビーや廊下も名残惜しくて、写真に収めちゃいました。

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ニジマスの甘露煮・・・もうお土産はSold Outでした。
ざーんねーん。

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前社長、知事さんだったのね。。。

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多くの人に愛されてきた証ですねぇ。

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「隠し」かどうかは別にして、湯村とともに近いですし、
温泉の活用はしていたんでしょうね、信玄公。

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成分表まで撮っちゃう。笑。

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そして、新府から戻った1日目の夜景。
ちょっと時間があって、贅沢をするお宿ですからね。
信玄公祭りに出演した際の宿として、特に印象深いです。

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そそ、座布団が花菱なんですよ。
武田菱センサーが反応(笑)

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お隣の文様はなんだろう。。。

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さて、要害さんでの最後の晩餐。

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なんといっても甘露煮。これがうまいんだ。
どこかでほかにないものか・・・(あったら要害名物にならんわな)

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もう1日は平山先生と飲みに出かけて、お夕飯はなし(笑)
でも、ゆっくり温泉をなんども入れて・・至福のときでした。

ということで、要害からみる甲府盆地フォトコレクション。

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明るい間は、積翠寺の屋根が見えるんですよね。
武田菱が見えてしあわせ。そしてこの地形の妙がなんとも楽しい。

日が傾き。。。

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空が紅に染まる。

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まちに明かりが灯り始める。

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あのあたりは、熊城の一部になるんだろうか?

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さて、この日は温泉ほかほかで甲府市街地へ。
偶然、平山優先生が甲府におられ、
ありがたくも飲みのお誘いに。まぁ、よっぱツイートですわ。

さて、最後の朝。前日朝に露天風呂入った折、
カメラで露天風呂からの眺めなど撮影されていた方がいたので、
わたしも早起きして、誰もいない間隙を縫ってぱしゃり。

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なかなか贅沢な空間だったのです。湯に浸かりながら、
甲府盆地を見下ろせるわけですから。

この温泉成分のついた中身の刳り貫かれた木、
ずっと現役でいくのでしょうかね。

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やっぱり、熊城っぽい。

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さて・・・最後の朝ごはん。

C3sv2shvuaabi5p

のあとは、チェックアウトまで積翠寺へ。
何気に積翠寺お初なんです・・・ボソッ

脇に、要害さんの送迎バス。
百鬼丸さんの切り絵信玄公が光ります!

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歩いてものの数分も歩けば、積翠寺。
ま、露天風呂から見えてますからね。

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基本的に新しいお堂ですし、サラッと見る感じですが…
境内は行ってすぐに、信玄公像が。

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ま・・・あれですね・・・畠山さんですね・・・
甲府でご苦労様です(爆)

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つか、畠山信玄公そのものが観音様扱いでした(驚)

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由緒。わっからんよ。。。新しい看板ぷりーず。

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奥までぐるーっと回って見つけました、信玄公産湯井戸。
車道ができたときに涸れてしまったそうですが。。Oh

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あの蔵には何が入ってるのだろう。。。
とりあえず武田菱付いてるけど。

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さて、チェックアウトして、でも荷物だけはお預かり頂き、
要害山城へ。要害さんという拠点がなくなると、
ここも行きにくくなるなぁ・・・・

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最後は要害さんの送迎バスにて甲府駅まで。
お世話になりました。もうこれにも乗ることはないか。。うう。

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122年もの間、長きにわたる営業お疲れさまでした。
4月から新たな施設として生まれ変わるとのこと、
もう順調に進んでいるものと思います。

新たな事業活動が堅調に事運びますよう、お祈りいたします。
ありがとうございました。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 1/27 新府城 ~

ということで、また甲斐です。また・・・また甲斐か!
と真田丸家康ボイスが再生された方も多いでしょうけども(笑)

今回はもともとは行く予定にはしていなかったんですが、
積翠寺温泉・要害さんが閉館するというのを、
そのリミット1ヶ月くらい前に聞いたもので、すわ一大事!
ということで、何の予定もなく予約をつっこんだのでありました。

まー・・・とりあえず、新府城行っとく?とここ最近、
高まっている丸馬出への関心から、訪れることにしてみました。

とにかく気づいたことは、武田家が好んだ丸馬出を
存分に活かす構造になってるな!と改めて気づいたこと。

あくまで軍鑑ベースになってしまいますが、山本勘助→馬場信春、
と続く武田流城取が長篠以後もきちんと伝わってるんだ、
という気にさせてくれたことですね。

16年12月(まだ起こしてない)の諏訪原城の丸馬出講演会以来、
丸馬出ってこう使うのでは、というのが自分なりに捉えられて
きたように思うことも相まって、このタイミングに来たのがホントによかった。

ということで、じゃーん。丸馬出・三日月堀本体だけでなく、
その堀前の部分もかなりきれいに刈られているんです。

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こうしてみると、堀前の部分が土橋状に見えるほど、
極めて限られたスペースしかないことがわかり、
大手筋から進入しようとすると、長く急な斜面を登りきって、
丸馬出が見えた途端、攻め手は行き場を失うわけです・・・

別角度から。

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前後2列にながーく馬出前に並ぶのがやっと、
ここで馬出から射撃を食らって斜面に転がろうものなら、
後続の兵にもダメージが出てしまいます。

上り切った直後を想定して、少し斜面を下って丸馬出を。
もともとかなりの大きさがありますが、下がってみると、
その存在感がさらに増しますね。。。どどーん!

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測量図に線を加えてみました。

0127

赤い線に沿って急な斜面が展開されていて、
緑色の部分が土橋上に見えた、馬出前のわずかな平地。
ここに降り立ってしまうと、射撃され放題ですので、
左右の虎口を狙う青いルートを直接攻めることになりそう。

ただ、それでも狭まっていますからそう一度には攻めかかれない・・・
東側の斜面からも上ってくることは可能ですが、
いずれにせよ、虎口で渋滞せざるを得ませんね。

逆にどちらかの虎口から逆襲されようものなら、
押し倒された自軍の兵が転がり落ちた下敷きになって、
自滅していきそうな勢いの構造。。。

その斜面について。

P1260753

P1260770

丸馬出下よりも、馬出土塁上から見た方が、
いいかもしれません。敵兵が上ってくるのが一目瞭然。
やもしたら、三日月堀前に上がる前に、
矢や鉄砲で一定数は撃退することができるかもしれません。

P1260796

P1260797

P1260799

そして、実際に斜面を降りてみました。割と降りれなくもなく
傾斜はキツイですが、上れなくはないです。

P1260845

ちょっと途中から大きな段差が。ここは当時からあったのかどうか。

P1260848

P1260851

一番下まで降りるとこんな風に見えます。

P1260863

さて、再度上がってきまして、いよいよ丸馬出に侵入。
きれいに刈られていることで、丸馬出の虎口に
据えられた枡形が明瞭に確認できます(①)

P1260762

斜めのラインに土塁が見えるあたりの奥が
枡形状になっているんです。これを丸馬出土塁の西端
から撮るとこのような感じに見えます(②)

P1260779

その奥、三の丸内からこの枡形を見るとこんな様子(③)
こちらには青で進入経路、赤で土塁を囲っておきました。

Photo

測量図でみると、それぞれの番号の撮影位置はこうなります。

Ppp

おそらく①の土塁には往時は塀など遮蔽物があったと思われ、
実際には③の方角から狙われることになるのでしょう。

丸馬出土塁は今では、かなり削られているのか、
低くなってしまっていますけども・・・

P1260783

さて、反対側、東の土塁端から東の虎口をみてみましょう。

P1260785

こちらも土塁上から。(①)

P1260792

内側(大手枡形土塁上)からの眺め(②)

P1260803

こちらも測量図をどうぞ。

Higasi

さて・・・丸馬出下をちょっと探索。この地点から、
右(東)に行くと国道と交わるのですが、
逆の西方面へ。七里岩の先端に向かうことになるはず。

P1260865

うわ・・・むり。むりむりむり。

P1260872

P1260875

この石積みは・・・後世のものか・・・?

P1260876

場所はこの辺り。もう絶壁具合がすごいですね。
こちらは防御考える必要性なさそう。

Muscreenshot_20170127

ということで、丸馬出の位置とそこに到る傾斜と馬出前の
狭いスペースで撃退する絶妙な構造、両虎口前に
枡形を配備しつつ、最終防衛ラインにさらにもうひとつ
奥に枡形を配備、という徹底振りがわかりました。

ということなら、大手スルーしちゃえば?と思っちゃったんですよね。
だって強固だもん・・・ということでこれ。

大手方面に兵を進めた場合をまず考えますと・・・
あ、赤い点が丸馬出地点。赤く囲った五角形が新府城、
赤い丸はとなりの丸山という丘です。

Mumu

南から進軍してくると、青いエリアに軍が固まると思いますが、
大手丸馬出をスルーしてしまうと、丸山と城の間の道を
抜けて搦め手に回ることになります(①)。
現在の藤武神社参道階段は、もちろん当時はありません。

この道、現在は七里岩ラインとして車道が通っていますが、
けっこうな悪路なんですよね。車道の脇をみるとわかりますが、
湿地帯と小川が流れている間を進むことになり、
なおかつ、狭まっていて城と小高い丘に囲まれるという
非常に危険なルートなんです。

・・・となると、この丸山(どうも付城はなかったっぽい)にも
伏兵を置かれる可能性を考えると、大軍をこの一本道の悪路に
通すというのは、あまり得策ではないのだろうな、と思いました。
②の丸馬出を突破するしかない・・・

あとは、そもそも七里岩を降りずにそのまま新府城の背後に
迫るという手もあります。実際、諏訪方面から進むと、
七里岩と地続きですからね。

ただ、ここに立ちふさがるのが能見城。どこまでが武田のものか、
どこまでが天正壬午の乱のものか、意見は分かれるようですけれど、
何らかの防御施設はあったであろうと思われます。

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ま、いずれにしても、丸馬出という点に絞って考えると、
うまい具合に、丸馬出から攻め寄せざるをえない工夫がされていて、
しかも、丸馬出の逆襲機能をうまく引き出すよう、
地形をうまく使っているんだな・・・と思うわけですよ。

今回斜面のチカラを思い知ったこともあって、
丸馬出を使った城の最高峰のひとつ、と言えるんだろう、
とひとりナットクしていました。

最初に戻って、これ・・・もはや武田にあって、
築城の名手と言われた馬場信春はこの世にない
天正9年に築城が始まっているわけです。
これほどまでに見事に丸馬出を使いこなす
縄張りを誰が設計したのか・・・

従来まで、真田昌幸の縄張りとされていましたが、実は
根拠とされる文書が、西上野郡代として支配下にある地域に
勝頼の上意を受けて、昌幸が動員令を出しているに過ぎない、
ということで、この文書を根拠にした昌幸縄張り説は
現在では否定されています。

ということは???

解らないとしか言いようがないのですけども、
手がかりがあるとすれば、このような城の縄張を設計できるのは
武田軍がどのように戦争をするのかという、軍事機密を
熟知した重臣クラスでないとおそらく無理ではないでしょうか。

とすると、やはり真田昌幸、それに曾根昌世(後述)
あたりが絡んでいた可能性があるのかな、と想像します。
あるいは、馬場信春と姻戚関係にある加津野昌春、
つまり、真田信尹も絡んでいたという想像は、やりすぎでしょうか?

新府城と真田信尹の関係というと、隠岐殿遺跡が挙げられます。
確実に真田信尹の屋敷とはいえないまでも、
かなり蓋然性が高い、と最近言われていますよね。
それはすなわち、勝頼に近い存在だった証でもあります。
(御一門衆の多くは甲府から屋敷を移さなかった)

そして、真田信尹は後に会津に向かい、蒲生氏郷のもとに
仕官していることがわかっています。そして、もうひとり
会津に向かった武田遺臣こそ、曾根昌世。

彼は、蒲生氏郷からその縄張を任されたと新編会津風土記に
出てくるのだそう。真田信尹もその縄張りに関与した可能性、
特に義父、馬場信春からその術の一端でも学んでいたとしたら…?

真田の昌幸・信尹兄弟や昌幸・昌世の信玄公の両眼コンビが
新府城の築城に携わっていたら、と想像は膨らみますね。
いやいや楽しい、楽しい。

という気持ちを胸に、お宿へ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて~1/7 甲府~上田~

さて、翌日早速甲府に出仕(笑)です。

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武田神社、いつも必ず関西で正月を過ごすので、
三が日に来ることは適わないのですけれども
7日の時点でまだこの人だかり。

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甲陽武能殿では人日の節供と白馬節会。

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西曲輪の発掘現場。これは後日発掘現場を
見にまいりました。思わず、真田丸の昌幸みたいに、
『お、やっとるな』とか言ってしまうなど・・苦笑。

P1260112

相変わらずの堀の深さに驚嘆してる最中に、

 真田丸・昌幸
 『わしゃそんなもん知らんぞ!御屋形様の御屋敷に
  そんなもんあるはずがない!!』

…脳内昌幸ちょっと黙ってて!

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天守台みえねーかなーと背伸びをしてみたり、

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北虎口枡形や西曲輪南西端の整備の
すばらしさに改めて感動したり。
毎度見るポイントは、決まってきますねぇ。

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新たに行ったところ、というと峰本八幡神社。
これ、石和から信虎が遷した府中八幡社の跡地に、
宮前町へ移転したあとに、祀られた八幡さま。

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峰本自治会館の裏手の、会館の中にひっそりと佇む
小さなお社ですが、甲府城鎮守の八幡宮として
移転したあとも、この地にこだわって古府中村の村人が
八幡様をお祀りしているという事実が興味深くてですね。

ただ、明治になって相川小ができて、校舎の西側に遷り、
戦後すぐ、体育館の建設でまたその体育館の南側へ、
さらに昭和61年、体育館の老朽化のため、増改築がなされた際、
現地に遷ってきたそう。狭い中でもけっこう移転してるんです。

ということで、信玄公時代の府中八幡は相川小の敷地、
ということになりそうですね。

そのあとは、そのまま西に向かって真田源太左衛門尉の屋敷跡へ。
真田丸で出てきたおこうさん(清音院殿)も、
このあたりでお過ごしになったのでしょうねぇ。

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続いて、香坂弾正、真田一徳斎屋敷跡へ。

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真田一徳斎屋敷、一徳斎が没し(1574年)、
真田源太左衛門尉が当主となって、長篠で討死(1575年)
して、昌幸が継承とめまぐるしく真田家当主変わる中で、
どのようにつかわれていたんでしょうかね・・・

武藤昌幸としては、武藤家の屋敷が本貫地にはあると思いますが、
甲府詰めの屋敷としては・・・どちらかの屋敷を
拝領していたのでしょうかね。昌幸が元服、初陣して以降、
どこにいたのかは、よくわからないですかね・・・

さて、躑躅ヶ崎。もともと躑躅ヶ崎とは、屋形の東に、
半島状に突き出た端部分を呼びます。

この名称をとって、武田の御屋敷を躑躅ヶ崎館と
呼称させたのは柳澤吉保だともいい、
武田家がいた当時からの呼称ではないんですよね。

P1260136

ちょっと先端が人工池造成で削られているようですが、
かなり屋敷に近いところまで伸びています。

藤井尚夫氏の躑躅が崎館鳥瞰図を見てみますと、これ自体は
徳川入府以降の想定図で、大手も丸馬出が破壊されて
石積になってるんですが、大手と躑躅ヶ崎の
位置関係はわかりやすいかなと思います。

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この大手の部分に丸馬出があったそうで、
その規模と現存する屋敷の土塁の規模を考えて、
おそらく勝頼期、甲斐防衛を意識せざるを得なくなった時期に、
増築されたのではと考えられています。

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躑躅ヶ崎、少し手前までは行くことはできるので、
上ってみました。躑躅ヶ崎そのものは通行止めでしたが・・・

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躑躅ヶ崎からの屋形大手方面の眺め。
先ほどの鳥瞰図や丸馬出発掘の様子と合わせて脳内合成…

P1260144

あの先に、丸馬出があったとしたら・・・ある程度の広さと
背後から監視、強襲できる躑躅ヶ崎を押さえた点に大手を持ってくる。
左右の虎口から出撃撤退を繰り返して翻弄、
躑躅が崎に伏兵を置いて背後を奇襲とか容易に思い付きます。

家臣屋敷が立ち並ぶ開けた南側には虎口をつくらなかった
意図がちょっとわかった気がしました。

さて、翌日はぶらりと上田。ちょうどドラマ館入館
100万人達成直後、くらいだったでしょうかね(笑)

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終わり間際のドラマ館でしたが、秀吉、寧、茶々、
信繁の衣装が並んでる大坂城を模した居室、
釘隠が江戸城、名古屋城、二條城にそっくりで葵紋が
あって爆笑したりだとか・・・

ドラマで使われた上田城見取図を改めてよく見て、
鬼門の切り欠含め今の上田城跡と異なる縄張にちゃんと
してあるんだなぁ・・とか。感慨深く見てました。

大坂城への入城者一覧も、全部ちゃんと見たいよなぁ。
長宗我部土佐守盛親、織田左門頼長、
真田左衛門佐信繁、石川肥後守康勝、仙石豊前守秀範、
長岡与五郎興秋あたりまでは、確認できました。

千葉県で行われた真田丸の戦いのロケ、
堺信繁が上田市民扮する徳川軍に陣中見舞いしていて、
黒々とした徳川勢にただひとり赤備えの信繁が
記念写真撮ってて、これもかなりウケる・・・(笑)

最後に興味深いのが出演者の皆様のサイン。
草刈昌幸と吉田稲、カッチリした正統派の美しい字。
内野家康、わずかに崩しながらも、払いにクセがあるとこが
何とも味がある素敵で・・・

相変わらず黒木梅ちゃんの梅イラストかわゆすだし、
星野秀忠、真田め…(笑) って笑かしにかかってくるし・・・

近藤正信、印象に反したかわゆい字も印象的だし、
藤岡忠勝の奔放さに並ぶ小林全登のカオスサイン。
オフロスキーとか書いちゃてるよ!とか。楽しい。

あ、最後におこうさん。長野こう&吉田稲、
信幸の奥方様はどちらも素敵な字をしてらっしゃる。
信繁の奥方様は梅、春ともかわゆす系の字。
長澤きりはかわゆくもカッチリもしてる…これまた素敵。

字はある種の人柄、人となりを表すものといいますよね。
字を見ているだけで、いろいろ想像が広がります。

ということで、ドラマ館はこのくらいにして、
上田城と藩主屋敷をぶらぶら。
あ、もちろんこの武田菱スポットにも顔出しますよ(笑)

P1260190

城内の真田神社もなかなか盛況。

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この切欠は数少ない真田昌幸時代の遺構・・・とあるけど、
あの天正年間の図面を見ると、違うんじゃ・・と思ってしまうね。

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こういう解説板があるから余計に。

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堀がかちんこちん。さすがに真冬に攻城戦しないだろうけど、
水堀はこうなったら、むしろ機能殺がれるよなぁ。

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でも、純粋に見て楽しむなら、真冬の凍ってる姿も素敵。

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信之が関が原後に上田に戻って政務を取った藩主屋敷跡。
こちらもかちんこちん。

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ということで、新年の甲府・上田はこんなところ。
といいつつ、翌々週に塩山で平山先生の講演聴きに来てたり、
さらに次の週は、積翠寺温泉要害さんのラストにきたり・・・
わりと山梨ばっかりです(苦笑)

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2017年・・・・もまた濃すぎて~1/6 日本の城ギャラリー~

さて、2016年が一向に片付かないのですが、
いよいよ2017年分もわりとたまってきた感が出てきて、
追い込まれております・・・ひぃ。

ということで、写真で振り返ることのできるイベントを
中心に振り返っていきたいと思います。
もう今年も4ヶ月以上経ったんですね・・・激動。

お気軽に振り返っておける部分を振り返っておきますか…
安居天神に出かけた正月の後は…

◆1/6 日本の城ギャラリー◆

ギリギリだったんですが、有楽町の東京国際フォーラムの
天守模型展示。まぁ、様子見程度のつもりでしたが、
なかなか精巧、かつ普段ちょっと模型で見ないような天守もあり。

その筆頭が高松城天守。南蛮造りと呼ばれている
現存する天守では類例のない一層目が膨らんだ天守。

P1260062

高松城天守は古写真があるので、確かに模型は
可能なんだろうとは思ってましたが、実際にあるとは…
よく見ると、天守台からもわりと張り出していますね?

P1260063

あと特徴とすると、火灯窓。破風も小さめで、
比翼千鳥破風になってる点がポイント高。

P1260065

なぜか現代の復元天守は、どおーーーんとした
破風がお好みであるようですが、どうもセンスが合わなくて。

P1260086

模型になってるのが珍しい、という意味だと、
新発田城御三階櫓。これも外観は見ることはできますが、
自衛隊の敷地内で、中に入れず悔しい思いのする御三階櫓。

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L字型の屋根と三つの鯱が特徴。海鼠壁もなかなか
デザインとして素敵ですね。金沢城もそう。

P1260077

もうひとつ珍しいのが萩城天守。こちらも古写真等あって、
外観はわりとハッキリしていますが、模型はお初。
ちょっと破風でかいってのはありますが、割と構造としては、
輝元自身が手がけた広島城天守にも似ていますね。

P1260059

一層目がでっぱってるのは熊本城天守みたいで、
少しでも大きくしたかったのか、一重目から二重目で
イキナリ逓減という点に歪さを感じます。

通例は、一層二層はほぼ逓減なく、二層から三層にかけて逓減。
というやり方なんだそうで、熊本城の場合は
創建時に寸法の急変があったのではないか、と三浦正幸先生が
お話になっていたのを思い出し、萩城天守もそのような、
何か突発的な事件があったのでは・・・と推測したくさせます。

ちなみに大垣城、松本城を見てみると、
この原則がよくわかります。

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また、望楼型であっても、白漆喰仕上げ。
時代の変遷によるものか、広島城の下見板とは
その点は違っていますね。時代の流行か・・・?

P1260057

内部構造がよくわからないので、なかなか実際の
復元は難しいだろうと思いますが、何か史料が出てきてくれればな。

P1260061

あと、わかる人には響く。。というのが名古屋城。
そう、これ慶長期の創建当時の外観なのですよ!
最上層のみが銅瓦葺、二層目以降は本瓦葺というもの。

P1260071

破風も黒漆で塗られた、日光東照宮や江戸城天守の
原型を思わせるような豪華なつくりになっています。

P1260072

ただ、この本瓦の重みもあって北西側に石垣が
沈み込んでしまったのですよね・・・ということで、
江戸時代後期、宝暦年間に石垣の修理がされた際、
比較的軽い銅瓦葺にすべて替えられたのでした。

P1260074

その他、熊本城、岡山城、鶴ヶ城など、
わりと個人的に好みが多めでうれしい限りでありました。

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P1260080

最後に江戸城天守。賛否両論はありますが、
基本的には(しっかりした発掘調査等要検証ですが)
賛成派でありまして、じっくり時間をかけて再建できればと思っています。

P1260091

P1260092

こちらはある程度時間がたったときの姿の想定で、
屋根が名古屋城の如く、全体的に緑青の銅瓦になってますが、
創建当時は、黒チャンという塗料で黒く塗られ、
それこそ岡山城のような、真っ黒の天守だったとか・・好み・・・

P1260093

でか、ちょっと南面の破風はデカイかな?
破風と破風の間が詰め詰め・・・(苦笑)

P1260094

本丸の全体模型も。江戸城しか撮れてないけど・・・

P1260095

P1260096

ものの30分程度しか居れなかったんですが、
けっこう需要あると思うので、また開催してほしいですねぇ。

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